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第2章  3 一文の長さ――「短く書け」を徹底すると稚拙な文章になる

初エントリーは2012年2月20日?

 お品書きは下記参照。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-132.html

第2章

3 一文の長さ――「短く書け」を徹底すると稚拙な文章になる

■長い一文はなぜダメか
 前に書いたように、「短く書け」は「文章読本が説く五大心得」のひとつに数えられるほど重要な心得だ。ほとんどの文章読本は「短く書け」と主張し、長い一文を目のカタキにしている。
 長い一文がなぜいけないのかを、論理的に説明している文章読本もある。たとえばこんな感じだ。

【引用部】
 毎年膨大な財政の赤字を出すことが示す地方自治制度の欠陥に対して、根本的な対策をきめるのが、こんどの国会の大きな使命の一つだと説明されていた。(新聞)

 これは、主語がないわけではなく、ちゃんとある。しかし、その主語がなかなか出てこないのが、この文が悪文になる原因となっている。主語はなるべく早く出した方がいい。しかも、主語と述語との距離は短い方がいい。そこで、両方の要望を満足させるのは、なかなかむずかしいが、たった一つ道がある。それは、短い文を書くということ。これは、あらゆる場合の鉄則と言っていい。(岩淵悦太郎編著『第三版 悪文』p.125)

 この意見はかなり厳しい。この例文レベルで悪文扱いされたんじゃ、世の中悪文だらけになってしまう。ちなみに、この引用部の後半の5行を読んで、なんかヘンな感じがしないだろうか。文頭に注目すると理由がハッキリする。

  これは、/しかし、/主語は/しかも、/そこで、/それは、/これは、

 7つのうち6つが、接続詞か指示語で始まっている。多くの文章読本は、こういう文章も目のカタキにする。なぜこんな書き方をしたのかはわからないが、原因は予想できる。以前、実験的に必要以上に一文を短くして書いたら、ちょうどこんな感じの文章になった。
 それはさておき、この論理は強力だ。

  1)主語はなるべく早く出す
  2)主語と述語との距離を短くする

 この2つを徹底すれば、必然的に一文が短くなる。反論の余地はなさそうで、思わずひれ伏したくなる。
 長い一文がなぜダメなのかは、むずかしい論理に頼らなくても経験的にわかる。グチャグチャと長い一文は、それだけで読む気がしなくなる。何が書いてあるかわからない文章も、たいてい一文が長い。
 ほとんどの文章読本が「短く書け」と主張するなかで、次のような力強い例外もある。

【引用部】
文が長ければわかりにくく、短ければわかりやすいという迷信がよくあるが、わかりやすさと長短とは本質的には関係がない。問題は書き手が日本語に通じているかどうかであって、長い文はその実力の差が現れやすいために、自信のない人は短い方が無難だというだけのことであろう。(本多読本p.154)

〈わかりやすさと長短とは本質的には関係がない〉ってのは正論だけど、ここまで強くいいきられてもなぁ。長い文だと実力がないのがばれるってことでしょ? 遠慮しときます。
 もう少し論調の弱いものもある。

【引用部】
「文章を極端に長くしない」は、わかり易い文章を書くときにあまりにも当然のこととして理解されていることだが、そう決めつけるわけにもいかない。例外も多いのだ。書かれた内容に読み手が強い関心を持っており、書き手と読み手のリズムが合っているときなどは例外となる。例えば、英文学者で評論家の吉田健一の文章は、長いことで有名だが、それを読み易く、内容も頭に入り易いという人が多いのだ。しかし、私個人にとっては苦手な文章の一つといえる。このことから、文章は意識して、長くしたり短くしたりする必要はないが、できれば、あまり長くない方が読み易いといえるであろう。(宮部修『文章をダメにする三つの条件』p.184~185)

 吉田健一の名前は、文章読本ではおなじみ。一文が長くてもわかりにくくない例としてよくあげられる。それは書き手の個性とでもいうべきもので、例外中の例外。一般の人がマネしたってまともな文章にはならない。
 こういう記述を見ていくと、当然(でもないか)素朴な疑問が湧いてくる。一文の「長い」「短い」は何を基準に決めるのだろうか。

■長くない一文の基準
 一文の長さに関して、具体的な目安を文字数で示している文章読本もある。『文章読本さん江』のp.64には3者の意見が紹介されている。

1)平均で30~35字というところ(辰濃和男『文章の書き方』)
2)平均で40字ぐらいまで(中村明『名文作法』)
3)40~50字以下(安本美典『説得の文章術』)

 ちょっと気になるんだけど、「40~50字以下」って「50字以下」とどう違うんだろう。まさか、すべての文を40字以上50字以下にするってことじゃないよな。そんな神業みたいなことを要求されても困る。
 一文の長さに関しては、このほかにもいろんな説がある。例によってそれぞれのセンセーの個人的な意見なので、微妙に違ってくる。

【引用部】
もし、あなたが書いた文章があれば、それを文字数によって測り、一文あたりの平均値を出してみるとよい。句読点やかっこを除いた文字の数で、もし、六十を越すようであれば長すぎると考えなければならない。そのときには、どのように長いのかを分析して、対策を考える必要がある。(樺島忠夫『文章構成法』p.167)

【引用部】
これは一文が長すぎる。そのため、曖昧な文章になっている。一文が六〇字を越したら要注意。小論文の場合、文体に凝るよりも、わかりやすい文体を心がける必要がある。(樋口裕一『ホンモノの文章力』p.60)

【引用部】
 実務文での平均的な1文の長さは、「40字前後」がいいと思われます。『朝日新聞』の「天声人語」では、1文あたり平均30文字程度で文章をまとめています。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.99)

 なかには、とんでもなく細かく刻んでいるものもある。こういうのも親切というんだろうか。

【引用部】
 このようにいろいろな条件で数値は違ってくるが、これを読みやすさという観点から見ると、一般的にいって、平均三〇字未満となるような文章は「やさしい」と考えていい。平均三五字あたりでも「かなりやさしいほう」で、平均四〇字ぐらいまでなら「ほとんど抵抗がない」と思われる。平均四五字前後で「ふつう」、平均五〇字を超えると「少しむずかしい」部類に属し、平均六〇字を超えれば「むずかしい」文章と考えられよう。そして、平均で七〇字を超えるようなら「非常にむずかしい」文章といってさしつかえない。(中村明『悪文』p.126)

 いろんな意見があって、ますます基準がわからなくなる。「何を根拠にこんな数字を出しているんだ」なんてツッコミを入れてはいけない。もともと「わかりにくい」とか「わかりやすい」って判断自体が感覚的なものなんだから。絶対的な数字なんて決まるわけがない。それでも各センセーの研究や経験に基づいた数字だけあって、そう大きくは違っていない。
 どうやら文字数の目安は、「平均」で出すのが主流らしい。だが、平均値の算出はそう簡単な作業ではない。〈句読点やかっこを除いた文字の数〉なんて流儀になると、さらにカッタるい。文章を書くときに、こんなことを考えてられないって。
「平均」がつかないほうなら、簡単に判断できる。「ちょっと長いかな」と思ったときに確認すればいい。ここであげた例のなかで「平均」がついていないのは、「40~50字以下」と「60字」だ。この基準より短く書けばいいわけね……ってちょっと待ってほしい。大目に見てくれている「60字」だって相当厳しいよ。すべての文を60字以下にすることなんて、本当にできるのだろうか。

【引用部】
 短く書く。困難な課題だ。センテンスをブツブツ切る。調子が狂う。やってみればわかる。「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくい。のだ。(『文章読本さん江』p.65)

 これはギャグでやっている文章だが、短く書くことを徹底するとこんな感じになっても不思議ではない。「天声人語」みたいな文章になる程度で済むならいい。たいていは、もっと悲惨な文章になる。ところが「短く書け」と主張するセンセーがたの文章は、そんなことにはなっていない。「サスガ」なんて感心してはいけない。ここまでの引用部の文章を見ればわかるはずだ。お手元にほかの文章読本があるなら、確認してみてほしい。平気でけっこう長い一文を書いているセンセーが多く、短く書くことを徹底している例を探すのはむずかしい。それらしいものをあげておく。

【引用部】
 文章は、いくつもの言葉が組み合わされてできています。したがって、その基本である言葉を正確に読み、そして書くことが文章を作るうえで一番大切です。文章を磨くうえでまず大切なことは、「言葉を磨く」ことです。
 最近とくに感じることは、漢字離れです。とくに若い方々にその傾向が顕著です。我々が常識として知っておきたい漢字の基準として存在するのが、「常用漢字」です。
 全部で1945字あります。新聞につかわれている漢字とほぼ同じです。一口に常用漢字と言っても、これをマスターすることは少々困難です。漢字能力検定試験の2級程度に相当するからです。ただし、このレベルの漢字は、書けないまでも、読めるようにはしておきたいものです。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.10)

 引用部は3つの段落に分かれている。個人的な感覚では、2つ目の段落の前半と、3つ目の段落の前半には異和感がある。ちなみに、各文の文字数は次のようになっている。

・第1段落 26/45/29
・第2段落 19/18/39
・第3段落 13/20/32/23/40

 文章読本でおなじみの「数字を使え」って教えに従ってみたけど、「だからどうした」って気がする。数字を出しさえすればいいわけじゃないってことか。まあ、20字以下の文が続くとなんかヘンな感じになることがある、ってことかもしれない。文字数だけで判断するわけにはいかないけど。
 もちろん、これはとくに短さが目立った部分を拾った結果だ。全編がこの調子ってわけではなく、ほかの部分はこれほど極端ではない。こういう極端な例をあげて、「短く書くな」なんて主張する気はない。ただ、「短く書け」を実践して自然な文章にするのは簡単じゃない、と思うだけです。

■長くてもわかりにくくない文の構造
「長い一文」とひと口にいってもいろいろある。長い一文はたいていわかりにくいが、例外もある。これは文の構造が違うせいらしく、そのあたりを説明している文章読本もある。

【引用部】
むろん、長い文といってもいろいろあって、みな同じにあつかうのは非常識だろう。部分的に文の情報が完結しながらいくつもつながって、結果として長くなったくさり型の長文なら、環(わ)の一つ一つの独立性が高いため、少々長くなっても、その構造上比較的わかりやすい。一方、同じ長文でも、文頭の副詞が文末の述語にかかったり、文中に他の文が組み込まれていたりする複雑な構文の長文になると、段違いにむずかしくなる。が、いずれにしても、長い文は短い文に比べて、読んで理解するのに時間がかかるという点が共通している。(中村明『悪文』p.122)

 フーム、そうなのか。この記述を見たときには、なんとなくわかった。なんとなくわかったけど、そこまでだった。頭が悪いからかな。その後、似たような記述は目にしたけど、どうもスッキリしなかった。やっと素直に納得できたのは、次の記述を見たときだった。

【引用部】
 わかりにくくなる最大の理由は、この文が複文であることだ。
 一般に、文は、主語、目的語、補語、述語などから構成される。一つの主語とそれに対応する述語(および、目的語、補語)しかない文を、「単文」という。完結している複数の単文を順に並べていったものを、「重文」という。これに対して、複数の単文が「入れ子式」になったものを、「複文」という。
 記号的に表すと、重文は、
 (主語1、述語1)、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)
となったものであり、複文は、
 主語1、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)、述語1 や
 主語1、{主語2、(主語3、述語3)、述語2}、述語1
のような構造のものである。つまり、複文においては、主語、目的語、述語、修飾語などの各々(あるいは一部)が、文から構成されているわけだ(これらを「節」という)。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.155)

 何やらむずかしそうに見えるが、論理的に書くとこうなってしまう。
 一般に流布している心得のなかでは、

・主語と述語を近づける
・修飾語と被修飾語を近づける

 などが、この複文の話だ。わかりにくい文は、複文で構造が複雑な場合が多い。単文に分割するか、単純な構造の複文に書きかえればいい。
 どういうことなのかをハッキリさせるために、うんとバカバカしい例を考えてみる。

【重文の例】
 小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べた。

 これなら登場人物がどんなに増えても、食べた物が多少増えても、そんなにわかりにくくはならない(文として自然かどうかは別問題)。ところが、ちょっと書きかえると話が違ってくる。

【やや複雑な構造の複文の例】
 佐藤は、小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べるのを見ていた。

「佐藤は」と「見ていた」が離れてしまうので、多少わかりにくくなる。これぐらいなら問題はないかもしれないが、あいだに入る部分が長くなればなるほどわかりにくくなる。単純な構造の複文にしてみる。

【単純な構造の複文の例】
 小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べるのを佐藤は見ていた。

 このように書きかえれば複文ではあっても主語と述語が近いので、わかりやすくなる。ただし、この方法だと全体の主語である「佐藤」が出てくるのが遅くなるので、なんだか不安定な文になる。やはり長い一文は避けたほうが無難ってことだろう。
 本多読本(p.28~29)は、もっと複雑な複文の例をあげ、〈修飾・被修飾関係の言葉同士を直結〉すればマシになることを示す。

【原文】
 私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。

【修正文】
 鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った。

 よくこんなすごい例文を考えつくもんだ。こうなるとちょっとしたパズルよりむずかしい。『「超」文章法』(野口悠紀雄)は、わかりにくい複文の例として、次の文を出している。

【引用部】
 (I)私の友人が昨年大変苦労して書いた本は、パソコンが普及し始めた頃には、
  異なるアプリケーションソフトが共通のOSで動くようになっていなかったた
  め、データを交換することができず、非常に不便だったと述べている。(p.154)

 さらにこの文がわかりにくい理由を分析したうえで、余計な記述を削除して3つの文に分解している。

【引用部】
 (II)パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデ
  ータを交換できなかった。このため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中
  でそう強調している。
(I)よりはずっと読みやすい。読みやすさのためには、単文にまで分解するのがよい。すなわち、一つの文章内での主語を一個に限定する。ただし、単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう。そこで、もう少し工夫する必要がある。(p.160)

(I)から(II)になる過程で、〈普及し始めた頃〉が〈誕生して間もない頃〉にかわっているのはなぜ? 〈述べている〉が〈強調している〉にかわっているのはなぜ? 「余計な記述を削除すること」と、「表現をかえること」って別なのでは。などと妙なインネンをつけるのはやめておこう。重要なのは、〈単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう〉ってこと。そんなのは当たり前なんだけど、その当たり前のことを書いてくれている文章読本はめったにない。
 そりゃそうだろう。「短く書け」は、ほとんどの文章読本に共通しているありがたい教えだ。その教えに従って短く書くことを徹底した結果が〈小学生の作文〉じゃ目も当てられないから、簡単に認めることはできない。しかし、〈小学生の作文〉は言葉が過ぎるとしても、ヘンな感じになることが多いのは事実なんだからしかたがない。

■個人的な「意見」を少々──たしかに一文は短いほうがいいみたいだが
1)やはり一文は短いほうがいい
 文字数を目安にするのはあまりいい方法とは思わないが、とりあえず手っ取り早い方法ではある。目安としては、60字ぐらいだろうか。60字を絶対に超えちゃいけないわけではなく、できるだけ60字以内におさめるほうが無難って程度のこと。もう少し長くても構わないが、わかりにくくなる可能性が高くなる。100字以上なんてことになると、危険度はきわめて高い。

2)一文が長い場合は文を分割する
 このテの方法は多くの文章読本で紹介されているので、具体例をあげるのはやめる。ちなみに、前にふれた「が、」を「。しかし」に書きかえるのは、分割の典型。分割すると接続詞を使うことが多くなるはずだ。接続詞が目立つようなら、先にあげた要領で削除することを考える。
 クドいのは承知でもう一度繰り返しておく。一文を短くすると、接続詞を減らすことはできない。「できない」がいいすぎなら、「きわめてむずかしい」。このことにふれずに、「短く書け」といいながら「接続詞を減らせ」と断定している文章読本は、それだけで読む価値はない。なんか、ムチャをゴリ押しする文章読本みたいな書き方になってるな。この数行だけで大半のセンセーを敵に回す気がする。まあいいや。

3)一文が短い場合は文を結合する
 一文を短くすることは、それほどむずかしくない。すべての文を単文にしてしまえば、一文は間違いなく短くなる。問題は、単文ばかりが続くとヘンな感じになること。そんなときには、あえて単文を結合すると不自然な感じが緩和できる。
 いくつの単文を結合すればいいのかは一概にはいえない。理想をいえば、長い文と短い文がバランスよく入っているのがいい。しかしそんなことをいい出すと、リズムだの文体だの個人の趣味だの……といった得体の知れない話になる。とりあえず無難なのは、2つの単文を結合していくこと。その程度なら、一文が長すぎてわかりにくくなることはめったにない。ところどころに単文が入れば、リズムもソコソコの線になる。
 先にあげた例で見てみよう。

【引用部】
 短く書く。困難な課題だ。センテンスをブツブツ切る。調子が狂う。やってみればわかる。「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくい。のだ。(『文章読本さん江』p.65)

 前から順番に、2つの文を結合していく。

【修正案1】
 短く書くのは困難な課題だ。センテンスをブツブツ切ると調子が狂う。やってみればわかるが、「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由があり、新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくいのだ。

 こうするだけで、フツーの文章に近づく。順番に2つずつ結合したため、4つ目の文は少しヘンなことになっている。結合のしかたにもう少し工夫が必要だろう。

【修正案2】
 短く書くのは困難な課題だ。センテンスをブツブツ切ると調子が狂う。やってみればわかるが、「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷されるので、一文が短くないと読みにくいのだ。

 これならフツーの文章として通用する。ただし、こんなことをやらかすと、せっかくの秀逸なギャグが台なしになる。

【引用部】
 パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換できなかった。このため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中でそう強調している。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.160)

 1つ目の文と2つ目の文を結合してみる。

【修正案】
 パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換できなかったため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中でそう強調している。
 最初の文が少し長くなったが、58字なので目安の範囲におさまっている。

 ここで注目してほしいのは、読点の問題。個人的な趣味では、【修正案】の「頃には、」の読点か「なかったため、」の読点か、どちらかを削除したくなる。2つの文になっていたときには、この読点があってもまったく気にならなかった。なぜ結合すると削除したくなるのかを説明するのは難問。ということで、次はちょっとメンドーな句読点の話になる。

【続きは】↓
第2章 4 句読点の打ち方
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-45.html

【20220404追記】
【国語表現──長い一文を分割するコツ】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12147080016.html
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7)句読点の打ち方/句読点の付け方──「、と」と「と、」の使い分け

 句読点の打ち方に関してはいろいろ書いてきた。
 下記の質問を読んで、けっこう重要なことにふれていなかった気がするので、改めて書いてみる。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10119577105
【質問文】===========引用開始
「、」(読点)の使い方。
彼が話したかったことは結局なにだったのか、と悩んでしまった。
彼が話したかったことは結局なにだったのかと、悩んでしまった。
どっちがよいですか
一かたまりの話があって
「~と考えた」「~という意味のようだ」「~とのこと」といった文章が続くとき
読点の場所が「と」の前か後ろかでいつも悩みます。
どなたか教えてください。
================引用終了

 積年の課題が解決した気がして、ちょっとうれしかった。
 うれしかったけど、質問板の結果は何?
 フーン。〈読点は「と」の後に〉打つんだ。そんなことはないと思うよ。

 質問の例文を少し書きかえる。下記のうちどれが一番自然か。
1)彼が話したかったことは結局なんだったのか、と悩んでしまった。
2)彼が話したかったことは結局なんだったのかと、悩んでしまった。
3)彼が話したかったことは結局なんだったのかと悩んでしまった。

 句読点に関する文献はいろいろ読んだが、この質問の件に関して論理的に説明しているもの見たことがない。案外盲点になっているのかも。
 下記【句読点の打ち方──簡略版】の「初級者向けのアドバイス」のようなものならアチコチに転がっている。
・話の切れ目に打つ(声に出して読んでみて、「ね」を入れられる場所に打つ、という人もいます)
・読むときに息継ぎをするところに打つ

 繰り返すが、これは小学校低学年レベルの説明。具体的な説明が何もないから、なんの論理性もない。
 ↑の1)〜3)のどこが「話の切れ目」で、どこが「息継ぎをするところ」なのか論理的に説明できる人がいるのだろうか。
 
 悪名高い【くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)】http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kijun/sanko/pdf/kugiri.pdfを見ても、この問題に関しては論理的な説明は何もない。
 そもそもこの(案)は、かの有名な『日本語の作文技術』(本多勝一。以下、前例に合わせて本多読本と呼ぶ)によって木っ端微塵にされ、最初から最後まで論理性などないことが明らかにされている。これは文章読本の世界のほぼ常識なんだから、いまさらこういうものを持ち出すのはやめてほしい。本多読本を無視して句読点について語るのは無謀すぎる。

 本題に戻る。
 1)でも2)でも構わない。本多読本に従えば、3)でも構わない。これもすでに書いたように、本多読本に従うと読点(本多読本では「テン」と読んでいる)の数が減る。個人的には、3)ではちょっと読みにくいと思う。
 1)と2)のどちらが望ましいかと言うと、個人的には1)に打つ。読点を打つかわりに下記のように書きかえれば、理由はハッキリする。

3)’「彼が話したかったことは結局なんだったのか」と悩んでしまった。

「 」中は引用句と考えることができる。この場合、「と」を「 」の中に入れる人はいないでだろう。
「~と考えた」「~という意味のようだ」「~とのこと」などの場合も、たいてい1)と同様で「、と」のほうが自然。文脈にもよるかもしれないが、「と、」だと不自然なことが多いはず。

 ところが、世間には2)の打ち方をする人もいる。この理由の説明は少々厄介な話になる。
「と」のような基本的な助詞には多くの意味がある。辞書の全文は末尾に。
http://kotobank.jp/word/%E3%81%A8?dic=daijisen&oid=12961900
 ここでは、簡略化して「引用のト」(↓の辞書の【1】格助詞の「2」)と「仮定のト」(仮定条件などを表わす。↓の辞書の【2】接続助詞の「1」〜「3」)に分けて考える。
「引用のト」に読点を打つなら、「、と」のほうが自然。しかし、「仮定のト」の場合は「と、」のほうが自然。
 このへんが混同されているような気がする。辞書の例文を見る。

〈「引用のト」の例文〉(古文の例を除く)
「正しい(、)という結論に達する」

〈「仮定のト」の例文〉
「玄関を開けると、子供が迎えに出てきた」
「汗をかくと(、)風邪をひく」
「見つかると(、)うるさい」

 読点が不要な場合もあるが、もし打つなら「引用のト」は「、と」で、「仮定のト」は「と、」の形だろう。
 見分け方はむずかしくない。

  1)のように「と」の前を「 」の中に入れられるなら「引用のト」(「、と」が自然)。
  「と」を「〜たら」(もしくは「〜なら」)にかえられるなら「仮定のト」(「と、」が自然)。
「玄関を開けたら、子供が迎えに出てきた」
「汗をかいたら(、)風邪をひく」
「見つかったら(、)うるさい」

 ただし、どちらも読点を打たなくてもよいことが多いのは、すでに見たとおり。
「仮定のト」に関して詳しくは下記をご参照ください。非常にめんどうな話だが、表だけ見れば、だいたいのことがわかるはず。
【「~たら」と「~れば」をめぐって〈2〉&〈3〉 「ば」「と」「たら」「なら」】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1624.html

「引用のト」か「仮定のト」かまぎらわしい場合もある。はっきりしなくても悩む必要はない。「、と」と「と、」でも構わないことが多いのだから。いざとなったら、読点を打たなければいい。


「引用のト」で2)のように打つ理由を論理的に説明するのはむずかしい気がするが、下記のように考えることができるかも。
 原文の読点を削除し、「私は、」を加える。
4)私は、彼が話したかったことは結局なんだったのかと悩んでしまった。

「私は、」の読点は『日本語の作文技術』流にいえば「逆順の読点」。言葉の並べ方がヘンなので読点が必要になる。下記のように逆順を解消してやると、読点は不要になる。
5)彼が話したかったことは結局なんだったのかと私は悩んでしまった。

 ここでこの文の構造を考える。これも『日本語の作文技術』の考え方を参考にしている。

  彼が話したかったことは結局なにだったのかと→悩んでしまった。
  私は→悩んでしまった。

「悩んでしまった」にかかるフレーズが2つある。このうち「私は」を省略したのが元の文と考えることができる。そうなると、省略していない〈「悩んでしまった」にかかるフレーズ〉を明確にするためには2)のように読点を打つべきでは……。
 さらに下記のようにしてみる。

  6)彼が話したかったことは結局なんだったのかとしょせんは他人事とは思いながら悩んでしまった。
  6)’彼が話したかったことは結局なんだったのかと、しょせんは他人事とは思いながら(、)悩んでしまった。
  6)’’「彼が話したかったことは結局なんだったのか」と(、)しょせんは他人事とは思いながら(、)悩んでしまった。

「引用のト」ではあっても、「悩んでしまった」にかかる2つのフレーズをはっきりさせるためには、「と、」にするほうが自然だろう。6)’’のようにカギカッコをつけても、やはり「と、」の形にしたくなる。

 もしかすると慣例の影響も関係あるかもしれない。
 小説などで下記のような形をよく目にする。

「彼が話したかったことは結局なんだったのか」
 と、彼女は言った。

 この形は明らかに「引用」だが、カギカッコがあるので「と、」になっている。この影響から、「と、」の形を見慣れているような気がする。この場合の読点も、論理的には打たなくても構わない。しかし、下記だと事情がかわり、是非とも読点を打ちたくなる。

「彼が話したかったことは結局なんだったのか」
 と、ため息をつきながら彼女は言った。

 Web辞書『大辞林』の「引用のト」の例文にある下記も同様(少し記号の使い方をかえている)。
  「性は善なり」と孟子にもあるよ。
 この場合、カギカッコを使わないなら
  性は善なり、と孟子にもあるよ。
 が自然。この読点は削除しにくい。カギカッコがあるから、
  「性は善なり」と孟子にもあるよ。
 になる。「と」の直後の読点はあってもなくてもいい。

 お品書きは下記参照。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-132.html

 句読点に関する基本的な話は、下記をご参照ください。
【句読点に関する記述】
■Yahoo!知恵袋 知恵ノート
【句読点の打ち方──簡略版】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n140029

 さらに詳しくは、下記の1)と3)~6)あたりをご参照ください。
【句読点の打ち方/句読点の付け方】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-3138.html

■Web辞書『大辞泉』から
http://kotobank.jp/word/%E3%81%A8?dic=daijisen&oid=12961900
================引用開始
と【と】

【1】[格助]名詞、名詞的な語、副詞などに付く。
1 動作をともにする相手、または動作・関係の対象を表す。「子供―野球を見に行く」「友達―けんかをした」「苦痛―闘う」「しぐれ降る暁月夜紐解かず恋ふらむ君―居(を)らましものを」〈万・二三〇六〉
2 (文や句をそのまま受けて)動作・作用・状態の内容を表す。引用の「と」。「正しい―いう結論に達する」「名をばさかきの造(みやつこ)―なむいひける」〈竹取〉
3 比較の基準を表す。「君の―は比べものにならない」「昔―違う」「思ふこといはでぞただにやみぬべき我―ひとしき人しなければ」〈伊勢・一二四〉
4 動作・状態などの結果を表す。「有罪―決定した」「復讐(ふくしゅう)の鬼―化した」「年をへて花の鏡―なる水は散りかかるをやくもるといふらむ」〈古今・春上〉
5 (副詞に付いて新たな副詞をつくり)ある状態を説明する意を表す。「そろそろ―歩く」「そよそよ―風が吹く」「ほのぼの―春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく」〈新古今・春上〉
6 (数量を表す語に付き、打消しの表現を伴って)その範囲以上には出ない意を表す。…までも。「全部で一〇〇円―かからない」「一〇〇キロ―走らなかった」
7 (同一の動詞・形容詞を重ねた間に用いて)強調を表す。「世にあり―あり、ここに伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見合はせて」〈源・若菜下〉
◆4は「に」と共通する点があるが、「と」はその結果を表すのに重点がある。7は、現在も「ありとあらゆる」などの慣用句的表現の中にわずかに残っている。

【2】[接助]活用語の終止形に付く。
1 二つの動作・作用がほとんど同時に、または継起的に起こる意を表す。…と同時。…とすぐ。「あいさつを終える―いすに腰を下ろした」「玄関を開ける―、子供が迎えに出てきた」「銀(かね)請け取る―そのまま駆け出して」〈浄・大経師〉
2 ある動作・作用がきっかけとなって、次の動作・作用が行われることを表す。「汗をかく―風邪をひく」「写真を見る―昔の記憶がよみがえる」「年がよる―物事が苦労になるは」〈滑・浮世床・初〉
3 順接の仮定条件を表す。もし…すると。「見つかる―うるさい」「ドルに直す―三〇〇〇ドルほどになる」「今言ふ―悪い」〈伎・幼稚子敵討〉
4 逆接の仮定条件を表す。たとえ…であっても。…ても。
意志・推量の助動詞「う」「よう」「まい」などに付く。「何を言われよう―気にしない」「雨が降ろう―風が吹こう―、毎日見回りに出る」
動詞・形容動詞型活用語の終止形、および形容詞型活用語の連用形に付く。「たのめずば人をまつちの山なり―寝なましものをいさよひの月」〈新古今・恋三〉「ちと耳いたく―聞いて下され」〈浮・曲三味線・一〉
5 次の話題の前提となる意を表す。「気象庁の発表による―、この夏は雨が少ないとのことだ」
◆3は中世以降用いられた。また、中古から使われていた4は、現代語では4のように特殊な慣用的用法として残っているだけである。

【3】[並助]いくつかの事柄を列挙する意を表す。「君―ぼく―の仲」「幸ひの、なき―ある―は」〈源・玉鬘〉
◆並立する語ごとに「と」を用いるのが本来の用法であるが、現代語ではいちばんあとにくる「と」を省略するのが普通となっている。
================引用終了

第2章5比喩の使い方

第2章

5 比喩の使い方――クサくならない比喩に限るほうが無難


■紋切り型を作ったのは新聞記者?
 比喩について見ていくのだが、とりあえず紋切り型の話から始めたい。
 紋切り型って言葉の正確な定義は、例によって誰にもできない。まあ、「慣用句のなかでとくに使われることが多い表現」ぐらいに考えておけば間違いがない(「慣用句」を「常套句」や「決まり文句」と書きかえても大差はない)。一般にどういうものが紋切り型と呼ばれるのかを見てみよう。

【引用部】
「ぬけるように白い肌」「顔をそむけた」「嬉しい悲鳴」「大腸菌がウヨウヨ」「冬がかけ足でやってくる」「ポンと百万円」……
 雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。カッコいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。「穴のあくほど見つめる」という表現を一つのルポで何度もくりかえしているある本の例などもこの類であろう。
 こうしたヘドの出そうな言葉は、どうも新聞記者に多いようだ。文章にマヒした鈍感記者が安易に書きなぐるからであろう。一般の人の読むものといえば新聞が最も身近なので、一般の文章にもそれが影響してくる。(本多読本p.202~203)

 これは、「第1章4」で紹介した〈只野小葉さん〉で始まる文章を罵倒したあとに続く記述だ。近年は〈新聞が最も身近〉でもないだろう、ってのは個人的な感想なのでインネンにさえならない。美脚の形容に使われるのは「小鹿」じゃなくて「カモシカ」では、って疑問も無視する。当時はそういったのかもしれないし、どっちにしても紋切り型であることにかわりはない。このほかに紋切り型の例として、〈ぼやくことしきり〉〈……昨今である〉〈……今日このごろである〉などがあげられている。
 紋切り型について語るなら、忘れてはいけない文章読本がある。

【引用部】
 新聞にも紋切型の歴史があり、それはいまも続いています。
 昔は山の遭難があるとなぜか「尊い山の犠牲」という言葉が使われました。海水検査の結果を報じるときの「大腸菌うようよ」は、これを例示すること自体がもう手垢のついた発想になっています。
 捕まった容疑者はたいてい「不敵な面魂で」警察署の中に消え、取調室では「ふてぶてしさを装いながらも」「動揺を隠しきれない」が、なぜか差し入れのカツ丼は「ぺろりと平らげる」のです。
 新しい汚職事件が発生すると「衝撃が日本列島を走り抜け」、人びとはその「大胆な手口」に「怒りをあらわ」にし、「癒着の構造」に「捜査のメス」が入って「政界浄化」が実ることを期待します。政府与党の幹部は「複雑な表情を見せ」「対応に苦慮」、国会内は「一時は騒然となって」「真相の徹底究明」が叫ばれ、「成り行きが注目」されます。しかし「突っこんだ議論」はなく、「すったもんだの末」に「永田町の論理」が支配してうやむやになり、関係者は「ほっと、胸をなでおろし」、「改めて政治の姿勢が問われる」ことになるのです。(『文章の書き方』辰濃和男p.204~205)

 例示はまだまだ続く。ここまで並べてあると、すごい芸としかいいようがない。2人のセンセーの意見に共通するのは、紋切り型は新聞と縁が深いってこと。ほぼ同じ意見のセンセーはほかにもいる。

【引用部】
 こう並べてみると、たしかに新聞記事の文章は、出来合いの表現を組み合わせて書く傾向のあることが見えてくる。てっとり早く、手短に、という新聞のこういうジャンル特性は、悪い面ばかりではない。早く的確に情報を手に入れるためには、あまり個性的な文章では困る。型どおりに書いた新聞記事なら、読者が独創的な表現にとまどうことはない。既成の表現だからこそ、事件の概略がつかみやすくなるという面もあるだろう。(中村明『悪文』p.100~101)

 一応紋切り型を擁護してはいるが、このあとに〈だが、それは新聞記事の文章という場合のことである〉と続く。結局、新聞記事で使うのもあまりよいことではなく、フツーの文章を書くときには使っちゃダメらしい。
 でもなぁ。とりあえず疑問が2つある。
 まず小さな疑問。紋切り型の愛用者は、新聞記者だけではない。現代ではアナウンサーが使っている例のほうが目立つ気がする。文章と関係ないといえば関係ないけど、あれだってたいていはニュース原稿を書く人がいるはずだ。ニュース番組では、いまだに葬儀は「しめやかに営まれる」のが一般的だし、伝統行事は「古式ゆかしく」行なわれると相場が決まっている(「古式豊かに」というと誤用になる。紋切り型のうえに誤用なので、相当恥ずかしい)。このあたりだと、新聞記事ではほぼ絶滅しているのではないだろうか。
 次に大きな疑問。「紋切り型を使うな」って心得は理解できたとしても、個々の言葉が紋切り型かどうかを判断する基準なんてない。どこかに紋切り型の一覧表でも売っているのだろうか。仮にそんなものがあったとしても、すごい数になるから簡単には覚えられないって。「これは紋切り型だろうか」なんていちいち考えていたら泥沼にはまり(これも紋切り型か)、文章なんて書けなくなる。
 まあ、とりあえずここまでにあげた表現は、避けたほうが無難かもしれない。


■安易な比喩は〈アホらしい紋切り型〉になりやすい
 紋切り型を並べるのはたしかによくない。だが、絶対に使ってはいけない、とメクジラを立てる(これも紋切り型か)ほどのものではないだろう。

【引用部】
 紋切り型とは、いわずと知れた、型にはまった言い回しのことである。副詞、形容詞、常套句(じょうとうく)、諺(ことわざ)など、それらは世にあふれかえっていて、これらを全部、使うなと言われたら、日本語の文章を進めていくのに困るほどだ。だから、無理にこれらを避けようとすると、かえって、どうでもいい場面でヒネりすぎた表現をしてしまうことになりかねない。
 要は、頻度の問題である。避けなければならないのは、紋切り型に凝り固まった文章なのだ。
「彼は、雪をもあざむくような白い馬にまたがり、抜けるような青い空の下を疾駆していた」
 たったこれだけの長さの文章に、「雪をもあざむく白」「抜けるような青い空」という具合に紋切り型が連続してしまうと、書き手が、自ら描いた映像に対して何のイメージも抱いていないことがばれてしまう。(日本語倶楽部編『うまい文章の裏ワザ・隠しワザ』p.133)

〈要は、頻度の問題〉ってこと。紋切り型だらけになるのは、すでに書いたようにウマい文章を書こうとするから。ただし、フツーの人はそんなに神経質になる必要はない。わざとやろうとでもしない限り、こんなわけのわからない表現が次々に浮かぶほど言葉を知っている人はそうはいない。もちろん、人並み外れて語彙が豊富な人は、十分神経質になる必要がある。
 この引用部にあげられた紋切り型に注意してほしい。〈雪をもあざむく白〉も〈抜けるような青い空〉も、比喩と呼ばれるものだ。先にあげた新聞で使われる紋切り型のなかにも、比喩を含むものが少なくない。比喩を含む紋切り型の場合は、ちょっと警戒する必要がある。

【引用部】
 比喩は文章の味と香りを決める大事な調味料ですが、あまりに手垢のついたアホらしい紋切り型はよしましょう。「りんごのようなほっぺ」「白魚のような手」「水を打ったような静けさ」などなど。(山口文憲『読ませる技術』p.143)

 比喩は〈アホらしい紋切り型〉になりやすい。このことを確認したうえで、やっと比喩の話が始まる。


■直喩と隠喩の違いぐらいは知っといて損はない
 実用文派の文章読本のなかで、比喩の解説に力を入れているものはさほど多くない。これには理由があると思うが、とりあえず話を進める。
 比喩にはいくつかの種類があり、使用例で考えると、圧倒的に多いのは直喩(「明喩」ともいう)と隠喩(「暗喩」ともいう)だろう。

【引用部】
 が、手始めとして表現を工夫するとき、もっとも簡単で効果的なのは、比喩だ。よく知られているように、大きく分けると、比喩には「まるで……のようだ」という形をとる「直喩」(ちょくゆ)と、「まるで」という表現を含まない「隠喩」(いんゆ)がある。そのほかにもたくさんの比喩の分類がなされているが、まずはそんなに難しく考える必要はない。高度な比喩については、人の文章を読んでマスターすればいいことであって、初めからそのようなものをマスターしようとするほうが無理だ。
 要するに、比喩というのは、物事を何かにたとえることで、それを誇張して、目に見えるように表現する方法と考えておけば、とりあえず間違いない。ふつうに書けば「私は驚いた」で済むところを、「私は、まるで初めて花園に迷い込んだ子猫のように驚いた」と言うわけだ。そう考えておいて、あとは練習してみるといいだろう。(樋口裕一『ホンモノの文章力』p.164)

 非常にわかりやすい解説で、おおむねこのとおりだ。「まるで……のようだ」以外の形の直喩もあるとか、直喩と隠喩の違いはこんなに単純なものではない、なんて厳密な話は無視する。
 この引用部は第四章の〈作文・エッセイの書き方〉の中に出てくる。だからコメントしたくないって。ここであげられた比喩の例がウマいかウマくないかは、感覚の問題になるから誰にも決められない(ってことにしておく)。ウマいと思えた人は教えに従って〈練習〉すればいい。ただし、〈練習〉の具体的な方法は書いていない。もしそんな練習方法があるのなら、ぜひ教えてほしい。どんなに苛酷な「地獄の特訓」(これは隠喩で紋切り型か)にも耐える覚悟がある。ホントに効果があるならね。
 すでに書いたように、実用文派の文章読本のほとんどは、比喩の解説にあまり力を入れていない。しかし、何事にも例外はあるもので、ほぼ1章を使って比喩を解説している文章読本がある(あえて書名は伏せる)。
 内容を見ると、直喩や隠喩のほかにさまざまな比喩を紹介している。種類名だけあげておこう。
  諷喩/声喩/換喩/朧化法/象徴法
 こういった比喩に関して、くわしく解説している。このぐらいレトリックの本を何冊か参考にすれば誰だって書ける、なんて悪態をつく気はない。話としてはおもしろいし、巧みな比喩が文章に生命を吹き込む効果がどれほど高いか、って説明もわかりやすい。しかし、「だからどうした」としかいいようがない。「だからこそ罪深い」というべきだろうか。比喩の種類をどれだけ覚えても、巧みな比喩の効果が理解できても、文章を書くのにプラスになることはめったにない。むしろマイナスになる可能性が高い。
 この文章読本は、〈天にも昇るような〉や〈砂を噛むような〉を紋切り型だとしている。一方で、〈針のように鋭い神経〉や〈氷のように冷たい心〉を比喩の好例のように書いている。これも十分紋切り型なんじゃないの。この微妙な違いがキッチリ説明できるのなら、ぜひお願いしたい。
 無責任にリクエストさせてもらえるなら、お願いしたいことがほかにもある。比喩の効果について長々と書くぐらいなら、ウマい比喩の使い方のコツを教えてほしい。そこまでむずかしいことを求めるのがムチャなら、せめてウマい比喩とそうでない比喩とを見分ける明確な基準を示してほしい。そんなものあるわけないよね。だったら、安易にすすめたりしないでほしい。使い方には注意が必要なことを、しつこいぐらいに断わってくれないと、読者が誤解する。
 ここまで書いてしまったから、個人的な「意見」をハッキリさせておく(もうハッキリしてるって)。比喩に関する有効な心得は「ムヤミに使うな」ぐらいしかない。それ以外にいい方があるとすれば、「よほどのことがない限り使うな」だけ。


■比喩はどちらかというと芸術文の領域
 何もかもひっくるめて、どんな文章でもすべての比喩を使うな、と主張する気はない。比較的使いやすい比喩もあるが、その話はあとに回す。例によって、文章の種類がかわれば事情もかわってくる。芸術文と実用文とでは話が大きく違う。実用文のなかでさえも、比喩を使わなくても書けるものと、比喩を使いたくなるものがある。そのあたりのことに注目しているセンセーの意見を見てみよう。

【引用部】
文章技術に限っていえば、もっとも容易に書けるのは算数(数学ではない)の問題文である。なぜ容易に書けるのかといえば、たとえば比喩が不用だからである。隣組の回覧板の文章や法律文などもお手本があれば、どうにか書けそうだ。比喩を考える必要がないからである。商業文にしても同じだ。新聞記事や社説などはどうか。これはすこしむずかしい。記事文や社説には、XはYのようだ、YそっくりのX、Yに似たX、YめいたX、YよりもYらしいX、Y顔まけのX、Yに負けないほどのX、YにもまぎらうX、YもおどろくX……といった直喩はほとんど用いられることはないが、隠喩が大いに使われており、そこがすこしばかりむずかしいのである。(井上読本p.239~240)

 このあとに、〈ヤミ手当〉〈魔女(女子バレーボール選手)〉〈植物人間〉など、新聞に登場する隠喩が多数紹介されている。こうなってくると、どこまでが隠喩なのかって問題も出てくるが、無視して先に進む。

【引用部】
 のこるは随筆、小説や戯曲、そして詩といったところだが、この順序にしたがってむずかしくなるのではないかと思われる。使われる比喩の量と文章を書くことのむずかしさとが正比例するからである。つまりその文章が世の中の中心から外れれば外れるほど、個体的、個人的なものになればなるほど、比喩の量がふえて行き、その分だけ文章を書くことが骨になるのである。(井上読本p.240~241)

 少し表現をかえると、「比喩の量は芸術文と実用文とで大きくかわる」ってことになる。なんなら、「芸術文と実用文の違いは比喩の量と質によって決まる」ぐらいのことをいってもいいかもしれない。これは実用文のなかでもあてはまる。「比喩の量は文章の種類によって少しかわる」ってことだ。
 ずーっと前に「第1章1」で、〈エッセイ(身辺雑記)やルポルタージュ(旅行記)はやや特殊で実用文と芸術文の中間に位置すると思う〉と書いたのは、このことなのだ。
 うんと簡単な例で考えよう。
 白い花が咲いているのを見たとする。身辺雑記なら庭先で、旅行記なら旅先で、ってことになるだろうか。その花のことを書こうとすると、「白い花が咲いていた」と書くだけではなんか物足りない。いろいろある白のなかでも「どんな白なのか」、「どんな様子で咲いていたのか」を書きたくなる。さらに、その花が「どんなふうに見えて」、そのことによって「どんな気持ちになったのか」なんてことも付け加えたくなる。こうなると、比喩のひとつも使いたくなるのが人情だ。
 どの程度比喩を使うのかは、各自の表現力と相談してもらうしかない。表現力に自信のある人は、好きなだけやればいい。表現力に自信のない人は、できるだけ控えめにするほうがいい。そうしないと、クサい表現になる。「クサい表現」って言葉が曖昧に感じられるのなら、〈悪しき文学趣味〉って言葉を使っておこう。個人的には「控えめ」よりももっと消極的で、花について書くこと自体を避けたくなる。だってクサくなるのヤだもん。
 自然描写ってのは、限りなく芸術文の領域に近い話になる。情景描写ってのも、それに準ずる。先にあげた〈雪をもあざむく白〉や〈抜けるような青い空〉の例を見れば明らかだが、ウカツにやると取り返しのつかないことになる。〈アホらしい紋切り型〉であるうえにクサい表現なんだから、かなり悲惨だ。
 実用文派の文章読本のなかで比喩のことがあまり語られていないのは、このへんの問題のせいだろう。ごく少数の勇敢なセンセーを別にすると、危険を察知して回避している。
 先にあげた『読ませる技術』(山口文憲)の例が典型だ。コラム・エッセイをテーマにしているんだから、本来なら比喩についてもっと説明していても不思議ではない。しかし〈比喩は文章の味と香りを決める大事な調味料〉(隠喩)としながら、〈アホらしい紋切り型はよしましょう〉としかいっていない。
 この〈調味料〉の例だけでなく、『読ませる技術』には巧みな比喩がいろいろ出てくる。そういう比喩の使い手でさえ(「使い手だからこそ」か)、具体的な使い方の説明を回避してサラリと流している。説明するのはとんでもない難題、ってことがわかっているからだ。
 ウマい比喩ならどんどん使えばいい。しかし、ウマい比喩の作り方のマニュアルなんて存在しないし、比喩のデキの善し悪しを判断する基準もあるわけがない。それなのに、ヤタラと比喩の種類を並べたり、長々と比喩の効果を語ったりしてなんの意味があるのだろう。それがどれほど無責任で罪作りなのか、わからないのかね。単なる「見せびらかし」で、もっといえば悪質な「そそのかし」だ。フツーの人がフツーに比喩を作ったら、どんなことになるのかは簡単に想像できる。確実にヘンな文章になる。子供が相手の場合は話がまったく別になるが、イイ大人相手にバカなことをすすめるんじゃない……こういう感情的な書き方をしてはいけません。
 ついでに書くと、身辺雑記や旅行記は芸術文に近づくので、接続詞の必要度も低くなる。ほかの実用文に比べて、いくぶん少なめにすることを心がけたほうがいい。さほど神経質にならなくても、フツーに書けば少なめになるはずだ。


■アホらしい、クサい、ヘタ……それでも比喩を使いたいですか
 比喩の話に戻り、ほかの文章読本がどんな感じで説明を回避しているのか見てみよう。

【引用部】
 異質のものを結びつける遊びに、比喩があります。
「絹雲」を表現するのに少し気取って「透明感のある衣」と書いてみる。小鳥の飛ぶさまを「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」と表現する。いろいろと苦労をするあの比喩のことです。比喩には、直喩、隠喩、換喩、提喩などがありますが、ここでは深入りしません。
 比喩がいかに人びとの理解を助けるか、作家、丸谷才一の次の文章を味わってください。『文章読本』のなかの一節です。(『文章の書き方』辰濃和男p.141)

「透明感のある衣」(隠喩)と「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」(直喩)の印象に関しては、コメントしない。
 このあとに、延々と丸谷読本が引用されている。たしかにみごとな比喩が使われていて、比喩の使い方の見本にしたくなる。しかし、これは明らかに反則。丸谷読本は、内容が芸術文寄りなだけではなく、文章自体がほとんど芸術文になっているからだ。おそれ多くて、参考になんてできない。まあこの『文章の書き方』って文章読本は、なんの目的があるのか知らないが、引用文の大半が芸術文だからしょうがないけど。
 大半の文章読本が比喩について語るときに持ち出すのも、やはり芸術文だ。そりゃそうだろう。〈アホらしい紋切り型〉でもなく、クサい表現でもない比喩を、芸術文以外から探すのはそう簡単ではない。

【引用部】
 では、「野球」と「ベースボール」はどう違うのでしょうか。『ワシントン・ポスト』紙のケビン・サリバン(Kevin Sullivan)記者が、じつにおもしろい比喩を同紙に書いていました。(原文はここで1行アキ)
  野球とベースボールは寿司とマクドナルドのフィッシュ・バーガーほど違う。原材料は同じ魚だ。しかし、まったく異なる文化の中で、まるっきり違ったものになってしまっている。(原文はここで1行アキ)
「野球」と「寿司」に「ベースボール」と「フィッシュ・バーガー」を対比させた組み合わせが愉快です。比喩をつかう文章は、文学に多く見られます。実務文でも、もっとつかうべきです。ただし、実務文では比喩のつかいすぎに気を配ることが大切です。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.163)

 ここで紹介されているのは芸術文ではないと思うが、素直に〈じつにおもしろい比喩〉だと思う。だからといって、〈実務文でも、もっとつかうべきです〉なんて意見に賛成する気にはなれない。「実務文」ってのがどんなものなのかはよくわからないが、「ビジネス文書」に近いものらしい。そのテのものに比喩なんて必要なんだろうか。
 この引用部に続いて紹介されているのは、例によって芸術文だ。しかも、この『横書き文の書き方・鍛え方』のp.66には〈文学の文章と仕事上の文章は、言葉の用法という点で、根本的に異なります〉とまで書いてある。こうなると単なる反則じゃない。相当悪質で、レッドカードの一発退場もの(ヘタな比喩だな)……と書いて、またひとつ比喩の問題点に気がついてしまった。〈アホらしい紋切り型〉じゃなくても、クサい表現じゃなくても、「ヘタな比喩」があるってことだ。
 こんなに比喩の悪口ばかりを並べていると、〈うるさい小姑に似ている〉(直喩)とか意地悪をいわれそうだ。少し前向きなことを書こう。
 比較的無難なのは、ギャグとして使う比喩だ。もともと、比喩には異質なものを結び付けたりする働きがある。落差が大きければ大きいほどいい、といわれているからギャグになりやすい。レッドカードの話も一種のギャグなんだから、わかる人だけがわかればよろしい。そういう書き方は独りよがりな文章の典型で、いちばん避けなければならないのでは……ウルッサイ!


■クサくならない「類喩」なら比較的無難
 気を取り直して、ホントに前向きなことを書こう。安易に使われた比喩がおちいりがちな悪い例として、3つのパターンをあげてきた。

1)〈アホらしい紋切り型〉
2)クサい表現
3)ヘタな比喩

 このうち、いちばん警戒しなければならないのは2)だろう。たいていの1)は2)の要素も含んでいると思うから、とにかく2)を防ぐことが最優先。3)に関しては、個人の技量にもかかわることなのでなんともいえない。
 1)と3)のことまで考えると話がややこしくなるので、ここから先は2)ではない比喩を使うコツに話を絞る。それは、類似する事物をクサくなく提示することだ(メンドーなのでこれを「類喩」と呼ぶ。それじゃ比喩とほとんどいっしょだろう、ってツッコミは禁止。個人的な「意見」になっているってツッコミも、とっくに手遅れなので禁止)。
 類喩は、直喩の形になる場合もあるし、隠喩の形になる場合もある。「たとえ話」とでもいえばわかりやすいだろうか。むずかしいもの(抽象的な事物など)を身近なもの(具体的な事物など)にたとえるのだ。比喩の一種なのは間違いないが、どう違うのかを見てみよう。

【引用部】
 しかし、学術的な論文はもとより、論述文一般について、情景を描写するための比喩は、あまり過剰でないほうがよい。葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じになってしまうからである。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.124)

 ここに登場する〈葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じ〉(直喩)は、明らかに確信犯的に使われている。一種のギャグ(センセーがやる場合は「技」と呼ぶべきか)と考えることもできる。個人的にはウマいと思ったが、「唐突」と感じる人もいるかもしれない。これ以上深入りはしない。
 そもそも身辺雑記や旅行記以外の論述文で、情景描写が必要になることは少ない。仮に情景描写が必要だとしても、比喩まで必要なことなんてあるのだろうか。まあ、この問題も深く考えるのはやめておこう。
 このあとに、論述文でも使いやすい類喩の例がいろいろとあげられている。はじめに登場するのは、人体を使う類喩だ(当然ながら、類喩なんていい加減な言葉は使っていない。フツーに「比喩」と呼んでいる)。

【引用部】
 さまざまな対象について、人間の身体に喩えるのは、最も有効だ。人体ほど精巧に発達したものはないからだ。一つ一つの器官が機能分化しており、各々は非常に高度の機能をもっている。しかも、その機能は誰でも知っている。だから、喩えようとするときには、まず人体を考えるとよい。
◆日本経済のどこが問題なのか? これまでは、手足が少し疲れただけだった。しかし、どうも中枢神経が冒されているようだ。脳さえ損傷しているかもしれない。 
◆首が飛ぶかもしれないときにヒゲの心配をしてどうする(映画「七人の侍」における村の長老の言葉)。
◆高速道路は動脈だが、毛細血管にあたる市町村道も重要だ。
 慣用句になっているため、つぎのように、人体を用いた比喩であることを意識しないものさえ、多数ある。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.124~125)

 このあとに、〈頭でっかち〉〈頭隠して尻隠さず〉など、人体を用いた表現が多数並んでいる。慣用句なのかことわざなのか、よくわからないものもある。紋切り型に近いものも多い気がするので、とくに引用はしない。
 そのあとに紹介されているのが、人体以外を使った類喩の例だ(一部の用例や解説を省略している)。

【引用・抜粋部】
【1】自動車の部品や装置
 エンジン、ブレーキ、アクセル、シャシーのように機能分化しているので、「牽引する」「止める」「加速する」などを表すのに使える。「会社を発展させるには、技術という強力なエンジンが必要だ。同時に、間違った方向に暴走しないためのブレーキ役となる人も必要である」というように。
【2】会社の組織
 総務、企画、営業、人事、経理、工場のように機能分化しているので、「企画部門ばかり強くて営業が弱い会社のようだ」「本社ばかり立派にして工場が古いままの会社のようなものだ」などと使える。
【3】誰もがよく知っている人名
◆スターリン的恐怖政治、周恩来的政治手腕。
◆ナポレオンとヒトラーをあわせたようなことになる。
◆ゴリアテスに立ち向かうダビデのような人だ。
【4】歴史的事実
◆ITは第二のゴールドラッシュだ。印刷術の発見のようなものだ。第二の産業革命だ。
◆日本経済は、氷山に衝突する直前のタイタニック号のような状態だ。
◆ドイツ軍が冬のロシアに攻め込んだようなものだ。
【5】特定の機能を表す代表的な地名
【6】スポーツもしばしば有効
◆マラソン選手に短距離を走らせるようなものである。
◆ボールなしでサッカーをやろうというようなものである。
【7】自然現象
【8】漢語を用いた表現
「人生にはいろいろなことがあって……」と長々と述べるより、「塞翁(さいおう)が馬」というほうがよい。一般に、長い表現は印象を散漫なものにする。短い表現で一撃のもとに仕とめる必要がある。この目的のために、中国の故事は有効だ。とくに、『三国志』は宝庫である(ただし、誰もが知っているわけではないから、簡単な説明が必要かもしれない)。
◆韓信の股くぐり、泣いて馬謖(ばしょく)を斬る、孔明の嫁選び、三顧の礼、桃園の契り、死せる孔明生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす、等々。
 もちろん、『三国志』以外にも、便利なものが多い。
◆朝三暮四、木によりて魚を求む、九牛の一毛、滄桑の変、等々。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.126~128)

 このなかでもとくに使いやすいのは、【1】【2】【3】【6】あたりだろうか。
 人体を使った類喩や【1】【2】の例を見ればわかるように、機能や特徴を〈誰でも知っている〉のがポイントになる。〈機能分化〉がハッキリしているほど用途が広いが、別に分化していなくてもいい。例としてあげるものがよく知られているほど、わかりやすい類喩になる。細かいものなら、ほかにもいろいろ考えられるはずだ。料理、食べ物、学校、教科、国、都道府県、動物……どれもあんまりいい例じゃねえな。動物の場合は紋切り型になるものも多いので、使い方に注意が必要になってくるし。
【3】【6】に関しては、「第1章2」で名文の話をしたときに実例を紹介している。
 井上読本が使っているのは、【3】と【6】の複合技。具体的に選手名をあげることの功罪は、あそこで書いたとおりだ。
『読ませる技術』(山口文憲)が使っているのは【6】の好例で、文章道をモータースポーツにたとえている。尻馬に乗って(動物を使った慣用句)当方がズラズラと書き足したように、共通点が多い例なら、いろんなことが書ける。
【8】はよく目にする類喩だが、別の問題がからんでくるので、諸手をあげて(人体を使った慣用句)賛成することはできない。どうしても使いたいなら、多用しないことと、辞書などで調べることぐらいは徹底したほうがいい。


■個人的な「意見」を少々──古臭い紋切り型は文章をジジムサくする
 比喩に関する記述の後半は、個人的な「意見」になってしまった。もうこれ以上書く必要はない気もするが、紋切り型とのからみで少し付記しておきたい。
 まず、紋切り型に関する個人的な経験。
 数年前に、慣用句だらけの文章を書いたことがある。最大の理由は、高齢の読者が多いPR誌の原稿だったこと。たくさんの材料を少ないスペースに詰めこむ必要があったせいもある。はじめは無意識だったが、途中からは意識的にやった。その結果、次のような表現が並んだ。

【慣用句の例】
破顔一笑/目配りも忘れない/矍鑠(かくしゃく)とした/得心した顔でうなずく/
お墨付き/驚嘆の声をあげる/心なしか悲しげ/険しい表情/
強烈なカウンターパンチを浴びる/壮大な歴史絵巻き/舌を巻くほど/
屈託のない笑顔/勢威を誇った/顔をくもらせた

 半分以上は自分の語彙にない言葉だ。「語彙にない言葉」なんてどこからもってきたんだ、ってツッコミはごもっともだか、考え方が間違っている。知識として知っていることと、ちゃんと使えることは別問題。目にしたことはあっても自分では1回も使ったことがない言葉なんて、「語彙にない」というべきだ。正直に書くと、このときまで「得心」は「えしん」と読むと思いこんでいた。
 ここに並べた慣用句のうち、どこまでが紋切り型なのかは専門家にきかないとわからない。こういう表現を嫌うセンセーは、〈紋切型の表現に充満している〉と小間物屋を開く(一種の比喩だが、ほとんど死語)かもしれない。
 書き上がった原稿をいま読み返すと、自分で書いたものとは思えない。ウマいとかクサいとかを通り越して、ひと言でいえば、ジジムサくてたまらない。そういう雰囲気の言葉を選んだつもりではあったが、ここまでジジムサくなるとは思わなかった。
 ここに並べた慣用句のうち、紋切り型になっていないものは、たぶん古臭い表現だ。こういう言葉をムヤミに使うと、ジジムサい文章になる。
 類喩の例としてあげたもののなかにも、「ジジムサさ」を基準に考えると、気をつけなければならないものがある。クサくなるよりはずーっとマシだが、注意するに越したことはない。
 まず〈【4】歴史的事実〉。これはかなり危険度が高いので、ジジムサくなるのがヤな人は避けたほうが無難だ。〈【3】誰もがよく知っている人名〉も、歴史上の人物を例に出すと危険度が高い。信長、秀吉、家康の比較なんてのは、とくに紋切り型になりやすい。逆手にとって(人体を使った慣用句)、ウマくまとめることができると効果はきわめて高いけど。ただ、新しい人名ならいいってわけでもなく、コテコテのアイドルなんかを出すと文章が軽くなる。そうなることを狙ってあえて例に出すのは、やや高等テクニックになる。
 微妙なのは〈【8】漢語を用いた表現〉で、たしかにウマく決まれば「サスガ博学」って印象になる。しかし、失敗すると単にジジムサい文章になってしまう。〈誰もが知っているわけではないから、簡単な説明が必要かもしれない〉が、どの程度説明するのかが難問だ。説明が簡単すぎるとわけがわからないし、説明がクドいとダサくなる。このあたりはケース・バイ・ケースとしかいえない。
 これとやや似ているのが、ことわざの使い方だ。

【引用部】
 以下は、文章の入口と出口の話。文章の書き出しをことわざで始めるのはもうよしませんか。「人間、なくて七癖というが」だとか「喉元すぎれば熱さを忘れるということわざもあるが」とか。古すぎます。(山口文憲『読ませる技術』p.151)

〈古すぎ〉るのでジジムサくなる。持ち出すことわざの難度が上がるほど、ジジムサ度も高くなる。かといって、ありふれたものを持ち出すとありがたみが薄れるし、紋切り型になる可能性が高い。
 悲惨なのは、意味を間違って使ってしまうケース(これがまた非常に多い)。間違ってはいなくても、使い方のピントがズレているのもよくある。間違っていても、ピントがズレていても、オバカに見えてしまう。
 成功してもジジムサく、失敗するとオバカ。それでも使いたい人はご自由に。

第2章 2 接続詞──実用文なら接続詞を減らさなくてもいい

 お品書きは下記参照。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-132.html
第2章

2 接続詞──実用文なら接続詞を減らさなくてもいい

■実用文は接続詞を多めに使うほうがいい
 何はさておき、接続詞の話から書く。理由は簡単。この問題に関してはずーっとダマされてきたため、恨みに近い感情を持っているから。とまで書くのは大げさだから、表現をかえよう。文章読本の記述が不十分なことに気づかず、長いあいだムダに悩んできたから……書き方をかえても、同じようなもんか。
 ほとんどの文章読本には、「接続詞を減らせ」と書いてある。この源流はハッキリしている(違うかな)。

【引用部】
彼等は文法的の(ママ)構造や論理の整頓と云うことに囚われ、叙述を理詰めに運ぼうとする結果、句と句との間、センテンスとセンテンスとの間が意味の上で繋がっていないと承知が出来ない。即ち私が今括弧に入れて補ったように、あゝ云う穴を全部填(うず)めてしまわないと不安を覚える。ですから、「しかし」とか、「けれども」とか、「だが」とか、「そうして」とか、「にも拘わらず」とか、「そのために」とか、「そう云うわけで」とか云うような無駄な穴填めの言葉が多くなり、それだけ重厚味が減殺されるのであります。(谷崎読本p.168~169。傍線は引用者による)

 この文章のインパクトがメチャクチャ大きかったため、多くのセンセーが「接続詞を減らせ」と書くようになった。
 それほど有名な一節だが、どうにも納得できずにモンモンとしていた。頭では理解しているつもりでも、実際に文章を書こうとするとつい接続詞を使いそうになる。そのたびに「まだまだ修業が足りん」と自分を戒めた。いまにして思えば、足りないのは修業ではなく知恵のほうだった。どんな文章でも接続詞を減らさなければならないわけではないのだ。「結論先行」はあまり好きではないが、あえて結論を先に書いてしまう。
 接続詞を減らすか増やすかは文章の種類によって決まる。芸術文なら少なめに、実用文なら多めにすることを心がければいい。
 たったこれだけのことだった。「多め」が極端なら、「ちょい多め」でもいい。例によって、さまざまな種類の文章を全部同列に扱って説明しようとするから、ヘンなことになってしまう。厳密にいうと、実用文のなかにもいろんな種類があるんだが、ここではそのことにはふれない。
 谷崎読本が対象にしているのは芸術文だから、接続詞を多用すると〈重厚味が減殺される〉と考えるのは当然といえば当然。実用文の場合は話が別になり、論理性を重視すればするほど、接続詞が多くなる傾向がある。
 論より証拠。いま引用した谷崎読本でも、「即ち」「ですから」と接続詞を使う文が続いている。どんなに嫌っていても、論理的に書こうとすると接続詞を使わざるをえないってこと。こういう揚げ足をとるようなヤリ口がヒキョーなことはわかっています。大目に見てよ。こんな方法でも使わなきゃ、大文豪に刃向かえるわけがない。
 大文豪でさえこれなんだから、フツーの文章読本だって接続詞から逃れられるわけがない。「接続詞を減らせ」と書いてある文章読本を、意地悪な目で見るとすぐにわかる。けっこう接続詞を使っている。
「即ち」とか「ですから」って接続詞だろうか? そういう疑問はごもっとも。実は接続詞の定義はむずかしい。参考までに、一般的な接続詞の分類を見てみよう。『仕事文の書き方』(高橋昭男)のp.123~124の記述から抜粋する。

【抜粋部】
1)順接(具体例の提示、換言、結果の提示)
 したがって/そこで/だから/ゆえに/すると
2)逆接(逆の意見の提示、限定など)
 しかし/だが/ところが/でも/が/けれども
3)並列・追加
 および/そして/また/加えて/ならびに/その上/なお/しかも/それから/
 それに/さらに
4)選択
 または/あるいは/それとも/もしくは
5)説明・補足
 つまり/なぜなら/ただし/すなわち
6)話題の転換
 さて/では

 このあとに、接続詞と同じような働きをすることがある言葉として、次のものがあげられる。

【引用部】
順接 このため/そうだとすれば/このようなわけで
逆接 その反面/そうはいっても
並列 それと同時に/これとともに
説明・補足 要約すると/言い換えれば/その理由については/なぜかというと(p.124)

 まあこんなとこだ。この記述に従うなら、「すなわち」は「説明・補足の接続詞」だし、「ですから」は「順接の接続詞」の「だから」の仲間みたいなもの。どうだ、大文豪。悔しかったら何かいってみろ……別に悔しくもないか。
 接続詞は、ここにあげたものがすべてではない。具体例をあげると、次の接続詞が抜けている。

  たとえば(「説明・補足」になるのだろうか)/ところで(「話題の転換」)

 そのほかにも接続助詞に分類されそうなものもあるし、役割が微妙な接続詞もある気がする。「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」は無限(ってほどじゃない)にあってキリがない。同様の分類をしている文章読本は多いが、たいていはも~っと不完全。いろいろと見比べると、役割なんかが微妙に違っていることもわかる。誰か完全な分類一覧を作ってくれると助かるんだけど。そういった大変な仕事は専門家にまかせることにして、とりあえず次のことを頭の片隅に置いといてほしい。

・接続詞の定義はむずかしい
・接続詞の役割を分類するのはむずかしい
・「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」をウマく使えば、接続詞は使わなくても済む

■接続詞否定派の主張──とにかく減らせ、できるだけ使うな
 本来は芸術文に関する心得だったはずの「接続詞を減らせ」が、いつの間にかすべての種類の文章に共通する心得になってしまった。実用文を対象にしている文章読本も、ほとんどが「接続詞を減らせ」と書く。
『成川式 文章の書き方』(成川豊彦)のp.68には、〈接続詞は、できるだけ省く〉ってテーマで、次の〈悪い例〉と〈よい例〉が紹介されている。例文中の「これにより」は接続詞ではなさそうだが、厳密なことを書きはじめると泥沼にはまるので無視する。

【引用部】〈悪い例〉
 最近では、「定年までこの会社で働きたい」と思っている新入社員は、2割にも満たない。そして、「機会があれば転職したい」と考えている人が、5割を超えているという。だから、人事としても、これまでのような終身雇用・年功序列を前提にできなくなっている。これにより、年俸制を採用する大企業も増えてきている。とはいえ、日本の企業では、完全な能力主義が定着するのはまだまだ先ではなかろうか。

【引用部】〈よい例〉
 最近では、「定年までこの会社で働きたい」と思っている新入社員は、2割にも満たない。一方で、「機会があれば転職したい」と考えている人が、5割を超えているという。
 人事としても、これまでのような終身雇用・年功序列を前提にできなくなっており、年俸制を採用する大企業も増えてきている。とはいえ、日本の企業では、完全な能力主義が定着するのはまだまだ先ではなかろうか。

 このように接続詞を減らすと、〈スッキリした文章になる〉らしい。それはそのとおりだ。〈悪い例〉はあまりにも接続詞が目立ち、相当ヘンな文章になっている。こういう例を見ると、たしかに接続詞が少ないほうがいいような気になる。お断わりしておくが、この〈悪い例〉はまだ自然なほう。大半の文章読本は、接続詞をおとしめるためにもっと極端な例をあげている。「そして、〇〇が××になった。そして、△△が□□した。そして、……」のように接続詞が連続する文章を例にあげ、「接続詞を減らせ」と力説する。
 これが文章読本の常套手段で、詭弁でしかない。自説を正当化するためにとんでもない例をあげ、高飛車に決めつける。あげくの果てに、いい文章には接続詞が少ないと名文まで持ち出す。こんな強引な論法が許されるなら、どんな珍説にもそれなりの説得力をもたせられるって。
 いま例にあげた〈悪い例〉と〈よい例〉をもう一度見てほしい。〈悪い例〉に出てくる4つの接続詞を、どう書きかえているか。

1)そして、  →一方で、
2)だから、  →削除して改行
3)これにより、→削除して前後の文を結合
4)とはいえ、 →不変

 いろいろとインネンをつけたいとこはあるけど、細かいことを書きはじめるとキリがない。とりあえず次の点を確認しておく。

1)順接の接続詞(そして)を逆接の接続詞(一方で)にかえると、文脈がかわる(そりゃ当然だよな)
2)改行すれば接続詞を削除できることがある(この場合は改行しなくてもいいかも)
3)接続詞を減らすと一文が長くなる(これは非常に大事。覚えておいてください)
4)逆接の接続詞は削除しにくい

 接続詞をおとしめるための極端な例をひとつだけ見ておく。ある文章読本は、接続詞を悪者にするために次の【原文】と【修正案】をあげている。

【原文】
 彼は、頭もよく、そしてまた努力もした。したがって成績もよかったのである。

【修正案】
 彼は、頭がよかった。努力もした。成績もよかった。

【修正案】のようにすると、〈力とリズム感のある文章〉になるとのこと。ここまで極端だとギャグになっているから、誰が見てもヘンだとわかるはずだ。たしかに【原文】はよくないが、【修正案】も相当ヒドい。こんな無理なことはしないで、「彼は頭がよいうえに努力もしたので、成績がよかった」ぐらいにしておくほうがよほど自然だ。個人的な趣味では「頭がよい」の前に「もともと」を入れたい。それでもまだヘンな感じが残る? それは【原文】の責任です。

■接続詞肯定派の主張──論理的に書くには接続詞は欠かせない
 少数派ではあるが、実用文に限って接続詞を肯定している文章読本もある。

【引用部】
 谷崎潤一郎は、『文章読本』の中で、こうした接続詞の使用は控えるべきだとしている。同様の主張をする人は、他にも多い。文学では、たしかにそうだろう。しかし、論述文ではむしろ多用するほうがよいというのが、私の考えだ。
 書き手自身が文と文との論理関係を明確に意識していない場合には、右に述べた接続詞で文をつなごうとすることによって、初めて論理関係を意識することもあるだろう。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.171)

【引用部】
 接続詞はこのように、短いが、味のある言葉である。接続詞を巧みにいかすことによって、書き手の思いを事前に伝えることができる。このような場面で効果を発揮するのが、接続詞などの「つなぎ語」である。
 つなぎ語には、接続詞の他、副詞、副詞句などもある。つなぎ語は、以上の効果に加えて、文章にリズム感をつける役割もあわせもっている。
 本書冒頭で、「文は短く書け」と主張しているが、文を短くすると、文間のリズムが切れてしまう。それをつなぎあわせるのも、つなぎ語の役目である。いい文章を読んでいて気づくことに、接続詞の巧みな用法がある。(高橋昭男『仕事文の書き方』p.122~123)

 ネックになるのは、いい文章で〈接続詞の巧みな用法〉を探すのがむずかしいこと。井上読本が『坊つちやん』の掉尾を飾る「だから」の例をあげ、〈日本文学史を通して、もっとも美しくもっとも効果的な接続言〉(p.100)としているのは例外だ。接続詞の使い方の参考にできなくはないが、この着眼点は凡人にマネのできるものではない。
 対象を実用文にハッキリ限らない文章読本だと、肯定派でも論調はどうしても弱くなる。

【引用部】
 文豪として名高い谷崎潤一郎は、文章の中に接続詞を入れるのを嫌った。「しかし」「けれども」といった接続詞が入ってくると、文章に重みがなくなるというのである。だからだろうか、たいていの“文章読本”には、接続詞を多用しないと書かれているが、接続詞がまったくない文章は読みづらいのも事実だ。接続詞はその文脈を見きわめて、使うか、使わないかを判断したい。(日本語倶楽部編『うまい文章の裏ワザ・隠しワザ』p.115)

 またしても谷崎読本である。あの一冊が後世に残した影響の大きさがうかがえる。名著に対抗するために、名著にご登場いただく。

【引用部】
私が一生懸命に説いているのは、「無駄な穴填めの言葉」を大いに使おうという話なのである。実際、谷崎潤一郎氏の言う通り、こういう接続詞や接続助詞をやたらに使うと、文章は次第に読みにくくなる。もちろん、読みにくくしようというのが私の本旨ではない。自分の安定したスタイルが出来れば、「無駄な穴填めの言葉」をあまり使わないでシッカリした構造の文章が書けるようになることも事実である。しかし、それは入門の段階の問題ではない。それに、接続のための言葉が必要か否かも一概に決めるわけには行かないのである。(清水読本p.111)

 このあとの例示がみごとなんだけど、長いので要約する。清水読本の〈論文〉は、先に見たように「実用文」とほぼ同じものなので、そう置きかえて読んでもらいたい。

【要約部】
1)ひとつの句が多くの言葉を含み、ひとつの文が多くの句を含む文体(谷崎潤一郎の文体はある種の典型)なら、「無駄な穴填めの言葉」は減る。接続詞・接続助詞が句や文に内蔵されるから。この文体は、論文には向かない。
2)第1文と第2文が相当の範囲で重なり、さらに第3文も第2文と重なる部分があり……という文体なら「無駄な穴填めの言葉」は減る。ただし、テンポが落ちてクドくなる。
3)読み手の経験が叙述を補うことができる場合は「無駄な穴填めの言葉」は少なくてすむ。論文の場合、そういうケースはほとんどない。

 少しだけ補足させてもらう。
 1)は、勝手に書きかえると、一文を長くすれば接続詞を減らせるってこと。
 2)は、1)に近いニュアンスがある。違いをハッキリさせるために具体例を示しておく。

【原文】
……という文体なら「無駄な穴填めの言葉」は減る。ただし、テンポが落ちてクドくなる。

【1)の文体の例】
……という文体なら「無駄な穴填めの言葉」は減るが、テンポが落ちてクドくなる。

【2)の文体の例】
……という文体なら「無駄な穴填めの言葉」は減る。減ることは減るが、テンポが落ちてクドくなる。

 小説やエッセイなどの芸術文は3)の典型になる。そういう芸術文を持ち出してきて「名文家の文章には接続詞が少ない」と主張し、実用文でも「接続詞を減らせ」とするのは的外れ。「それはそういうことが可能な内容だから」としか書きようがない。
 なんのことはない。こんな昔に結論は出ていたのだ。文章読本を書くセンセーはみんなこの本を読んでるはずなのに、なんでトンチンカンなことを書くんだろうね。

■個人的な「意見」を少々──目立つようなら減らせばいい
 芸術文なら接続詞は少なめに、実用文なら接続詞は多めにすることを心がける。
 こう断言して終わらせていいなら、話は簡単。ほとんどの文章読本はそういう論法を使っているが、あまり有効なアドバイスではない。いくら「多めにすることを心がける」といっても、多すぎるとウットーしい。「接続詞は100字に1つ使う」のように具体的な基準はないのだろうか。もっともな疑問だが、そんなものはありません。「少なめ」「多め」以上の書き方があるなら教えてほしい。などと書いていても始まらないので、いくつかのヒントをあげておく。

1)接続詞が目立つ場合は、削除することを考える
 何も考えずに片っ端から削除すると収拾がつかなくなるから、接続詞を次の3つに分けて判断する。3つに分類するのがメンドーなら、AとBは無理に区別しなくてもいい。

 Aたいてい削除できる接続詞(順接の接続詞)
 順接の接続詞(したがって/そこで/だから/ゆえに/すると)は、たいてい削除できる。38ページの谷崎読本からの引用の例なら「ですから」はなくてもいい(「あってはいけない」って意味ではない。要は趣味の問題。あの文の場合は、「ですから」を削除するなら少しかえるべき)。書き終わった文章を読み直す段階でチェックすることをおすすめする。書いているときに神経質になると、書きにくくてしょうがない。

 B削除しても大きな問題がない接続詞
 順接の接続詞以外の接続詞も、削除したって意味が通じることが多い。38ページの谷崎読本からの引用の例なら「即ち」はなくてもいい(これも趣味の問題)。うんと乱暴なことを書くと、逆接の接続詞(しかし/だが/ところが/でも/が/けれども)以外の接続詞は、すべて削除しても大きな問題はない。これも読み直しの段階でチェックしてみる。

 C原則として削除できない接続詞(逆接の接続詞)
 逆接の接続詞は削除するのがむずかしい。削除はできないが、使わずに書くこともできなくはない(そんなことに意味があるとは思えないけどね)。この接続詞をテーマにした「第2章2」は、ここまで接続詞を使わないで書いてみた(引用・要約などを除く)。ものすごく書きにくかったし、ずいぶん不自然なとこがある。興味のあるかたはご確認ください。

2)とくに目立つのは「そして」「しかし」の乱発
 多くの文章読本でヤリ玉にあげられているのが「そして」と「しかし」。たしかにこの2つが目立つ文章は多く、「減らしなよ」といいたくなる。しかし、乱発すると見苦しいのはほかの接続詞だって同様。先の『坊つちやん』の例でも、最後の最後に「だから」と来るから効果的なので、乱発していたら台なしになる。「そして」にしても、使い方しだいだ。いろんなことがあって、さらにいろんなことがあった末に「そして誰もいなくなった」みたいな使い方なら怒られないで済む。
「並列・追加」などの役割がある「そして」は、削除しても大きな問題がないことが多い。目立つようなら、遠慮なく削ってしまう。
「しかし」は逆接の接続詞なので、原則的には削除できない。目立つようなら、話の進め方を検討したほうがいい。

3)一文が短い場合には、接続詞を削除して文をつなぐことも考える

【引用部】
 こうした長い文にならない場合でも、「A……が、B……」というセンテンスは意見文・論文ではやめる方がいい。話がゆるくなり、曖昧になる。だから「が、」を消して切ってしまう。そして「しかし」を加えて「A……。しかしB……」とする。例えば、

 日本語で育った人ならば、ハとガとを間違えて使う人はまずありませんが、複雑な表現の文章を読みこなすためには、ハとガの違いをはっきり認識していることが必要です。

 という文章を次のようにします。

 日本語で育った人ならば、ハとガとを間違えて使う人はまずありません。しかし複雑な表現の文章を読みこなすためには、ハとガの違いをはっきり認識していることが必要です。(大野晋『日本語練習帳』p.102~103)

 部分的な「接続詞肯定派」の説に見えなくはないが、いくらなんでもこれはムチャ。たしかに一文が長い場合は接続詞を使って分けたほうがいいが、短い文なら「が、」を使ってもいい(いま書いた2つの文ぐらいの長さなら、「が、」でも「。しかし」でも構わない。「。しかし」のかわりに「。だが」や「。けれども」などの逆接の接続詞を使っても同じこと)。一文が短い場合には、趣味の問題でしかない。大家のありがたいご高説だが、同意できない(このぐらいの長さなら「が、」を使うほうが自然)。
 逆接以外の接続詞も、たいてい削除して前後の文をつなぐことができる。ただし、ムヤミにつなぐと一文が長くなってしまうので、「一文が短い場合に限って」って条件がつく。
 こうして見ていくと、接続詞の使い方は一文の長さと関係がありそうだ。ということで、次は一文の長さの話になる(ちょっと強引かな)。

 接続詞に関しては、下記もご参照ください。
【板外編13】接続詞の使い方
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1442.html

【20160703追記】
 接続詞の一覧は下記参照。
【接続詞(っぽい言葉)の役割──順接/逆接/並列・追加/対比・選択/説明・補足/転換】 【20130314改定版】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2727.html


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