お品書き(総索引)

第1章 「信じてはいけないタワゴト」集
    ――文章読本のこういうバカな心得をウノミにしてはいけない

1 文章の種類――実用文と芸術文を区別しないのが間違いのもと
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-136.html
『文章読本さん江』が選定した文章読本界の御三家・新御三家/「伝達の文章」派の定義――文章はとりあえず実用文と芸術文に分かれる/井上読本の爆弾――どっちにしても文章読本はやっぱりいらない
個人的な「意見」を少々――大半の文章読本は〈自分用の文章読本〉

2 「名文を読め」――それは芸術文を志す人の話
「名文を読め」って、いったい何を目指してるんだか/文章読本のありがたい教えの内容/本書の傾向と対策――索引みたいなもんです
個人的な「意見」を少々――イイ大人が名文を読んでもムダ

3 「文は人なり」「書き出しに気を配れ」――精神論は相手にするな
「話すように書け」「あるがままに書け」なんて誰がいった/「書き出しに気を配れ」――そりゃ配らないよりは配ったほうがいいけど
個人的な「意見」を少々――「好み」で引用させてもらう

4 「ウマい文章を書くノウハウ」――そんな高望みをしてはいけない
ウマい文章を書くコツなんてない/ウマい文章は書こうと意識しても書けない/文章読本が教えてくれるのは「技術」のレベルだけ
個人的な「意見」を少々――ウマい文章とクサい文章は紙一重

5 「ウマい文章」の正体――「主題」「構成」「表現」の3つに分けて考えてみる
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1328.html
主題――そんな大事なことを教えてもらおうって根性が気に入らない/構成1――起承転結は論文には向かない/構成2――起承転結はエッセイなんかにも向かない/表現――文章道のなかでは、きわめて瑣末なこと
個人的な「意見」を少々1――「起承転結にのっとって書け」も妄言では
個人的な「意見」を少々2――瑣末な問題ではあるけれど

第2章 「信じてもいい教え」集
    ――ここに注意するだけでソコソコの文章が書ける

1 文章読本の定番「べからず集」――すべてを守ろうとすると文章が書けなくなる
そんなに細かいとこまで注文つけられてもなぁ/文章読本が説く心得の3つの大きな問題点
個人的な「意見」を少々――論理で説くか具体例で説くか

2 接続詞――実用文なら接続詞を減らさなくてもいい
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-76.html
実用文は接続詞を多めに使うほうがいい/接続詞否定派の主張――とにかく減らせ、できるだけ使うな/接続詞肯定派の主張――論理的に書くには接続詞は欠かせない
個人的な「意見」を少々――目立つようなら減らせばいい

3 一文の長さ――「短く書け」を徹底すると稚拙な文章になる
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-80.html
長い一文はなぜダメか/長くない一文の基準/長くてもわかりにくくない文の構造
個人的な「意見」を少々――たしかに一文は短いほうがいいみたいだが

4 句読点――「2つの原則」プラスαを考えればいい
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-45.html
本多読本の力業――読点の打ち方には2つの原則しかない/一般的な読点のルール――書き手の趣味ってことかね/本多読本のさらなる力業――やっぱり2つの原則しかない
個人的な「意見」を少々1――2つの原則だけじゃ読みにくい文になる
個人的な「意見」を少々2――一文の長さを無視してテンの話はできない
個人的な「意見」を少々3――テンの数で一文の長さを判断する

5 比喩の使い方――クサくならない比喩に限るほうが無難
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-133.html
紋切り型を作ったのは新聞記者?/安易な比喩は〈アホらしい紋切り型〉になりやすい/直喩と隠喩の違いぐらいは知っといて損はない/比喩はどちらかというと芸術文の領域/アホらしい、クサい、ヘタ……それでも比喩を使いたいですか/クサくならない「類喩」なら比較的無難
個人的な「意見」を少々――古臭い紋切り型は文章をジジムサくする



第3章 オススメ「文章読本」の取り扱い注意書
    ――名著・良書のイイトコ(?)どり

別格
斎藤美奈子『文章読本さん江』筑摩書房・2002年

☆☆☆=かなりオススメ
清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書・1959年
■本書が教えてくれること
 実用文は接続詞を減らさなくてもいい(第2章2参照)
 「ガ、」の多用は避ける
 改行が少ない文章は読みにくい
 新聞の文章をマネてはいけない
 文章は「つくりもの」でいい

本多勝一『日本語の作文技術』朝日文庫・1982年
■本書が教えてくれること
 句読点の使い方(第2章4参照)
 修飾の順序(第2章4参照)
 テン(読点)と改行が少ない文章は読みにくい
 改行のルールはそんなに厳密なものではない
 偉そうな書き方はムカツく

井上ひさし『自家製 文章読本』新潮文庫・1987年
■本書が教えてくれること
 ほとんどの文章読本は書き手の「自分用の文章読本」(第1章1参照)
 文章の種類がかわれば接続詞の量もかわる(第2章2参照)
 文章の種類がかわれば比喩の量もかわる(第2章5参照)
 まともな文章読本はムヤミに決めつけない

山口文憲『読ませる技術』ちくま文庫・2004年
■本書が教えてくれること
 ウマい文章を書くためのコツなんてない(第1章4参照)
 起承転結はコラム・エッセイには向かない(第1章5参照)
 比喩はアホらしい紋切り型になりやすい(第2章5参照)
 これだけは知っておきたい言葉のミニ知識

☆☆ =まあオススメ
宮部修『文章をダメにする三つの条件』PHP文庫・2004年
■本書が教えてくれること
 起承転結は作文には向かない(第1章5参照)
 初心者がやりがちな3つの失敗パターン

日本語倶楽部編『うまい文章の裏ワザ・隠しワザ』KAWADE夢文庫・2001年
■本書が教えてくれること
 実用書タイプの文章読本に共通する欠点

野口悠紀雄『「超」文章法』中公新書・2002年
■本書が教えてくれること
 「主題」が文章の善し悪しを決める(第1章5参照)
 起承転結は論文には向かない(第1章5参照)
 実用文は接続詞を減らさなくてもいい(第2章2参照)
 クサくならない比喩の使い方(第2章5参照)
 「曖昧のガ、」の多用は避ける
 自叙伝の書き出しのポイント


☆  =「読んどいて損はない」または「読む価値なし」
木下是雄『理科系の作文技術』中公新書・1981年
高橋昭男『仕事文の書き方』岩波新書・1997年
大野晋『日本語練習帳』岩波新書・1999年
日経BP社出版局監修『説得できる文章・表現200の鉄則』日経BP社・2000年
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テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

7)句読点の打ち方/句読点の付け方──「、と」と「と、」の使い分け

 句読点の打ち方に関してはいろいろ書いてきた。
 下記の質問を読んで、けっこう重要なことにふれていなかった気がするので、改めて書いてみる。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10119577105
【質問文】===========引用開始
「、」(読点)の使い方。
彼が話したかったことは結局なにだったのか、と悩んでしまった。
彼が話したかったことは結局なにだったのかと、悩んでしまった。
どっちがよいですか
一かたまりの話があって
「~と考えた」「~という意味のようだ」「~とのこと」といった文章が続くとき
読点の場所が「と」の前か後ろかでいつも悩みます。
どなたか教えてください。
================引用終了

 積年の課題が解決した気がして、ちょっとうれしかった。
 うれしかったけど、質問板の結果は何?
 フーン。〈読点は「と」の後に〉打つんだ。そんなことはないと思うよ。

 質問の例文を少し書きかえる。下記のうちどれが一番自然か。
1)彼が話したかったことは結局なんだったのか、と悩んでしまった。
2)彼が話したかったことは結局なんだったのかと、悩んでしまった。
3)彼が話したかったことは結局なんだったのかと悩んでしまった。

 句読点に関する文献はいろいろ読んだが、この質問の件に関して論理的に説明しているもの見たことがない。案外盲点になっているのかも。
 下記【句読点の打ち方──簡略版】の「初級者向けのアドバイス」のようなものならアチコチに転がっている。
・話の切れ目に打つ(声に出して読んでみて、「ね」を入れられる場所に打つ、という人もいます)
・読むときに息継ぎをするところに打つ

 繰り返すが、これは小学校低学年レベルの説明。具体的な説明が何もないから、なんの論理性もない。
 ↑の1)〜3)のどこが「話の切れ目」で、どこが「息継ぎをするところ」なのか論理的に説明できる人がいるのだろうか。
 
 悪名高い【くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)】http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kijun/sanko/pdf/kugiri.pdfを見ても、この問題に関しては論理的な説明は何もない。
 そもそもこの(案)は、かの有名な『日本語の作文技術』(本多勝一。以下、前例に合わせて本多読本と呼ぶ)によって木っ端微塵にされ、最初から最後まで論理性などないことが明らかにされている。これは文章読本の世界のほぼ常識なんだから、いまさらこういうものを持ち出すのはやめてほしい。本多読本を無視して句読点について語るのは無謀すぎる。

 本題に戻る。
 1)でも2)でも構わない。本多読本に従えば、3)でも構わない。これもすでに書いたように、本多読本に従うと読点(本多読本では「テン」と読んでいる)の数が減る。個人的には、3)ではちょっと読みにくいと思う。
 1)と2)のどちらが望ましいかと言うと、個人的には1)に打つ。読点を打つかわりに下記のように書きかえれば、理由はハッキリする。

3)’「彼が話したかったことは結局なんだったのか」と悩んでしまった。

「 」中は引用句と考えることができる。この場合、「と」を「 」の中に入れる人はいないでだろう。
「~と考えた」「~という意味のようだ」「~とのこと」などの場合も、たいてい1)と同様で「、と」のほうが自然。文脈にもよるかもしれないが、「と、」だと不自然なことが多いはず。

 ところが、世間には2)の打ち方をする人もいる。この理由の説明は少々厄介な話になる。
「と」のような基本的な助詞には多くの意味がある。辞書の全文は末尾に。
http://kotobank.jp/word/%E3%81%A8?dic=daijisen&oid=12961900
 ここでは、簡略化して「引用のト」(↓の辞書の【1】格助詞の「2」)と「仮定のト」(仮定条件などを表わす。↓の辞書の【2】接続助詞の「1」〜「3」)に分けて考える。
「引用のト」に読点を打つなら、「、と」のほうが自然。しかし、「仮定のト」の場合は「と、」のほうが自然。
 このへんが混同されているような気がする。辞書の例文を見る。

〈「引用のト」の例文〉(古文の例を除く)
「正しい(、)という結論に達する」

〈「仮定のト」の例文〉
「玄関を開けると、子供が迎えに出てきた」
「汗をかくと(、)風邪をひく」
「見つかると(、)うるさい」

 読点が不要な場合もあるが、もし打つなら「引用のト」は「、と」で、「仮定のト」は「と、」の形だろう。
 見分け方はむずかしくない。

  1)のように「と」の前を「 」の中に入れられるなら「引用のト」(「、と」が自然)。
  「と」を「〜たら」(もしくは「〜なら」)にかえられるなら「仮定のト」(「と、」が自然)。
「玄関を開けたら、子供が迎えに出てきた」
「汗をかいたら(、)風邪をひく」
「見つかったら(、)うるさい」

 ただし、どちらも読点を打たなくてもよいことが多いのは、すでに見たとおり。
「仮定のト」に関して詳しくは下記をご参照ください。非常にめんどうな話だが、表だけ見れば、だいたいのことがわかるはず。
【「~たら」と「~れば」をめぐって〈2〉&〈3〉 「ば」「と」「たら」「なら」】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1624.html

「引用のト」か「仮定のト」かまぎらわしい場合もある。はっきりしなくても悩む必要はない。「、と」と「と、」でも構わないことが多いのだから。いざとなったら、読点を打たなければいい。


「引用のト」で2)のように打つ理由を論理的に説明するのはむずかしい気がするが、下記のように考えることができるかも。
 原文の読点を削除し、「私は、」を加える。
4)私は、彼が話したかったことは結局なんだったのかと悩んでしまった。

「私は、」の読点は『日本語の作文技術』流にいえば「逆順の読点」。言葉の並べ方がヘンなので読点が必要になる。下記のように逆順を解消してやると、読点は不要になる。
5)彼が話したかったことは結局なんだったのかと私は悩んでしまった。

 ここでこの文の構造を考える。これも『日本語の作文技術』の考え方を参考にしている。

  彼が話したかったことは結局なにだったのかと→悩んでしまった。
  私は→悩んでしまった。

「悩んでしまった」にかかるフレーズが2つある。このうち「私は」を省略したのが元の文と考えることができる。そうなると、省略していない〈「悩んでしまった」にかかるフレーズ〉を明確にするためには2)のように読点を打つべきでは……。
 さらに下記のようにしてみる。

  6)彼が話したかったことは結局なんだったのかとしょせんは他人事とは思いながら悩んでしまった。
  6)’彼が話したかったことは結局なんだったのかと、しょせんは他人事とは思いながら(、)悩んでしまった。
  6)’’「彼が話したかったことは結局なんだったのか」と(、)しょせんは他人事とは思いながら(、)悩んでしまった。

「引用のト」ではあっても、「悩んでしまった」にかかる2つのフレーズをはっきりさせるためには、「と、」にするほうが自然だろう。6)’’のようにカギカッコをつけても、やはり「と、」の形にしたくなる。

 もしかすると慣例の影響も関係あるかもしれない。
 小説などで下記のような形をよく目にする。

「彼が話したかったことは結局なんだったのか」
 と、彼女は言った。

 この形は明らかに「引用」だが、カギカッコがあるので「と、」になっている。この影響から、「と、」の形を見慣れているような気がする。この場合の読点も、論理的には打たなくても構わない。しかし、下記だと事情がかわり、是非とも読点を打ちたくなる。

「彼が話したかったことは結局なんだったのか」
 と、ため息をつきながら彼女は言った。

 Web辞書『大辞林』の「引用のト」の例文にある下記も同様(少し記号の使い方をかえている)。
  「性は善なり」と孟子にもあるよ。
 この場合、カギカッコを使わないなら
  性は善なり、と孟子にもあるよ。
 が自然。この読点は削除しにくい。カギカッコがあるから、
  「性は善なり」と孟子にもあるよ。
 になる。「と」の直後の読点はあってもなくてもいい。

 お品書きは下記参照。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-132.html

 句読点に関する基本的な話は、下記をご参照ください。
【句読点に関する記述】
■Yahoo!知恵袋 知恵ノート
【句読点の打ち方──簡略版】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n140029

 さらに詳しくは、下記の1)と3)~6)あたりをご参照ください。
【句読点の打ち方/句読点の付け方】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-3138.html

■Web辞書『大辞泉』から
http://kotobank.jp/word/%E3%81%A8?dic=daijisen&oid=12961900
================引用開始
と【と】

【1】[格助]名詞、名詞的な語、副詞などに付く。
1 動作をともにする相手、または動作・関係の対象を表す。「子供―野球を見に行く」「友達―けんかをした」「苦痛―闘う」「しぐれ降る暁月夜紐解かず恋ふらむ君―居(を)らましものを」〈万・二三〇六〉
2 (文や句をそのまま受けて)動作・作用・状態の内容を表す。引用の「と」。「正しい―いう結論に達する」「名をばさかきの造(みやつこ)―なむいひける」〈竹取〉
3 比較の基準を表す。「君の―は比べものにならない」「昔―違う」「思ふこといはでぞただにやみぬべき我―ひとしき人しなければ」〈伊勢・一二四〉
4 動作・状態などの結果を表す。「有罪―決定した」「復讐(ふくしゅう)の鬼―化した」「年をへて花の鏡―なる水は散りかかるをやくもるといふらむ」〈古今・春上〉
5 (副詞に付いて新たな副詞をつくり)ある状態を説明する意を表す。「そろそろ―歩く」「そよそよ―風が吹く」「ほのぼの―春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく」〈新古今・春上〉
6 (数量を表す語に付き、打消しの表現を伴って)その範囲以上には出ない意を表す。…までも。「全部で一〇〇円―かからない」「一〇〇キロ―走らなかった」
7 (同一の動詞・形容詞を重ねた間に用いて)強調を表す。「世にあり―あり、ここに伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見合はせて」〈源・若菜下〉
◆4は「に」と共通する点があるが、「と」はその結果を表すのに重点がある。7は、現在も「ありとあらゆる」などの慣用句的表現の中にわずかに残っている。

【2】[接助]活用語の終止形に付く。
1 二つの動作・作用がほとんど同時に、または継起的に起こる意を表す。…と同時。…とすぐ。「あいさつを終える―いすに腰を下ろした」「玄関を開ける―、子供が迎えに出てきた」「銀(かね)請け取る―そのまま駆け出して」〈浄・大経師〉
2 ある動作・作用がきっかけとなって、次の動作・作用が行われることを表す。「汗をかく―風邪をひく」「写真を見る―昔の記憶がよみがえる」「年がよる―物事が苦労になるは」〈滑・浮世床・初〉
3 順接の仮定条件を表す。もし…すると。「見つかる―うるさい」「ドルに直す―三〇〇〇ドルほどになる」「今言ふ―悪い」〈伎・幼稚子敵討〉
4 逆接の仮定条件を表す。たとえ…であっても。…ても。
意志・推量の助動詞「う」「よう」「まい」などに付く。「何を言われよう―気にしない」「雨が降ろう―風が吹こう―、毎日見回りに出る」
動詞・形容動詞型活用語の終止形、および形容詞型活用語の連用形に付く。「たのめずば人をまつちの山なり―寝なましものをいさよひの月」〈新古今・恋三〉「ちと耳いたく―聞いて下され」〈浮・曲三味線・一〉
5 次の話題の前提となる意を表す。「気象庁の発表による―、この夏は雨が少ないとのことだ」
◆3は中世以降用いられた。また、中古から使われていた4は、現代語では4のように特殊な慣用的用法として残っているだけである。

【3】[並助]いくつかの事柄を列挙する意を表す。「君―ぼく―の仲」「幸ひの、なき―ある―は」〈源・玉鬘〉
◆並立する語ごとに「と」を用いるのが本来の用法であるが、現代語ではいちばんあとにくる「と」を省略するのが普通となっている。
================引用終了

第2章5比喩の使い方

第2章

5 比喩の使い方――クサくならない比喩に限るほうが無難


■紋切り型を作ったのは新聞記者?
 比喩について見ていくのだが、とりあえず紋切り型の話から始めたい。
 紋切り型って言葉の正確な定義は、例によって誰にもできない。まあ、「慣用句のなかでとくに使われることが多い表現」ぐらいに考えておけば間違いがない(「慣用句」を「常套句」や「決まり文句」と書きかえても大差はない)。一般にどういうものが紋切り型と呼ばれるのかを見てみよう。

【引用部】
「ぬけるように白い肌」「顔をそむけた」「嬉しい悲鳴」「大腸菌がウヨウヨ」「冬がかけ足でやってくる」「ポンと百万円」……
 雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。カッコいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。「穴のあくほど見つめる」という表現を一つのルポで何度もくりかえしているある本の例などもこの類であろう。
 こうしたヘドの出そうな言葉は、どうも新聞記者に多いようだ。文章にマヒした鈍感記者が安易に書きなぐるからであろう。一般の人の読むものといえば新聞が最も身近なので、一般の文章にもそれが影響してくる。(本多読本p.202~203)

 これは、「第1章4」で紹介した〈只野小葉さん〉で始まる文章を罵倒したあとに続く記述だ。近年は〈新聞が最も身近〉でもないだろう、ってのは個人的な感想なのでインネンにさえならない。美脚の形容に使われるのは「小鹿」じゃなくて「カモシカ」では、って疑問も無視する。当時はそういったのかもしれないし、どっちにしても紋切り型であることにかわりはない。このほかに紋切り型の例として、〈ぼやくことしきり〉〈……昨今である〉〈……今日このごろである〉などがあげられている。
 紋切り型について語るなら、忘れてはいけない文章読本がある。

【引用部】
 新聞にも紋切型の歴史があり、それはいまも続いています。
 昔は山の遭難があるとなぜか「尊い山の犠牲」という言葉が使われました。海水検査の結果を報じるときの「大腸菌うようよ」は、これを例示すること自体がもう手垢のついた発想になっています。
 捕まった容疑者はたいてい「不敵な面魂で」警察署の中に消え、取調室では「ふてぶてしさを装いながらも」「動揺を隠しきれない」が、なぜか差し入れのカツ丼は「ぺろりと平らげる」のです。
 新しい汚職事件が発生すると「衝撃が日本列島を走り抜け」、人びとはその「大胆な手口」に「怒りをあらわ」にし、「癒着の構造」に「捜査のメス」が入って「政界浄化」が実ることを期待します。政府与党の幹部は「複雑な表情を見せ」「対応に苦慮」、国会内は「一時は騒然となって」「真相の徹底究明」が叫ばれ、「成り行きが注目」されます。しかし「突っこんだ議論」はなく、「すったもんだの末」に「永田町の論理」が支配してうやむやになり、関係者は「ほっと、胸をなでおろし」、「改めて政治の姿勢が問われる」ことになるのです。(『文章の書き方』辰濃和男p.204~205)

 例示はまだまだ続く。ここまで並べてあると、すごい芸としかいいようがない。2人のセンセーの意見に共通するのは、紋切り型は新聞と縁が深いってこと。ほぼ同じ意見のセンセーはほかにもいる。

【引用部】
 こう並べてみると、たしかに新聞記事の文章は、出来合いの表現を組み合わせて書く傾向のあることが見えてくる。てっとり早く、手短に、という新聞のこういうジャンル特性は、悪い面ばかりではない。早く的確に情報を手に入れるためには、あまり個性的な文章では困る。型どおりに書いた新聞記事なら、読者が独創的な表現にとまどうことはない。既成の表現だからこそ、事件の概略がつかみやすくなるという面もあるだろう。(中村明『悪文』p.100~101)

 一応紋切り型を擁護してはいるが、このあとに〈だが、それは新聞記事の文章という場合のことである〉と続く。結局、新聞記事で使うのもあまりよいことではなく、フツーの文章を書くときには使っちゃダメらしい。
 でもなぁ。とりあえず疑問が2つある。
 まず小さな疑問。紋切り型の愛用者は、新聞記者だけではない。現代ではアナウンサーが使っている例のほうが目立つ気がする。文章と関係ないといえば関係ないけど、あれだってたいていはニュース原稿を書く人がいるはずだ。ニュース番組では、いまだに葬儀は「しめやかに営まれる」のが一般的だし、伝統行事は「古式ゆかしく」行なわれると相場が決まっている(「古式豊かに」というと誤用になる。紋切り型のうえに誤用なので、相当恥ずかしい)。このあたりだと、新聞記事ではほぼ絶滅しているのではないだろうか。
 次に大きな疑問。「紋切り型を使うな」って心得は理解できたとしても、個々の言葉が紋切り型かどうかを判断する基準なんてない。どこかに紋切り型の一覧表でも売っているのだろうか。仮にそんなものがあったとしても、すごい数になるから簡単には覚えられないって。「これは紋切り型だろうか」なんていちいち考えていたら泥沼にはまり(これも紋切り型か)、文章なんて書けなくなる。
 まあ、とりあえずここまでにあげた表現は、避けたほうが無難かもしれない。


■安易な比喩は〈アホらしい紋切り型〉になりやすい
 紋切り型を並べるのはたしかによくない。だが、絶対に使ってはいけない、とメクジラを立てる(これも紋切り型か)ほどのものではないだろう。

【引用部】
 紋切り型とは、いわずと知れた、型にはまった言い回しのことである。副詞、形容詞、常套句(じょうとうく)、諺(ことわざ)など、それらは世にあふれかえっていて、これらを全部、使うなと言われたら、日本語の文章を進めていくのに困るほどだ。だから、無理にこれらを避けようとすると、かえって、どうでもいい場面でヒネりすぎた表現をしてしまうことになりかねない。
 要は、頻度の問題である。避けなければならないのは、紋切り型に凝り固まった文章なのだ。
「彼は、雪をもあざむくような白い馬にまたがり、抜けるような青い空の下を疾駆していた」
 たったこれだけの長さの文章に、「雪をもあざむく白」「抜けるような青い空」という具合に紋切り型が連続してしまうと、書き手が、自ら描いた映像に対して何のイメージも抱いていないことがばれてしまう。(日本語倶楽部編『うまい文章の裏ワザ・隠しワザ』p.133)

〈要は、頻度の問題〉ってこと。紋切り型だらけになるのは、すでに書いたようにウマい文章を書こうとするから。ただし、フツーの人はそんなに神経質になる必要はない。わざとやろうとでもしない限り、こんなわけのわからない表現が次々に浮かぶほど言葉を知っている人はそうはいない。もちろん、人並み外れて語彙が豊富な人は、十分神経質になる必要がある。
 この引用部にあげられた紋切り型に注意してほしい。〈雪をもあざむく白〉も〈抜けるような青い空〉も、比喩と呼ばれるものだ。先にあげた新聞で使われる紋切り型のなかにも、比喩を含むものが少なくない。比喩を含む紋切り型の場合は、ちょっと警戒する必要がある。

【引用部】
 比喩は文章の味と香りを決める大事な調味料ですが、あまりに手垢のついたアホらしい紋切り型はよしましょう。「りんごのようなほっぺ」「白魚のような手」「水を打ったような静けさ」などなど。(山口文憲『読ませる技術』p.143)

 比喩は〈アホらしい紋切り型〉になりやすい。このことを確認したうえで、やっと比喩の話が始まる。


■直喩と隠喩の違いぐらいは知っといて損はない
 実用文派の文章読本のなかで、比喩の解説に力を入れているものはさほど多くない。これには理由があると思うが、とりあえず話を進める。
 比喩にはいくつかの種類があり、使用例で考えると、圧倒的に多いのは直喩(「明喩」ともいう)と隠喩(「暗喩」ともいう)だろう。

【引用部】
 が、手始めとして表現を工夫するとき、もっとも簡単で効果的なのは、比喩だ。よく知られているように、大きく分けると、比喩には「まるで……のようだ」という形をとる「直喩」(ちょくゆ)と、「まるで」という表現を含まない「隠喩」(いんゆ)がある。そのほかにもたくさんの比喩の分類がなされているが、まずはそんなに難しく考える必要はない。高度な比喩については、人の文章を読んでマスターすればいいことであって、初めからそのようなものをマスターしようとするほうが無理だ。
 要するに、比喩というのは、物事を何かにたとえることで、それを誇張して、目に見えるように表現する方法と考えておけば、とりあえず間違いない。ふつうに書けば「私は驚いた」で済むところを、「私は、まるで初めて花園に迷い込んだ子猫のように驚いた」と言うわけだ。そう考えておいて、あとは練習してみるといいだろう。(樋口裕一『ホンモノの文章力』p.164)

 非常にわかりやすい解説で、おおむねこのとおりだ。「まるで……のようだ」以外の形の直喩もあるとか、直喩と隠喩の違いはこんなに単純なものではない、なんて厳密な話は無視する。
 この引用部は第四章の〈作文・エッセイの書き方〉の中に出てくる。だからコメントしたくないって。ここであげられた比喩の例がウマいかウマくないかは、感覚の問題になるから誰にも決められない(ってことにしておく)。ウマいと思えた人は教えに従って〈練習〉すればいい。ただし、〈練習〉の具体的な方法は書いていない。もしそんな練習方法があるのなら、ぜひ教えてほしい。どんなに苛酷な「地獄の特訓」(これは隠喩で紋切り型か)にも耐える覚悟がある。ホントに効果があるならね。
 すでに書いたように、実用文派の文章読本のほとんどは、比喩の解説にあまり力を入れていない。しかし、何事にも例外はあるもので、ほぼ1章を使って比喩を解説している文章読本がある(あえて書名は伏せる)。
 内容を見ると、直喩や隠喩のほかにさまざまな比喩を紹介している。種類名だけあげておこう。
  諷喩/声喩/換喩/朧化法/象徴法
 こういった比喩に関して、くわしく解説している。このぐらいレトリックの本を何冊か参考にすれば誰だって書ける、なんて悪態をつく気はない。話としてはおもしろいし、巧みな比喩が文章に生命を吹き込む効果がどれほど高いか、って説明もわかりやすい。しかし、「だからどうした」としかいいようがない。「だからこそ罪深い」というべきだろうか。比喩の種類をどれだけ覚えても、巧みな比喩の効果が理解できても、文章を書くのにプラスになることはめったにない。むしろマイナスになる可能性が高い。
 この文章読本は、〈天にも昇るような〉や〈砂を噛むような〉を紋切り型だとしている。一方で、〈針のように鋭い神経〉や〈氷のように冷たい心〉を比喩の好例のように書いている。これも十分紋切り型なんじゃないの。この微妙な違いがキッチリ説明できるのなら、ぜひお願いしたい。
 無責任にリクエストさせてもらえるなら、お願いしたいことがほかにもある。比喩の効果について長々と書くぐらいなら、ウマい比喩の使い方のコツを教えてほしい。そこまでむずかしいことを求めるのがムチャなら、せめてウマい比喩とそうでない比喩とを見分ける明確な基準を示してほしい。そんなものあるわけないよね。だったら、安易にすすめたりしないでほしい。使い方には注意が必要なことを、しつこいぐらいに断わってくれないと、読者が誤解する。
 ここまで書いてしまったから、個人的な「意見」をハッキリさせておく(もうハッキリしてるって)。比喩に関する有効な心得は「ムヤミに使うな」ぐらいしかない。それ以外にいい方があるとすれば、「よほどのことがない限り使うな」だけ。


■比喩はどちらかというと芸術文の領域
 何もかもひっくるめて、どんな文章でもすべての比喩を使うな、と主張する気はない。比較的使いやすい比喩もあるが、その話はあとに回す。例によって、文章の種類がかわれば事情もかわってくる。芸術文と実用文とでは話が大きく違う。実用文のなかでさえも、比喩を使わなくても書けるものと、比喩を使いたくなるものがある。そのあたりのことに注目しているセンセーの意見を見てみよう。

【引用部】
文章技術に限っていえば、もっとも容易に書けるのは算数(数学ではない)の問題文である。なぜ容易に書けるのかといえば、たとえば比喩が不用だからである。隣組の回覧板の文章や法律文などもお手本があれば、どうにか書けそうだ。比喩を考える必要がないからである。商業文にしても同じだ。新聞記事や社説などはどうか。これはすこしむずかしい。記事文や社説には、XはYのようだ、YそっくりのX、Yに似たX、YめいたX、YよりもYらしいX、Y顔まけのX、Yに負けないほどのX、YにもまぎらうX、YもおどろくX……といった直喩はほとんど用いられることはないが、隠喩が大いに使われており、そこがすこしばかりむずかしいのである。(井上読本p.239~240)

 このあとに、〈ヤミ手当〉〈魔女(女子バレーボール選手)〉〈植物人間〉など、新聞に登場する隠喩が多数紹介されている。こうなってくると、どこまでが隠喩なのかって問題も出てくるが、無視して先に進む。

【引用部】
 のこるは随筆、小説や戯曲、そして詩といったところだが、この順序にしたがってむずかしくなるのではないかと思われる。使われる比喩の量と文章を書くことのむずかしさとが正比例するからである。つまりその文章が世の中の中心から外れれば外れるほど、個体的、個人的なものになればなるほど、比喩の量がふえて行き、その分だけ文章を書くことが骨になるのである。(井上読本p.240~241)

 少し表現をかえると、「比喩の量は芸術文と実用文とで大きくかわる」ってことになる。なんなら、「芸術文と実用文の違いは比喩の量と質によって決まる」ぐらいのことをいってもいいかもしれない。これは実用文のなかでもあてはまる。「比喩の量は文章の種類によって少しかわる」ってことだ。
 ずーっと前に「第1章1」で、〈エッセイ(身辺雑記)やルポルタージュ(旅行記)はやや特殊で実用文と芸術文の中間に位置すると思う〉と書いたのは、このことなのだ。
 うんと簡単な例で考えよう。
 白い花が咲いているのを見たとする。身辺雑記なら庭先で、旅行記なら旅先で、ってことになるだろうか。その花のことを書こうとすると、「白い花が咲いていた」と書くだけではなんか物足りない。いろいろある白のなかでも「どんな白なのか」、「どんな様子で咲いていたのか」を書きたくなる。さらに、その花が「どんなふうに見えて」、そのことによって「どんな気持ちになったのか」なんてことも付け加えたくなる。こうなると、比喩のひとつも使いたくなるのが人情だ。
 どの程度比喩を使うのかは、各自の表現力と相談してもらうしかない。表現力に自信のある人は、好きなだけやればいい。表現力に自信のない人は、できるだけ控えめにするほうがいい。そうしないと、クサい表現になる。「クサい表現」って言葉が曖昧に感じられるのなら、〈悪しき文学趣味〉って言葉を使っておこう。個人的には「控えめ」よりももっと消極的で、花について書くこと自体を避けたくなる。だってクサくなるのヤだもん。
 自然描写ってのは、限りなく芸術文の領域に近い話になる。情景描写ってのも、それに準ずる。先にあげた〈雪をもあざむく白〉や〈抜けるような青い空〉の例を見れば明らかだが、ウカツにやると取り返しのつかないことになる。〈アホらしい紋切り型〉であるうえにクサい表現なんだから、かなり悲惨だ。
 実用文派の文章読本のなかで比喩のことがあまり語られていないのは、このへんの問題のせいだろう。ごく少数の勇敢なセンセーを別にすると、危険を察知して回避している。
 先にあげた『読ませる技術』(山口文憲)の例が典型だ。コラム・エッセイをテーマにしているんだから、本来なら比喩についてもっと説明していても不思議ではない。しかし〈比喩は文章の味と香りを決める大事な調味料〉(隠喩)としながら、〈アホらしい紋切り型はよしましょう〉としかいっていない。
 この〈調味料〉の例だけでなく、『読ませる技術』には巧みな比喩がいろいろ出てくる。そういう比喩の使い手でさえ(「使い手だからこそ」か)、具体的な使い方の説明を回避してサラリと流している。説明するのはとんでもない難題、ってことがわかっているからだ。
 ウマい比喩ならどんどん使えばいい。しかし、ウマい比喩の作り方のマニュアルなんて存在しないし、比喩のデキの善し悪しを判断する基準もあるわけがない。それなのに、ヤタラと比喩の種類を並べたり、長々と比喩の効果を語ったりしてなんの意味があるのだろう。それがどれほど無責任で罪作りなのか、わからないのかね。単なる「見せびらかし」で、もっといえば悪質な「そそのかし」だ。フツーの人がフツーに比喩を作ったら、どんなことになるのかは簡単に想像できる。確実にヘンな文章になる。子供が相手の場合は話がまったく別になるが、イイ大人相手にバカなことをすすめるんじゃない……こういう感情的な書き方をしてはいけません。
 ついでに書くと、身辺雑記や旅行記は芸術文に近づくので、接続詞の必要度も低くなる。ほかの実用文に比べて、いくぶん少なめにすることを心がけたほうがいい。さほど神経質にならなくても、フツーに書けば少なめになるはずだ。


■アホらしい、クサい、ヘタ……それでも比喩を使いたいですか
 比喩の話に戻り、ほかの文章読本がどんな感じで説明を回避しているのか見てみよう。

【引用部】
 異質のものを結びつける遊びに、比喩があります。
「絹雲」を表現するのに少し気取って「透明感のある衣」と書いてみる。小鳥の飛ぶさまを「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」と表現する。いろいろと苦労をするあの比喩のことです。比喩には、直喩、隠喩、換喩、提喩などがありますが、ここでは深入りしません。
 比喩がいかに人びとの理解を助けるか、作家、丸谷才一の次の文章を味わってください。『文章読本』のなかの一節です。(『文章の書き方』辰濃和男p.141)

「透明感のある衣」(隠喩)と「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」(直喩)の印象に関しては、コメントしない。
 このあとに、延々と丸谷読本が引用されている。たしかにみごとな比喩が使われていて、比喩の使い方の見本にしたくなる。しかし、これは明らかに反則。丸谷読本は、内容が芸術文寄りなだけではなく、文章自体がほとんど芸術文になっているからだ。おそれ多くて、参考になんてできない。まあこの『文章の書き方』って文章読本は、なんの目的があるのか知らないが、引用文の大半が芸術文だからしょうがないけど。
 大半の文章読本が比喩について語るときに持ち出すのも、やはり芸術文だ。そりゃそうだろう。〈アホらしい紋切り型〉でもなく、クサい表現でもない比喩を、芸術文以外から探すのはそう簡単ではない。

【引用部】
 では、「野球」と「ベースボール」はどう違うのでしょうか。『ワシントン・ポスト』紙のケビン・サリバン(Kevin Sullivan)記者が、じつにおもしろい比喩を同紙に書いていました。(原文はここで1行アキ)
  野球とベースボールは寿司とマクドナルドのフィッシュ・バーガーほど違う。原材料は同じ魚だ。しかし、まったく異なる文化の中で、まるっきり違ったものになってしまっている。(原文はここで1行アキ)
「野球」と「寿司」に「ベースボール」と「フィッシュ・バーガー」を対比させた組み合わせが愉快です。比喩をつかう文章は、文学に多く見られます。実務文でも、もっとつかうべきです。ただし、実務文では比喩のつかいすぎに気を配ることが大切です。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.163)

 ここで紹介されているのは芸術文ではないと思うが、素直に〈じつにおもしろい比喩〉だと思う。だからといって、〈実務文でも、もっとつかうべきです〉なんて意見に賛成する気にはなれない。「実務文」ってのがどんなものなのかはよくわからないが、「ビジネス文書」に近いものらしい。そのテのものに比喩なんて必要なんだろうか。
 この引用部に続いて紹介されているのは、例によって芸術文だ。しかも、この『横書き文の書き方・鍛え方』のp.66には〈文学の文章と仕事上の文章は、言葉の用法という点で、根本的に異なります〉とまで書いてある。こうなると単なる反則じゃない。相当悪質で、レッドカードの一発退場もの(ヘタな比喩だな)……と書いて、またひとつ比喩の問題点に気がついてしまった。〈アホらしい紋切り型〉じゃなくても、クサい表現じゃなくても、「ヘタな比喩」があるってことだ。
 こんなに比喩の悪口ばかりを並べていると、〈うるさい小姑に似ている〉(直喩)とか意地悪をいわれそうだ。少し前向きなことを書こう。
 比較的無難なのは、ギャグとして使う比喩だ。もともと、比喩には異質なものを結び付けたりする働きがある。落差が大きければ大きいほどいい、といわれているからギャグになりやすい。レッドカードの話も一種のギャグなんだから、わかる人だけがわかればよろしい。そういう書き方は独りよがりな文章の典型で、いちばん避けなければならないのでは……ウルッサイ!


■クサくならない「類喩」なら比較的無難
 気を取り直して、ホントに前向きなことを書こう。安易に使われた比喩がおちいりがちな悪い例として、3つのパターンをあげてきた。

1)〈アホらしい紋切り型〉
2)クサい表現
3)ヘタな比喩

 このうち、いちばん警戒しなければならないのは2)だろう。たいていの1)は2)の要素も含んでいると思うから、とにかく2)を防ぐことが最優先。3)に関しては、個人の技量にもかかわることなのでなんともいえない。
 1)と3)のことまで考えると話がややこしくなるので、ここから先は2)ではない比喩を使うコツに話を絞る。それは、類似する事物をクサくなく提示することだ(メンドーなのでこれを「類喩」と呼ぶ。それじゃ比喩とほとんどいっしょだろう、ってツッコミは禁止。個人的な「意見」になっているってツッコミも、とっくに手遅れなので禁止)。
 類喩は、直喩の形になる場合もあるし、隠喩の形になる場合もある。「たとえ話」とでもいえばわかりやすいだろうか。むずかしいもの(抽象的な事物など)を身近なもの(具体的な事物など)にたとえるのだ。比喩の一種なのは間違いないが、どう違うのかを見てみよう。

【引用部】
 しかし、学術的な論文はもとより、論述文一般について、情景を描写するための比喩は、あまり過剰でないほうがよい。葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じになってしまうからである。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.124)

 ここに登場する〈葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じ〉(直喩)は、明らかに確信犯的に使われている。一種のギャグ(センセーがやる場合は「技」と呼ぶべきか)と考えることもできる。個人的にはウマいと思ったが、「唐突」と感じる人もいるかもしれない。これ以上深入りはしない。
 そもそも身辺雑記や旅行記以外の論述文で、情景描写が必要になることは少ない。仮に情景描写が必要だとしても、比喩まで必要なことなんてあるのだろうか。まあ、この問題も深く考えるのはやめておこう。
 このあとに、論述文でも使いやすい類喩の例がいろいろとあげられている。はじめに登場するのは、人体を使う類喩だ(当然ながら、類喩なんていい加減な言葉は使っていない。フツーに「比喩」と呼んでいる)。

【引用部】
 さまざまな対象について、人間の身体に喩えるのは、最も有効だ。人体ほど精巧に発達したものはないからだ。一つ一つの器官が機能分化しており、各々は非常に高度の機能をもっている。しかも、その機能は誰でも知っている。だから、喩えようとするときには、まず人体を考えるとよい。
◆日本経済のどこが問題なのか? これまでは、手足が少し疲れただけだった。しかし、どうも中枢神経が冒されているようだ。脳さえ損傷しているかもしれない。 
◆首が飛ぶかもしれないときにヒゲの心配をしてどうする(映画「七人の侍」における村の長老の言葉)。
◆高速道路は動脈だが、毛細血管にあたる市町村道も重要だ。
 慣用句になっているため、つぎのように、人体を用いた比喩であることを意識しないものさえ、多数ある。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.124~125)

 このあとに、〈頭でっかち〉〈頭隠して尻隠さず〉など、人体を用いた表現が多数並んでいる。慣用句なのかことわざなのか、よくわからないものもある。紋切り型に近いものも多い気がするので、とくに引用はしない。
 そのあとに紹介されているのが、人体以外を使った類喩の例だ(一部の用例や解説を省略している)。

【引用・抜粋部】
【1】自動車の部品や装置
 エンジン、ブレーキ、アクセル、シャシーのように機能分化しているので、「牽引する」「止める」「加速する」などを表すのに使える。「会社を発展させるには、技術という強力なエンジンが必要だ。同時に、間違った方向に暴走しないためのブレーキ役となる人も必要である」というように。
【2】会社の組織
 総務、企画、営業、人事、経理、工場のように機能分化しているので、「企画部門ばかり強くて営業が弱い会社のようだ」「本社ばかり立派にして工場が古いままの会社のようなものだ」などと使える。
【3】誰もがよく知っている人名
◆スターリン的恐怖政治、周恩来的政治手腕。
◆ナポレオンとヒトラーをあわせたようなことになる。
◆ゴリアテスに立ち向かうダビデのような人だ。
【4】歴史的事実
◆ITは第二のゴールドラッシュだ。印刷術の発見のようなものだ。第二の産業革命だ。
◆日本経済は、氷山に衝突する直前のタイタニック号のような状態だ。
◆ドイツ軍が冬のロシアに攻め込んだようなものだ。
【5】特定の機能を表す代表的な地名
【6】スポーツもしばしば有効
◆マラソン選手に短距離を走らせるようなものである。
◆ボールなしでサッカーをやろうというようなものである。
【7】自然現象
【8】漢語を用いた表現
「人生にはいろいろなことがあって……」と長々と述べるより、「塞翁(さいおう)が馬」というほうがよい。一般に、長い表現は印象を散漫なものにする。短い表現で一撃のもとに仕とめる必要がある。この目的のために、中国の故事は有効だ。とくに、『三国志』は宝庫である(ただし、誰もが知っているわけではないから、簡単な説明が必要かもしれない)。
◆韓信の股くぐり、泣いて馬謖(ばしょく)を斬る、孔明の嫁選び、三顧の礼、桃園の契り、死せる孔明生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす、等々。
 もちろん、『三国志』以外にも、便利なものが多い。
◆朝三暮四、木によりて魚を求む、九牛の一毛、滄桑の変、等々。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.126~128)

 このなかでもとくに使いやすいのは、【1】【2】【3】【6】あたりだろうか。
 人体を使った類喩や【1】【2】の例を見ればわかるように、機能や特徴を〈誰でも知っている〉のがポイントになる。〈機能分化〉がハッキリしているほど用途が広いが、別に分化していなくてもいい。例としてあげるものがよく知られているほど、わかりやすい類喩になる。細かいものなら、ほかにもいろいろ考えられるはずだ。料理、食べ物、学校、教科、国、都道府県、動物……どれもあんまりいい例じゃねえな。動物の場合は紋切り型になるものも多いので、使い方に注意が必要になってくるし。
【3】【6】に関しては、「第1章2」で名文の話をしたときに実例を紹介している。
 井上読本が使っているのは、【3】と【6】の複合技。具体的に選手名をあげることの功罪は、あそこで書いたとおりだ。
『読ませる技術』(山口文憲)が使っているのは【6】の好例で、文章道をモータースポーツにたとえている。尻馬に乗って(動物を使った慣用句)当方がズラズラと書き足したように、共通点が多い例なら、いろんなことが書ける。
【8】はよく目にする類喩だが、別の問題がからんでくるので、諸手をあげて(人体を使った慣用句)賛成することはできない。どうしても使いたいなら、多用しないことと、辞書などで調べることぐらいは徹底したほうがいい。


■個人的な「意見」を少々──古臭い紋切り型は文章をジジムサくする
 比喩に関する記述の後半は、個人的な「意見」になってしまった。もうこれ以上書く必要はない気もするが、紋切り型とのからみで少し付記しておきたい。
 まず、紋切り型に関する個人的な経験。
 数年前に、慣用句だらけの文章を書いたことがある。最大の理由は、高齢の読者が多いPR誌の原稿だったこと。たくさんの材料を少ないスペースに詰めこむ必要があったせいもある。はじめは無意識だったが、途中からは意識的にやった。その結果、次のような表現が並んだ。

【慣用句の例】
破顔一笑/目配りも忘れない/矍鑠(かくしゃく)とした/得心した顔でうなずく/
お墨付き/驚嘆の声をあげる/心なしか悲しげ/険しい表情/
強烈なカウンターパンチを浴びる/壮大な歴史絵巻き/舌を巻くほど/
屈託のない笑顔/勢威を誇った/顔をくもらせた

 半分以上は自分の語彙にない言葉だ。「語彙にない言葉」なんてどこからもってきたんだ、ってツッコミはごもっともだか、考え方が間違っている。知識として知っていることと、ちゃんと使えることは別問題。目にしたことはあっても自分では1回も使ったことがない言葉なんて、「語彙にない」というべきだ。正直に書くと、このときまで「得心」は「えしん」と読むと思いこんでいた。
 ここに並べた慣用句のうち、どこまでが紋切り型なのかは専門家にきかないとわからない。こういう表現を嫌うセンセーは、〈紋切型の表現に充満している〉と小間物屋を開く(一種の比喩だが、ほとんど死語)かもしれない。
 書き上がった原稿をいま読み返すと、自分で書いたものとは思えない。ウマいとかクサいとかを通り越して、ひと言でいえば、ジジムサくてたまらない。そういう雰囲気の言葉を選んだつもりではあったが、ここまでジジムサくなるとは思わなかった。
 ここに並べた慣用句のうち、紋切り型になっていないものは、たぶん古臭い表現だ。こういう言葉をムヤミに使うと、ジジムサい文章になる。
 類喩の例としてあげたもののなかにも、「ジジムサさ」を基準に考えると、気をつけなければならないものがある。クサくなるよりはずーっとマシだが、注意するに越したことはない。
 まず〈【4】歴史的事実〉。これはかなり危険度が高いので、ジジムサくなるのがヤな人は避けたほうが無難だ。〈【3】誰もがよく知っている人名〉も、歴史上の人物を例に出すと危険度が高い。信長、秀吉、家康の比較なんてのは、とくに紋切り型になりやすい。逆手にとって(人体を使った慣用句)、ウマくまとめることができると効果はきわめて高いけど。ただ、新しい人名ならいいってわけでもなく、コテコテのアイドルなんかを出すと文章が軽くなる。そうなることを狙ってあえて例に出すのは、やや高等テクニックになる。
 微妙なのは〈【8】漢語を用いた表現〉で、たしかにウマく決まれば「サスガ博学」って印象になる。しかし、失敗すると単にジジムサい文章になってしまう。〈誰もが知っているわけではないから、簡単な説明が必要かもしれない〉が、どの程度説明するのかが難問だ。説明が簡単すぎるとわけがわからないし、説明がクドいとダサくなる。このあたりはケース・バイ・ケースとしかいえない。
 これとやや似ているのが、ことわざの使い方だ。

【引用部】
 以下は、文章の入口と出口の話。文章の書き出しをことわざで始めるのはもうよしませんか。「人間、なくて七癖というが」だとか「喉元すぎれば熱さを忘れるということわざもあるが」とか。古すぎます。(山口文憲『読ませる技術』p.151)

〈古すぎ〉るのでジジムサくなる。持ち出すことわざの難度が上がるほど、ジジムサ度も高くなる。かといって、ありふれたものを持ち出すとありがたみが薄れるし、紋切り型になる可能性が高い。
 悲惨なのは、意味を間違って使ってしまうケース(これがまた非常に多い)。間違ってはいなくても、使い方のピントがズレているのもよくある。間違っていても、ピントがズレていても、オバカに見えてしまう。
 成功してもジジムサく、失敗するとオバカ。それでも使いたい人はご自由に。

第2章  3 一文の長さ――「短く書け」を徹底すると稚拙な文章になる

 お品書きは下記参照。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-132.html

第2章

3 一文の長さ――「短く書け」を徹底すると稚拙な文章になる

■長い一文はなぜダメか
 前に書いたように、「短く書け」は「文章読本が説く五大心得」のひとつに数えられるほど重要な心得だ。ほとんどの文章読本は「短く書け」と主張し、長い一文を目のカタキにしている。
 長い一文がなぜいけないのかを、論理的に説明している文章読本もある。たとえばこんな感じだ。

【引用部】
 毎年膨大な財政の赤字を出すことが示す地方自治制度の欠陥に対して、根本的な対策をきめるのが、こんどの国会の大きな使命の一つだと説明されていた。(新聞)

 これは、主語がないわけではなく、ちゃんとある。しかし、その主語がなかなか出てこないのが、この文が悪文になる原因となっている。主語はなるべく早く出した方がいい。しかも、主語と述語との距離は短い方がいい。そこで、両方の要望を満足させるのは、なかなかむずかしいが、たった一つ道がある。それは、短い文を書くということ。これは、あらゆる場合の鉄則と言っていい。(岩淵悦太郎編著『第三版 悪文』p.125)

 この意見はかなり厳しい。この例文レベルで悪文扱いされたんじゃ、世の中悪文だらけになってしまう。ちなみに、この引用部の後半の5行を読んで、なんかヘンな感じがしないだろうか。文頭に注目すると理由がハッキリする。

  これは、/しかし、/主語は/しかも、/そこで、/それは、/これは、

 7つのうち6つが、接続詞か指示語で始まっている。多くの文章読本は、こういう文章も目のカタキにする。なぜこんな書き方をしたのかはわからないが、原因は予想できる。以前、実験的に必要以上に一文を短くして書いたら、ちょうどこんな感じの文章になった。
 それはさておき、この論理は強力だ。

  1)主語はなるべく早く出す
  2)主語と述語との距離を短くする

 この2つを徹底すれば、必然的に一文が短くなる。反論の余地はなさそうで、思わずひれ伏したくなる。
 長い一文がなぜダメなのかは、むずかしい論理に頼らなくても経験的にわかる。グチャグチャと長い一文は、それだけで読む気がしなくなる。何が書いてあるかわからない文章も、たいてい一文が長い。
 ほとんどの文章読本が「短く書け」と主張するなかで、次のような力強い例外もある。

【引用部】
文が長ければわかりにくく、短ければわかりやすいという迷信がよくあるが、わかりやすさと長短とは本質的には関係がない。問題は書き手が日本語に通じているかどうかであって、長い文はその実力の差が現れやすいために、自信のない人は短い方が無難だというだけのことであろう。(本多読本p.154)

〈わかりやすさと長短とは本質的には関係がない〉ってのは正論だけど、ここまで強くいいきられてもなぁ。長い文だと実力がないのがばれるってことでしょ? 遠慮しときます。
 もう少し論調の弱いものもある。

【引用部】
「文章を極端に長くしない」は、わかり易い文章を書くときにあまりにも当然のこととして理解されていることだが、そう決めつけるわけにもいかない。例外も多いのだ。書かれた内容に読み手が強い関心を持っており、書き手と読み手のリズムが合っているときなどは例外となる。例えば、英文学者で評論家の吉田健一の文章は、長いことで有名だが、それを読み易く、内容も頭に入り易いという人が多いのだ。しかし、私個人にとっては苦手な文章の一つといえる。このことから、文章は意識して、長くしたり短くしたりする必要はないが、できれば、あまり長くない方が読み易いといえるであろう。(宮部修『文章をダメにする三つの条件』p.184~185)

 吉田健一の名前は、文章読本ではおなじみ。一文が長くてもわかりにくくない例としてよくあげられる。それは書き手の個性とでもいうべきもので、例外中の例外。一般の人がマネしたってまともな文章にはならない。
 こういう記述を見ていくと、当然(でもないか)素朴な疑問が湧いてくる。一文の「長い」「短い」は何を基準に決めるのだろうか。

■長くない一文の基準
 一文の長さに関して、具体的な目安を文字数で示している文章読本もある。『文章読本さん江』のp.64には3者の意見が紹介されている。

1)平均で30~35字というところ(辰濃和男『文章の書き方』)
2)平均で40字ぐらいまで(中村明『名文作法』)
3)40~50字以下(安本美典『説得の文章術』)

 ちょっと気になるんだけど、「40~50字以下」って「50字以下」とどう違うんだろう。まさか、すべての文を40字以上50字以下にするってことじゃないよな。そんな神業みたいなことを要求されても困る。
 一文の長さに関しては、このほかにもいろんな説がある。例によってそれぞれのセンセーの個人的な意見なので、微妙に違ってくる。

【引用部】
もし、あなたが書いた文章があれば、それを文字数によって測り、一文あたりの平均値を出してみるとよい。句読点やかっこを除いた文字の数で、もし、六十を越すようであれば長すぎると考えなければならない。そのときには、どのように長いのかを分析して、対策を考える必要がある。(樺島忠夫『文章構成法』p.167)

【引用部】
これは一文が長すぎる。そのため、曖昧な文章になっている。一文が六〇字を越したら要注意。小論文の場合、文体に凝るよりも、わかりやすい文体を心がける必要がある。(樋口裕一『ホンモノの文章力』p.60)

【引用部】
 実務文での平均的な1文の長さは、「40字前後」がいいと思われます。『朝日新聞』の「天声人語」では、1文あたり平均30文字程度で文章をまとめています。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.99)

 なかには、とんでもなく細かく刻んでいるものもある。こういうのも親切というんだろうか。

【引用部】
 このようにいろいろな条件で数値は違ってくるが、これを読みやすさという観点から見ると、一般的にいって、平均三〇字未満となるような文章は「やさしい」と考えていい。平均三五字あたりでも「かなりやさしいほう」で、平均四〇字ぐらいまでなら「ほとんど抵抗がない」と思われる。平均四五字前後で「ふつう」、平均五〇字を超えると「少しむずかしい」部類に属し、平均六〇字を超えれば「むずかしい」文章と考えられよう。そして、平均で七〇字を超えるようなら「非常にむずかしい」文章といってさしつかえない。(中村明『悪文』p.126)

 いろんな意見があって、ますます基準がわからなくなる。「何を根拠にこんな数字を出しているんだ」なんてツッコミを入れてはいけない。もともと「わかりにくい」とか「わかりやすい」って判断自体が感覚的なものなんだから。絶対的な数字なんて決まるわけがない。それでも各センセーの研究や経験に基づいた数字だけあって、そう大きくは違っていない。
 どうやら文字数の目安は、「平均」で出すのが主流らしい。だが、平均値の算出はそう簡単な作業ではない。〈句読点やかっこを除いた文字の数〉なんて流儀になると、さらにカッタるい。文章を書くときに、こんなことを考えてられないって。
「平均」がつかないほうなら、簡単に判断できる。「ちょっと長いかな」と思ったときに確認すればいい。ここであげた例のなかで「平均」がついていないのは、「40~50字以下」と「60字」だ。この基準より短く書けばいいわけね……ってちょっと待ってほしい。大目に見てくれている「60字」だって相当厳しいよ。すべての文を60字以下にすることなんて、本当にできるのだろうか。

【引用部】
 短く書く。困難な課題だ。センテンスをブツブツ切る。調子が狂う。やってみればわかる。「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくい。のだ。(『文章読本さん江』p.65)

 これはギャグでやっている文章だが、短く書くことを徹底するとこんな感じになっても不思議ではない。「天声人語」みたいな文章になる程度で済むならいい。たいていは、もっと悲惨な文章になる。ところが「短く書け」と主張するセンセーがたの文章は、そんなことにはなっていない。「サスガ」なんて感心してはいけない。ここまでの引用部の文章を見ればわかるはずだ。お手元にほかの文章読本があるなら、確認してみてほしい。平気でけっこう長い一文を書いているセンセーが多く、短く書くことを徹底している例を探すのはむずかしい。それらしいものをあげておく。

【引用部】
 文章は、いくつもの言葉が組み合わされてできています。したがって、その基本である言葉を正確に読み、そして書くことが文章を作るうえで一番大切です。文章を磨くうえでまず大切なことは、「言葉を磨く」ことです。
 最近とくに感じることは、漢字離れです。とくに若い方々にその傾向が顕著です。我々が常識として知っておきたい漢字の基準として存在するのが、「常用漢字」です。
 全部で1945字あります。新聞につかわれている漢字とほぼ同じです。一口に常用漢字と言っても、これをマスターすることは少々困難です。漢字能力検定試験の2級程度に相当するからです。ただし、このレベルの漢字は、書けないまでも、読めるようにはしておきたいものです。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.10)

 引用部は3つの段落に分かれている。個人的な感覚では、2つ目の段落の前半と、3つ目の段落の前半には異和感がある。ちなみに、各文の文字数は次のようになっている。

・第1段落 26/45/29
・第2段落 19/18/39
・第3段落 13/20/32/23/40

 文章読本でおなじみの「数字を使え」って教えに従ってみたけど、「だからどうした」って気がする。数字を出しさえすればいいわけじゃないってことか。まあ、20字以下の文が続くとなんかヘンな感じになることがある、ってことかもしれない。文字数だけで判断するわけにはいかないけど。
 もちろん、これはとくに短さが目立った部分を拾った結果だ。全編がこの調子ってわけではなく、ほかの部分はこれほど極端ではない。こういう極端な例をあげて、「短く書くな」なんて主張する気はない。ただ、「短く書け」を実践して自然な文章にするのは簡単じゃない、と思うだけです。

■長くてもわかりにくくない文の構造
「長い一文」とひと口にいってもいろいろある。長い一文はたいていわかりにくいが、例外もある。これは文の構造が違うせいらしく、そのあたりを説明している文章読本もある。

【引用部】
むろん、長い文といってもいろいろあって、みな同じにあつかうのは非常識だろう。部分的に文の情報が完結しながらいくつもつながって、結果として長くなったくさり型の長文なら、環(わ)の一つ一つの独立性が高いため、少々長くなっても、その構造上比較的わかりやすい。一方、同じ長文でも、文頭の副詞が文末の述語にかかったり、文中に他の文が組み込まれていたりする複雑な構文の長文になると、段違いにむずかしくなる。が、いずれにしても、長い文は短い文に比べて、読んで理解するのに時間がかかるという点が共通している。(中村明『悪文』p.122)

 フーム、そうなのか。この記述を見たときには、なんとなくわかった。なんとなくわかったけど、そこまでだった。頭が悪いからかな。その後、似たような記述は目にしたけど、どうもスッキリしなかった。やっと素直に納得できたのは、次の記述を見たときだった。

【引用部】
 わかりにくくなる最大の理由は、この文が複文であることだ。
 一般に、文は、主語、目的語、補語、述語などから構成される。一つの主語とそれに対応する述語(および、目的語、補語)しかない文を、「単文」という。完結している複数の単文を順に並べていったものを、「重文」という。これに対して、複数の単文が「入れ子式」になったものを、「複文」という。
 記号的に表すと、重文は、
 (主語1、述語1)、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)
となったものであり、複文は、
 主語1、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)、述語1 や
 主語1、{主語2、(主語3、述語3)、述語2}、述語1
のような構造のものである。つまり、複文においては、主語、目的語、述語、修飾語などの各々(あるいは一部)が、文から構成されているわけだ(これらを「節」という)。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.155)

 何やらむずかしそうに見えるが、論理的に書くとこうなってしまう。
 一般に流布している心得のなかでは、

・主語と述語を近づける
・修飾語と被修飾語を近づける

 などが、この複文の話だ。わかりにくい文は、複文で構造が複雑な場合が多い。単文に分割するか、単純な構造の複文に書きかえればいい。
 どういうことなのかをハッキリさせるために、うんとバカバカしい例を考えてみる。

【重文の例】
 小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べた。

 これなら登場人物がどんなに増えても、食べた物が多少増えても、そんなにわかりにくくはならない(文として自然かどうかは別問題)。ところが、ちょっと書きかえると話が違ってくる。

【やや複雑な構造の複文の例】
 佐藤は、小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べるのを見ていた。

「佐藤は」と「見ていた」が離れてしまうので、多少わかりにくくなる。これぐらいなら問題はないかもしれないが、あいだに入る部分が長くなればなるほどわかりにくくなる。単純な構造の複文にしてみる。

【単純な構造の複文の例】
 小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べるのを佐藤は見ていた。

 このように書きかえれば複文ではあっても主語と述語が近いので、わかりやすくなる。ただし、この方法だと全体の主語である「佐藤」が出てくるのが遅くなるので、なんだか不安定な文になる。やはり長い一文は避けたほうが無難ってことだろう。
 本多読本(p.28~29)は、もっと複雑な複文の例をあげ、〈修飾・被修飾関係の言葉同士を直結〉すればマシになることを示す。

【原文】
 私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。

【修正文】
 鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った。

 よくこんなすごい例文を考えつくもんだ。こうなるとちょっとしたパズルよりむずかしい。『「超」文章法』(野口悠紀雄)は、わかりにくい複文の例として、次の文を出している。

【引用部】
 (I)私の友人が昨年大変苦労して書いた本は、パソコンが普及し始めた頃には、
  異なるアプリケーションソフトが共通のOSで動くようになっていなかったた
  め、データを交換することができず、非常に不便だったと述べている。(p.154)

 さらにこの文がわかりにくい理由を分析したうえで、余計な記述を削除して3つの文に分解している。

【引用部】
 (II)パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデ
  ータを交換できなかった。このため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中
  でそう強調している。
(I)よりはずっと読みやすい。読みやすさのためには、単文にまで分解するのがよい。すなわち、一つの文章内での主語を一個に限定する。ただし、単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう。そこで、もう少し工夫する必要がある。(p.160)

(I)から(II)になる過程で、〈普及し始めた頃〉が〈誕生して間もない頃〉にかわっているのはなぜ? 〈述べている〉が〈強調している〉にかわっているのはなぜ? 「余計な記述を削除すること」と、「表現をかえること」って別なのでは。などと妙なインネンをつけるのはやめておこう。重要なのは、〈単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう〉ってこと。そんなのは当たり前なんだけど、その当たり前のことを書いてくれている文章読本はめったにない。
 そりゃそうだろう。「短く書け」は、ほとんどの文章読本に共通しているありがたい教えだ。その教えに従って短く書くことを徹底した結果が〈小学生の作文〉じゃ目も当てられないから、簡単に認めることはできない。しかし、〈小学生の作文〉は言葉が過ぎるとしても、ヘンな感じになることが多いのは事実なんだからしかたがない。

■個人的な「意見」を少々──たしかに一文は短いほうがいいみたいだが
1)やはり一文は短いほうがいい
 文字数を目安にするのはあまりいい方法とは思わないが、とりあえず手っ取り早い方法ではある。目安としては、60字ぐらいだろうか。60字を絶対に超えちゃいけないわけではなく、できるだけ60字以内におさめるほうが無難って程度のこと。もう少し長くても構わないが、わかりにくくなる可能性が高くなる。100字以上なんてことになると、危険度はきわめて高い。

2)一文が長い場合は文を分割する
 このテの方法は多くの文章読本で紹介されているので、具体例をあげるのはやめる。ちなみに、前にふれた「が、」を「。しかし」に書きかえるのは、分割の典型。分割すると接続詞を使うことが多くなるはずだ。接続詞が目立つようなら、先にあげた要領で削除することを考える。
 クドいのは承知でもう一度繰り返しておく。一文を短くすると、接続詞を減らすことはできない。「できない」がいいすぎなら、「きわめてむずかしい」。このことにふれずに、「短く書け」といいながら「接続詞を減らせ」と断定している文章読本は、それだけで読む価値はない。なんか、ムチャをゴリ押しする文章読本みたいな書き方になってるな。この数行だけで大半のセンセーを敵に回す気がする。まあいいや。

3)一文が短い場合は文を結合する
 一文を短くすることは、それほどむずかしくない。すべての文を単文にしてしまえば、一文は間違いなく短くなる。問題は、単文ばかりが続くとヘンな感じになること。そんなときには、あえて単文を結合すると不自然な感じが緩和できる。
 いくつの単文を結合すればいいのかは一概にはいえない。理想をいえば、長い文と短い文がバランスよく入っているのがいい。しかしそんなことをいい出すと、リズムだの文体だの個人の趣味だの……といった得体の知れない話になる。とりあえず無難なのは、2つの単文を結合していくこと。その程度なら、一文が長すぎてわかりにくくなることはめったにない。ところどころに単文が入れば、リズムもソコソコの線になる。
 先にあげた例で見てみよう。

【引用部】
 短く書く。困難な課題だ。センテンスをブツブツ切る。調子が狂う。やってみればわかる。「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくい。のだ。(『文章読本さん江』p.65)

 前から順番に、2つの文を結合していく。

【修正案1】
 短く書くのは困難な課題だ。センテンスをブツブツ切ると調子が狂う。やってみればわかるが、「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由があり、新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくいのだ。

 こうするだけで、フツーの文章に近づく。順番に2つずつ結合したため、4つ目の文は少しヘンなことになっている。結合のしかたにもう少し工夫が必要だろう。

【修正案2】
 短く書くのは困難な課題だ。センテンスをブツブツ切ると調子が狂う。やってみればわかるが、「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷されるので、一文が短くないと読みにくいのだ。

 これならフツーの文章として通用する。ただし、こんなことをやらかすと、せっかくの秀逸なギャグが台なしになる。

【引用部】
 パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換できなかった。このため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中でそう強調している。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.160)

 1つ目の文と2つ目の文を結合してみる。

【修正案】
 パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換できなかったため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中でそう強調している。
 最初の文が少し長くなったが、58字なので目安の範囲におさまっている。

 ここで注目してほしいのは、読点の問題。個人的な趣味では、【修正案】の「頃には、」の読点か「なかったため、」の読点か、どちらかを削除したくなる。2つの文になっていたときには、この読点があってもまったく気にならなかった。なぜ結合すると削除したくなるのかを説明するのは難問。ということで、次はちょっとメンドーな句読点の話になる。

【続きは】↓
第2章 4 句読点の打ち方
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-45.html

伝言板2  第1章-5 「ウマい文章」の正体――「主題」「構成」「表現」の3つに分けて考えてみる

 お品書きは下記参照。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-132.html

第1章-5
 「ウマい文章」の正体
――「主題」「構成」「表現」の3つに分けて考えてみる

主題──そんな大事なことを教えてもらおうって根性が気に入らない
 テーマ、内容、アイデア、ネタ……いい方はほかにもいろいろありそうだ。まあなんでもいい。着想、発想なんてのもほぼ同じ(正確にいうと、「主題やテーマを思いつくこと」が着想や発想かな)。文章の要素を「主題」「構成」「表現」に分けたとして、最も重要なのは主題に決まっている。どれぐらいの割合を占めるのかは意見の分かれるとこだが、明快に示している文章読本もある。

【引用部】
 学術的な論文が成功するか否かは、九割以上、適切なメッセージを見出せたかどうかで決まる。うまいメッセージを見出せれば、ほとんど成功だ。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.11)

 この場合の〈メッセージ〉は主題とほぼ同じもの。続いて、学術論文に比べてメッセージの重要度が低い〈エッセイ、評論、解説文などの場合〉でも、〈八割方メッセージの内容〉で成功するか失敗するかが決まると書いてある。そこまで重要じゃないだろう、という人もいるかもしれないが、そんなことで言い争ってもしょうがない。
 どんな文章でもメッセージの比重が8割を超える、って話はうけたまわっておこう。ところが、この本でメッセージにふれた部分はそう多くない。

【引用部】
 メッセージ発見について言いうるのは、以上である。「ずいぶん簡単だな」と不満をもたれた読者が多いだろう。もしメッセージが八割の重要性をもつのなら、なぜ「メッセージの発見法」に本書の八割をさかないのか?
 これに対しては、「マニュアル的ノウハウがないから」と答えるしかない。ノウハウがないことを知るのが、ノウハウなのである。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.38)

 ここまで正々堂々と開き直られると、反論する気にもなれない。ないものはない……キッパリとした態度が清々しい。借金取りを追い返す一徹オヤジみたいに力強い。塩でも撒いとけってか。
 苦肉の策なんだろうが、一歩間違えると羊頭狗肉の策になりかねない……とツッコミを入れるのはむずかしくない。だが、この点をハッキリ認めてしまっているだけマシと考えるべきだ。そんなものはあるわけがないのに、認めようとせずにウダウダ書いてある文章読本が実に多い。書き手の独自性(やっぱり「オリジナリティ」と横文字を使うほうが自然だな)と密接にかかわってくることなのだ。他者に教えたり、他者から教えられたりなんてことができると考えるほうがおかしい。
 だいたい、なんで主題の見つけ方なんて教える必要があるんだろう。「何を書けばいいかわからない人」にアドバイスするため? そんなアドバイスに従って見つけさせていただいた主題なんて、ロクなもんじゃない。自力で発見するしかないの。プロの物書きも、この点でいちばん苦しんでいる。ただし、それは書くことを義務づけられた人たちの話。義務じゃない人まで、そんなことで苦しまなくてよろしい。
 文章読本のなかでとくに役立たず度が高いのが、この主題関係の記述だ。メモの取り方を工夫しても、新聞や雑誌を熟読しても、どんなありがたい教えに従ったってムダに終わることのほうが多い。役に立つとしたら、著者と読者の発想法がたまたま似ていたってこと。何十冊か文章読本を読めば、そういう幸運にめぐりあえるかもしれない。健闘を祈る。

構成1──起承転結は論文には向かない
 構成に関して書いている文章読本も多い。「第1章3」でふれた「書き出しに気を配れ」も、構成に関する心得になる。文章の構成って話でよく知られているのは、「五大心得」にもランクインしている「起承転結にのっとって書け」だ。似た感じのものに、「序破急」なんてのもある。
起承転結にのっとって書け」と説く文章読本はたしかに多い。しかし、そうじゃないって意見も少なくない。

【引用部】
 論証や説得を目的とする文章に限らず、一般に作文の構成を問題にするとき、まっさきに頭に浮かぶのは、「起承転結」の四部構成だろう。これは本来、漢詩の絶句の構成についていわれたものらしい。それがだんだん広まって散文にも適用されるようになる。(中略)
 起承転結に次いでよくとりあげられるものに、「序破急」という三部構成がある。これはもと、雅楽の楽曲構成上の三つの区分から出たものというが、のちに導入部・展開部・結末部という程度の意味に一般化して、能楽や浄瑠璃の脚本構成などに取り入れられ、さらに散文の文章構成にも広がった。事件を叙述する物語などでは、発端・経緯・結末というのがそれにあたる。論文では序論・本論・結論という三部構成がふつうに見られ、論理的な文章の基本形ともなっている。(中村明『悪文』p.53~54)

 そういうことですか。なんか頭にスンナリ入っていかないな。とくに「序破急」に関する記述の2番目の文がいけない。こんなに漢字が多い文で一文が100字近くなると、ついていけなくなる。
 それはそれとして、〈論理的な文章の基本形〉は〈序論・本論・結論という三部構成〉と書いてある。起承転結ではないらしい。

【引用部】
序論
叙述(説明)
論述(「たしからしさ」による証明)
補説(補足)
結語(井上読本p.206~207)

 これは紀元前5世紀頃にコラクスって人物が書いた〈史上最初のレトリック教科書〉の中に出てくる議論の組み立て方だ。〈どうやら最初から、ことの本質を言い当ててしまった〉ため、ヨーロッパ・レトリックの基本になった。「補説」が「反論」にかわったりはしても、とにかく基本は5分法。ここから〈説教の五段法〉や演説のための〈五分法〉が派生しているらしい。

【引用部】
 これらの五分法は、三分法(たとえば「序論・本論・結論」)へ、あるいは四分法(たとえば「起承転結」)へ、容易に移行し得るだろうし、うまく使えば役に立つだろうこともわかる。(井上読本p.208)

〈容易〉かどうかは定かではないが、まあ〈移行し得る〉可能性を否定する気はない。
 同じとこから出発しても別の意見にたどり着く場合もある。『文章構成法』はコラクスの5分法とほぼ同じものを紹介したあと、次のように書く。

【引用部】
これに反して、「起承転結」はもともと漢詩を構成するための順序である。「論」ではない。はじめから心を一つにした【もの】が集まって、さらに心を一つにするために詩の朗詠を聞く。日本の「起承転結」も、説得のための【もの】ではなく、心を一つにした仲のよい【もの】の中での表現の順序だ。(樺島忠夫『文章構成法』p.118。【】印は引用者による)

 趣旨はわかるが、いろいろとインネンをつけたいとこが多い文章だ。とりあえず、3回も出てくる「もの」のうち、1つ目と3つ目を「者」って漢字にしてくれていればずいぶん印象が違う(もちろん別の言葉に書きかえたっていい)。念のために書き添えておくが、これは「日本語は論理的な記述には向かない」って迷信とは無関係だ。
 起承転結は日本語の伝統的な文章の構成法である。起承転結は「論」には向かない。したがって日本語は「論」には向かないのである……もっともらしく聞こえるかもしれないが、こんなのは詭弁にさえなっていない。

【引用部】
 文章の構成について、昔から「起承転結」ということが言われてきた。しかし、これはもともとは漢詩の形式である。現在では、文学的エッセイで用いられる形式だ。論述文の場合は、これに従う必要はない。むしろ、「転」のところで別の話題が現れると(あるいはそれまでの論理展開が覆されると)、読者は当惑する。
 学術的な論文の場合には、序論・本論・結論の三部構成にするのがよい。面白みはないが、最初から妙技を求めるのでなく、手堅くやろう。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.95)

 ちょっと待った。このセンセーはエッセイを「論述文」に含めていたはずだ。エッセイには文学的エッセイとそうじゃないエッセイがあるってことになる(だから、それは書き手しだいってことでしょ)。まあいいや。とにかく「起承転結なんて関知しない」って態度なんだろう。
 こうやって並べてみると、起承転結は論文には向かないようだ。論文に向かないのなら、小論文なんかにも当然向かない。起承転結なんか意識していたら、すぐに制限字数を超えてしまう。

■構成2──起承転結はエッセイなんかにも向かない
 では論文以外の文章なら起承転結で書くべきなのか。
 コラム・エッセイを対象にしている『読ませる技術』は、〈よく文章には形があるといわれています〉と起承転結と序破急を簡単に説明している。そのあとで〈いろいろありますが、あまり気にしなくていいんじゃないかと思います〉と書いて、次のように続ける。

【引用部】
 でも、ひとつだけ、これは守ったほうが無難だろうということがあります。それは「首尾一致」。これは大事です。
 簡単にいえば、頭に振った話を最後にもう一回振るということなんですが、これは、やってみるとなかなか勝手がいい。(山口文憲『読ませる技術』p.94)

 サラリと流してしまい、別の話を始めている。「いきなり核心型」をすすめるセンセーだから、起承転結なんてすすめるわけがない。
 別な例を見てみよう。
『文章をダメにする三つの条件』は、いままで見てきた文章読本とはやや趣きが違う。作文教室で指導した経験をもとに、生徒の作品を盛り込んで解説している。「作文」ってジャンルはなかなかのクセ者で、非常に幅広い種類の文章を含む。身辺雑記的なエッセイが主で、意見文や旅行記なんかも入ってくるだろう。厳密な定義は無視するとして、その作文を書くときには起承転結の考え方は無用、と繰り返している。

【引用部】
この学生はバスの中やホテルで楽しかったことに見向きもせずに、自分が訴えたいことを、まず冒頭に持ち出している。そうすると、あとは論旨を補強するための材料をレンガ積みのように重ねていけばよい。文章の書き方のハウツー本に必ず出てくる「起承転結」というお題目は、ここでは無意味なものになる。(宮部修『文章をダメにする三つの条件』p. 50)

 どうやら、「いきなり核心型」に近い意見であることがわかる。さらに、起承転結の流れで書けることは少ない、とも書いている。

【引用部】
 作文を書くたびに、その内容と文章の流れ、転換がこのようにうまくはまることは少ないだろう。新聞でいえば、各紙の朝刊一面の下にあるコラム位が、どうにかこの展開を踏んで書かれているといえよう。(宮部修『文章をダメにする三つの条件』p.191)

 こうして見ていくと、当然ながら素朴な疑問が出てくる。起承転結って、いったいどんな文章を書くときに使うのだろうか。ここから先は個人的な「意見」になりそうなので、あとに回そう。

表現──文章道のなかでは、きわめて瑣末なこと
『文章をダメにする三つの条件』は、p.187~196で高校の教科書についてふれている。作文の扱いが軽いうえに、〈些(ママ)末すぎる〉ことを重視していることに批判的だ。

【引用部】
 次に「些末すぎる」点が、教科書の中にどのように現れているかを見よう。皮肉にも、私が授業現場で、無視もしくは軽く扱っている些細なことに、余りにもスペースがさかれている。私があえて“些末”としたのは文章力のレベルの低い者にとっては、“重要”であるどころか、書くときにそれを意識するあまりに、“邪魔”になりかねないと考えるからだ。(宮部修『文章をダメにする三つの条件』p.190)

 このあとに、〈些末な例〉が5つ示される。
1)起承転結 2)句読点 3)改行 4)体言止め、比喩の使い方 5)原稿用紙の使い方
 1)を別にすれば、たしかに瑣末といえば瑣末なことだ(「比喩」は考え方によっては重要になるが、その点についてはあとに回す)。
 3つに分けた文章の要素のなかで最も重要なのは主題。次に大事なのはたぶん構成で、いちばん重要度が低いのが表現ってことになる。いい方をかえて、主題や構成に関係なくてあまり重要でない部分はすべて表現の問題にかかわる、としてもいい。「すべて」だから量的にはメチャクチャ多いが、それでも重要度は低い。先の2)~5)は、表現の問題のごく一部だから、当然のことながら非常に瑣末なことになる。
 ただ、ここで考えてほしいことがある。最も重要なはずの主題については、有効なアドバイスをしている文章読本はほとんどない。次に重要なはずの構成については、いちばん知られている起承転結って心得の有効性さえあやしい。話にならないジャン。
 先にあげた本多読本の〈基礎技術〉のことを思い出してほしい。主題の話も構成の話も入っていない。すべて表現のレベルだ。つまり、才能に関係なく〈だれにも学習可能なはず〉なのは、表現のレベルだけってことなのだ。
 瑣末なことしかわからないんだから、文章読本を読んでもウマい文章なんて書けるわけがない。ガッカリしなくてもいい。何度もいうようだけど、ウマい文章を書こうとするのが間違いなの。ソコソコの文章を目指すなら、表現について注意するだけでイイ線まで行ける。しかも、このレベルは〈だれにも学習可能なはず〉って偉いセンセーのお墨付きなんだから(「はず」じゃうれしくないか)。

■個人的な「意見」を少々1──「起承転結にのっとって書け」も妄言では
「起承転結にのっとって書け」に反対する意見をさんざん引用してきた。じゃあ、起承転結派はどんなふうに書いているのか。具体的な例を引用していると長くなる一方なので、駆け足で見ながら簡単に反論する。

1)漢詩を引いて起承転結の有効性を主張する
 どんな漢詩を引っ張ってきてもいい。もともとは漢詩の形式なんだから、起承転結になっているに決まっている。これに準ずるもので、頼山陽の作といわれる俗謡(?)を持ち出している例も多い(目で人が殺せる超能力をもった「糸屋の娘」の話。興味のあるかたはお調べください)。これらは文章の話をしているんじゃないから、どんなにみごとに説明してあっても、相手をする必要はない。

2)4コママンガを引いて起承転結の有効性を主張する
 誰がこんなバカなことを始めたんだ。これも文章の話じゃないから関係ない。
 それ以前に、4コママンガは「起・承・転・結」の構成になっていることもあるが、それは少数派。「起・承・承・転&結」の構成のほうが圧倒的に多い。3コマ目まではフツーに進んで、4コマ目で話が飛躍して終わる。そうでなきゃオチにならないでしょ。マンガの読書量に関してはかなり自信があるから、信用していただきたい(たぶん、文章に関する記述よりは信用できる)。

3)具体的な文章の例を引いて起承転結の有効性を主張する
 起承転結で書かれた文章がないわけではない。先に引用した文章にも出てきたとおり、〈新聞でいえば、各紙の朝刊一面の下にあるコラム〉あたりは、起承転結になっていることが多い。そのなかでもデキのいい例だとたしかにカッコいいし、ウマいと思う。そういうコラムの担当者は、ぜひ研究してほしい。担当者じゃなくても、これをマネすればウマい文章が書けるのだろうか。もう結論はわかっていると思うが、なんとかマネできたとしても、クサい文章にしかならない。

 実際に自分で文章を書くときのことを考えると、起承転結なんて意識した覚えがない。材料がなくて決められた文章量に足りないとき、強引にあまり関係のない話を入れたことはある。これも「転」の一種かな? そういう苦しまぎれは論外として、長い文章が一本調子になったときに、ちょっと話をかえて寄り道をすることもある。別に起承転結を意識してのことじゃない。
 なぜ「起承転結にのっとって書け」なんて心得が流布したのだろう。いまでも高校の教科書にのっているらしいから、問題の根はきわめて深いのかもしれない。
 有名な心得ではあるが、妄言じゃないかって気さえする。どんな文章にも通用する万能タイプの心得のようだが、具体的にどんな種類の文章に向くのかを考えるとほぼ壊滅状態なんだから話にならない。たぶん「万能タイプの心得」ってのがクセ者だ。なんとなく全部に当てはまりそうで、実はどれにも当てはまらない。
 しつっこく繰り返してきた「文章にはいくつかの種類がある」って話がここでもカギになる。実用文のなかにもいくつかの種類がある。文章の種類が違えば、構成のしかたが違うのは当然のことだ。たとえば、エッセイと論文とでは構成のしかたがかわるに決まっている。それを区別せずに「起承転結にのっとって書け」なんて話を出すから、ヘンなことになるのだ。
 こう考えていくと、構成に関して役に立つ文章読本がどんなものなのか、おぼろげながら見えてくる。「エッセイの書き方」「論文の書き方」のように文章の種類を限定したものなら、役に立つ可能性はある。当然のことながら、限定してさえいれば必ず役に立つってわけじゃない。
 構成に関しては、「結論から書け」「肯定的意見から書け」といったわけのわからない心得も目にする。これだって、文章の種類を限定すれば、ある程度の効力はあるかもしれない(「好み」の問題って気もするが)。
 もうひとつ付け加えると、文章の構成を考えるときに重要なのは、文章の長さだ。長い文章と短い文章とでは、当然ながら構成がかわる。文章の「種類」と「長さ」。最低限この2点を考慮していなければ、構成について何が書いてあっても信用しないほうがいい。

■個人的な「意見」を少々2──瑣末な問題ではあるけれど
 表現に関する心得は、文章道のなかでは瑣末な問題だ。しかし、ソコソコの文章を目指すなら、非常に重要になる。ソコソコの文章ってどういう文章なのか、ってことを一応ハッキリさせておきたい。頭が痛くならずにスンナリ理解できる程度の文章、と考えてほしい(ちっともハッキリしていないが、正確な定義なんてできません)。
「そのぐらい誰だって書ける」と思う人もいるだろう。逆にきいてみたい。ここまでに引用してあった文章は、すべてスンナリ理解できただろうか(引用部以外についてはきいてないんだから考えなくてよろしい)。引用した当人は、頭痛を感じたものがけっこうある。
 文章読本を書くほどのセンセーでさえ、こうなのだ。フツーの人がフツーに書いた文章は、頭痛のタネになることがあっても不思議ではない。
 主題や構成に関しては、文章の種類によってさまざまな意見が飛び交ったりして、収拾がつかなかった。しかし表現に関しては、ちょっと事情が違う。テーマによっては意見が飛び交うこともあるが、さほど複雑ではない。しかも、表現の問題は文章の種類を問わずに通用することが多い。この点がとっても大事。
 第2章では、表現の問題に絞って、意見が飛び交っているあたりを中心に見てみたい。
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