読書感想文 『手取り足取り わかりやすくて印象に残る短文の書き方』(遠藤昭/明日香出版社/2000年12月31日初版発行)

 ちょっと事情があって古い読書感想文をアップする。
 書き方に問題を感じるけど、もういいや。

 ご近所の明日香出版社の新聞広告で見つけ、書店で手にとってけっこう迷った末に購入した。筆者は相当に実践的な文章の書き手。新聞や広告などで見つけたわかりにくい文章を例にあげ、直し方を具体的に示す。好感が持てるのは、“先生”の論調になっていない点。プロフィールを見ると、1945年生まれのライターらしい。明日香出版社というのは風変わりなライターを抱えている印象があったが、この人の名前も聞いたことがない。プロフィールの最後に「(全34冊目−自7冊目)」とあり、どういう意味か悩んでしまった。「はじめに」を読むと、執筆した34冊目の単行本であり、そのうち27冊がゴースト本で、7冊が自著本ということらしい。
 スカスカの組みになっていることや、冗漫な記述が目立つことは、読みやすさを重視したためと考えておく。それにしてもこの組みの176ページで1300円は高いよな。
 第1章が文章を書くときの心構えのようなもの。「過剰な形容詞はやめよう」「中途半端な形容詞・形容句・形容節はとり払おう」「接続詞は少なくしよう」など、おなじみのテーマが並ぶ。実例の数も少なく、目新しさはあまりない。
 第2章と第3章は、判りにくい文章の実例をあげ、修正案を提示する。ひとつの方法ではあると思うが、他者の文章を俎上に乗せて難癖をつけるからには、例文を厳選し、解説には細心の注意を払う必要がある。その意味では、どうにも“甘い”記述も多い。
 こういう記述を見て感じるのは、「具体例をあげた解説の限界」。例をあげないよりはあげたほうがいいが、例はあくまで例でしかない。都合のいい例を持ってくれば、どんな暴論でも一応の説得力を持たせることができる嫌いがある。特殊な例を持ち出して、強引な断定を正当化されたのではたまらない。この本の場合は強引な断定はほとんどないが、類書にはひどいものも多い。さらに言えば、いくら例をあげても、法則性なりパターンなりをしっかりと示さないと、応用がきかない。これが難問。
 順を追って見ていく。
 P.70の解説。原文の「学習する」を「学習」に修正している箇所がある。その理由は「キレ良く体言止めにしました」になっている。体言止めを使うとキレのよい文章になるか品のない文章になるかは意見が分かれるところ。ここまでは筆者の考え方の問題だから、なんともいえない。ただし、ここで例としてあげられているのは、「熟語動詞+スル」を体言止めにする形で、とりわけ評判が悪いもの(個人的には、よほどのことがない限り体言止めにするべきではないと思う)。お手本としてあげるなら、「名詞+ダ・デアル(もしくはデス)」の形に限るべきだろう。そもそも、体言止めについてふれるなら、2種類に大別できることぐらいは示す必要がある。それをハッキリとさせずに体言止めのことを語ってほしくない。
 P.88〜の「主語と述語は、できるだけくっつけよう」の中にある例文('97年9月5日付『朝日新聞』)と修正案。
 【原文】
〈江総書記らに、指導者間で異論のない「@氏理論の堅持」により、体制の団結と安定を保つという狙いがあるのは間違いない〉
【修正案】
〈指導者間で異論のない「@氏理論の堅持」により、体制の団結と安定を保つという狙いが、江総書記らにあるのは間違いない〉
「主述」を近づけたほうがいいことが多いのは確か。しかし、この修正案は改善されたか否かは微妙。日本語は、主語が出てくるのが遅れれば遅れるほど不安定な感じになる。この場合、原文の「指導者間で異論のない〜」は前後に読点がついて挿入句扱いになっているのだから、異和感はない。どちらをヨシとするかは趣味の問題になる気がする。何より問題なのは、「主述」を近づけることを徹底するのはそれほど簡単ではないということ。そのことを説明するための例ならいくらでもあげられる。
 たとえば、P.94〜の「形容する言葉は、形容される言葉の、できるだけ近くに置こう」の中にある例文(吉村昭『町の講演会』の一節)と2つの修正案。
 【原文】
〈当日、背広を着た私は、何気なく電機メーカーに勤務する長男に、町のセンターで講演をすることを口にすると、……〉
【修正案】1)
〈当日、背広を着た私は、電機メーカーに勤務する長男に、町のセンターで講演をすることを何気なく口にすると、……〉
【修正案】2)
〈当日、背広を着た私は、電機メーカーに勤務する長男に何気なく、町のセンターで講演をすることを口にすると、……〉
「主述」を近づけることを徹底するのなら、ここも「私は」を後ろに移動しなければならないはず。しかし、この場合は「私は」に「背広を着た」がついているためか、述語には近づけにくい。「この例文は別なことを説明するためのものだから……」と弁解することは可能だろうが。
 前後の文がないのでなんとも言えないが、「背広を着た」はどういうニュアンスで使われているのだろう。唐突な感じがして不自然。
 それはさておき、2つの修正案について次のように解説されている。
 1)は、「何気なく」を、それがかかる「口にする」の直近に置いたもの。
 2)は、直近ではないけれど、実例文よりはもう少し近くに置き、かつ「何気なく、」と「何気なく」の次に「、」を打つことで、「何気なく」が「講演する」を飛び越して「口にする」にかかっていくことを示唆したもの。
 テンとハサミは使いよう。「、」は重宝なものなので、上手に使うことです。
 問題は修正案2)に関する記述。ここで語られている読点の効用は正しくはあっても、やや特殊なもの。ちゃんと説明しないと読者が理解できない。あっさり“流す”ぐらいなら、文としても不自然な修正案2)は出さないほうがいい。
「修飾語(形容する言葉)」は「被修飾語(形容される言葉)」の近くに置く、というのも基本的な原則のひとつではある。問題は例外をどう処理するか。
 たとえばタイトルの「形容する言葉は、形容される言葉の、できるだけ近くに置こう」の2つ目の読点の位置はいかにも不自然。そのまま削除してしまうべきだが、打ちたくなる気持ちも判る。原因は「できるだけ」を「近くに」の近くに置こうとしたため。次のように移動してみる。
 形容する言葉は、できるだけ形容される言葉の近くに置こう
 こちらのほうが自然。「できるだけ形容される」に見えてしまうというなら、「できるだけ」の直後に読点を打てばいい(その場合は1つ目の読点を削除するべきだろうか)。
 おそらく、どこに読点を打っても異和感が残るはもとの文がヘンだから。
 素直に書きかえたほうがよほどスッキリする。
 形容する言葉は、形容される言葉にできるだけ近づけよう
 形容する言葉と形容される言葉は、できるだけ近くに置こう

 P.96〜の「それをしたのは誰か? それぞれの行為の主体者を明確に書こう」の中にある例文('98年1月6日付『朝日新聞』)と修正案。
 【原文】
〈潤氏が可愛がっていた社員を配転させても、潤氏は異議を唱えなかったという〉
【修正案】
〈潤氏の可愛がっていた社員を、功氏が配転させても、潤氏は異議を唱えなかったという〉
 この修正案は間違いではないが、かなり美しくない。一文の中に「潤氏」が2回出てくるからだろう。2つの「潤氏」の間に「功氏」まで出てくるから、煩雑きわまりない。こんな修正案では説得力に欠ける。1つ目の読点も不要。根本的に書きかえて二文にするべきだが、一文のままでなんとかする方法もありそう。
 可愛がっていた社員が功氏に配転させられても、潤氏は異議を唱えなかったという。
 前後の文章によるが、これで十分だろう。判りにくいと感じるのなら、文頭に「自分の」をつければいい。
 修正案の解説では以下のように書かれている。
 「配転させ」た主体者として「功氏」を書き入れました。のみならず、「功氏が」と「が」という助詞を持ってきたので、「潤氏が可愛がっていた」の「潤氏が」を「潤氏の」と直しました。
「潤氏が可愛がっていた社員を、功氏が配転させても」と、「潤氏が」「功氏が」と「が」を二度使うよりも、「潤氏の可愛がっていた社員を、功氏が配転させても」とするほうが、よりわかりやすいと思います。
 この「が」と「の」の指摘はよく見る。そのとおりだと思う。
 この問題に関して、判らないことが2つある。ひとつは、文法的にはどうなのか、ということ。もうひとつは、なぜ「が」を使うべきではないのか、という疑問に対する正確な答え。類書では「読みにくい」「内容がわかりにくい」という理由があげられていたりする。多少読みにくい気はする。しかし、判りにくくはないだろう(「が、」と読点がつくのなら話は別)。「語感が悪くなる」という多分に感覚的な理由しか思いつかない。語感が悪くなるのは、たぶん「が」が濁音のなかでもとくに強い響きを持っているから。
 蛇足ながら、最近の新聞は「功」ではなく「@」と書いているはず。

 P.126〜の「同じ『音』の語尾の繰り返しは、避けよう」では例外として佐々木信綱の短歌が出てくる。
 一般の文において、一つの文の中の文節の語尾を同音で重ねていくのは、短歌などの場合と違って、インパクトを弱めます。いかにも安易で、工夫が足りないという感じも与えます。
 趣旨は判るが、この解説文はなんなのだろう。「インパクトを弱めます」は、例文の短歌が同じ「オ」音を重ねることで「印象を強めています」という解説に対応するのだろうが、「インパクト」や「印象」を弱めたり強めたりする効果はないはず。「いかにも安易で、工夫が足りないという感じも与えます」はそのとおりだと思う。ただ、「一つの文の中の文節の語尾」というノの4連発のあとでは説得力皆無。仮にギャグでやっているのだとしたら、説明が必要。「同じ文中の文節の語尾」としてもよいし、単に「文節の語尾」にしたほうがスッキリする気がする。ちなみに短歌の作者は佐佐木信綱のはず。
 このあとに出てくる例文(原典不明)と修正案。
 【原文】
〈今後もこのような社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえるような企画を考案中です〉
【修正案】
〈今後もこのように社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえるような企画を考案中です〉
「このような」を「このように」に変えた理由は、次のように説明されている(下線部は、原文では傍点)。
 前の文例では、各文節の語尾が同音の繰り返しになっていたのに対し、この文例では、「このような」「もらえるような」と、形容する言葉の語尾が「ア」という同音の繰り返しになっています。
「語尾」という言い方には異和感があるが、厳密な話をすると煩雑になりそうなので、「語尾」としておく。
 趣旨には大賛成だが、この場合は例文が不適切だろう。この例文には問題点が2点ある。1つ目は、そう長くない一文に「ような」が2回も出てくること。【修正案】のように一方を「ように」すれば多少マシになるが、「よう」が2回出てくる点は変わらない。いっそ後ろの「ように」を削除してしまうほうがスッキリする。
 【修正案2】
 今後もこのような社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえる企画を考案中です
【修正案2】は、1つ目の問題が解消されている(当然「ア」の繰り返しにもなっていない)。それでもまだヘンな感じがするのは、2つ目の問題点が解消されていないから。
「このような」は「企画」を修飾する言葉なので、このままでは修飾語と被修飾語が離れすぎている印象がある。これを「このように」にすると、「社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえる」を修飾するので不自然ではなくなる。
 もとに戻って、例文に比べて【修正案】がマシなのは、この2つ目の問題点が解決されているから。「ア」の同音の繰り返しが解消されたのは大した問題ではない。

 P.132〜の「どちらにも解されるようには、書かないようにしよう」の中にある例文(佐高信『鵜の目 鷹の目 佐高の目』所収の引用文)と修正案。
 【原文】
 〈……この観点で見ますと、オウムだけが邪教集団ではありません〉
 【修正案】
 〈……この観点で見ますと、邪教集団は、オウムだけではありません〉
 これは新鮮だった。「だけ+否定形」も両方の意味になりうることがある。ただし修正はむずかしくない。修正案の逆の意味なら、「邪教集団でないのはオウムだけです」にすればいいし、「だけ+否定形」を残して「オウムだけは邪教集団ではありません」としてもいい。
 P.105〜には「『〇〇のような』『〇〇のように』という言葉は、その使い方に注意しよう」という項目もある。修正案は「Aと違い、……」か「A同様、……」を使うことになっている。ただし、この2つが判りにくくなるのは否定形と併用されたときだけ、という重要なポイントが抜けている。

 P.143〜の読点やカギカッコの使い方を説明する例文(『サライ』'98年第15号)と修正案。
 【原文】
 〈「道の駅」は一般道にある高速道路のサービスエリアのようなもの〉
 【修正案】1)
 〈「道の駅」は一般道にある、高速道路のサービスエリアのようなもの〉
 【修正案】2)
 〈「道の駅」は、一般道にある「高速道路のサービスエリア」のようなもの〉
 例文が判りにくい原因の解説には次の記述がある。
 一読して「?!」と思うのは、一つには「一般道にある高速道路」と、つい読んでしまうことにあります。したがって、二つには「一般道にある」が、どこへかかっていくのかがつかみにくいことにあります。
 これは悪文だろう。冒頭の「思うのは」を「思う原因は」にすれば多少マシになる気もするが、それでもしっくり来ない。一般に「一つには」「二つには」という表現は「係り結ばず」になりやすい。このテの本であえて使うのなら、配慮するべき。「したがって、」も不要、と言うよりないほうがマシ。あまりやりたくないが、あえて最低限の修正案を作っておく。
 一読して「?!」と思うのは、つい「一般道にある高速道路」と読んでしまうためです。さらに、「一般道にある」がどこにかかっていくのかも、つかみにくくなっています。
 言葉の修飾・被修飾の関係に言及すると、どうしても話がややこしくなる。それでもやるなら徹底的にやるしかなく、こんなふうに中途半端にやるべきではない。
 修正案の解説の記述は次のとおり。
 1)は、「一般道にある」のあとに「、」を打つことで、「一般道にある」が「サービスエリア」へかかることを示したもの。
 2)は、〈「道の駅」は〉のあとに、「、」を打つことで、まず主語をハッキリさせ、かつ、「高速道路のサービスエリア」を「」ないしは@@で一くくりにすることで、「高速道路のサービスエリア」を一つの言葉のように見せ、「一般道にある」が「高速道路のサービスエリア」にかかることを明確にしたものです。
 1)より2)のほうが、わかりやすいかもしれませんね。
 これでも意味は通るかもしれないが、厳密に見ていくと相当問題が多い。
 まず第1文。ここで扱われている問題はP.94の解説にも通じる。読点を打てば、「一般道にある」が「高速道路」にはかからない感じにはなる。しかし、「サービスエリア」にかかることを示しはしない。この読点の働きについて同じような解説をしている「文章読本」を見たことがあるが、そちらはもう少しシンプルな例文で判りやすかった。細かいことを言うと、動詞が「かかる」の場合、助詞は「に」にするべきだろう。先の解説文のように「かかっていく」の場合は「へ」でもいい気がするが、やはり「に」のほうが自然だろう。
 第2文。長すぎ(長すぎると必ず判りにくいというわけではないが、この場合は長すぎることが判りにくさの原因のひとつになっている)。判りやすさを重視して読点を多めに打っている文は、一文が長くなるとどうしてもブツ切れの印象になる。ここで取りあげられている読点は打つほうがいいとは思うが、その理由は「主語をハッキリさせ」るためではない。1)は主語のあとに読点がないから主語がハッキリしないかと言うとそんなことはない。
 第3文。この場合は2)のほうが判りやすい理由をハッキリさせるべきでは。とは言っても、説明するとかなりむずかしくなりそうだな……1)のような使い方の読点(連体修飾の修飾語と被修飾語の間に打つ読点とでもいうべきか)を駆逐するのは容易ではない。そもそも、この例文自体が応急処置では対応できない気がする。
 一般道にある「道の駅」は、高速道路の「サービスエリア」のようなもの
 とでもするしかないが、これでもまだ不自然さが残る。「もの」を「機能をもつ」とでもすれば意味はハッキリする。さらに「のようなもの」を「に相当する機能をもつ」にすればもっと明確になる気はするが、堅い感じになってしまう。いっそのこと「一般道にある」を削除するか、前後の文を含めて大手術を施すしかなさそう。

 P.148〜の「『、』を打つか、語尾をちょっとかえるかしてみよう」の中にある例文('98年6月20日付『朝日新聞』夕刊)と修正案。
 【原文】
 〈少しそそっかしくて困った人がいると、放っておけない〉
 【修正案】1)
 〈少しそそっかしくて、困った人がいると、放っておけない〉
 【修正案】2)
 〈少しそそっかしいので困った人がいると、放っておけない〉
 【修正案】㈫
 〈少しそそっかしいので、困った人がいると、放っておけない〉
 これは例文が不適切なので解説が空回りしている感がある。原文が日本語になっていないから、多少修正してもマトモな文章にはならない。
 解説では「少しそそっかしくて困った人」なのか「少しそそっかしくて……放っておけない」なのか判らない、としている。しかし、どちらの意味にしても言葉の使い方に疑問が残る。
 前者なら「少しそそっかしくて困る人」とでもしなければヘン(「困る人」にしても口語的な感じで、正しい日本語か否かは不明)。「少しそそっかしくて困ってしまう人」のほうがマシかな。
 後者なら、「困っている人」とでもしなければヘン。さらに、「少しそそっかしくて……放っておけない」は意味が通じているようで通じていない。「人情家で……放っておけない」なら判るが。
 修正案1)のように読点を打てば一応解決はするが、言葉の使い方の問題が解決していないので日本語としては相変わらずヘン。ついでに言えば、このように読点を加えた場合は、2つ目の読点は削除するべき(修正案㈫も同様)。
 修正案2)を出した理由は、次のように解説されている。
 2)「そそっかしくて」の「〇〇しくて」という表現は、そのあとにくる言葉を、さらに追加する働きをします。この場合だと、「そそっかしいうえに困った人」ということになる。
 なんで最後がいきなりデアル体になったのかは知らない。それはさておき、この理由から語尾を2)のように直し、さらに㈫のように読点を加えればもっといいとしている(ここでも「語尾」という言い方には異和感がある)。
 これは勘違いだろう。「しくて」を「しいので」に変えたから「そそっかしい」と「困った」が結びつかなくなったわけではない。日本語としてもともとヘンな結びつきが、言葉を変えたために、たまたま異和感が強くなっただけ。「少しそそっかしいので困ってしまう人」なら、さほど異和感はない。まだ少しヘンなのは、もともとの例文がヘンなためだろう。
 このことは、次のような文で考えて同じような修正をするとはっきりする(この文を考えるのにエラく苦労した。シク活用の形容詞で適当なものが見つからないうえに、あげられている例と同じような係り方をさせるのが意外にむずかしかった。さんざん悩んで、結局非常にシンプルな形にたどり着いてしまった)。
 【原文】
 貧しくて飢えている人に、援助できない。
 【修正案】1)
 貧しくて、飢えている人に、援助できない。
 【修正案】2)
 貧しいので飢えている人に、援助できない。
 【修正案】㈫
 貧しいので、飢えている人に、援助できない。
 この例で「貧しくて飢えている人」(A)の意味になるか、「貧しくて……援助できない」(B)の意味になるかを考えてみる。
 原文の意味はAとしかとれない。修正案2)は日本語としてはやや不自然だが、「……ので」を使っていても意味としてはAで、Bとはとれないはず。一方、修正案1)㈫は、Bととるのが自然だろう(どちらも2つ目の読点はないほうがいいはず)。
 いずれにしてもまぎらわしい文なので、根本的に書きかえるべき。読点を打ったり、語尾をちょっとかえたりしてもまともな日本語にはなりにくい。結論としては、例文が不適。読点の有無によって文意が変わる例ならほかにいくらでもある。

 P.153〜の「ちょっと順序を入れかえてみよう」の中にある例文(太田蘭三『殺意の北八ヶ岳』より)と修正案。
 【原文】
〈釣部(渓三郎)は、あおむけになったまま、ぐったりとし、四肢を投げ出した亜夕子の脇の下に手を差し入れると、溶岩の斜面に引きずりあげた〉
【修正案】
〈あおむけになったまま、ぐったりとし、四肢を投げ出した亜夕子の脇の下に、釣部は、手を差し入れると、溶岩の斜面に引きずりあげた〉
 冒頭の(渓三郎)がどういう意味を持っているのか不明。単に「釣部」だと人名に見えないことを配慮したと考えておく。
 小説を例文にしたため、著者はかなり遠慮がちになっている。解説には「このようにわかりやすくしたとしても、文学的な味や良し悪しは、かわらないと思うのですが……」とある。
 小説の中で、このテの悪文を探しはじめるとキリがない。なんらかの効果を狙ったものもあるが、大半は単なる悪文。手に負えない代物も多く、相手にしないに限る。この場合の修正案も決して美しくない(もう少し読点を減らせばマシにはなるが)。

 P.164〜のテーマは「使用する文字・語・用法を統一しよう」。これは表記の統一の必要性と、使い分ける意義について考えるのに参考になった。
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【改訂版】 読書感想文/『敬語』(菊地康人/講談社学術文庫/1997年2月10日第1刷発行)──予想していたことではあるが……。

■2017年09月

 「ご利用いただけます」に関する記述を探して再読した。
 探している箇所は見つからなかったが、いろいろメモしたいことが出てきた。
 順番が前後するのがイヤなので、追記部分を挿入して、【改訂版】にする。文字数は大丈夫なんだろうか。


 下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2020.html
日本語アレコレの索引(日々増殖中)【8】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1821744441&owner_id=5019671

mixi日記2012年06月25日から

 以前感想文を書いた『敬語再入門』の親本とも言える一冊。
【読書感想文/『敬語再入門』(菊地康人/講談社学術文庫/2010年3月10日第1刷発行)】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2327.html

 Amazonのデータ。
http://www.amazon.co.jp/%E6%95%AC%E8%AA%9E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%8F%8A%E5%9C%B0-%E5%BA%B7%E4%BA%BA/dp/4061592688
『敬語再入門』に比べると、体系立てて書いてあり、網羅的な記述になっている。
 簡単に言うと、『敬語』が敬語全般を語っているのに対して、『敬語再入門』は要点だけをアトランダム(でもないんだけど)に書いている。
 うんと大雑把に言うと、前者は学術書に近い印象があり、後者はハウツー本に近い印象がある。予想していたことではあるが、当方のように敬語にうとい人間にとっては、後者のほうがとっつきやすい。
 データ的なことを書いておく。
『敬語』   :1997年2月10日第1刷発行
『敬語再入門』:2010年3月10日第1刷発行
『敬語』の原本は1994年角川書店から刊行され、95年度の「金田一賞」を受けている。しかし、角川では一度重版がかかったきりで絶版。講談社学術文庫で再刊されている。
『敬語再入門』の原本は1996年に丸善ライブラリーから刊行。
 ちなみに『敬語』の第1刷は1170円+税だった。当方が購入したのは第14刷で1400円+税。
 これを「けっこう売れている」と考えるか「意外に売れていない」と考えるか。この内容を考えると、もっと爆発的に売れてもおかしくない。とくに昨今のように敬語に関するホニャララな説が流布するなら、こういう書籍の需要が高くなるはずなんだけど……。
 本書がどれほど本格的な書き方をしているのかは、目次を見ただけでわかる。

I章 ことばを使い分ける 29
II章 敬語のあらまし 89
III章 敬語の仕組み使い方──その一 いわゆる尊敬語 114
IV章 敬語の仕組み使い方──その二 いわゆる謙譲語 254
V章 敬語の仕組み使い方──その三 いわゆる丁寧語 354
VI章 敬語の仕組み使い方──その四 全体に関すること 378
VII章 敬語の編か・誤り・将来をめぐって 410

 具体的な話に入るまでに100ページ以上ある。これだけで薄めの文庫本くらいのボリュームがある。全部で500ページ近くあり、半分も読むと満腹感がある。実際には半分では尊敬語の話が終わるくらい(泣)。


【引用部】
意気込みとはうらはらに、思わぬ不備などがあれば、ぜひご叱正をお願いしたい。(P.7)
 敬語とは関係のない話。「ご叱正」ってMAX敬語で初めて見た言葉。文章に関する記述なので、申し分なく正しい(笑)。

【引用部】
この中では丁寧な「あなた」という語も、実は、目上などに対してはそもそも使いにくいところがあり、「社長」「先生」のような職名などで呼ぶとか「○○さん」と呼ぶようなことも多い。(P.32)
 なぜ「あなた」は目上には使いにくいのか。ほかにどんな二人称が使えるのか。そのあたりをちゃんと書いてくれないかなぁ……と無理を承知で書いてみる。

【引用部】
 《改まり》の例としては、ほかに「今日(きょう)」に対する「本日」、「さっき」に対する「先程」などもあげられる。概(がい)して、和語よりも漢語のほうが改まった趣が出る傾向があり、本書冒頭の例で「開けたら」より「開封後は」のほうが改まった感じがするのもその一例である。(P.38)
 これが一般的な解釈だろう。和語のほうが敬度が高いとか、忌み言葉や女房言葉のほうが敬度が高いなんてことはない。ただ、まともな学者は「漢語のほうが敬度が高いからMAX敬語」なんてバカなことは断言しない(黒笑)。

【引用部】
 〈相手に何か頼むとき、相手の意向を尋ねる形の表現のほうが、普通の依頼の表現よりも、相手を立てる(→丁寧な)表現となる〉ということもいえる。具体的には、相手に何らかの行為を求める場合には、「……してくれる(くださる)?」と尋ねるほうが「……してくれ」(ください)」とストレートに頼むよりも、あるいは「……してもらえる(いただける)?」と尋ねるほうが「……してほしいんだけど」と頼むよりも、概してやわらかい感じがする。また、自分が何かをしたいときには、「……していい?」と尋ねるほうが「……したいんだけど」と述べるよりも、やわらかいだろう。
(中略)
 さらに、〈意向を尋ねる形をとって頼む場合、否定疑問形のほうが肯定疑問形よりも丁寧な感じがする〉ということも、概していえそうである。「……してくれない?/くれませんか?」のほうが「……してくれる?/くれますか?」より、また「……してもらえない?/もらえませんか?」のほうが「……してもらえる?/もらえますか?」より、やわらかいであろう。
(中略)
 このことも含めてさらに一般的には、〈間接的・婉曲な述べ方のほうが直接的な述べ方よりもやわらかい(→丁寧な)印象を与える〉という傾向がある。「お早くお召し上がりください」より「お早めにお召し上がりください」のほうが丁寧に響くのもその例である。(P.82~84)
 ものすごく基本的なことだと思うけど、こういう記述をちゃんと読んだ記憶がない。今後の引用の都合もありそうなのでメモしておく。

【引用部】
とくに日本語では「あなた」という語は使いにくい面があるので、一々主語を「私」だの「あなた」だのと言わなくても、それを敬語で紛れなく示すというのは──それだけの技量をもっている人は──、まことにスマートな敬語づかいといえるだろう。(P.101)
 このあたりは(P.32)の記述と微妙にリンクしているかも。

【引用部】
あそこの饅頭(まんじゅう)はうまいですね。(P.104)
 別に例文はなんでもいいのだから、あえて〈形容詞+です〉を出さなくてもいいものを。まあ、「ね」がついてるから許容範囲だけど。「おいしいです」とかにすればいいじゃない……と一瞬でも考えてしまった自分の間抜けさがイヤ。それじゃ同じことだって。

【引用部】
これは一つには、「ます」による丁寧語は誰でも簡単に使える(これに比べて、尊敬語を使いこなすのはさほど簡単ではない)という事情もあるかと思われるが、ともかく、ごく一般的には、(後略)(P.107)
 このあとも長く続くが、「二つ目」も「次に」は出てこない。この用法は丸谷才一に文章でも目にしたから、もはや許容なのかもしれない。なんだかなぁ。

 P.116に「特定形」という言葉が出てくる。「言う」が一般形で、「おっしゃる」が特定形ってこと。これからはこの言葉を使おうか。「不規則敬語」って好きだったんだけど。

【引用部】
もっとも三上氏は、旧軍隊では、士官(尉官)が将軍に向かって言う場合には上長官(左官)をも呼び捨てにするという伝聞を紹介しているのだが、少なくとも現代の企業などではあまり見られない習慣だろう。(P.127)
 この少し前には三上章のことを「氏は日本語の文法・敬語に関して大きな功績を残した研究者」と書いている。なんか気にかかる書き方だな。

【引用部】
そこで、敬語(普通レベルの敬度をもつ諸敬語)を使い慣れている人にとっては、レル敬語はいわば「安っぽい」「ぎこちない」敬語という位置づけになるのだが、一方、レル敬語の愛好者にとっては、「お/ご~~になる」は丁寧すぎてうるさい」と感じられることがあるらしい。感覚の個人差で、この辺が難しいところだが、要するに相手や場合によって使い分ければよいわけであろう。なお、ある種の書き言葉(たとえば書物や論文などの中)ではナル敬語は使いにくい(四四頁)といった面もある。
 ちなみに歴史的には、レル敬語は、東京の話し言葉では江戸時代にも明治にもわずかしか使われていなかったが、東京語以外の要素も取り入れながら標準語が制定されていく中で、東京でも昭和十年代ごろから使用が増えてきた、という経緯をもつ(金田弘氏による)。(P.146~147)
 レル敬語とナル敬語の話のなかに出てきた記述。このあたりを「個人差」という言葉で片づけていいのかという判断がむずかしい。

【引用部】
前述の〈一般形〉ではない〈特定形〉であるが(一一六頁)、とくに〈一般形〉のかわりに使われるという意味では〈言い換え形〉と読んでもよかろう(〈代用形〉と呼ぶ場合もある)。(P.157)
〈言い換え形〉はまだしも〈代用形〉は失礼だろう。常用漢字にないから代用漢字を使う、というのとは話が違うんだから。

【引用部】
 ③「死ぬ」は「お死にになる」とは言わない。直接的な表現を避けて「おなくなりになる」と言う。「なくなる」自体も「死ぬ」に比べ間接的なので、ある程度尊敬語的な感じがするがこれは身内にも使うので、厳密には尊敬語ではない(犬や猫の死にも「なくなる」)と使う人もいるほどである)。「なくなられる」「おなくなりになる」と使ってはじめて尊敬語と見るべきだろう。(P.165)
 やはりそういうことですね。

【引用部】
 以上、種々に制約を見てきた。が、これらの場合を除けば、やはりかなり多くの語についてナル敬語は作れるのである。ちなみに、“「お」の音で始まる動詞は「お~~になる」の形にするができない(「お」の音の重なりを嫌うため)”という俗説が一部にあるようだが──敬語についての入門的な読み物の中で、そのようなルールがあるかのように述べられているのを読んだことがあるが──、必ずしもそのようなことはない。たとえば「お起きになる・お置きになる・お送りになる・お教えになる・お思いになる・お降りになる」など、ごく自然に使われる。ただし、たとえば「お踊りになる・お驚きになる」などは、確かに不自然な感がある。(P.172)
 このあたりは、理屈では割り切れない問題だろう。

【引用部】
が、受身表現はしばしば迷惑を受けたという趣をもちやすく、ある人物を尊敬語で高めながら、その同じ人物によって迷惑をこうむったという言い方をするのは、やはり、そもそもなじまない感がある。「困った」ということを意図的に強調する場合や、ふざけて、あるいは皮肉で言うような場合はともかく、一般的には避けたほうがいいだろう。(P.175)
 この前にあるのは「ナル敬語+受身」の話。「お/ご~~になられる」の形は理屈の上ではなくはない。と書いたあとに続く部分。尊敬語を受身にすることへの異和感は、このあたりにもあるのかもしれない。
【「そのようにおっしゃられても困ります」〈3〉】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1800136243&owner_id=5019671

【引用部】(201709追記)
 なお、ここで言い添えておくと、「お/ご〜される」という形(たとえば「お読みされる」や「ご出席される」など。とくに「ご」のつくほう)を、近年よく見聞きする。これは、漢語Aの場合「ご主席なさる」「出席なさる」「出席される」がいずれもよいので、「ご出席される」もついよさそうに思えてしまうという、かなり自然な類推ではあるし、使う人も確実に増えているので、この形が市民権を得ていくのも時間の問題かと思われるが、しかし、実は規範的には正しい敬語とは認められていないものである。(P.181)
 これを読んだときには理解したつもりだったが、このところ妙な敬語に触れる敬語が増えて、あやふやになりつつあった。再確認の意味を含めて。いえその、さすがに「お読みされる」は使わないけど。

【引用部】(201709追記)
〜を支える助動詞的なものなので、国文法では補助動詞(補助用言)と呼んでいる。これに対して、本来の用法(物の授受の場合)を本動詞と呼ぶことがある。(P.198)
 単なるメモです。前者は「呼んでいる」で、後者は「呼ぶことがある」なんだそうな。

【引用部】(ちょっと形式をかえている)
○書いてくれる→(「くれる」を敬語に)→
①書いてくださる→(「書いて」を敬語に)→
②お書きになってくださる→(「になって」を除く)→
③お書きくださる

というわけである。漢語系の熟語の場合も原理は同じで、「指導してくれる→①指導してくださる→②ご指導なさって(ご指導になって)くださる→③ご指導くださる」と考えればよい(漢語系では上述のように「ご~~になる」と言いにくい語もあるので、②は、「ご~~なさる」と両形併記しておく)。①②③は、どれも「……てくれる」の尊敬語で、ただ敬度が違うだけである。敬度は②③①の順だが、②と③はそれほど敬度が違わず、むしろ②はやや冗長な感じがしたり、場合によっては不自然だったりするので(二一〇―二一二頁)、簡潔で敬度も十分な③の「お/ご~~くださる」が頻繁に使われる。敬度の高い依頼の形としては「お/ご~~ください(くださいませ、くださいませんか、くださいませんでしょうか、くださいますようお願い申し上げます」ということになる。(「……ますか」より「……ませんか」のほうが敬度が高く響くことは、八三頁参照)。(P.204~205)
 この考え方は、いろいろな形に応用できる。この直後に出てくる「書いてもらう」の場合も同様。
  書いてもらう→書いていただく→
  お書きになっていただく→お書きいただく
 ということ。ここを押さえておくと、「敬語連結」や「二重敬語」について考えるときに実に役に立つ。

【引用部】(201709追記)
なお、「お召しあがりになる」が二重敬語ではあっても使われるのと同様に、「お召しあがりくださる(ください)」も使われ、誤りでは
ない(本書冒頭の「お早めにお召しあがりくださいませ」など)。(P.206)
 懸案事項がひとつ解決した。やはり「お召しあがりくださる(ください)」も許容される二重敬語らしい。

【引用部】 ※【 】は原文では傍線
「お/ご~~してくださる(ください)」「お/ご~~していただく」は、一般に誤り。
  ─→『して」を取って、「お/ご~~くださる(ください)」「お/ご~~いただく」と言えばよい。

 「一般に」にと書き添えたのは、特別な場合には、この「お/ご~~してくださる(ください)」「お/ご~~していただく」という形が誤りでなく使われる場合もありうるからなのだが、これについてはあとで触れるとしよう(二六六〜二六七頁)。だが、それはかなり特別な場合なので、一般にはこの形は誤りと覚えておいてよい。
 〈語形〉について、ほかに細かい点をいくつか補足しておこう。まず、「お/ご〜〜【を】くださる」「お/ご〜〜【を】いただく」と、「を」を入れて使う形について。この形は時々使う人があり(とくに「いただく」の場合に多いようである)、なぜか国会の質問や答弁で「お調べをいただく」「ご審議をいただく」などと頻繁に耳にするのだが、私の語感では、いささか耳障りである。読者には、「お偉方がお使いになるのだから正しいのだろう」などと安易に真似をしないようにお勧めしておきたい。ただし、「お許しをいただく」「ご指導をいただく」などのように、「お/ご〜〜」の部分が名詞としての独立性を十分にもち、かつ、「いただく」が単に「恩恵を得る」意にとどまらず「相手側から話手側に向かう行為などを受ける」という方向性をもった意で使われる場合ならば、「を」を入れても不自然ではない。(P.209〜210)【】部は、原本では傍線。
 前半は下記の問題にかかわる。あのときは新鮮な発見の気がしたが、けっこうよく見る問題らしい。
235)【「お○○してください」「ご○○してください」「お~してください」「ご~してください」☆日本語教師☆】玉石混交
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515394161&owner_id=5019671
 後半は下記で少し書いて挫折した話。〈名詞としての独立性を十分にもち、かつ、「いただく」が単に「恩恵を得る」意にとどまらず「相手側から話手側に向かう行為などを受ける」という方向性をもった意で使われる場合〉ってどういう場合なんだろう(泣)。
441)【「サ変動詞」(熟語動詞)の怪】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1691633286&owner_id=5019671

【引用部】(201709追記)「〜てくださる」「〜ていただく」の話
 この点を別にすれば、両者は事実上同内容で、敬度も同程度といってよかろう。(P.216)
 アンケートをとると、「いただいた」のほうが敬度が高いと感じる人のほが少し多いらしい。これはNHKの調査とも合致する。
【ご来店{ください/いただき}まして(誠に)ありがとうございます】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2339.html

【引用部】(201709追記)
 次に、これも主に「……(さ)せていただく」の場合であるが、……の動作(「読ませていただく」なら「読む」)Y(低められる側)の動作なので、この部分も謙譲語にして、
              「読む」を「拝読する」に
読ませていただく—————————————————————→拝読させていただく
              「尋ねる」を「お尋ねする」に
尋ねさせていただく————————————————————→お尋ねさせていただく
              「説明する」を「ご説明する」に
説明させていただく————————————————————→ご説明させていただく

 などのように言うこともある。それぞれ、たとえば「御論文拝読させていただきました」「総理に二点お尋ねさせていただきます」「では、ご説明させていただきます」などというふうに使う。(P.225〜226)
 なーんだ。こんなにハッキリ書いてあった。
「誤用」なんて書いていない。「誤用」ではないのだから当然だろう。
「二重敬語」とも書いていない。「二重敬語」ではないのだから当然だろう。
 敬語の専門家がそんな●●なことを書くわけがない。
 ちょっと意外なのは「過剰敬語気味」とも「クドい云々」とさえも書いていないこと(笑)。けっこうクドいから、ムヤミには使えないと思うけど……。
 なぜ後継にあたる『敬語再入門』ではこの問題にふれていないのか、という疑問が残る(当方が見つけられないだけ?)。おそらく、著者にとっては当たり前のことでたいした問題ではないのだろう。世間では根拠もなく「誤用」「二重敬語」と主張している人が山ほどいるのに。

【引用部】(201709追記)
 なお、「見せる」「乗せる」などは、文法的には「動詞+せる」ではなく、そもそも使役的な意味をもった単独の動詞だが、これらについても、「見せてくださる/いただく」「乗せてくださる/いただく」とほぼ同様の〈機能〉になる。(P.226〜227)

【引用部】(201709追記) ※【 】は原文では傍線
たとえばウェイトレスが客に
  ル パンとライス、どちらをいただきますか。
と聞いたり、商品(食品)に
  レ 冷やすと【おいしくいただけます】。
と書いてあったりするのは、それぞれ「どちらを召しあがりますか」「おいしくめしあがれます」と言うべきところである。なお、レの場合、
  ロ 冷やすとおいしく【お召しあがりいただけます】。
ならば正しい。これは、会社側として客に「おいしく食べてもらえる」という内容を敬語で述べたもので、「食べる」の意味上の主語は客なので尊敬語「召しあがる」を使い、「……てもらう」の主語は会社なので謙譲語「いただく」を使った的確な使い方である。やや過剰敬語的だと感じる向きもあるようだが、私の語感では別に過剰敬語という感じはない。(P.228)
 おそらく 「ご利用いただけます」に関連しそうな記述はここだけ。

【引用部】
(2)の例としては、「いつご出発ですか」・「こちらでお召しあがりですか」(たとえば外食産業の販売員が客に、店で食べるか持ち帰るかを聞くときに使う)/「ご使用の際は説明書をお読みください」(後略)(P.236)
 いきなり(2)と書いてもなんのことかわからんよな。こういう引用のしかたはいけません。テーマになっているのは、『敬語再入門』の読書感想文で少し書いた「お/ご〜〜だ(です)」の形。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1824714512&owner_id=5019671
================================引用開始
【引用部】
Q.「読んでいる」を尊敬語でいうとどうなりますか。(P.52)
 イチバン敬度が高いのは「読んで」と「いる」の両方を尊敬語にする「お読みになっていらっしゃる」。これは「敬語連結」なので「二重敬語」ではない。
 片方だけを敬語にした下記の形も一般的。
  読んでいらっしゃる
  お読みになっている

 どちらかと言うと、後半だけを敬語にする「読んでいらっしゃる」のほうが一般的らしい。
 このほかに「レル敬語」系の「読まれている」はあまりこなれていない。「読んでおられる」は誤用の疑いアリとのこと。
 著者がすすめているのは、「お読みだ/お読みです」の類い。「お読みでいらっしゃる」にするとさらに敬度が上がる。
 この言い方は少なくとも2つの問題にかかわる。
 ひとつは「お召し上がりですか?」。もうひとつは後出の「○○住み」。
================================引用終了
「お/ご〜〜だ(です)」は、一般には(1)「……している」という意味。そのほかに(2)「……する」、(3)「……した」の意味もある。(3)「……した」の典型は帰宅途中の人に近所の人が言う「いまお帰りですか」。
 (2)「……する」の典型が「こちらでお召しあがりですか」。本書では「たとえば」とあるが、これ以外の用法があるのだろうか。奥さんが旦那にこう言ったら、ほとんど喧嘩腰だろうな。
「こちらでお召しあがりですか」を問題視する意見もよく目にする。お手本になるような敬語だとは思わないが「間違い」ではない(こればっかり)。ちょっと言葉足らずな気はするけど、適切な言いかえが思い浮かばない。「こちらでお召しあがりになりますか?」だろうか。この形は二重敬語だけど、文化庁が許容しているのでOKだろう。ただ、セットになっている(ポテトとコーラじゃなく)慣用句が妙なことになる。「お持ち帰りになりますか?」かな。
「お持ち帰りになりますか? こちらでお召しあがりになりますか?」か……相当クドいな。

【引用部】
 「切符をお持ちの方」「お探しの品」など「お/ご〜〜の+名詞」という言い方は、以上に見てきた尊敬語「お/ご〜〜だ(です)」が連体修飾語として使われたものといえる。この「お/ご〜〜の+名詞」という形を「今日ご紹介の〔私どもが皆さんにご紹介する〕お
品は……」(テレフォンショッピングの広告)などと使うのは、謙譲語(本書の謙譲語A)として使っていることになり、少なくとも私の語感では違和感がある。(謙譲語なら「今日紹介するお品」というべきところである)。ただし、来客が持ってきた菓子などをその客に出すとき「お持たせのお品で失礼ですが」と言うのは、「お持たせした〔=自分が用意すべきものを客に持たせた(運ばせた)〕」意で、理屈の上では謙譲語としての使い方である。定型化した例外的なものと見ておきたい。(P.238)
 ウーム。今日ご紹介のお品は……」は単純に「ご紹介する」の省略形と考えていた。違うのね。「お持たせのお品」にもこんな深い背景があるのね。耳から漏れる煙が止まらない……。

【引用部】(201709追記)
 玉 天皇・皇族に使う敬語として「玉座・玉体」などがあったが、すでにあまり使わない。「玉稿」は、原稿を受け取った人が書いた人に「玉稿拝受致しました」などと使う(拝受は謙譲語)。(P.242)
 今度は「拝+いたします」。これも「誤用」とも「二重敬語」とも書いていない。
 フツーの表現だよなー。

【引用部】
 ただし、厳密には、職名と敬称はやはり異なる。つまり、たとえば不名誉なことをして新聞に出る場合でも「○○教授」「○○社長」なのであり、これは、呼び捨てにもできないから付けているだけのことで、敬度の高い敬称ではない。教師については、こうしたケースでは「○○先生」とは絶対いわない。「先生」は敬称、「教授」は職名なのである。そこで、大学に学外からかかってきた電話を助手が受けて教授について話す場合、「○○先生は授業中です」より「○○教授は授業中です」のほうが、身内を高めないという意味で望ましい、ということになるかと思われる。(P.245)
「なるかと思われる」という結びが気になるが、そのことはおく。大学は「授業」じゃなく「講義」だろう、というツッコミも、近年は「授業」というらしいから無視する。そういうことではなく、こういう論理的な文章を読むと気持ちがいい(ほんの少しだけ冗長な気はするけど)。〈「先生」は敬称、「教授」は職名〉ですか。だから不名誉なことをした場合は「先生」ではなく「教諭」なのね。「社長」の場合は、「○○会社社長の△△■■氏」くらいかな。

【引用部】
接尾語「……方(たとえば「先生方」)」は、「……たち」の尊敬語。学生が公式的な場などで「先生たち」と言うのは敬度が不十分で、「先生方」とありたいところである。「……方」が尊敬、「……たち」がニュートラル、「……ども」が謙譲という関係になる。(P.246)
 ちょっと気になって調べた。「方」は複数を指す場合と、単数を指す場合がある。単数の場合は名詞で「かた」、複数の場合は接尾語で「がた」らしい。「方々」は単数の「かた」の複数形らしい。なんのこっちゃ。
■Web辞書『大辞泉』から
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/03297400/
================================引用開始
かた【方】
【1】[名]
4 《方角を示すことによって間接的に》人をさす敬った言い方。「女の―」「乗り越しの―」
【2】[接尾]
5 《「がた」とも》名詞に付く。
①二つあるものの一方の側、また、それに属する人を表す。「相手―」「母―」
②その物事を担当する係であることを表す。「まかない―」「会計―」
6 《「がた」とも》数量などを表す名詞に付いて、だいたいそのくらいの意を表す。「三割―安い」「八割―片付いた」
================================引用終了

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%96%B9&dtype=0&dname=0na&stype=0&index=03301700&pagenum=1
================================引用開始
がた【方】
[接尾]
1 人を表す名詞に付いて、複数の人々を尊敬していう意を表す。「先生―」「奥様―」
2 時に関する名詞や動詞の連用形に付いて、だいたいその時分という意を表す。「暮れ―」「明け―」
3 「かた(方)【2】56」に同じ。
→達(たち)[用法]
================================引用終了
 オイオイ、〈【2】56〉じゃなくて、〈【2】5①②〉だろう。記載がかわって、修正しきれなかったな(笑)。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E6%96%B9%E3%80%85&stype=0&dtype=0
================================引用開始
かた‐がた【方方/×旁】
【1】[名]
1 (方方)「人々」の敬称。かたたち。「お世話になった―」
================================引用終了

【引用部】
 「……各位」(たとえば「読者各位」)は、一人ずつを高める趣の表現。「位」がすでに(元
来は中国語)人を高めて指す言い方なので、「各位様」と使うのはおかしい。(P.246)
■Web辞書『大辞泉』から
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E8%9C%B7%EF%BF%BD%EF%BD%BD%EF%BF%BD&stype=0&dtype=0
================================引用開始
かく‐い〔‐ヰ〕【各位】
大ぜいの人を対象にして、その一人一人を敬って言う語。皆様。皆様方。多く、改まった席上や書面で用いる。「会員―にお知らせします」

◆「各位殿」という表現は、敬意が重複することになるので、好ましくない。
================================引用終了
 ということは「お客様各位」も重言なんだろうか。でも「顧客各位」「利用者各位」はマズいんじゃなかろうか。

 P.247〜のテーマは〈「……だ/です」の尊敬語〉。例の話が出てくる。敬語に慣れている人は、「……だ/です」の内容を以下のように使い分ける。
 I人称者(自分側)を主語とするときは「……でございます」
 II人称者(相手側)を主語とするときは「……でいらっしゃいます」
 理屈ではわかっていても、これができないorz。待ち合わせをした人に「田中さんでございますか?」って言っちゃいそうだよな。
「私は時間がございますが、先生はお時間がおありですか」
 これも「お時間はございますか」って言っちゃいそう。敬語は悩ましい。

 P.250〜のテーマは〈形容詞・形容動詞についての尊敬語〉。本題とは別のところでちょっと気になる。形容詞は「お/ご」をつけて尊敬語にでき、「お忙しいですか」のように使うそうだ。ここも「か」がついているので、許容範囲かな。いろいろ考えて、「形容詞+です」はもうOKと考えるしかないのかな、と思いつつある。
 この場合にもP.247〜の話が適用され、II人称者(相手側)を主語にするときは、「お忙しゅうございますか」ではなく「お忙しくていらっしゃいますか」のほうがふさわしいらしい。これもダメだな。さすがに「忙しゅう」は使わないが「お忙しいですか」とか言ってしまいそう。

【引用部】
したがって、「安い/買いやすい」という意味で「お求めやすい」と近年よく使うのは、本来なら「お求めになりやすい」と言うべきところである。が、この「お求めやすい」はすっかり定着してしまった。すでに誤りとは言いにくいほどで、「お求めやすい」全体で一種の丁寧語のようになっている、とでも見るべきなのかもしれない。(P.251)
 このあたりも「柔軟性がある」と考えるべきなのだろうか。「お求めやすい」って定着したの? まだ認めてほしくない。

【引用部】
 副詞の尊敬語としては、「お早々と」「ごゆっくり」などがある。「いつもお早々とお年賀状をくださる」「坂が急ですので、どうぞ、ごゆっくりお歩きください」のように、その副詞が係る動詞の、やはり主語を高める。ただし、「お早々とお年賀状をいただき有難うございました」の場合は、「いただく」の主語ではなく〈与え手〉を高めることになる。(P.251)
 さりげなく、重大なことを言っている。これが正しいなら、「ご来店いただきありがとうございます」も何も問題がなくなる。

【引用部】
 II−2で、日本語の敬語は言語体系の随所に発達していると述べたが、品詞という観点からも、これまで見てきたように、動詞・名詞・形容詞・形容動詞・副詞・助動詞(名詞の後の「だ/です」は助動詞)・助詞(さらに「この→こちらの」「したがって→したがいまして」(尊敬語ではないが)などまで含めれば連体詞・接続詞にも)と、実に多くの品詞について敬語が存するわけである。(P.253)
 二重パーレンはやめようよ、という話はおく。
 なんかこんな感じで書いてあると、ホント尊敬語だけでおなかいっぱい。
 字数制限があるので、項を改める。


読書感想文/『敬語』2

 やっと謙譲語。なお、本書で謙譲語Aと書いているのは謙譲語Iのことで謙譲語Bと書いているのは謙譲語IIのこと。新しい?言い方の謙譲語I、謙譲語IIに書きかえる。

【引用部】
  ア 私はそのやくざに、早く足を洗うように申し上げました。
  イ 私はそのやくざに、早く足を洗うように申しました。
 イはよいが、アはおかしいと直ちに感じられるであろう。この差は何なんだろうか。「申し上げる」と「申す」とは、どちらも「言う」の謙譲語と呼ばれるものの、〈誰に対する敬語か〉という点で性質が違い、それによってアとイの適否の差も分かれるのである。(P.254)
 答えだけを書くなら。アは謙譲語Iで、イは謙譲語IIだから。と書いてもわからないだろうな。これを理解してもらうには、数ページにわたって引用する必要がある。謙譲語Iと謙譲語IIの話はメンドーなので、『敬語再入門』の読書感想文のときには避けて通った。個人的な整理の意味をこめて、書いてみる。相当の難物だけどしっかりついてくるように。
……「センセー、先頭を走っていたはずのtobiクンがいません。真っ先に脱落したみたいで〜す」「放っておきなさい」
 引用できるテキストだと「敬語の指針」になるのだろう。ただ、これもP.18〜20あたりを丸々引用する必要がありそうだ。以下、本書と「敬語の指針」をうんと圧縮してポイントだけを書く。
●謙譲語I(一般に謙譲語と言われているのはこちらだと思っていい……はず)
 これはいっぱいあるので覚えなくていい。謙譲語IIだけを覚えることをおすすめする。
【例】
 一般形……「お/ご〜する」「お/ご〜申し上げる」「お/ご〜いただく」……etc.
 特定形……伺う/承る/申し上げる/存じ上げる/さしあげる/……etc.
 接頭語……自分側の「お手紙」「ご説明」(相手側の「お手紙」は尊敬語)……etc.
      拝(動詞にもかかわるので別にしておく)……etc.
●謙譲語II
 特定形……参る、申す、いたす、おる、存じる
  補助動詞として使われる「〜いたす」「〜おる」も同様
 接頭語……愚、小、拙、弊……etc.
●謙譲語Iと謙譲語IIの違い
1)謙譲語Iは補語を高め、謙譲語IIは聞き手(読み手)を高める
 【引用部】のアがおかしいのは、「やくざ」に対して敬語を使うことになるから。イがおかしくないのは、聞き手(読み手)に対する敬語だから。通常は「(文中の)補語」=「聞き手(読み手)」ってことが多いからとくに意識しなくていい。微妙な問題に踏み込むなら、ここを区別しなければならない。
2)謙譲語IIは原則として丁寧語を伴う
 【引用部】の例の補語をかえて考える。
  ア-2 私は先生に、早く足を洗うように申し上げた。
  イ-2 私は先生に、早く足を洗うように申した。
 たとえば日記なんかだと、敬体(デス・マス体)ではなく常体(デアル体)で書く人が多いと思う。常体の文章のなかで、ア-2のように書いてもおかしくない。こう書いても「先生」に対する敬意は残る。イ-2はかなりおかしい。聞き手(読み手)に対する敬語である謙譲語IIは、常体にはなじまない。そのためか、謙譲語IIは「丁重語」とも呼ばれる。
3)謙譲語IIは聞き手(読み手)に直接関係のない対象にも使える
【引用部】
  ヤ この退会には全国から三百人の選手が参加いたします。(スポーツの放送)
  ユ まもなく電車がまいります。(駅のアナウンス)
  ヨ プラトンが申しますには……(学者の講義)(P.273)
4)「お/ご〜いたします」は謙譲語I兼謙譲語IIの特殊な形
 本書のP.297〜306に詳しく書いてあるがあまりにも長いので、「敬語の指針」からひく。
「敬語の指針」p.30~から====================引用開始

【補足イ:謙譲語Iと謙譲語IIの両方の性質を併せ持つ敬語】 
謙譲語Iと謙譲語IIとは,上述のように異なる種類の敬語であるが,その一方で, 両方の性質を併せ持つ敬語として「お(ご)......いたす」がある。 
「駅で先生をお待ちいたします。」と述べる場合,「駅で先生を待ちます。」と同じ 内容であるが,「待つ」の代わりに「お待ちいたす」が使われている。これは,「お待 ちする」の「する」を更に「いたす」に代えたものであり,「お待ちする」(謙譲語I) と「いたす」(謙譲語II)の両方が使われていることになる。この場合,「お待ちする」 の働きにより,「待つ」の<向かう先>である「先生」を立てるとともに,「いたす」 の働きにより,話や文章の<相手>(「先生」である場合も,他の人物である場合も ある。)に対して丁重に述べることにもなる。 
つまり,「お(ご)......いたす」は,「自分側から相手側又は第三者に向かう行為につ いて,その向かう先の人物を立てるとともに,話や文章の相手に対して丁重に述べる」 という働きを持つ,「謙譲語I」兼「謙譲語II」である。
================================引用終了

【引用部】
 会社の社長が挨拶するとき、司会者が
  ソ 只今より、○○社長にご挨拶をいただきます。
  タ 只今より、○○社長がご挨拶を申し上げます。
のどちらを使うべきか──これは、相手次第で使い分けなければならない。社内の会合なら、社長を高めるソでよいが、社外からの参加者のある会合(たとえば株主総会)なら、ソはまずい。(P.260)
 これは敬語の上級問題だろう。迷った場合の逃げ方はP.262にある(社長ではなく「会長」になっている)。
「只今より、○○会長のご挨拶がございます」
「ご挨拶」は尊敬語としても、謙譲語Iとしても使える。ウーム。なんてホニャララな……。このテクニックは本書の中に何回か出てくる。

【引用部】
 「お/ご〜〜する」という形自体は古くから散見するのだが、本書のいう〈一般形〉として使われるようになったのはさほど古くはなく、小松寿雄氏の調査によると明治三十年代ごろからのようである。ただし、その当初からしばらくの間は、実際には次第に使われるようになってはきても、「お/ご〜〜いたす」や、当時の代表的な謙譲語「お/ご〜〜申す」のほうが規範にかなった言い方だという意識があったようで、小松氏によれば、昭和十年代になっても(一部には戦後になっても)「お/ご〜〜する」という言い方は認めないとする向きがあったという(言葉についてやかましく論評する人は、いつの世にもいるもののようである)。「お/ご〜〜する」が、規範的な立場からも一般に認められるようになったのは、戦後のことのようである。(P.282)
 言葉の歴史的な変遷に関しては、できるだけかかわらないようにしている。なんらかの根拠がある確度の高い説には耳を傾けるが、そうでないものは聞き流す。当方が興味をもつのは、主として現在使われる言葉限定。この〈「お/ご〜する」未熟説〉(なのか?)については、Wikipediaか何かで、金田一(ファミリーの誰か)が同じようなことを主張したという記述を見た。
 気になってあれこれ検索して見つけた。ああこんなことを書いていると終わらない(泣)。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1455.html
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引用開始
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多くの人は、「お~する」は全体で謙譲語だがら問題ないと考え、違和感を持っていないのですから、ことさら問題を提起することはないのですが、金田一京助博士は「お~する」を謙譲で使うのは間違いだと書いていますから、大正の頃は正しくない表現だと考えられていたようです。現在では、「(先生を)お誘いする」「(先生のために)お調べする」などは最も普通の謙譲表現ですが、以前は不自然だと感じられていたのです。現在ではさらに、「(私は会社を)お休みします」のように行為が相手に及ばず謙譲にはならない「お~する」も使われますが、美化語としか言いようがありません。(p.14-15)
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 一文が長くてわかりにくい文章だが、ポイントは2点あると思う。
1)大正の頃は「お~する」を謙譲で使うのは間違いと考えられていたらしい
 こういう言葉の歴史のような話は苦手なので、スルーしたい。「ことさら問題を提起することはない」だろう。ただ、現在でも疑問に思う人が多いことと、比較的最近まで「間違い」と考えられていたことは無関係ではないと思う。

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引用終了
 【引用部】の末尾の「無関係ではないと思う」は考えすぎだな。世間で「お/ご〜する」はおかしいと主張している大半の人は「自分の行動に〈お/ご〉をつけるのはおかしい」という的外れな根拠をあげる。そういう人は「お/ご〜いたす」や「お/ご〜申す」にもインネンをつけるのだろう。

【引用部】
 なおまた、語によっては「お/ご〜〜“を”する」の形でも使えるものもある(例「お尋ねをする」「ご説明をする」)が、一部政治家の演説などでこの「を」をやたらに使う傾向がある(たとえば「お調べをする」などと言う)のは、聞き苦しい。(P.286)※原文は“を”ではな、傍線つきの「を」
 そうか。熟語動詞(仮)でなくても「を」が入るのね。やはり政治家用語なのかも。
441)【「サ変動詞」(熟語動詞)の怪】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1691633286&owner_id=5019671

【引用部】
 もっとも氏は、この調査での「お/ご〜〜する」の全用例二一二のうち、誤用は一一例にとどまっているとして「実際には危惧するほどのことはないかもしれません」ともされるのだが、もし今日、実際の敬語使用の調査を改めて行えば、誤用の頻度は、このころに比べてかなり増えているのではないかと思われる。(P.294〜295)
 この一文は長くないか? しかも「頻度」は「増え」ないだろう、ってなんちゅう恐ろしい揚げ足取りを……。「頻度が増える」は相当ヤだけど「頻度が増す」だとさほど異和感がないのはなぜだろう。
 閑話休題。
 ↑の【引用部】は〈「お/ご〜〜する」の誤用〉という項目の中にある。「誤用」の具体例は「お/ご〜〜する」を尊敬語として使うこと。
1)ご利用してますか(正しくは「ご利用なさってますか」くらい)
2)ご利用しやすくなる(正しくは「ご利用なさりやすくなる」くらい)
3)ご乗車できる(正しくは「ご乗車になれる」くらい)
 元々の「お/ご〜〜する」が謙譲語なんだから、相手方の行動に使っちゃ×だろう。可能形にかえたって、ダメなものはダメ。でも「ご乗車できます」「ご利用できます」なんてアリガチでスルーしちゃいそうだよな。

【引用部】
 また、たとえば、人に、自分の作った書類に目を通して添削や捺印をしてもらったり、こわれた自分の物を修理してもらったりするような場合、「その書類(物)をこれからそちらへ持っていく」という内容を「これからお持ちします」と言うのも、たいへんきびしくいえば、おかしいともいえる使い方である。(P.295)
 これは微妙すぎる。「あなたの書類(物)を持っていく」わけでもなく、「あなたのために持っていく」わけでもないからおかしいらしい。正解は「持ってまいります」くらいらしい。わからん(泣)。

【引用部】
 右のように、「おる」には、謙譲、丁重/丁寧、卑しめ、尊大、ニュートラルの各用法がある。(P.322)
 P.318〜のテーマは「おる」。これがまた難物で、延々と続いた結びが上記。当方の文章力ではとても要点をまとめきれない。これが「おられる」の話になるとさらにメンドーで……。話は前後するが、途中に興味深い記述がある。

【引用部】
⑤[ニュートラルな用法]
 (a) 話手が一部の方言の話手である場合、ごく普通の表現として「おる」を使うのだが、ほかの人が訊くと、それに違和感を感じたり、方言的にあるいは古風に聞こえるという場合がある。
 (b) 標準語の話手の場合でも、書き言葉で「(……て)いる」という内容をいわゆる連用中止法(「書いて」のかわりに「書き、」とする方法)で述べたいときには、「(……て)い、」とは言いにくいので「(……て)おり、」と言い換えることがあるが、これも、謙譲・丁重などの趣はとくに含まないニュートラルな使い方だと見られる。また、「(……て)いず、」もそれほど熟さないので、同様に「(……て)おらず、」をニュートラルに使う人もいる。
  ……六教科から出題することになっており、……〈朝日新聞 一九九三年三月一六日一面〉
  ……昨年は二一・一%しかおらず、……〈産経新聞 一九九二年九月七日一面〉(P.321〜322)
 この連用中止形(でいいのか?)の問題も長年ひっかかっていた。よく見聞するのはちょっと違うと思う。「書いていて(、)」を「書いており、」とする人がけっこういる。当方がこのことに気づいたのは社会人になって3年目くらいだから、もう10年以上前(一片の噓もない←もういいって)の話だ。
 当時の当方が覚えた異和感の理由は、たぶん「古くささ」。手元の本を調べまくった記憶がある。
「書いており、」を使わない人は「書いていて(、)」か「書いているので(、)」を使っていた。後者はニュアンスがかわるので望ましくないのかもしれないが、そこまで厳密に考える人なら別の書き方をすればいい。
 たとえば、↑の朝日新聞の例なら、「なっており、」ではなく「なっていて(、)」か「なっているので(、)」にすればいい。
 産経新聞の例なら、「しかおらず、」ではなく「しかいないので、」にすればいい。とにかく「おり、」「おらず、」はジジムサいので自分では使わない。
 ちなみに、(a)の文は「片たり」になっている。ほかはかなり用心深く回避している様子だが、ここは……。こういう上級者でも、一文が長くなるとこういうことになりがち。

【引用部】
 以上のように「おられる」はすでに誤用とも言いにくいほどだが、本来は誤用であるとか、使わない人は使わないのだということも、知っておいてよいだろう。(P.333)
「おられる」に関して5ページにわたって解説した結びの一文。辞書類が認めてしまっているので「誤用」と言うのは無理があるだろう。この問題はネットの質問サイトでウンザリするほど取り上げられている。この『敬語』か『敬語再入門』の記述を不用意に孫引きしたためにエラい勢いで噛み付かれているのを見た記憶がある。
 当方の考え方は下記。間違ってはいないよな。ドキドキ。
突然ですが問題です【日本語編82】──おられる【解答?編】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2231.html

※これじゃいくらなんでも中途半端だな。
 ってことで、下記をどうぞ。
おる おられる おられた おられます【まとめ】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2801.html

【引用部】
 ただ、こうした傾向が将来進むところまで進んでしまうと、〈「やる」が普通の表現で「あげる」は《上品》な美化語〉という関係ではなく、〈「あげる」が普通の表現で「やる」は粗雑あるいは《卑俗》な言葉〉ということになり、「あげる」は美化語だとさえ言いにくくなっていくことになる(このような先例としては「食う」に対する「食べる」がある。三九頁参照)。(P.339)
 P.333のテーマは〈5 「さしあげる」(謙譲語I)と「あげる」(謙譲語I/美化語)〉。
本来は謙譲語Iだった「あげる」は美化語になりつつあるらしい。世間はもう少し進んで、すでに〈「やる」は粗雑あるいは《卑俗》な言葉〉になっている気がする。
246)【「やる」 「あげる」】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1378.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1523098273&owner_id=5019671
589)突然ですが問題です【日本語編72】──「食う」を使う慣用句 「食べる」を使う慣用句 【解答?編】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2163.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1781571782&owner_id=5019671 

【引用部】
 ちなみに、「ももたろう」の歌には「おこしにつけたきびだんご、ひとつわたしにくださいな」と請われた桃太郎が「やりましょう、やりましょう」と歌う歌詞と「あげましょう、あげましょう」と歌う歌詞とがある。余談ながら、このことに触れてみよう。(P.340)
 ↑のコメント欄で教えてもらった話。こんなヨタ話まで引用するから、どんどん長くなるorz。
 以下、著者が調べた限り(これで?)の結果を時系列で箇条書きにする。
・初めて採用された1911年の『尋常小学唱歌 第一学年』は「やりませう」
・1932年の同新訂版も「やりませう」
・戦後の教科書には見当たらない(「これからおにのせいばつに」がよくなかった?)
・1954年検定の教科書(教育出版)に再登場。「やりましょう、やりましょう、これからおにをこらしめに……」
・1957年検定の教科書(教育芸術社)。「あげましょう、あげましょう、これからおにをこらしめに」
・1960年検定の教科書(教育出版)。「やりましょう……せいばつに」
・1973年検定(76年度まで使用)の教科書。「やりましょう……せいばつに」(音楽之友社)、「やりましょう……こらしめに」
・これを最後に「ももたろう」は教科書から姿を消す。

 P.342にある「あがる」の話。「訪ねる」の謙譲語I。「お届けにあがる」「お願いにあがる」などと使う。訪問を受ける側が「どうぞおあがりください」などと言うのは誤用。
【引用部】
ただし、同じ「あがる」でも、すでに訪問先の玄関に入ったあと家の中にまで入る意の「あがる」は、謙譲語ではないので、こちらは、訪問を受ける側が「どうぞ中へおあがりください」と言える。(P.342)
 一応理解したつもりだけど、脱落寸前(泣)。

【引用部】
 なお、「持参」「承知」は、「参」「承」という字を含むので、謙譲語性が感じられる面もある(とくに「持参いたしました」「承知いたしました」「承知いたしております」というような場合は、もちろん「いたす」の力にたすけられるところもあろうが、謙譲語性は感じられよう)。が、「昼食は各自持参のこと」「上記の金額を……持参人へお支払いください」(小切手の文面。ちなみに「持参人」という語は関係法規にも見える)、「あなたも承知しておいてください」などのように、謙譲語とは言えない使い方をする場合も少なくない。さらに「ご持参ください」「ご承知の通り」のように尊敬語として使う場合もある(私自身の感覚では、相手とくに目上に「ご持参ください」と言うのは抵抗があり、使わないほうが無難だという気はするが)。結局、謙譲語性はすでに薄く(あるいは失い)、ただ改まった言い方として使われていると捉えるべきことになろう。(P.346〜347)
 どこで切ったらよいかわからず、ズルズルと引用してしまった。この「どこで引用をやめたらいいかわからん感覚」は、清水読本の読書感想文を書いたときに近い。
「参」「承」は謙譲語性は薄い、ということを、著者の文体で書くとこういうことになるのだろう。こうなる最大の原因は、著者の知識量があまりにも多いこと。こういう書き方をすると批判しているようにも見えるかもしれないが、決してそんなつもりはない。批判に読めるとしたら、書き手の人損?だろう。

 P.361〜のテーマは〈「です・ます体」の中の諸段階〉。これも積年の悩み。
 極端に要約すると、複文?の場合の前半部をデス・マス体にするか否かってこと。例として次の5つがあげられている。前半部の「あります」を「ある」にするべきか否か。
  ア 非常ベルがあります。安心です。
  イ ベルがありますが、やはり不安です。
  ウ ベルがありますから、安心です。
  エ ベルがありますので、安心です。
  オ ここにありますベルを鳴らしました。
 本書は、下記くらいがフツーだろうとしている。
 イは「ある」だとややぞんざい。ウはどちらでもよい感じ。エは丁重すぎる感じ。オは丁重すぎて不十分な感じ。
 当方の感覚も同じだが、なぜイだけが「が、」の前をデアル体にするとぞんざいな印象になるのかがサッパリわからない。
 これをさらに細かく分析し、以下のものは過剰敬語と批判されることもあるとしている。
・名詞の前にも「ます」を入れる(↑のオ)のような形
・「そうすると」「したがって」「続いて」などの接続詞的な語の中にも「ます」を入れる。「そうしますと」「したがいまして」「続きまして」
※「続きまして」はショートコントやモノマネの口上でよく見る。 
・「……ませんです」「……ますです」式の言い方。
 上記の3つは、後ろのほうほど丁寧な感じが強くなるらしい。
 うーん。つまり「……ませんです」「……ますです」も×ではないのか。

【引用部】
「お/ご」を付けて皮肉や茶化した表現とすることが固定化した例としては、「ご大層・ご乱行(らんぎょう)・ご乱心・おあいにく様」などがある。これらは美化語とも言いにくい(なお「おあいにく様」は皮肉でなく使う場合もないわけではない)。(P.376)
 これはかの有名な醜化語ですね(笑)。そうか「ご大層」以外にも醜化語限定がこんなにあるのか。
569)突然ですが問題です【日本語編67】──美化語の悪用 ご大層 ご苦労 お荷物【解答?編】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2140.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1774719941&owner_id=5019671
 ちょっと気になったのは〈なお「おあいにく様」は皮肉でなく使う場合もないわけではない〉って部分。どんな場合があるのだろう。
 ちなみに、P.382では〈皮肉や茶化した表現として固定化したもの〉として〈「ご大層・おあいにく様」など〉としている。

【引用部】
「もっていく」に対する「携行」、「買う」に対する「購入」、冒頭で見た「(包装を)開ける」に対する「開封」や、「だんだん」に対する「次第に」などの漢語系のもの、I-2で触れた「わたくし」なども改まり語の一種といえよう。やはり「だんだん」と同義の「漸く」のような、いわば優美な和語(雅語)にも一種の改まりの趣がある。「只今より……を開催いたします」というような「より」も──私自身の感覚では、「から」と言えば十分ではないかと思って聞くことも多いのだが──、「から」よりも改まった表現という気持ちで使われているのであろう。(P.377)
 漢語系の改まり語もあれば、和語(雅語)の改まり語もある。どちらがMAX敬語なんてことは一概に言えない。どちらかと言うと、漢語系のほうが多い気がするけど。
 さて、「から」と「より」の話。
【板外編6】「起点のヨリ」と「比較のヨリ」
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-685.html
 同様の例に「で」と「にて」がある「(交通手段など)にて」「(場所)にて」あたりも当方の感覚では、〈「で」と言えば十分ではないか〉と思う。
 つい先日、似た例を思い出した。「工夫がされている」と「工夫がなされている」。これはこれでひとつのテーマになる気がする。

【引用部】
敬語を使い慣れた人でも、話題にしようとする人物を身内扱いすべきかどうか迷うことは少なくないし、使い慣れないと、つい、主婦が家族以外の人に、あるいは会社員や公務員が部外の人に
  主人(部長)がそうおっしゃいました。/主人の母(部長)にそうお伝えしました。
などと言ってしまう──それが誤りになってしまうのが相対敬語なのである。(P.426)
 やはりそういうことなのだろう。
 余計な部分を省略して、当方の積年の課題に限って書きかえると、下記のようになる。
 会社員が部外の人に「部長にそうお伝えしました」などと言ってしまう──それが誤りになってしまうのが相対敬語なのである。
「絶対敬語」と「相対敬語」に関しては本書を読んでもらうほうがいいだろう。現代の敬語は「相対敬語」と考えてよいはず。ただ、部外の人に「部長にご相談します」がヘンなのはスンナリ理解できるが、「部長にお伝えします」だと異和感がぐんと弱くなる理由は不明のまま。

【引用部】
なお、あえて付け加えると、最近の傾向として──あるいは昔からなのかもしれないが──、人のささいな誤りに一々目鯨を立てる人に限って、本人も結構な誤りをおかしている場合も少なくないようである。自分でも敬語を使いきれていないに相違ないと思われる“識者”や投書者が、誤ってもいない敬語を誤りと決めつけているのなどを見るのは、やりきれない思いがする。(P.434)
〈昔からなのか〉否かは、昔のことを知らない当方にはわからない。ただ、状況は確実にヒドくなっている。mixiにしてもYahoo!知恵袋にしてもネット全般にしても、敬語に関する話は相当悲惨なことになっている。日本語関係全般がヒドいとも言えるのだが、とくに敬語関連がヒドい気がする。以前、「〜からお預かりいたします」をキーワードに検索した結果を調べてゲンナリした。
782)【「正しい」日本語ってなんなんだろう〈4〉】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1849013908&owner_id=5019671
 一般の日本語の問題は辞書をひけばある程度の答えがわかるが、敬語関係は解決しないことが多い。イチバン頼りになるのは文化庁の「敬語の指針」だろう。これが問題が多いうえに、ムダに長いだけで決してわかりやすいとはいえない。誤読して訳のわからないことを書くコメントが多いのは、そのせいもあるのだろう。
629)【文化庁「敬語の指針」に対する言いたい放題】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2220.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1798665663&owner_id=5019671

 このあたりのことを細かく書きはじめると読書感想文じゃなくなるので、いずれ改めて。

【引用部】(201709追記)
【引用部】(201709追記)
【引用部】(201709追記)
【引用部】(201709追記)
【引用部】(201709追記)

読書感想文/『毎日新聞・校閲グループのミスがなくなるすごい文章術』(毎日新聞・校閲グループ 岩佐義樹/ポプラ社/2017/3/25第1刷発行)〈1〉〈2〉

mixi日記2017年03月09日から

 久々の読書感想文は、発売前の本について帯と目次だけで書くという暴挙(笑)。
 FBで「赤い本のパクリだったりして」とヒドいことを書いた人がいる。
 まず当方のコメントを回収する。
===========引用開始
 うーん。
 この帯の問題は当方にはわかりません。全部ダブルミーニング?ならすごいな。

「前倒すことはやむ得ない。」
 → 「やむを得ない」と言わせたいのかな。
 それとも「前倒す」ではなく「前倒し(に)する」と言いたいのかな。

「自信なさげに例を上げる。」
 自信なさそうに?
 例を挙げる?
 後者は「間違い」ではないだろう。

「高齢な人がすごい多い。」
 →「 すごく」だって主張なんだろう。
 → 「高齢の」か「高齢な」かは難問で、「高齢な」が「間違い」と言えるか否か。

 ひと昔前なら、すぐに読もうと思っただろう。最近は食傷気味で……。
 目次を見ただけで、内容は予想できるもんで。いえその。ありふれた問題を画期的におもしろく解説しているのかもしれないけど。こういうのを読むと、際限なく悪態が出てきて、自己嫌悪に陥る。どなたか読んで感想をお願いします。
 で、なんで毎日新聞社から出さないの?
 まあ、最近はポプラ社のほうが販売力あるだろうから……。予約だけでこんなに売れているの?

 でね。赤い本のパクリなんてことはないと思うよ。
 ネタがカブるのはしかたがないけど。
 下記はちょっとアレだけど。
 (以下略)
===========引用終了

 でね。目次が下記。
===========引用開始
■本書の章立て
文字を大切にしないと、文字に報復される――序に代えて
第1章 つながりの悪い文章
第2章 たまには文法的に考えよう!
第3章 細かい決まりも通じやすさのため
第4章 文化庁「国語に関する世論調査」の慣用句にみる誤解
第5章 固有名詞の誤りはこうして防ぐ

■本書の見出し(一部)
・繰り返される「たり」のミス
・分かりにくい「テン」
・丁寧な形容詞は難しいですよ
・あえて文末を不統一にすることも
・広がる「ら抜き」と広がらない「ら抜き」
・「さ入れ言葉」を「知らなさすぎる」 
===========引用終了

 すごい、すごくに関しては下記。
【すごい すごく すごい+用言〈1〉~〈4〉】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-3363.html

〈第4章 文化庁「国語に関する世論調査」の慣用句にみる誤解〉に関しては下記参照。
【「国語に関する世論調査」(文化庁)関連の日記】  
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2999.html

・繰り返される「たり」のミス
伝言板【板外編1】「~たり」の使い方〈1〉~〈3〉
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-278.html

・丁寧な形容詞は難しいですよ
【「形容詞終止形」+「です」 うれしいです うれしかったです】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2417.html


〈2〉

mixi日記2017年04月04日から

Amazonのデータ。
https://www.amazon.co.jp/%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%83%BB%E6%A0%A1%E9%96%B2%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0%E8%A1%93-%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%83%BB%E6%A0%A1%E9%96%B2%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97-%E5%B2%A9%E4%BD%90%E7%BE%A9%E6%A8%B9/dp/4591154394

 かなり売れているみたい。
 読んでみようかと思ったが、知り合いがFBに書き込んでいるのを読んで気持ちが萎えた。

 まず帯の答え合わせ。
 書き込んだ人の許可をもらったので、引用させてもらう。
===========引用開始

1)
やむ得ない
P58に
---------------------------
「あり得ない表記」
---------------------------
とあります。当たり前。感想はそんだけ。

2)
自信なさげに例を上げる(ここのみなさま知ってのとおり、言及すべきとこがダブル。これは「帯」のポイントかもしらん)

P105に
---------------------------
「自信なさげ」は「自信なげ」、
「所在なさげ」は「所在なげ」が適切。
---------------------------
とあります。うーん。わたしは校正として入っても、これはアカは入れないかなー。
エンピツでさっと書くときもあるけど、スルーしちゃうほうが多し。

P154に
---------------------------
「挙げる」とは「はっきりと示す」こと。それだけでは「上」との区別が曖昧ですが「列挙」という熟語を思い浮かべれば「挙」が適切と分かるでしょう。
---------------------------
そのとおり。ノーコメント。

3)
すごい多い
P107に
---------------------------
書き言葉では今後も「すごく多い」が正規の言葉とみなされるでしょう。
---------------------------
とあります。ちょっとほっとした。 
===========引用終了

 なんだよ、3つともダブルミーニングならスゴいと考えた当方が●●みたいじゃないか。
 ↑に対する当方のコメント。
===========引用開始
 ありがとうございます。
 ガッカリするの覚悟で読もうかと思っていたけど、パスかな。
 ちなみに、下記のような話をブログのネタしたいだけど、いいよね。イヤと言わせる気はないらちい。

1)「あり得ない表記」
 ということは、「やむ得ない」ではなく、「やむえない」と書けというんでしょうね。少なくとも校正の世界で「表記」と書いたら、そういう意味では。

2)「自信なさげ」は「自信なげ」、
 「所在なさげ」は「所在なげ」が適切。
 そうなのか? 仮にゲラに「自信なげ」と出てきたら、当方は「自信なさそうに」鉛筆書きします。
「挙げる」をどうするかは、キメしだいでしょう。
「列挙」だから「例を挙げる」? 「列」と「例」を混同してるのか?
 仮に記者ハンに従うと……。 
「挙手」だから手を挙げる? 記者ハンは「上げる」と「挙げる」を使い分けています。
 表記の問題は、よほどのことがないと正誤はわからないと思うよ。
 高島俊男先生に訊いてみなよ。バカって言われるから。

3)書き言葉では今後も「すごく多い」が正規の言葉とみなされるでしょう。
 そうかもしれませんね。これもとっても微妙な問題なんだけどね。 
===========引用終了

 言葉に関する本が売れることには功罪ある。いい加減な本が売れると●●が増殖するだけ。
 本書はちゃんとした書き手が書いているはずなんだけどなぁ。

 さらにコメントがあった。
===========引用開始
でもまぁ一応、もう1回本からもう少し載せておきますか。P58小見出し
------------------------------------
あり得ない表記の「やむ得ない」「せざる負えない」
------------------------------------
だそうです。なんかだんだんわかんなくなってきた。
===========引用終了

 当方の返信。
===========引用開始
 うーん。
「表記」なのか?
 しかもわざわざ「あり得ない」と書いているのは、シャレのつもりなんだろう。真面目な話にこういうのを差し込むのはやめてほしい。話がややこしくなるだけ。(←オ・マ・エ・が・言・う・な!)
「やむ得ない」は助詞の脱落だろう。
「せざる負えない」はなんて言えばいいのか。単なる●●だろう。どういう意味?
 以前下記のような話があったのを思い出しました。
【表記の話23──良く行く 良く見る よく行く よく見る】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-3352.html
 前提がわかりにくなぁ。
 あるかたが日記で、「せざる終えない」「良く見る」と書いていた。
 マイミクが「それはおかしいのでは」と書いた(当方ではありません。当方はそんなムダなことはしません)ら、延々と訳のわからないことを書きはじめた。
「せざる終えない」は、「しないと終わらない」の意味なんだとか。これはこれで意味が通る気がするのがミソ。
 でも「考えざる終えない」は「考えないと終わらない」とは解釈できないからやっぱり無理。
 素人だから(玄人でも)、間違うのはしかたがない。でも、間違いを指摘されたら考えないと。
 こういう●●がドサドサ増えています。
===========引用終了

『漢字と日本人』(高島俊男/文春新書/2001年10月20日第1刷発行/2001年12月1日第4刷発行)

【読書感想文 お品書き 】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1935282276&owner_id=5019671
●『読書感想文』カテゴリートップは下記。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-category-19.html

 さっきアップした読書感想文と同じ月に下記があったので、メモがわりに。

 イヤだな。高島さんの本を読むと、無知を思い知らされて気持ちが暗くなる。根本的な教養が違いすぎるんだからしょうがないんだけどさ。

「和語に漢字をあてるおろかさ」(p.86~)
 著者に、表記に関する質問の手紙が来ることがあるらしい。たとえば、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などはどう使い分けるべきなのか。あるいは、「計る」「図る」「量る」「測る」などの場合は……。
 わたしはこういう手紙を受けとるたびに、強い不快感をおぼえる。こういう手紙をよこす人に嫌悪を感じる。こういう手紙をよこす人は、かならずおろかな人である。おそらく世のなかには、おなじ「とる」でも漢字によって意味がちがうのだから正しくつかいわけねばならない、などと言って、こういう無知な、おろかな人たちをおどかす人間がいるのだろう。そういう連中こそ、憎むべき、有害な人間である。こういう連中は、たとえばわたしのような知識のある者に対しては、そういうことを言わない。「滋養分をとる」はダメ、「摂る」と書きなさい、などとアホなことを言ってくるやつはいない。ほんとに自分の言っていることに自信があるのなら知識のある者に対してでも言えばよさそうなものだが、言わない、もっぱら自分より知識のない、智慧のあさい者をつかまえておどす。
「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかきわけるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」もおなじ。その他の語ももちろんおなじ。(p.87)
 正論なんだろうな。こういう指摘を目にすると、漢字の使い分けに悩むのはバカって気になる。ただね……おそるおそるインネンをつけはじめる。
 たしかに、表記なんて最終的には書き手の好みの問題になることが多い。著述家の表記に対して文句をつけるのはバカ(不統一が目立つとインネンをつけたくなるけど)。ただ、指導的立場の人は、愚かとわかっていても、こういう使い分けを前提にするしかない。
 著者は「和語はかな書き」を原則にしているようで、ここに引いた文章にもその傾向がうかがえる。しかし、これを素人がマネするのは相当むずかしい。引用文中の表記で見てみよう。
「強い」「おろかな」「ちがう」「あさい」……と形容詞&形容動詞を並べると「強い」だけが漢字になっている。 副詞の「かならず」をかな書きするのも珍しい。「憎む」は漢字で、「憎い」ならどうなるのだろう。
 などと考えていくと、収拾がつかなくなる。著者は当然なんらかの法則性に従って書いているから混乱などしないのだろうが……。

 明治以後の英語神聖化、英語崇拝、それとおなじことが、あるいはもっと極端な形で、漢字神聖化、漢字ばかりでできている書物やそういう書物をよむ人間に対する尊敬、崇拝としてあったわけだ。
 ことばの素性という観念があれば、字音語と和漢混淆語は漢字で書かねばならぬが、和語は何も漢字で書く必要はない、かなで書いたほうがよい、という判断もできるのだが、それがわからないから、なんでも漢字で書くのが正式だと思ってしまうのである。「宿場」や「本陣」は漢字で書くべき語だが、「はたご」は和語なのだからかなでよい、かなのほうがよい、と言っても、どこがちがうのかわからないわけだ。(p.112~113)
 この前段には「日本語も英語も言語として同格である、日本人が英語がわからなくてもすこしも恥ではない、とはっきり言うのは、英語のできる人、すくなくとも教育のある人である。」という一文がある。この一文がそのままインネンに使えそう。一般の人あるいは十分な教養のない人は、漢字を否定できない。個人的には? 副詞を別にすれば、漢字で書けるものできるだけ漢字で書きたい、という思いが捨てきれない。

それもそのはずで、日本語だけの文章というのは平安女流文学ぐらいしかないからその方法でゆくほかないわけだが、あれは女が情緒を牛のよだれのごとくメリもハリもなくだらだらと書きつらねたものだから、あの方式でガッチリした論理的な文章を書くのは無理なのである。つまりは、千年にわたって一度も日本語の文章を構築しようとしなかった日本の男たちの罪なのである。(p.118)
 怖いこと書くね。婦人団体(?)あたりからクレームが来ないのかね。もっとも、いちばん罪が重いのは「男たち」って書いてあるんだから、男尊女卑思想ってことじゃないけど。

 なおついでに、わたしが江戸時代随一の文章家--いやそれ以前をつうじても第一の学者、文章家と信じる新井白石の文章を御紹介しておきましょう(「学者、文章家」と言ったが、この両者は別のことではない。学問がなくてよい文章の書けるはずはないし、それに、文章にとって何よりだいじなのは気品、格調だが、それは学問のうらづけなしにそなわるものではない)。(p.119)
 これは一面の真理かもしれない。しかし、これを肯定してしまうと、「学のない人間にはよい文章は書けないし、気品や格調のある文章は書けない」ってことになってしまう。そうなのかね。蛇足ながら、これが真理だとしても、逆は真ではない。学さえあればよい文章を書けるわけではないし、学問の裏づけがありさえすれば気品や格調のある文章が書けるわけでもない。

 政府国語機関は、明治三十五年に発足してから昭和二十年敗戦まで四十数年間に、いくたびも内閣に対して国語改革案を建議した。ただしその建議が、政令となって実施にうつされたことは一度もない。案が公表されるたびにはげしい反対論がおこったからである。具体的にどういう人のどういう反論があったかについては、●田恆存『國語問題論爭史』(昭和三十七年新潮社)を見るとよい。現在全文をかんたんに見られるのは、森鴎外の「假名遣意見」(明治四十一年)、芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」(大正十四年)など。いずれも全集にはいっている。言語学者、国語学者では、山田孝雄、橋本進吉、新村出などがしばしば反対論をのべた。それらの論はそれぞれの著作集におさめられている。(p.191)
 このあたりに関しては、知らないわけではないが、くわしい知識がない。最近復刻されたこの問題に関連する●田恆存の本は買ったけど、あれを読みきれるのだろうか。芥川龍之介の全集を確認したところ、たしかにそういう名の小論があった。関連書簡もあるらしい。ただねえ。旧かな遣い&旧漢字の文章を素養のない者が読むのはいささかしんどい。

「当用漢字」(p.197~)
 当用漢字の制定にあたっての裏話などがいろいろ紹介されていて、すこぶるおもしろい。そりゃ問題が多いのは判る。古い世代が旧かな遣いの論理性などについて書いている文章を目にすると、「そうなんだろうな」とは思う。しかし、物心ついた頃から新かな遣いで読み書きしてきた白痴世代としては、選択の余地がなかったんだよね。許しておくれよ。

読書感想文 『日本語ウォッチング』(井上史雄/岩波新書/1998年1月20日第1刷発行/2001年4月5日第6刷発行)

【読書感想文 お品書き 】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1935282276&owner_id=5019671
●『読書感想文』カテゴリートップは下記。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-category-19.html

 ちょっと事情があって、古い読書感想文をアップする。
 2002年6月の話。
 文章読本などではないので、さほど悪態はついていない。

 言葉の使われ方などについて、全国的な調査などを折り込みながら分析している。そもそもこの本を知ったのは、ネットの会議室http://kotobakai.seesaa.net/article/8174276.htmlで〈「ラ抜き言葉」になる言葉の判別法〉の一例として教えてもらったため。「ラ抜き言葉」に関して1章を割いている。

 なお、小説などに出てくるラ抜きことばはいろいろ拾われている。小林多喜二が、昭和初期の小説の中で使ったものが早いが(『蟹工船』一九二九年の「朝起きれなくなった」)、多喜二は一九〇三年(明治三六)年生れで五歳から北海道で育ったそうだから、図㈵-2の北海道の状況を反映しているとみられる。また川端康成の『雪国』(一九三五年)にも「遊びに来れないわ」という例があるが、地元芸者のことばだから、一律に扱えない。文章に書かれたラ抜きことばの早い例は、このように方言起源が多い。前述のように東京では昭和初期の若者が実際に使っていたから、小説などに登場するのは、かなり遅れたことになる。(p.9)
『雪国』に関しては、ほかの本でも見たことがある。「地元芸者」が使ったことよりも、「会話」の中の言葉であることがポイントのような気がする。現代文でも、“地”の文章で使われていると抵抗を感じるが、会話中だと「遊びにこられない」のほうがむしろ不自然では。この補助動詞の「くる」の可能形は、きわめて「ラ抜き言葉」になりやすい。『蟹工船』の例は、初めて知った。

一般的に短い動詞はよく使われる動詞でもあるから、使用頻度数の方が作用が大きいかと思ったが、研究結果によると、動詞の音節数の方が、要因として一番効いているようだ。(p.10)
 p.9〜では「ラ抜き言葉」の「使われ方の違い」が分析されている。「使用頻度数」と「音節数」のどちらの要因が大きいのかは不明。専門家が、こう書いているのだから「音節数」のほうの要因が大きいのだろう。
 漠然と感じていたのは「音節数の少ない動詞はラ抜きになりやすい」ということ。理由として考えられるのは、「そういう動詞のほうが使用頻度が高いから」。ということは、「使用頻度」のほうがポイントになる。そのことを証明するには、「音節数が少なくても使用頻度が低い」動詞を探せばいいのだが、そんな動詞は思いつかない。逆に「音節数が多くても使用頻度が高い」動詞は何かというと、これが微妙。「考えられる」「数えられる」あたりだろうか。

 幸いなことに、自分の使っている言い方がラ抜きことばかどうか不安なときの、実用的簡便判定法がある。ラ抜きかどうか心配になったら、その言い方の最後の「る」を取り除いて命令形としても使えるかを試せばいい。「走れる」の場合なら、「る」を取り去った「走れ」はまったく当たり前の命令だ。ラ抜きことばではないから使っていい。「走る」は五段動詞なのだ。これに対して、「見れる」の場合だと、「る」を取り去って「見れ」にすると命令形としてはおかしい。だから「見れる」はラ抜きことばによる言い方出、使わない方がいい。おかしなときには「見られる」のように「ら」をいれればよい。「見る」は一段動詞なのだ。(p.24〜25)
 これがネットの会議室で紹介された判別法。ただし、本書でもふれているように、命令形を「見れ」「起きれ」と言う地方の人には役に立たない。北海道と東北地方日本海側に加え、最近は西日本の各地にも広がっているらしい。そうなると、この判別法はますます通用しなくなっていく。本書より後に出版されたある「文章読本」では、やはり命令形に着目した判別法を紹介していた。ただしその書き方は本書より不完全。方言の話にもふれていない。こういうのは「単なる不勉強」と笑われる。

ことばは服装などと同じく自己表現の一つで、どんなことばを使うかで人柄まで判断されることがある。服装は歴史的にカジュアルな方向に変わってきたが、だからといって、どんな場面でもくだけたかっこうをするわけにはいかない。ことばも服装と同じで、場合により、周囲に合わせて、どんなふうに受け取られるか考えながら、使い分ける必要がある。(p.30)
 齊藤美奈子も「文体は服装」みたいなことを書いていた。観点は違うけど、同じような結論になっているのは偶然か必然か。

 デスは、はじめは「山です」のように名詞に付くだけだったが、戦前から形容詞にも付くようになった。「よいです」「恐ろしいです」のように文章語的な形容詞に直接デスを付けるのはまだ抵抗があるようだ。しかし口語的な形容詞を使い、助詞のネとかヨを付けて、「いいですよ」「こわいですよ」というような例文だと、自然な表現だと判断される。年齢差もあり、地域差もあるが、いずれにしても、形容詞にデスが付きはじめたのが最近であることを示す。(p.154〜155)
 文章語的な形容詞だと抵抗があるか否かは微妙。「恐ろしいですね」なら異和感はない。「よいですね」に抵抗を感じるのは、「よい」の言い切り自体が口語で使うと不自然だからではないか。理由はまったく判らないが、言い切りの場合は「よい」よりも「いい」のほうが自然に感じられる。デアル体で考えても、「いいよ」は自然だけど「よいよ」は不自然。

 
【20170205追記】
 関連性が高いのは下記あたりかな。
【句読点の打ち方/句読点の付け方──実例編2】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2347.html
===========引用開始
【引用部】『道化の華』(太宰治)
気の毒で見れなかった。(P.14)
 古い文学作品に「ラ抜き言葉」が出てくるという噂は聞いていた。よく言われるのは『雪国』だったかな。ただそれは、セリフの中だったと思う。この『道化の華』の使用例は「地の文」。しかもこここだけではない。東北も「ラ抜き言葉」を使うところ多いらしいから、太宰もそうだったのだろうか。なんらかのルールで使い分けているなら、それはそれですごい話だけど。

【引用部】『道化の華』(太宰治)
飛騨もまた葉蔵の顔を見れなかった。(P.17)
君は、ものを主観的にしか考えれないから駄目だな。(P.21)
 後者はセリフだからアリだろう。
===========引用終了

【文化庁もさぁ──ラ抜き言葉、姑息、雨模様……etc.】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2143.html
文化庁もさぁ2──「天声人語」オマエもか ラ抜き言葉/大寒小寒……etc.
===========引用開始
〈ら抜きの是非、どうやら勝負が見えてきた〉
「勝負」とか考えている段階で話にならない。

〈彼らが親になる頃には誤用とは言われまい〉
 だからなんなのだろう。そんな遠い将来のことは誰にもわからない。しかも、この問題に関して安易に「誤用」とか言わないほうがいい(自戒を込めて)。ところで、現在では「誤用」なんですか? それは書き言葉の場合? 話し言葉の場合?

〈川端康成の「雪国」でも、芸者駒子が「来れないわ」「来れやしない」と多用している〉
 これは、国語学者?あたりがよく例に出す。それを聞きかじって、●●が例に出すこともある。いくつか考えるべきことがあるが、長くなるので2点だけあげる。
1)登場人物のセリフということは方言では?
 作者が、登場人物の個性として「ラ抜き言葉」を使わせている可能性が高い。伊豆の方言がどうなっているのか、駒子(のモデル)の出身地がどこなのかは知らない。とにかく、セリフ(話し言葉)なんだからどんな方言を使っても不思議ではない。当時の大阪を舞台にした物語に関西弁が頻出しても、それが標準的な言葉づかいと考える人はいないでしょうに。
2)文豪が使えば正解なのか?
 近頃、この点が気になっている。現代とはかなり事情が違うことは加味するべきだろう。いまから●十年後、時代を代表する作家の村上春樹が使っているからこの表現はアリとか、といった考え方ができるのだろうか。カフカの言葉づかいや知的レベルが現代の同年齢の少年のもの、ととられるのもちょっと困る。じゃあ21世紀初頭の日本語の規範は何にとるべきか、というのは超難問だけど。
 辞書の類いが古典の用例を重視する考え方はわかる。ときには死語の判断を誤らせる気もするが。
 よく話題になるのが「全然+肯定形」を文豪が使っているという話。それが、いまでもOKという根拠になるのだろうか。夏目漱石あたりは相当勝手な言葉づかいをしているから、ウノミにするのはマズいのでは。
===========引用終了
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フリーランスの編集者兼ライターです。

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