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デス・マス体の文末に変化をつける方法

 下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-306.html
日本語アレコレの索引(日々増殖中)【5】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1669912728&owner_id=5019671

mixi日記2011年02月日から

 テーマサイトは下記。
【ですます調で文章を書いているのですが、~ました。~でした。というように、語尾...】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1256301817

 これは、「そんな方法はない」が正解になる。とくに過去の話を書くときは「~でした」「~しました」が基本になるから、すべてが「した」で終わることになっても不思議はない。
 文末が単調になるのが気になるなら、デス・マス体は使わないことをおすすめする。
【板外編7】デス・マス体が書きにくいワケ1】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-277.html

 ……と書いてしまうと身もフタもないので、ヒントになりそうなことを書く。これをちゃんと知りたいなら「赤い本」を読んでもらうしかない。
 以下「赤い本」の要点だけ。
【原文】
昨晩、国語を勉強しました。

1)体言止めを使う
昨晩、国語を勉強。
※体言止めにはいくつか種類があり、「○○しました。」を「○○。」で止める形は避けたほうがいい。多用は厳禁。
【板外編10】体言止めの使い方(2009年11月06日)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-769.html

2)「のです」の形を使う
昨晩、国語を勉強したのです。
※多用は厳禁。強調の意味合いがあるときだと自然になる。いろいろ書いたあとの結論部分とか……。

3)主述をいれかえる
昨晩、勉強したのは国語です。
※「主述のいれかえ」に関しては下記参照。不自然になることもあるので一概には言えないが、この手法は用途が広い。

4)変則形を使う
昨晩、勉強したには国語ですが……。
※上級テクニックになる。変則形にもいろいろある。

※重要なのを抜かしていた。ボケとるな。
5)あえて推量形にする
「でしょう(か)」「かもしれません」「はずです」など、うまく使えば文末のバリエーションが広がる。「必要もないのに推量形するのは……」と考える人にはオススメできない。

 関係しそうなコラムを2本、抜粋しておく。

【Coffee Break】箇条書きを文章にする方法

「書きたいことがあるのに、なかなか文章にできない」という人には、まず書きたいことを箇条書きにしてしまうことをおすすめします。無理に考えをまとめようとするより、書きたい要素を書き出してしまうことです。すべての要素を書き出しきれなくても、いっこうに構いません。文章を書いていくうちに思い出すことも多いからです。
 要素を書き出したら、あとは次の要領で文章にしていきます。
  1)文章の流れを考えて、要素を並べる順番を決める
  2)要素のなかから、複文にしやすい組を選ぶ(原則として2つの単文を複文にする)
  3)その形で、いったん文章を書いてしまう
  4)文末や言葉づかいなどを修正して、体裁を整える
 めんどうな段階を踏んでいるようですが、慣れてくると2)は必要なくなります。決めた順番どおりに2つずつ複文にして書いていっても、「ここは単文で書いたほうがいい」という感覚がわかってきます。3つの単文を一文にしてもわかりにくくならないケースもわかってくるはずです。それがわかるまでは、2つの単文を複文にするのを基本にしていくほうがよいでしょう。
 自分でふだん文章を書くときには、ここまで厳密には段階を踏んでいませんが、基本的には同じことをやっています。どこまで省略できるのかは、慣れの問題でしかありません。
 たとえば、取材に基づいて文章を書こうと思えば、「取材メモ」が書き出した要素になります。メモですから、当然箇条書きです。このメモを確認したら、順番もだいたいの見当をつけるだけで、書きはじめてしまいます。この段階であまり考えこんでしまうと、かえって書けなくなってしまうからです。
 テーマがむずかしいときや書くべき要素が少ないときは、文章の流れがまとまらなくて、なかなか書きはじめられません。しかし、むしろそういうときこそ、とにかく書いてしまうことを優先させます。多少文章が粗くても、気にしません。ほとんど箇条書きになってしまっているのを承知で、先に進むこともあります。
 そのかわり、4)には人より時間をかけているつもりです。とりあえず書いた文章は下書き程度にしか考えていないので、あとから見直して全体の流れをかえてしまうことも珍しくありません。複文になっているペアをくずしたり、単文同士を結合して複文にしたり、という作業をするのはいつものことです。このときに、後述する方法で指示語や接続詞を削除したり追加したり、といった作業もします。
 単文を多くしたときに、とくに注意を払うのが文末です。同じ文末が続いたときにはまず「主述の入れかえ」を考え、それができないようなら前後の文との結合を考えます。これも慣れの問題で、文章を書きながらこの作業をすることも、そうむずかしくはありません。
「主述の入れかえ」が有効なのは、文末が単調になりがちなデス・マス体の場合だけではありません。書き慣れない人のデアル体の文章の文末を見ると、体言止めが続いていることもしばしばです。イキイキとした文章に感じられることもありますが、たいていは箇条書きのような印象になっています。それを防ぐために、体言止めと「名詞+ダ」と「名詞+デアル」が交互に繰り返されているのもよく見かける例で、文末に変化はついていても、根本的な問題の解決にはなっていません。
 そういう文章を目にすると、一文だけ「主述の入れかえ」をするだけでも印象がかわるのに……と、ついよけいなことを考えてしまいます。
 もうひとつ付け加えると、書き終わった文章は、少し時間をおいてから見直したほうがよいでしょう。時間が切迫していても、ひと晩たってから見直すぐらいの余裕は欲しいところです。ちょっと時間をおくだけで、書き終わった直後にはわからなかった文章の不備に気がつくこともあります。
 ほとんど箇条書きでしかない下書きも、この第2章で説明している方法で、「明文」の原形レベルにはできるはずです。そこに「個性」や「リズム」をつける方法は、本書ではとても説明しきれません。それこそ「名文」に学んでもらうしかないことです。


【Coffee Break】「また」「さらに」「そして」「ちなみに」の法則

 仕事で文章を書きはじめたばかりのころ、健康雑誌の仕事をしたことがあります。編集部の方針で、デス・マス体で極力一文が短い原稿を書くことになっていました。この前提があって医学の専門知識を説明しようとすると、接続詞を多用することになり、なんとも形容のしがたいヘンな文章になってしまいがちです。原稿が書けずに四苦八苦していると、先輩がアドバイスをしてくれました。
「書き方に困ったら、『また』『さらに』『そして』『ちなみに』の順番で接続詞を使うといい」
 そのとおりにしてみると実に便利で、どんな原稿を書くときにも使えそうな気がしたほどです。あまりにも便利なため、数回使ったあとは禁じ手にして封印しました。便利な表現というのは、ほとんどがワナです。どんな原稿を書くときにも使えるなら、よほどのことがない限り、使ってはいけません。便利だと思って多用すると、表現が画一的になってしまいます。
 この経験があるので、接続詞に対してあまりよい印象がありません。しかし、それは接続詞に問題があるのではなく、使い方に問題があるのだと思います。
 接続詞が悪文の原因と考えられてしまいがちなのは、稚拙に見える文章で乱発されていることが多いからではないでしょうか。第1章(★ページ)で取りあげた「けさ学校に来るまでのできごと」をテーマにした〈作文1〉を例に考えてみましょう。

【練習問題15】
 次の〈作文1〉は接続詞が目立ってヘンになっています。接続詞を減らすだけでマシな文章にできるのか考えてください。
  私はけさ7時に起きました。まず、顔を洗いました。そのあとに、歯を磨きました。それから、朝ごはんを食べました。それから、家を出ました。そして、ホームルームの10分前に、学校に来ました。

【練習問題15】にした文章は順番に事実を並べただけなので、「まず」「そのあとに」などの接続詞は削除しても構いません。これらの接続詞がなくても、行動の前後関係は明らかだからです。では、すべての接続詞を削除すればマシになるでしょうか。

 〈書きかえ文1〉(すべての接続詞を削除した文章)
 私はけさ7時に起きました。顔を洗いました。歯を磨きました。朝ごはんを食べました。家を出ました。ホームルームの10分前に、学校に来ました。

 同じことを書いているのに、事実を並べただけの単調さがもっと強調されていませんか。一文が極端に短いので、稚拙でリズムが悪くなっています。こういう文章だと、つい接続詞をつけたくなってしまうのは、単調さを少しでも緩和しようとするためです。
〈作文1〉がヘンな文章になっているのは、接続詞が多いせいではありません。マシな文章にするためには、接続詞を減らすこと以外にも工夫が必要です。本書の第2章で説明している方法で、〈作文1〉を書きかえてみます。

 〈書きかえ文2〉(本書の第2章で説明した方法で書いた文章)
 けさ起きたのは7時です。まず、顔を洗って歯を磨きました。そのあとに、朝ごはんを食べてから家を出ました。学校に来たのは、ホームルームの10分前です。

 念のため、どこに注意して書きかえたのかを説明しておきます。
  1)「主述の入れかえ」をして文末に変化をつけた
  2)2つの単文を結合して、複文で書くことを基本にした
 1)をしたのは最初の文と最後の文です。体言止めを使うなら、原則(終わりの文よりは始まりの文に、長い文よりは短い文に使う)に従って、最初の文を体言止めにするべきです(その場合は、「けさ起きたのは7時。」にするより「けさの起床時間は7時。」にするほうが少しマシだと思います)。
 2)は書かれている内容を考えて、最初の文と最後の文を単文のままにしておきました。
 それほどたいへんな工夫をしたわけではありませんが、〈書きかえ文2〉は〈作文1〉や〈書きかえ文1〉に比べてかなりマシになっている気がしませんか。

〈書きかえ文2〉がすばらしい作文になっている、などというつもりはありません。単純に事実を並べたことにかわりはないからです。しかし、これ以上の書きかえ案を出そうとすると、内容にかかわってきます。すでに書いたことの繰り返しになりますが、それは本書の役割ではありません。
 ありがちなアドバイスをすることならできます。たとえば、「印象に残ったことにテーマをしぼって書きなさい」というのは簡単です。たしかにそのとおりですが、何もいっていないのと同じことだと思います。
「寝坊してあわてていたので国語の教科書を忘れてきたこと」を書きたいのなら、忘れてきたことに気づいた場面から書くと臨場感が出る。「朝ごはんで食べた大好物の卵焼きがおいしかったこと」を書きたいのなら、いままででいちばん記憶に残っている卵焼きの話を書けばいい……。
 もっともなアドバイスです。具体的な作品例まで出せば、「なるほど」と感心しておもしろい作文が書ける気にはなります。では、「登校途中に見かけた犬のこと」を書きたいときや、「弟とケンカをしたこと」を書きたいときはどうすればよいのでしょうか。書きたい内容が具体的にわからないと、アドバイスはできません。どんな内容のときにも通用する万能の書き方などはないからです。
 もっと根本的な問題も残っています。いくら考えても「印象に残ったことがない」と悩んでいる子供にはどのようなアドバイスをすればよいのでしょうか。「作文以外のことでがんばろうね」と励ますのが精一杯です。
 こういう問題を考えると、文章の内容について書かれた「文章読本」が、タメにはなっても役に立つことが少ないのは当然のことかもしれません。個人的な経験では役に立ったものもありますが、それは「自分が書こうと思った内容に関してはたまたま役に立った」というだけのことです。自分の発想法に通じるものがあったので参考になった、といういい方もできます。違うことを書こうとしている人にも役に立つとは限りません。
 たいていのテーマで使える汎用性の高いアドバイスもあるのでしょう。書きたいことを見つけるための有効なヒントもあるのかもしれません。しかし、それがどういうものなのか具体的にわからないため、本書では原則として文章の内容についてはふれないようにしています。


 文章の書き方に関する「知恵ノート」は下記。
文章の書き方【お品書き】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n138167
 ↓
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12281123052.html
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【やわらかい感じがする文章を書くために】 改〈2〉──赤い本から

mixi日記2017年12月22日から
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964272925&owner_id=5019671

 直接的には下記の続きだろうな。
58)【「~だ」と「~である」はどう違うか2──やわらかい感じがする文章を書くために】(2009年09月02日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1272091106&owner_id=5019671
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-642.html

1825)【「~だ」と「~である」はどう違うか2──やわらかい感じがする文章を書くために〈2〉】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960721401&owner_id=5019671
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12279644891.html

1827)【やわらかい感じがする文章を書くために】 改〈1〉──資料と雑感
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960775154&owner_id=5019671
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12289046642.html

 資料の〈2〉として以前赤い本から抜粋したものをひこうとして、まだ抜粋していないことに気づいた(泣)。
 以前一部は抜粋しているので、その続き。
【伝言板 板外編3──文語調の表現は避ける】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-43.html
 ちなにみ ↑の【伝言板 板外編3──文語調の表現は避ける】には非常に恥ずかしい「間違い」がある。
 タイプミスなんてレベルではない明らかな間違いが……(泣)。


読みやすい印象を与えるための言葉づかい その2(赤い本P.287~302)

●「名詞+デアル」と「名詞+ダ」は微妙に違う
 例文3)の説明の中に出てきた「であろう」について、補足しておきます。
 文末が「名詞+〇〇」になるとき、デアル体には2つの形があることは、第1章で書きました。そのときにはふれなかったのですが、「名詞+デアル」と「名詞+ダ」には、微妙な違いがあります。「名詞+ダ」にはややくだけた印象があるため、文章の品格を重んじる書き手は、「名詞+デアル」を使うことが多いようです。
 この傾向は、デアルやダが過去形や仮定形になった場合にもあてはまります。
  現在形  過去形   仮定形
  デアル  デアッタ  デアロウ
  ダ    ダッタ   ダロウ
 ただし品格を重んじた表現は、文語調ほどではありませんが、文章をほんの少し堅苦しい感じにするようです。個人的には、現在形はデアルもダも使い、過去形はダッタ、仮定形はダロウを使います。デアッタやデアロウはめったに使いません。

●「起点のヨリ」はできるだけ使わない

【練習問題36】
 次のA群とB群の表現がどう違うのか考えてください。
  A群 B群
  駅ヨリ3分 駅カラ3分
  10時ヨリ営業 10時カラ営業

 A群で使われているヨリは、空間や時間の起点などを示す表現です(このような用法を「起点のヨリ」と呼ぶことにします)。「文章読本」のなかには、「起点のヨリ」は使わずにカラを使いなさい、と主張しているものがあります。理由は「意味がわかりにくくなる場合がある」とのことです。そういった記述を目にしたことがある人は、カラを使っているB群のほうがよい、と考えるでしょう。
【練習問題36】にあげた例では、ヨリとカラのどちらを使っても同じ意味ですし、少しもわかりにくくはありません。別の例で見てみましょう。

【練習問題37】
 次の故事に使われているヨリの働きを考えてください。
  1)花ヨリ団子
  2)栴檀(せんだん)は二葉ヨリ芳し
  3)青は藍ヨリ出でて藍ヨリ青し

 1)のヨリは、「AヨリBのほうが〇〇だ」のように、いくつかのものを比べるときに使います(このような用法を「比較のヨリ」と呼ぶことにします)。1)のヨリを「起点のヨリ」と誤解する人はいないでしょう。
 2)のヨリは「起点のヨリ」です。これは「比較のヨリ」ともとれるかもしれません。「比較のヨリ」と考えてしまうと、「栴檀(という植物)と二葉(という植物)を比べると、栴檀のほうが芳しい」ぐらいの意味になり、何をいいたいのかわからなくなってしまいます。
 3)は2種類のヨリが使い分けられている例です。少しまぎらわしいかもしれません。1つ目のヨリが「起点のヨリ」で、2つ目のヨリが「比較のヨリ」であることがわからないと、やはり意味がわからなくなってしまいます。
 このように、「起点のヨリ」が誤解される可能性があることはたしかです。しかしそのことを理由にして、「起点のヨリ」を使ってはいけない、とするのは無理があります。
 ここであげたのは特殊な例で、ふつうの文章中に出てくるヨリが「起点のヨリ」か「比較のヨリ」かまぎらわしい例は、ほとんどないからです。「カラよりもヨリのほうが語感がいい」と思うなら、「起点のヨリ」を使っても問題はありません。基本的には「起点のヨリ」を使い、どうしてもまぎらわしいときに限ってカラを使う、という方針でもよいでしょう。
 誤解のないようにお断りしますが、「起点のヨリ」を使うべきだ、とすすめているのではありません。「起点のヨリ」が原因で意味がわかりにくくなることはほとんどない、といいたいだけです。
 本書では、原則的に「起点のヨリ」を使っていません。「比較のヨリ」とまぎらわしいからではなく、「起点のヨリ」が文語調に感じられるからです。

【練習問題38】
 次の2つの表現の違いを考えてください。
  1)心ヨリお待ちしております
  2)心カラお待ちしております

 1)のヨリは、「起点のヨリ」です。1)と2)のどちらの表現を目にすることが多いでしょうか。おそらく、1)のほうが一般的です。
 1)と2)は同じ意味ですが、厳密にいうと、1)のほうがほんの少していねいな感じがあります。例文のような内容のときに1)が使われやすいのは、この「ほんの少し」の違いが重視されているからでしょう。
 文語調の言葉のほうが「立派に見える」印象があることは、すでに書いたとおりです。そのため、「起点のヨリ」はパンフレットの文章、あいさつ文、手紙文などでよく見ます。「ていねいに書こう」という気持ちが強い文章ほど、「起点のヨリ」を使うことになるようです。
 本書で「起点のヨリ」を使わないようにしているのは、そのほうが読みやすい印象になると思うからで、あくまでも感覚の問題にすぎません。決して「わかりにくいから使ってはいけない」表現ではないはずです。

●「~ことができる」はできるだけ避ける

【練習問題39】
 次のA群とB群の表現がどう違うのか考えてください。
  A群            B群
  1)書くことができます      書けます
  2)簡単に持ち運ぶことができます 簡単に持ち運べます
  3)説明することができます    説明できます

 A群とB群の表現は、それぞれ同じ内容です。しかし、厳密にいうとA群の表現には少し問題がある気がします。特別な理由がない限り、A群の表現は避けたほうが無難です。
 A群の1)は、ほとんど問題がないのかもしれません。「書けます」に比べるとほんの少し堅苦しい印象がありますが、とくに気になるほどではないでしょう。
 A群の2)は、少しもたついた感じになります。おそらく、1)の「書く」に比べて、「持ち運ぶ」という動詞が長いからです。
 A群の3)は、もたついた感じが強くなっています。おそらく、「~ことができます」の前に「する」がついているため、動詞が長くなったように感じられるせいです。ひらがなが続く点も影響しているのかもしれません。
 自分で文章を書くときは、「~ことができる」はできるだけ使わないことにしています。ただし、次のように変形したときは例外です。
  A群       B群
  4)書くことモできます 書けモします
  ㈭書くことハできます 書けハします
 B群の4)㈭もさほどヘンではありませんが、A群とはニュアンスが変わり、語感も悪い気がします。こういった場合には、A群の表現を使うほうが無難です。
 

【Coffee Break】

「ラ抜き言葉」を防ぐ方法

【練習問題40】
 次のA群とB群の表現がどう違うのか考えてください。
  A群 B群
  着レル  切レル
  変えレル 帰レル

 やむをえずに「~ことができる」を使う例外は、ほかにもあります。それは、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞で可能を示す表現(これを「可能表現」と呼ぶことにします)をするときです。
 念のため、「ラ抜き言葉」と呼ばれるのはどのような表現なのか確認しておきます。たとえば「来る」の可能表現は「来ラレル」です。しかし、近年の話し言葉では、これを「来レル」とする例が多くなっています。このように、可能表現を「ラレル」とするべきところを「レル」にするのが「ラ抜き言葉」です。
「ラ抜き言葉」の是非については、諸説あります。「文豪の作品にもラ抜き言葉が使われている」「ラが入らない方言もある」といった理由で、「ラ抜き言葉」は誤りではない、とする人もいるようです。その一方で、「明らかに誤用」と主張する人もいます。「どちらでも構わないから、早く意見を統一してくれないと文章が書きにくい」といいたいところです。「どちらでも構わない」とは思いながら、誤用といわれるのがシャクなので、自分では原則的に「ラ抜き言葉」を使わないことにしています。
【練習問題40】としてあげた表現は、A群が「ラ抜き言葉」で、B群は「ラ抜き言葉」ではありません。
 可能表現にするときに、レルをつけるべきかラレルをつけるべきかを判断するには、動詞の活用の違いを考える必要があります。正確な説明を試みるとむずかしくなりそうなので、自信がない人は、次のことだけを覚えてください。
 可能表現のレル、ラレルのかわりに、否定形の「ない」をつけてみます。
  1)直接「ない」がつく言葉          ↓可能表現はラレル
  2)直接「ない」がつかず、「ラない」になる言葉↓可能表現はレル
 この判定法で、間違いがないはずです。先にあげた例でいうと、「着ない」「変えない」は1)のパターンなので、可能表現は「着ラレル」「変えラレル」になります。「切ラない」「帰ラない」は2)のパターンなので、可能表現は「切レル」「帰レル」です。
「〇〇レル」では「ラ抜き言葉」になる動詞をいくつかあげてみます。すべて、「〇〇ラレル」のかわりに直接「ない」をつけることができるはずです。
  〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉
  来ラレル/出ラレル/寝ラレル/見ラレル
  〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉
  開けラレル/上げラレル/生きラレル/起きラレル/降りラレル/避けラレル/
  立てラレル/食べラレル/つけラレル/詰めラレル/分けラレル
  〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉
  預けラレル/省みラレル/数えラレル/考えラレル/試みラレル/信じラレル/
  任せラレル
 この判定法で、「ラ抜き言葉」になるのを防ぐことはできます。
 しかし、問題はそれほど単純ではありません。この件に関しては、いろいろな例を考えれば考えるほど自分の語感が信じられなくなってきて、「どうしたらいいのかわからない」というのが正直なところです。
 悩みのタネが2つあります。1つ目は、正しいといわれる用法に従ってラレルにすると、語感がヘンになるものがあることです。どの程度ヘンと感じるのかは個人差もあるのでしょうが、〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉のほとんどは、ラレルよりもレルのほうがマシな気がします。
〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉のなかでは、「食べラレル」「つけラレル」あたりが微妙なところです。
〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉の場合は、ラレルにしても大丈夫な気がします(厳密にいうと「省みラレル」「試みラレル」は少しヘンに感じますが、この2つはレルでもヘンな感じが残るので、別の理由がありそうです)。
 2つ目の悩みのタネは、可能表現がレルにしかならない動詞が、「ラ抜き言葉」のような印象になることです。これも個人差があるのでしょうが、「掘レル」「しゃべレル」あたりは、「ラ抜き言葉」ではないか、と一瞬迷ってしまいます。「掘る」「しゃべる」はどちらも否定形が「ラない」ですから、可能表現は「掘ラレル」「しゃべラレル」ではありません。語感に自信のあるかたは、「そんなのは当たり前」と思われるかもしれませんが……。
 語感のよさを考えると、「ラ抜き言葉」はますます一般的になっていきそうです。そうなると、レルとラレルの使い分けがいっそうむずかしくなっていくでしょう。
 そのため、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞の可能表現は、少しでもヘンと感じたらほかの言葉に書きかえるようにしています。適切な書きかえができないときに使うのが、「~ことができる」です。
 この表現を使えば、どちらのタイプの動詞でも「着ることができる」「切ることができる」と同じ形になるので、レルにするべきかラレルにするべきかを迷うこともありません。安直な方法ではありますが、ほかによい方法が見当たらないので、やむをえず使っています。

【研究課題11】
「守る」と「攻める」という2つの動詞について、次のことを考えてください。
  1)2つの動詞の「ラ抜き言葉」ではない可能表現はどのような形になるでしょうか。
  2)2つの可能表現を並べたとき、どのような印象になるでしょうか。

●「強い断言調」は多用しない

【練習問題41】
 次の表現が、読み手にどのような印象を与えるのか考えてください。
  1)~といっても過言ではない
  2)~はいうまでもない
  3)~以外の何ものでもない
  4)~にほかならない
  ㈭~でなくてなんだろう

 ここであげた1)~㈭は、いずれもふつうに使われている表現です。しかし、「強い断言調」なので、多用すると高圧的な印象の文章になります。とくに、★ページでふれた「~といえよう」などと併用する場合は注意が必要です。1)を例に考えてみましょう。
  ㈮~といっても過言ではなかろう
  ㈯~といっても過言ではないといえよう
 2)~㈭も、「~といえよう」などと併用すると、非常に「強い断定調」になる気がします。
 ㈮のような表現は、「本当にここまで強調する必要があるのか」と考えてから使うべきです。そうすれば、多用することはなくなります。
 ㈯は重言ではなさそうですが、かなりクドい印象なので、避けたほうが無難です。

 ここまではふれずに来ましたが、★ページで「~といえよう」の書きかえ案としてあげた「~といえるだろう」は、重言風と考えることもできます。「いえる」と「だろう」は、どちらも断定を弱める働きがあるからです。しかし、気にするほどのことではないので、使っても構わないと思います。この点は、「~といえるでしょう」も同様です。


【Coffee Break】

再びデス・マス体とデアル体について
 これも個人的な感覚に過ぎませんが、「強い断定調」はデス・マス体と相性が悪い気がします。第4章で取りあげた表現のなかには、デス・マス体と相性の悪いものがほかにもありそうです。
 本書の原稿を書くにあたり、いくつかの理由があって、デス・マス体を使うことにしました。その理由のひとつが、この「相性の悪い表現が多い」ことです。デス・マス体で文章を書くと、堅苦しい表現や乱暴な表現が使いにくくなります。
 一般に、デス・マス体のほうがデアル体よりやさしく感じられるのは、文末表現の違いのせいと考えられがちです。しかし、それよりも言葉づかいの違いのほうが重要ではないでしょうか。
 本書には、デス・マス体にふさわしくない表現も使われています。意識的に使ったのは、次の3つです。
  ヤカラ(★ページ)/わかったものではありません(★ページ)/
  トヤカクいう(★ページ)
 これらの表現はかなり乱暴なので、本来ならデス・マス体の文章では使うべきではありません。このほかにもデス・マス体に向かない表現を使っていたとしたら、書き手の認識不足です。お許しください。
 文末が単調なうえに、語彙が制限されるのですから、デス・マス体が書きにくいのは当然かもしれません。以前から「多少書きにくい」とは感じていましたが、「多少」どころではないことを思い知らされました。
 もっとも、これは自分でいくつもの制約を設けたせいもありますから、自縄自縛です。なかでも、「体言止めや変則形の文末は極力使わない」「原則として同じ文末を2度続けない」と文末に関して2つの制約を設けたのは大失敗でした。これほど文末に神経質になりながら文章を書いたのは初めてです。
 お見苦しい部分がずいぶんあったことを、おわびいたします。

伝言板【板外編1】「~たり」の使い方〈1〉〜〈3〉 「~たり~たり」 「~たり、~たり」

 下記の仲間。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-category-12.html

mixi日記2008年10月20日から
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=969581246&owner_id=5019671

 前日の日記にいただいた質問に関して、メンドーなので(←オイ)……もとい、ちゃんと書くと話が長くなるので、「赤い本」に書いたことから抜粋します。

●「~たり」の使い方

【練習問題26】
 次の文の「~たり」の使い方は適切なものか、考えてください。
  1)昨夜は、飲んだり歌って大騒ぎしました。
  2)昔は朝まで飲んだりしたものです。

「~たり」の用法は、2つに大別できます。
 第1に、動作などを並列させていることを示す1)のような使い方です。この場合は、2つ目以降の「~たり」は省略できません。動作を3つ並列させていれば、3つすべてに「たり」をつける必要があります。1)の文も、「飲んだり歌って」ではなく、「飲んだり歌ったりして」にしなければなりません。
 第2に、ひとつの動作などを示すことで、同様のことを暗示する2)のような使い方です。この場合は、「~たり」は1回しか使いませんが、言外にほかの動作を含んでいます。
 ここまでは「文章読本」などに書かれていることがあるので、ご存じのかたも多いでしょう。そういった記述を目にしたことがなくても、1)の文は言葉足らずの感じがするはずです。しかし、実際には「~たり」がひとつしかない文(「片たり」と呼ぶことにします)をしばしば目にします。あまりにも頻繁に目にするので、ごく近い将来には許容されるのではないか、と思ってしまうほどです。
「片たり」になってしまう理由は、よくわかります。たとえば、次の文を見てください。

 〈原文1〉
 子供がある程度の年齢になれば、親にいえないような秘密をもったり、親の意見に反発するのは当然のことです。

 さほどヘンではない気がしませんか。
 おそらく、1)の「歌って」に比べて〈原文1〉の「親の意見に反発する」の部分が長いために、「片たり」でもおかしくない気になるせいです。「~たり」を含む部分が極端に長くなると、前の「~たり」からずいぶん離れたところに後ろの「~たり」が唐突に出てきた感じになるので、「片たり」のほうが自然に感じられることさえあります。
 2つ目以降の「~たり」も省略しないのが日本語のルールなので、〈原文1〉は次のようにしなければなりません。

 〈書きかえ文1-1〉(「~たり」を機械的に入れた文)
 子供がある程度の年齢になれば、親にいえないような秘密をもったり、親の意見に反発したりするのは当然のことです。

「~たり」の正しい使い方どおりに書くと、「したりする」の部分がもたついた感じがして、語感が非常に悪くなります。「正しい使い方であれば語感が悪くても構わない」と考える人は、〈書きかえ文1-1〉のように機械的に「~たり」を入れればよいでしょう。
 しかし、もう少しマシな文にしたければ、次のことを考えてみてください。文によっては、もたついた感じが緩和できます。

1)「~たり」を含む部分をできるだけ短くする
 先に書いたように、「~たり」を含む部分が長いときは、ルールからはずれた「片たり」でもおかしくない気になります。逆に「~たり」を含む部分が短いときは、ルールどおりでないとリズムが悪く感じられるはずです。そのため、「~たり」を含む部分を短く書くことを心がけると、「片たり」にならずに済みます。

 〈書きかえ文1-2〉(「~たり」を含む部分を短くした文)
 子供がある程度の年齢になれば、親に対して秘密をもったり、反発したりするのは当然のことです。

2)「熟語+する」の形の動詞を前にもってくる
〈原文1〉で並列されている動詞は、「秘密をもつ」と「反発する」です。「反発する」のように「熟語+する」の形の動詞が後ろに来ていると、「したりする」「したりして」などの形になり、もたついた感じが強くなります。このような場合には、単純に動作の順番を入れかえるだけでもマシになります。

 〈書きかえ文1-3〉(「熟語+する」の形の動詞を前にもってきた文)
 子供がある程度の年齢になれば、親の意見に反発したり、親にいえないような秘密をもったりするのは当然のことです。

3)動詞を名詞にする
 並列されている動詞が両方とも「熟語+する」の形だと、2)の方法は使えません。その場合は、「熟語+する」の「する」をとって名詞にした文に書きかえる方法も考えられます。

  〈原文2〉
  人から注目されたり、尊敬されたりするために、見栄を張る人は多いようです。
  〈書きかえ文2〉(「熟語+する」の形の動詞を名詞にした文)
  人の注目や尊敬を得るために、見栄を張る人は多いようです。

4)「~たり」を含む文をできるだけ短くする
 1)で例をあげたように、「~たり」を含む部分はできるだけ短くするべきです。さらに、文全体も短くしたほうが、わかりやすくなります。

 〈原文3〉
 接続詞を無理に減らすために、2つの文を結合して一文が長くなったり、接続詞のかわりによけいな言葉を使って意味がわかりにくくなるぐらいなら、素直に接続詞を使うほうがよいでしょう。

〈原文3〉は「片たり」になっていますが、一読しただけでは、後ろの「~たり」をどこに入れたらよいのかさえわかりません。「~たり」を含む部分が長いうえに文全体が長いため、わかりにくくなっています。まず、単純に文を分割して後ろの「~たり」を加えてみましょう。

 〈書きかえ文3-1〉(「~たり」を含む文を短くした例)
 接続詞を無理に減らそうとするのはよくありません。2つの文を結合して一文が長くなったり、接続詞のかわりによけいな言葉を使ったりして、意味がわかりにくくなることがあるからです。そんなことになるぐらいなら、素直に接続詞を使うほうがよいでしょう。

「~たり」を含む文を短くすることを徹底するなら、次のようになります。
 
 〈書きかえ文3-2〉(「~たり」を含む文をさらに短くした例)
 接続詞を無理に減らそうとすると、意味がわかりにくくなることがあります。2つの文を結合して一文が長くなったり、接続詞のかわりによけいな言葉を使ったりするからです。そんなことになるぐらいなら、素直に接続詞を使うほうがよいでしょう。

〈書きかえ文3-1〉と〈書きかえ文3-2〉のどちらにするのかは趣味の問題でしょう。どちらにしても、〈原文3〉よりはマシですが、「~たり」を含む部分が長いという問題が残っています。この場合の「~たり」を含む部分は、現状でもやや言葉足らずの印象になっているので、これ以上短くするのはむずかしそうです。こういう場合は、別の書きかえ方も考えます。

5)「~たり」を使わない形に書きかえる
「~たり」を含む部分が長いときは、いっそ「~たり」を使わない形に書きかえたほうがすっきりすることも多いようです。

 〈書きかえ文3-3〉(「~たり」を使わない形に書きかえた例)
 接続詞を無理に減らそうとするのは、文の意味がわかりにくくなる原因のひとつです。まず、接続詞を減らすためには文を結合することが多いので、必然的に一文が長くなってしまいます。さらに、接続詞のかわりによけいな言葉を使ってしまうこともあります。そんなことになるぐらいなら、素直に接続詞を使うほうがよいでしょう。

「~たり」を含む部分がとくに長くはないのにもたついた感じになっている文も、「~たり」を使わない形に書きかえたほうがよい場合があります。

 〈原文4〉
 接続詞が多用されている文章は、同じ接続詞を繰り返していたり、必要のない接続詞が使われていたりすることが多いようです。
〈書きかえ文4-1〉(「~たり」を使わない形に書きかえた例)
 接続詞が多用されている文章は、同じ接続詞を繰り返していることや、必要のない接続詞が使われていることが多いようです。




伝言板【板外編1】「~たり」の使い方〈2〉


mixi日記2014年09月26日から

 テーマサイトは下記。
【「たり」という言葉について。】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10136024295/a340601503

 うなってしまった。
 最近、mixiのトピでのやり取りはほとんどがしょうもないものになっているし(詳細はあらためて)、他の質問板も妙な感じになっている例が目立つ(当方にも責任の一端はあるかも)。ホンマにそろそろそのテのものから離れようかと考えているときに、おもしろいものに当たってしまった。
 質問と、当方のコメントの全文をひく。
==============引用開始
「たり」という言葉について。

①例を並べあげる
②一例をあげ、他を暗示する。
③例示を装って、刺激の強いことがらを受け止めやすく言う言い方。

③についてが、よくわかりません。
どういう意味でしょうか?

③の例として、「おこったりして、すみません。」とあります。

つまり、言い方をやわらかくするっていうことでしょうか?
==============引用終了
【tobiクンのコメント】===引用開始
「たり」という言葉について。

1)例を並べあげる
2)一例をあげ、他を暗示する。
3)例示を装って、刺激の強いことがらを受け止めやすく言う言い方。
※丸つき数字はバケる可能性があるので、書きかえました。

↑これは辞書とかにのっていた説明でしょうか。貴重な記述なので、できれば原典を教えてください。
通常は1)と2)しか見ないもので、3)に驚きました。
たしかに「おこったりして、すみません」は3)ですね。「言い方をやわらかくする」効果がありそうです。
ただ、この3)と2)の違いは微妙かもしれません。

念のためWeb辞書をひきます。
http://dictionary.nifty.com/word/%E3%81%9F%E3%82%8A?dic=daijirin

『大辞泉』の2)の意味の例文として下記があげられています。
「車にひかれたりしたらたいへんだ」
これは3)の意味にもとれる気がします。
微妙なので区別しなかったのか、3)の意味に気がつかなかったのか……。
類似の例文は想起できます。3)とは不妙に違う気がします……。
「(そんな派手な恰好をして)変質者にあったりしたらどうするの」
「(こんな時間に外出して)危ない目にあったりしても知らないよ」


「~たり」の使い方に関しては、以前書いた知恵ノートが参考になると思います。
近く3)に関して加筆します。勉強になりました。ありがとうございます。
【45定番の質問 「~たり」の使い方】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n148591

他の並列助詞に関しても、最近ルールが揺れている気がします。このコメントの冒頭で使った「辞書とか」も、「文法書」「参考書」などを含めた用法なのですが、やはり少し不自然ですね。
==============引用終了

「たり」の用法に関して「赤い本」に書いてから早ウン年。追記の必要性はほとんど感じなかった。頭がかたくなり、物事を考える……ヤカマシ!
 こういうのはきわめて珍しい。まあ、そこそこよく書けている、のかもしれない……と考えることにしていた(超弱気)。
 
「たり」の主な用法に関しては、従来のままでいいだろう。↑の1)と2)。これの説明に関しても、「赤い本」のままでさほどおかしくない。
 問題は3)。「例示を装って」……厳密に考えるとその後が何種類かある気がする。
a「たり」の前の動詞を否定的に語る
例 怒ったりして、済まなかった
「怒る」以外に「叱る」「罵る」「殴る」「蹴る」といろいろやっていたなら、典型的な2)になる。
b「たり」の前の動詞をギャグにする
例 ……と言ったりしてね
 ひと昔前の「なーんちゃんて」の類い。……と繰り返したり、△△と囁いたりを想定するなら、2)に近づく。
c極端な例を出して注意を促す
例 車にひかれたりしたらたいへんだ
 これが微妙なのかもしれない。「車にひかれる」ほかにいろいろな事故を想定するなら、2)に近づく。
「車に轢かれたり、馬車に轢かれたり、戦車に轢かれたりしたらたぶんケガをする」

 a~cを簡潔にまとめる言い方はないのだろうか。「刺激の強いことがらを受け止めやすく言う言い方」では説明しきれていないような……。

30分




伝言板【板外編1】「~たり」の使い方〈3〉


mixi日記2014年10月15日から

 FBにコメントをもらい、可愛く小首を傾げてしまった。
 初心に返って、辞書をひくところから始めたい。
 いただいたコメントにあったのは『三省堂国語辞典 第七版(サンコク7)』(ヒーロー戦隊みたいでカッコいい、以後カッコいいほうで呼ぶ(笑)。さらにWeb辞書をひいて、この段階で目眩を感じて挫折しそうになる。
 コメントと辞書の引用の全文は末尾に。
 以下、〈1〉〈2〉の書き方に準じて書く。「~たり」の使い方は2つに大別できる。
1)動作などを並列させていることを示す
2)ひとつの動作などを示すことで、同様のことを暗示する
 このほかに〈3)よくわからない用法〉があるってこと。

 ここまではよしとしたい。ただ、辞書を見比べると、1)や2)の品詞が微妙に違う。
 1)に関して。
『サンコク7』『大辞泉』……接助
『大辞林』…… 並立助

 2)に関して。
『サンコク7』……副助① ※だと思う
『大辞林』…… 並立助②(副助詞的用法)
『大辞泉』……接助2(副助詞的に用いられ) ※だと思う

 どれが正解なんでしょ(泣)。当方としては、何助詞でも構わない。腐女子はちょっとイヤだけど。
 1)は並列助詞(並立助詞とほぼ同義だと思う)と考えていた。そのほうがほかのケースを考えるときにわかりやすいから。
1181)【バイト敬語/若者言葉──「~とか」の話】〈2〉──並列助詞の迷宮
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-3027.html

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1927524020&owner_id=5019671
 おおざっぱに書くと、2)は1)の一方を省略したものと考えれば「並列助詞」。そう考えないのなら「副助詞」なんだろう。『サンコク7』の書き方だと、どれになるのかイマイチわからない。この際どちらでもいいことにする。

『大辞林』と『大辞泉』にある「終助詞的用法」(ただし、『大辞林』は並立助詞にしていて、『大辞泉』は接続助詞にしている)は、当方の語感にはないので無視する。

 問題は3)の用法。
 いろいろ分類を試み〝たり〟したけど、スッキリしない。
 分厚い文法辞典をひけば、さらに亜種が出て来る気がする。こういうのは「~など、いろいろな用法がある」とでもしておかないと収拾がつかなくなる。
 という感じで逃げ〝たり〟する。(←オイ!)



 いただいたコメントを引用する。FBのコメントって、単独のリンクは張れないのかね。
==============引用開始
ほほー、タリ問題おもしろいですね。ちなみに三省堂国語辞典 第七版(サンコク7)では以下のとおり。
>>
【たり】三省堂国語辞典 第七版
[二](接助)ならべて のべるときに使う。「煮(ニ)―焼い―して食べる」
[三](副助)①例として あげることをあらわす。「テレビを見―して過ごす」
②そういう場合があることをあらわす。「週末は道路が こんでい―する」
③そういうことは いけない、という気持ちをあらわす。「なぜ うそをつい―したの?」
④〔話〕えんりょがちに言う気持ちをあらわす。「きょう、ひまだっ―します?・わたし、じつは成績がよかっ―するんです」
<<

「たりして」は連語扱いになってますね。
>>
3. 〔話〕…というのはじょうだんだ、という気持ちをあらわす。
「このまま そっと帰っちゃったりして」
<<
9月27日 22:05
==============引用終了

 今度はWeb辞書をひく。
http://dictionary.nifty.com/word/%E3%81%9F%E3%82%8A?dic=daijirin
==============引用開始
大辞林 第三版の解説

たり
( 並立助 )
〔完了の助動詞「たり」の終止形「たり」から。中世末期以降の語〕
活用語の連用形に接続する。ガ・ナ・バ・マ行五(四)段活用の動詞に付く場合には「だり」となる。
①並行する,あるいは継起する同類の動作や状態を並べあげるのに用いる。普通,「…たり…たり」のように,「たり」を二つ重ねて用いる(時に,末尾の「たり」のあとに「など」を添えていうこともある)。 「人が出-入っ-している」 「本を読ん-((だり))手紙を書い-するひまもない」 「大きかっ-小さかっ-などして,なかなかからだに合うのがない」
②(副助詞的用法)一つの動作や状態を例としてあげ,他に同類の事柄がなおあることを暗示する。 「あの子は,親にたてつい-して,ほんとうに困ったものだ」 「わたしが人をだまし-などするものですか」
③(終助詞的用法)同じ動作を「…たり…たり」と繰り返してあげ,命令や勧誘の意を表す。 「さあ,早く起き-起き-」 「そこに居てはじゃまだ。どい-どい-」
==============引用終了
デジタル大辞泉の解説

たり【たり】

[接助]《文語の完了の助動詞「たり」から》用言、一部の助動詞の連用形に付く。ガ・ナ・バ・マ行の五段活用動詞に付く場合は「だり」となる。

ア 動作や状態を並列して述べる。「泣い―笑っ―する」「とんだり跳ね―する」
イ 反対の意味の語を二つ並べて、その動作・状態が交互に行われることを表す。「暑かっ―寒かっ―の異常な陽気」「足を上げ―下げ―する運動」
2 (副助詞的に用いられ)同種の事柄の中からある動作・状態を例示して、他の場合を類推させる意を表す。「車にひかれ―したらたいへんだ」
3 (終助詞的に用いられ)軽い命令の意を表す。「早く行っ―、行っ―」
◆「たり」は中世以降、文語的な「…ぬ…ぬ」に対し口語として動詞の連用形だけに付く形で用いられた。1は、並立助詞として扱われる場合もあるが、近世後期からはあとのほうを省略して「…たり…」の形をとる場合もみられる。
==============引用終了

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

伝言板【板外編4】【「ラ抜き言葉」を防ぐ方法】

 お品書き。
【赤い本(ここがヘンだよ『日本語練習帳』)からの抜粋一覧】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2336.html

 このタイトルはどうなんだろう。正確には【「ラ抜き言葉」になるのを防ぐ方法】なんだろうな。でも回りくどいな……。

mixi日記2008年12月23日から

 ちょっと思うところがあって、「ラ抜き言葉」(正確には「ar抜き言葉」だと思う)について書いてみる。
※「ar抜き言葉」に関しては下記参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C
「思うところがあって」と言うより、「リハビリがてら」ってのが正しい気も……。
ラ抜き言葉」ってことがいつ頃から言われるようになったのかは知らない。誤用か否かと言われたら、「誤用」と断言できる自信はない。なんせ、国語学者の間では結論は出ていないらしい。そうは言っても、日常的な日本語として正しいものとは考えにくいし、自分では使わない。人が使うのはどうでもよく思えてきたけど、仕事ではNG。

 マトモな物書きが「ラ抜き言葉」を使っているのはあまり見たことがない(小説の中の会話文や方言は別)。〈「ラ抜き言葉」は誤用ではない〉と主張している例もほとんど見たことがない。「マトモな物書き」というのは語弊があるので、「実践的な物書き」としておこう。
 印象に残っているのは本多勝一の『実戦・日本語の作文技術』(1994年)。この本の前半は、前著にあたる『日本語の作文技術』と同じことを繰り返している。後半は、日本語に関する寄稿文などをまとめている。
〈何をもって「国語の乱れ」とするのか〉(p.226~)は1992年10月18日・25日・11月1日各号の「サンデー毎日」に寄せたものらしい。9月27日に発表された日本語に関する世論調査(総理府)のことをボロクソに書いている。
 その一環で、「ラ抜き言葉」を「日本語の乱れ」としたことに怒りをぶつけている。本多の主張の根拠は主として2点ある。
  1)本多の故郷である伊奈弁(信州)では「ラ抜き言葉」が正しい言葉である
  2)「ラ抜き言葉」は受身と可能を区別するための論理的な言葉遣いである
 例によってもんのすごく高飛車な書き方をしているけど、さすがに無理でしょう。
「美しいです」「うれしいです」といった「形容詞+デス」の形をあれほど非難する人と同一人物とは思えない。12月19日の日記を参照。
【読書感想文『日本語の作文技術』】 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1027377833&owner_id=5019671

 1)のような主張がムチャなことは誰にでもわかる。慣れ親しんだ郷土の言葉を弁護したい気持ちはわからなくはない。じゃあ当方も北海道弁が正しい言葉だって主張してもいいですか? そんな恥ずかしいことはできない。ちなみに北海道でも「ラ抜き言葉」がフツーらしい。この点に関してはどうも実感がないけど。
 2)の論調もよく聞くけど、あんまり相手をしたくない。この問題を話し合うのは国語学者の仕事だと思う。「ラ抜き言葉」が正しいと考えて、信念に基づいて使うんならご自由に、としか言えない。
 ただ、「ラ抜き言葉」か否かもわからずに使うのは勘弁してほしい。「通じりゃいいじゃん」と「無知の開き直り」をするのもやめてほしい。一般には誤用とされていることも理解しておいてほしい。それを承知で使う人にまでとやかく言う気はない。
 ちょっと気になるのは、本多勝一が「ラ抜き言葉」を使っていたか否か。使っていれば気づくはずだから、たぶん使っていない。そりゃ使わないって。
 そのかわり、「ラ抜き言葉」じゃない形も使っていないだろうな。「~ことができる」の形にすればいいんだから、避けるのは簡単だしね(詳細は後述)。あれだけムキになって書いていて、「ラ抜き言葉」じゃない形を平然と使っていたらおかしいけど(やりかねない、と思えるとこが怖い)。

「ラ抜き言葉」を誤用と言う人は多い。当方も数年前まではそうだった。いまは、「変化の過程かも」と考えている。ただ、たとえそうであっても、現状では「乱れ」と考えるしかない。以前、コミュで次のように書いた。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33584281&comm_id=56314&page=all
 ↑の[4]。正確には、「受動、尊敬、可能」のほかに「自発」がある(泣)。
================================
 かつて五段活用の動詞が、受動、尊敬、可能がすべて「書かれる(kak-ar-er-u)」だったのに、しだいに可能だけがarが抜けて「書ける(kak-er-u)」になったのと同じことだと思います。

 ただし、少し考え方をかえてもいいかもしれません。もう何十年も「ら抜き」は乱れだ、乱れではないと論争が続き、こういうのはだいたい「進化」していくはずなにのに、いまだに「乱れ」だといわれる。それだけ、「ら抜き言葉」には拒絶反応を呼ぶ何かがあるような気がします。
 そう考えると、まだ当分の間は「乱れ」という主張が主流を占めるのでは。

 個人的には、「ら抜き言葉」は使えません。他者が言っているのは「もうしかたがない」とあきらめますが(ただし、年配者には使ってほしくない)、書いているのにはかなり抵抗があります。
================================

 あと何十年かしたら、「ラ抜き言葉」がフツーの言葉になっている気がする。それでも、個人的には使わないとは思うけど(生きてるのか?)。いまでも、「書ける」の意味で「書かれる」って形を使う人がいるらしい。さすがに古めかしい印象はあるけど。
 そういう頑固ジジイに、ワタシはなりた……くはないけどなってしまうのだろう(泣)。
 
 もう少し、現実的な話をする。
「ラ抜き言葉」を判別するにはどうすればいいか。ウッカリ使わないようにするのはどうすればいいか。以前、「赤い本」に書いた原稿を引用する。ほぼ間違ってはいない。その後、ある筋から下記のサイトを教えてもらった。
【「ら抜き」チェック法】
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k981112.htm

 このサイトに書かれている判別法は、
  「よう」がつくなら「られる」も付く
 当方の判別法を同様に言い換えるなら、
  「ない」がつくなら「られる」が付く
 まあ、ほぼ同じ主張になる。


赤い本」からの引用======================
※この文章の前項では、「~ことができる」は避けたほうが無難、と書いた。 
  書くことができます      →書けます
  簡単に持ち運ぶことができます →簡単に持ち運べます
  説明することができます    →説明できます
 それぞれ、右のように書いたほうが文章がスッキリする、ということ。微妙な差なので、そんなにこだわることはないけど。そうは言いながら、例外的に「~ことができる」を使ったほうがいい場合もある、ということで話はどんどん横道に逸れていく(笑)。


【「ラ抜き言葉」を防ぐ方法】

【練習問題40】
 次のA群とB群の表現がどう違うのか考えてください。
  A群    B群
  着レル   切レル
  変えレル  帰レル
【追加】
  寝レル   練レル

 やむをえずに「~ことができる」を使う例外は、ほかにもあります。それは、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞で可能を示す表現(これを「可能表現」と呼ぶことにします)をするときです。
 念のため、「ラ抜き言葉」と呼ばれるのはどのような表現なのか確認しておきます。たとえば「来る」の可能表現は「来ラレル」です。しかし、近年の話し言葉では、これを「来レル」とする例が多くなっています。このように、可能表現を「ラレル」とするべきところを「レル」にするのが「ラ抜き言葉」です。
「ラ抜き言葉」の是非については、諸説あります。「文豪の作品にもラ抜き言葉が使われている」「ラが入らない方言もある」といった理由で、「ラ抜き言葉」は誤りではない、とする人もいるようです。その一方で、「明らかに誤用」と主張する人もいます。「どちらでも構わないから、早く意見を統一してくれないと文章が書きにくい」といいたいところです。「どちらでも構わない」とは思いながら、誤用といわれるのがシャクなので、自分では原則的に「ラ抜き言葉」を使わないことにしています。
【練習問題40】としてあげた表現は、A群が「ラ抜き言葉」で、B群は「ラ抜き言葉」ではありません。
 可能表現にするときに、レルをつけるべきかラレルをつけるべきかを判断するには、動詞の活用の違いを考える必要があります。正確な説明を試みるとむずかしくなりそうなので、自信がない人は、次のことだけを覚えてください。
 可能表現のレル、ラレルのかわりに、否定形の「ない」をつけてみます。
  1)直接「ない」がつく言葉          →可能表現はラレル
  2)直接「ない」がつかず、「ラない」になる言葉→可能表現はレル
 この判定法で、間違いがないはずです。先にあげた例でいうと、「着ない」「変えない」は1)のパターンなので、可能表現は「着ラレル」「変えラレル」になります。「切ラない」「帰ラない」は2)のパターンなので、可能表現は「切レル」「帰レル」です。
「〇〇レル」では「ラ抜き言葉」になる動詞をいくつかあげてみます。すべて、ラレルのかわりに直接「ない」をつけることができるはずです。

  〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉
  来ラレル/出ラレル/寝ラレル/見ラレル
【追加】居れる
  〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉
  開けラレル/上げラレル/生きラレル/起きラレル/降りラレル/避けラレル/
  立てラレル/食べラレル/つけラレル/詰めラレル/分けラレル
【追加】浴びラレル/借りラレル/跳ねラレル/やめラレル
  〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉
  預けラレル/省みラレル/数えラレル/考えラレル/試みラレル/信じラレル/任せラレル
【追加】整えラレル/調えラレル

 この判定法で、「ラ抜き言葉」になるのを防ぐことはできます。
 しかし、問題はそれほど単純ではありません。この件に関しては、いろいろな例を考えれば考えるほど自分の語感が信じられなくなってきて、「どうしたらいいのかわからない」というのが正直なところです。
 悩みのタネが2つあります。1つ目は、正しいといわれる用法に従ってラレルにすると、語感がヘンになるものがあることです。どの程度ヘンと感じるのかは個人差もあるのでしょうが、〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉のほとんどは、ラレルよりもレルのほうがマシな気がします。
〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉のなかでは、「食べラレル」「つけラレル」あたりが微妙なところです。
〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉の場合は、ラレルにしても大丈夫な気がします(厳密にいうと「省みラレル」「試みラレル」は少しヘンに感じますが、この2つはレルでもヘンな感じが残るので、別の理由がありそうです)。
 2つ目の悩みのタネは、可能表現がレルにしかならない動詞が、「ラ抜き言葉」のような印象になることです。これも個人差があるのでしょうが、「掘レル」「しゃべレル」あたりは、「ラ抜き言葉」ではないか、と一瞬迷ってしまいます。「掘る」「しゃべる」はどちらも否定形が「ラない」ですから、可能表現は「掘ラレル」「しゃべラレル」ではありません。語感に自信のあるかたは、「そんなのは当たり前」と思われるかもしれませんが……。
 語感のよさを考えると、「ラ抜き言葉」はますます一般的になっていきそうです。そうなると、レルとラレルの使い分けがいっそうむずかしくなっていくでしょう。
 そのため、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞の可能表現は、少しでもヘンと感じたらほかの言葉に書きかえるようにしています。適切な書きかえができないときに使うのが、「~ことができる」です。
 この表現を使えば、どちらのタイプの動詞でも「着ることができる」「切ることができる」と同じ形になるので、レルにするべきかラレルにするべきかを迷うこともありません。安直な方法ではありますが、ほかによい方法が見当たらないので、やむをえず使っています。

【研究課題11】
「守る」と「攻める」という2つの動詞について、次のことを考えてください。
  1)2つの動詞の「ラ抜き言葉」ではない可能表現はどのような形になるでしょうか。
  2)2つの可能表現を並べたとき、どのような印象になるでしょうか。

伝言板【板外編7】デス・マス体が書きにくいワケ1

 お品書きはこちら。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-category-21.html

mixi日記2009年03月21日から

デス・マス体表UP

デス・マス体表切り抜き2MB


 デ・アル体とデス・マス体の文末を比較した表。(  )がついているのは、ヘンに感じられるので、自分で文章を書くときにはめったに使わないだろう、と感じるものです。「ヘンに感じられる」のは個人的な感覚にすぎないので、「使うべきではない」とは主張しません。なかには(だったデス)のように明らかにヘンなものもありますが、(高いデス)のように一般には許容されているものも含まれています。



 当方はデス・マス体が嫌いだ。
 ……ホントに嫌いなものが多い子だね。立派な大人になれませんよ。そんなものとうに諦めてますから。
 デス・マス体が嫌いな理由を書きはじめると、本が一冊書けてしまう。これが比喩でもなんでもないところが怖い。

 理由はいろいろある。デス・マス体で書いていると偽善的になる気がするのも大きいかもしれない。短い文章ならごまかせるが、長い文章をデス・マス体で書いているとウソを書いているような気がして、精神的にメゲてくる。
 まあ、それは個人的な感覚でしかない。デ・アル体で書くと気持ちが荒むって人もいるかもしれない。そんなことで言い争う気はない。

 一般論で言うと、デス・マス体が書きにくい最大の理由は、「い形容詞終止形」が使えないことではないかと思う。
 とりあえず、「赤い本」のコラムを引く。
 このコラムの前提になっているのは『日本語練習帳』が「ノデアル」「ノダ」を消せ、と書いてあること。文章を書くためのアドバイスを得ようとしてこの本を読むと、訳のわからない記述が多くて頭が痛くなる。そんななかで、数少ない有意義な教えだ。
 ただ、ちょっと言葉足らずだと思う。デ・アル体の「ノデアル」「ノダ」は極力消したほうがいい。同様にデス・マス体の「ノデス」もできるだけ使わないほうがいい。しかし文末に不自由を強いられるデス・マス体では、あえて「ノデス」を使うほうがいいことがけっこうある。
 そういうことに触れずに「ノデアル」「ノダ」を消せ、と書くのはマズい気がする。しかも、「高いデス」や「高いノデス」の形を使いたくないからか、デス・マス体で書かれている『日本語練習帳』には「い形容詞終止形」が頻出する。そういう態度はおかしいと思う。一般の人がそんな作文を書いたら、「間違い」ってしかられるんだから。


【Coffee Break】なぜデス・マス体は書きにくいのか■■■■■■■■■■■■■

●文法的には認められていても……

【練習問題5】
 次の文をデス・マス体に書きかえてください。

  この本は高い。

 本文では、デス・マス体とデアル体のどちらが書きやすいのかは「意見が分かれるところです」と書きました。もう少し正確にいうと、意見が分かれるところではあっても、「デス・マス体のほうが書きにくい」と感じている人のほうが多いようです。デス・マス体の文章が書きにくいといわれる理由は文末の問題だけではなく、語彙の問題もかかわってきます。ここでは、文末の問題に限ってもう少し見ていきましょう。
 デス・マス体の文末が単調になりがちな理由として、すでにあげたように次の3点が考えられます(このうち、3)はあまり一般性をもたないかもしれません)。
  1)動詞で終わる文末がすべてマス(過去形の場合はマシタ)になる
  2)「名詞+〇〇」の形がデス(過去形の場合はデシタ)の1種類しかない
  3)体言止めや変則形が使いにくい
 このほかに、文末を「~イ」(形容詞の終止形)にできないという点があり、これが最大の問題ではないか、と思っています。
 先の表の中で、形容詞を〈例外1〉にし、次の例をあげました。

  現 在 形           過 去 形
  デアル体  デス・マス体    デアル体  デス・マス体
  高い    (高いデス)    高かった  (高かったデス)

 この(高いデス)や(高かったデス)は文法的には認められているようですが、おすすめできない形です(現在形でも過去形でも性質に大きな違いはないので、ここから先は現在形に限って話を進めます)。
 理由はよくわかりませんが、(高いデス)は許容できなくても、「高いデショウ(カ)」「高いデスか」「高いデスね」「高いデスよ」といった形なら使ってもよい気がします。これとほぼ同じことがいえるのが、「やや特殊な例」であげた(ないデス)と、〈例外2〉であげた(会わないデス)(会いたいデス)です。
 この(高いデス)と(高かったデス)について、『日本語練習帳』には次のように書かれています。

================================
 現在、外国人に日本語を教える教科書ではほとんどすべてが、
  高いです   高かったです
  美しいです  美しかったです
と教えています。これは現代語の必要に応じる、将来広まっていい形なので、社会的
に認めていいと思います。
================================

 そう書きながら、著者自身は「~イデス」という文末を認めていないようで、「~イ」で止めている例が多く見受けられます。これはデス・マス体の中にデアル体が入り込むので、変則形の一種です。
 文法的には認められていても、言葉に敏感な人なら「~イデス」には抵抗を感じると思います。「~イ」で止める形を使うか、ほかの表現を選ぶかは別にして、「~イデス」は避けるはずです。
(高いデス)や変則形を避け、「この本は高い。」という文をデス・マス体にするには、次のような書きかえが必要になります。

  1)これは高い本です。
  2)この本は高いものです。
  3)この本は高価です。
  4)この本は安くありません。
  5)この本は高いノです。

 おそらく、1)がいちばん自然な書きかえです。2)は多少無理が感じられます。3)も自然な書きかえですが、適切な言葉が見つからない場合には使えません。たとえば、「この本はおもしろい。」の場合はどう書きかえればよいのでしょうか。4)はほとんど反則です。「高い」と「安くない」では意味が違ってきますし、適切な反義語がない場合には使えません。5)は文法的には問題がありませんが、ノをつけると「強調」の意味になってしまいます。そのため、機械的に書きかえることはできません。
 もう少し別の例で見てみましょう。
「太郎は目が悪い。」という文を同様に書きかえようとしてみます。
 1)と2)のような書きかえはできません。あえてやるなら「太郎は目が悪い男です。」かもしれませんが、明らかに文のニュアンスがかわってしまいます。3)の書きかえも、目が悪い原因がわからないと「近眼」「乱視」などの言葉が使えないので、適当な言葉が見つかりません。残っているのは、4)と5)です。

  4)太郎は目がよくありません。
  5)太郎は目が悪いノです。

 この書きかえがあまり望ましくないのは、すでに書いたとおりです。そうなると、「~ようです」や「~と思います」といったよけいな言葉をつけるなど、ほかの表現を考えなければなりません。デス・マス体の文章では、こういう理由からノデスを使ってしまうことが非常に多いノデス。

●それでもノを加えてはいけないのか
 ここで、先にあげた表で(  )をつけた文末をもう一度見てみましょう。ノを加えるとヘンでなくなるものがたくさんあることがわかります。

  (だったデス)         →だったノデス
  (ありませんデシタ)      →×
  (ないデス)          →ないノデス
  (なかったデス)        →なかったノデス
  (だっただろう)        →だったノだろう
  (だったでショウ)       →だったノでショウ
  (だっただろうか)       →だったノだろうか
  (だったでショウカ)      →だったノでショウカ
  (していただきたかったデス)  →していただきたかったノデス
  (してほしかったデス)     →してほしかったノデス
  (高いデス)          →高いノデス
  (高かったデス)        →高かったノデス
  (会いませんデシタ)      →×
  (会わないデス)        →会わないノデス
  (会わなかったデス)      →会わなかったノデス
  (会いたいデス)        →会いたいノデス
  (会いたかったデス)      →会いたかったノデス
  (いえよう)          →×
  (いえまショウ)        →×

 このなかには、本当はノを加えなくても問題がない文末もあるでしょう。ノを加えても「強調」の意味にならないものもありそうですが、大半は妙に力みの感じられる文末になります。
「(会った)ノデアル」や「(会った)ノダ」と同様に、「(会った)ノデス」や「(会った)ノデシタ」も「強調」の意味がないときには使うべきではないことは、すでに書いたとおりです。「名詞+ナノデアル」「名詞+ナノダ」「名詞+ナノデス」も同様でしょう。
「強調」の意味がない「名詞+ナノデス」は、「名詞+デス」にかえてしまえばよいので、簡単に修正できます。しかし、「強調」の意味がない「(会った)ノデス」を使わないというのは難問で、簡単には解決できません。「~マシタ」の形の文末が続くのを避けるために、「(会い)マシタ」と書くべきところを、「(会った)ノデス」にしている例も多いからです。同様に、「(本)デシタ」と書くべきところを「(本)ダッタノデス」にしている例もたくさんあります。
 デス・マス体の過去形で書かれた文章を、文末に注意して読んでみてください。文末が単調でない場合は、このような使い方をされているノが非常に多いはずです。
 デス・マス体の現在形で文章を書く場合にも、事情はさほどかわりません。文末に変化をつけるために、「(会い)マス」と書くべきところを「(会う)ノデス」の形にしている文章はいくらでもあります。
 本書のここまでの原稿を書く間にも、文末が単調にならないように、「強調」の意味がない「ノデス」を使いそうになったことが何度もありました。これはふだん文章を書いているときにも、常につきまとう問題です。デアル体はデス・マス体より文末の種類が多いとはいっても、同じような問題は出てきます。
 もちろん、そういう不自由さを理由に意味のないノを使うのは、言い訳でしかありません。それをわかってはいても、意味のないノを大目に見てもよいのではないか、と思うことがあります。
 もうひとつ付け加えたいのは、デス・マス体は、デアル体に比べて「強調」のノが目立ちにくいことです。『日本語練習帳』の中の文で見てみましょう。「III 二つの心得」の最後にあるコラム中の文章です(原文に【  】はありません)。

================================
 戦前しきりに小説を読んでいた私は、簡潔な名文を書く作家として志賀直哉を深く尊敬していました。当時、志賀直哉は小説の神様といわれていた【のです】。
 第二次大戦後アメリカは占領政策の一環として「教育使節団」を日本に派遣し、教育改革のために漢字使用の全廃、ローマ字などの表音文字専用への移行を勧告しました。日本のROMAJIKAIやカナモジカイはこれを歓迎し、新聞界、文部省と手を組んで国字改革を遂行した【のです】。その混沌騒然とした空気の中、昭和二一年四月、雑誌『改造』に志賀直哉は「国語問題」という三二〇〇字の文章を発表しました。
================================

 この文章で使われているノデスは、さほど不自然ではない気がします。「強調」が適切に使われているためなのでしょうが、はっきりとした理由はわかりません。これがデアル体の文章ならノデスがノダ(もしくはノデアル)になって「強調」の効果が鮮明になり、印象が違ってくると思います。
 仮にこの文章でノデスを使わないことを徹底し、「たのです」を「ました」にかえるとどうなるでしょうか。文章が非常に単調になることが、おわかりいただけるはずです。
 この問題を解決するためのヒントも、第2章で紹介します。


【3月31日追記】
この伝言板を書いたのは、もともとは下記のトピの補足です。
【「い形容詞終止形」+「です」について】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=40879560&comment_count=15&comm_id=398881

「い形容詞終止形」+「です」が文法的に誤りとされる根拠などは、トピに下記のように書いています。

【6】■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 個人的な意見を書く前に、とりあえず資料です。

1)文化庁は昭和27年の段階で「大きいです」「小さいです」の形を認めています。
http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2006/12/1206.html(リンク切れ)
http://www.bunka.go.jp/kokugo/main.asp?fl=show&id=1000007051&clc=1000000500&cmc=1000007024&cli=1000007044&cmi=1000007046(リンク切れ)

2)かの『日本語練習帳』(大野晋)には以下のように書かれています。
================================
 現在、外国人に日本語を教える教科書ではほとんどすべてが、
  高いです   高かったです
  美しいです  美しかったです
と教えています。これは現代語の必要に応じる、将来広まっていい形なので、社会的に認めていいと思います。
================================
 実際には違うのでしょうか。

【11】■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 文化庁がなんと言おうと、大野普がなんと書こうと、文法的に正しいかと言えば、「正しくない」が正解だと思います。あくまでも「許容」でしょう。ちなみに大野晋はデス・マス体を使って書いたあの本であのように書きながら、自分ではそんな形は使わず(当然です)に「い形容詞終止形」を多用しています。

 文法的な解釈を確認したい方は、下記をご参照ください。『日本語の作文技術』(本多勝一)の読書感想文からの抜粋です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1027377833&owner_id=5019671

================================
【引用部】
 助動詞の「ダ」と「デス」は、中学生の文法書などに明示されているとおり、接続は次の三種に限られる。
 1)体言(名詞・数詞等)に。
 2)「の」などの助詞に。
 3)未然形と仮定形だけが、動詞・形容詞および動詞型活用の助動詞・形容詞型活用の助動詞・特殊活用型の助動詞の、それぞれ連体形に。
  ということは、用言(活用する語)のあとに「ダ」や「デス」の連用形・終止形・連体形は接続しないということである。(P.223)

「第八章 無神経な文章」の6番目のテーマは「サボリ敬語」。「あぶないです」の類いが誤用である文法的な根拠はこれでよいのだろうか。
 はっきり申しまして、当方の文法に関する能力を超えている。整理を試みてみようか。断定の助動詞の助動詞「ダ」「デス」の活用は、以下のとおり。
  未然   連用   終止   連体   仮定   命令
  でしょ  でし   です   (です) -    -
  だろ   だっ/で だ    (な)  なら   -
 未然形と仮定形は許されるのだから、「危ないでしょう」(未然)、「危ないだろう」(未然)、「危ないなら」(仮定)は文法的に問題がないことが判る。しかし、「危ないですか」「危ないですね」「危ないですよ」など、終止形でも口語的ニュアンスが強い表現なら許される根拠にはなりようがない。だから文法って嫌い。
 この用法の話が「サボリ敬語」というテーマで出てきたのは、要は「うれしうございます」が正しく言えないから「うれしいです」になる、という趣旨。それは判る。しかし現代の標準的な言葉として、「あぶのうございます」とか「たこうございます」を正しいと主張するのは無理がある。問題は、「危ないです」「高いです」が美しくないなら、どうすれば使わないで済むかということ。これは超難問。

【15】■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
>12

>明快で胸のすく解説です。

 とんでもありません(やはり誤用でしょうね)。滅相もありません(これだと微妙?)。
 何か誤解があると思います(笑)。
「明快で胸のすく解説」をしているのは『日本語の作文技術』です。
 当方は「そんなこと言われてもわかんないよ」とオロオロしながら、文法書を繙いただけです。

「い形容詞終止形」+「です」に関しては、何年も前から悩んでいて、わからないままです。
 新聞なんかはうまいことごまかしているようです。典型的なのは、高校野球の 記事です。
 下記のトピで少し書きました。

【「申し訳ございません」は誤用でしょうか?】(18あたりから)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31310695&comment_count=0&comm_id=6251

 デス・マス体の悪口を書きだすとキリがなくなります。
「い形容詞終止形」+「です」に限ってもとうてい2000字ではおさまらないので、日記に「伝言板」を設けました。お時間のあるときにご参照ください。

伝言板【板外編6】デス・マス体が書きにくいワケ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1114634130&owner_id=5019671

 関連日記は下記あたり。
【板外編7】デス・マス体が書きにくいワケ1(No.277)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-277.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1114634130&owner_id=5019671
【板外編7-2】デス・マス体が書きにくいワケ2(No.327)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-327.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1129808325&owner_id=5019671
【板外編7-3】デス・マス体が書きにくいワケ3(No.350)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-350.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1156101470&owner_id=5019671
【デス・マス体が書きにくいワケ4──デス・マス体のナゾを考えるヒント】(No.1424)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1424.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1539218404&owner_id=5019671
【デス・マス体の文末に変化をつける方法】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1830.html

698)【「形容詞+です」──何回目だろう】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2312.html

832)【「形容詞終止形」+「です」 うれしいです うれしかったです】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2417.html

※『日本語練習帳』に関して詳しくは下記参照。
【読書感想文/『日本語練習帳』(大野晋/岩波新書/1999年1月20日第1刷発行)】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1426.html

【追記】
 ヒデえなぁ。
〈文化庁は昭和27年の段階で「大きいです」「小さいです」の形を認めています。 〉の根拠になるリンクが2つとも切れている。油断も隙もない(泣)。
 代わりになりそうなのは……2007年の「敬語の指針」の28ページの下記の部分かな。
================================
4 丁寧語
「です「ます」を付ける上で留意を要する点は特にない。( 高いです。」のように形容詞に「です」を付けることについては抵抗を感じる人もあろうが,既にかなりの人が許容するようになってきている。特に「高いですね「高いですよ「高いですか」などという形で使うことに抵抗を感じる人はほとんどいないであろう。)
================================


【20120209追記】
 古いデータを引っ張りだす。
 2000年8月13日の日記から。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 最近新聞を読むときに、コメントの語尾が気になってしかたがない。以前はデアル体一本槍だったような気がするが、最近は微妙にデス・マス体をまぜている。昨日の朝日新聞朝刊に格好の題材が載っているので、全文を引く。スポーツ面の「がんばれ後輩」というコラムで、甲子園球児に対して送った西武の松坂大輔のエール。

================================
 プロになっても、やっぱり高校野球は気になります。神奈川大会の決勝へ行き、横浜を応援したけど、久しぶりに興奮した。去年は観戦に行った時に負けたので、今年は勝って本当に良かった。差し入れを考えるのも楽しみです。
 今も心がけていますが、夏場は体調管理に気をつけないといけない。水分補給も大事だけど、あまりごくごくと飲み過ぎてもいけない。普段通りに過ごすことが大切です。いい思い出になるのも、ならないのも、本人次第。自分のプレーができるように、みんながんばってほしい。
================================

 文末だけを順にあげてみる。
 なります/興奮した/良かった/楽しみです/いけない/いけない/大切です/本人次第/ほしい
 1番目が「なりマス」で2番目が「興奮しタ」になっている理由は判らない。
 その点を別にすると、コメントに見られる特徴はだいたい次のようになる。
1)形容詞などの語尾の「~イ」は、そのままいいきる(「よかったデス」だの「いけなイデス」はやはり日本語ではない)
2)「イデス」の類いを用いるときには「ね」などをつけて不自然さをぼかす(これは、この松坂コメントにはない)
3)「ダ」「デアル」は用いない(さすがに偉そうだもんな)
4)体言止めは多用しない
 4)の問題が、昔の印象と異なる。かつては、やたらと体言止めが目立っていたはず。コメント(話し言葉)で体言止めを使うのはホンマに特殊な例なのに、バッカじゃなかろうかと思っていた。あれは「ダ」「デアル」を使わないための苦肉の策だったんだろうな。
================================


【追記】
 こんなものがいつの間に……(笑)。
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kakuki/01/tosin06/index.html
================引用開始
7 形容詞と「です」

 これまで久しく問題となっていた形容詞の結び方――たとえば,「大きいです」「小さいです」などは,平明・簡素な形として認めてよい。
================引用終了


【20140719追記】「赤い本」のP.53〜から。
●「デス・マス体」の文末が単調になる理由

【練習問題4】
 デス・マス体がデアル体に比べて文末が単調になりやすい理由を2つ考えてください。

 文末の問題は第2章であらためて取りあげるので、ここではデス・マス体と文末の関係を考えてみます。
 デアル体とデス・マス体のどちらが書きやすいのかは、意見が分かれるところです(デアル体とデス・マス体の違いに関しては★ページ参照)。しかし、文末の問題に限れば、デス・マス体で書くときのほうが不自由を強いられます。
 これはなぜなのでしょうか。文章を書き慣れている人には常識的なことかもしれませんが、しばらく理屈っぽい話にお付き合いください。
 デアル体とデス・マス体の文末は、おおむね冒頭の表のようになります。

 この表を見ると、デス・マス体の文末が限られる原因がわかるはずです。
 なお、表中の()をつけた文末は原則として除外して考えます。これらの文末は、ヘンに感じられるので、自分で文章を書くときにはめったに使わないだろう、と感じるものです。「ヘンに感じられる」のは個人的な感覚にすぎないので、「使うべきではない」とは主張しません。なかには(だったデス)のように明らかにヘンなものもありますが、(高いデス)のように一般には許容されているものも含まれています。
 いずれにしても、()をつけた文末と同じ形がほかの文末にあるので、除外しても問題がないでしょう。ここでは、デス・マス体の文末は種類が限られることを問題にしているからです。

 まず、現在形から見てみましょう。
 デス・マス体の現在形を使うと、原則として文末は「名詞+デス」か動詞(マス)です。デアル体の場合、「名詞+デス」に相当する形は「名詞+デアル」と「名詞+ダ」の2つの形があります。文末が動詞になるときも、デアル体が「会う」「書く」「出す」など何種類かあるのに対して、デス・マス体は「会いマス」「書きマス」「出しマス」というようにマスしかありません。
 デス・マス体の文末には、デス、マスのほかに次のものがあります。
  ・マセン
  ・ショウ
  ・ショウカ
  ・クダサイ
 この4つのうち、ショウ、ショウカ、クダサイは、むやみに使うことはできません。ノデスが「強調」の意味をもっているように、ショウやショウカやクダサイも、それぞれの意味をもっているからです。
〈例外1〜3〉は、説明の都合で例外扱いにしました。いずれも、文末の形はすでにあげたものと同じになるので、例外にしても大きな問題はないはずです。例外にした理由に簡単にふれておきます。

〈例外1〉(形容詞)
 無数にある形容詞の代表として「高い」をあげておきました。デス・マス体の(高いデス)や(高かったデス)が許容されるかされないかは大きな問題で、この点については★ページであらためて取りあげます。
〈例外2〉(動詞の語尾変化)
 動詞の語尾変化によって文末がかわる例の代表として「会う」をあげておきました。「動詞で終わる形」であげたすべての動詞の語尾変化をいちいち書いていくと煩雑になるからです。
〈例外3〉(文語調)
(いえよう)(いえまショウ)はまさに例外で、この表現については★ページでふれます。

 次に、過去形を見てみましょう。
 デス・マス体の過去形は、基本的にデシタとマシタの2種類しかなく、文末に変化などつけられるはずがありません。そのため、過去の出来事をデス・マス体で書こうとすると、とくに文末が単調になってしまいます(解決のためのヒントは★ページで紹介します)。
 デアル体の動詞の文末が何種類もあるのは見せかけで、実質的には1種類しかない。その証拠に、過去形にすると「会っタ」「書いタ」「出しタ」と同じような形になる……という考え方もできるかもしれません。しかし、たとえ見せかけでも印象には大きな違いがあります。デアル体の場合は、同じ形になるのはタの1文字だけです。一方、デス・マス体の場合は「会いマシタ」「書きマシタ」「出しマシタ」とマシタの3文字が同じ形になります。それだけでも、印象が違うはずです。しかも、デアル体の動詞の過去形も同じようになるとはいっても、「会っタ」「死んダ」とタとダの2種類があります。
 文末に変化をつけるために用いられることが多いのは、次のような形です。

〈体言止め〉
 体言止めについては第2章(★ページ)を参照していただくとして、ここでは、デス・マス体と体言止めの関係について書いておきます。
 個人的な感覚にすぎませんが、体言止めは、デス・マス体の文章にはなじみにくいのではないでしょうか。デス・マス体で書かれた文章の中に、体言止めが使われている例はよく目にします。うまく使われていれば、違和感もありません。しかし、自分では使いこなす自信がないので、極力使わないようにしています。
 なぜそう感じるのか、あまり説得力をもたないことは承知のうえで、説明を試みてみましょう。
 一般に、デス・マス体とデアル体には次のような違いがあるといわれます。
  デス・マス体  デアル体
  ていねい    やや乱暴
  説明調     論説調
  冗漫      簡潔
 一方、体言止めはリズミカルに文章を切るような効果をもっていて、文章が軽快な感じになります。ほかにもいろいろな形容のしかたがありますが、おおむねこのような感じでしょう。
 このデス・マス体の「ていねい」「冗漫」という特徴と、体言止めのリズミカルで軽快な調子が、どうにも合わない気がします。「だから使わないほうがいい」と主張するつもりはありません。あくまでも、自分では極力使わないように心がけているだけのことです。次にあげる変則形のなかにも、同様の理由でデス・マス体の場合は使いにくいものがある気がします。

〈変則形〉
・会話体の語尾で終わる
「〜ね。」「〜よ。」「〜よね。」など。やさしい感じがする半面、読み手をバカにしている感じになることもあります。
・助詞で終わる
「〜とか。」「〜にも。」「〜も。」「〜に。」「〜を。」など。
・「〜が。」で終わる
「助詞で終わる」パターンの一種ですが、性質がやや異なるので別に分類しておきます。この形は2種類に大別できるでしょう。一般的なのは倒置を利用したもので、変則形のなかでは比較的簡単に使えます。結論を言外に含ませる「〜が。」は使い方がむずかしく、『日本語練習帳』(「III 二つの心得」の本文の最後)で紹介されているのは、例外的な好例です。
・「……。」で終わる
「……」の前にはさまざまな言葉が使えます。「〜が。」で終わる形と併用した「〜が……。」の形や「A、B、C……。」と名詞を並べた形、「〜ですから……。」「〜でしょうか……。」などがよく目にする例です。
・デス・マス体の文末の中にデアル体の文末をまじえる
 逆に、デアル体の文中にデス・マス体の文末をまじえる場合もあります。一般的には悪い文章の典型とされ、使いこなしの難度がとくに高い形です。
・過去形に現在形をまじえる
 過去形で書かれた文章は、デス・マス体でもデアル体でも、どうしても文末が単調になりがちです。そこで、ときおり現在形をまじえて変化をつけるという手法があります。小説では当たり前の手法ですが、一般の文章ではあまり安易には使わないほうが無難です。

 目にする機会が多い変則形をあげてみました。
 これらの変則形の使い方が、デス・マス体の文章の文末に変化をつけるためのポイントになる気がします。デス・マス体の文章を、文末に注意して読んでみてください。リズムがあって単調に感じられない場合は、変化をつけるために変則形がうまく使われているはずです。
 変則形を自然に使いこなせれば、デス・マス体の文章でも文末に苦しむことがなくなるのかもしれません。しかし、適度に使えば文章にアクセントをつける効果があっても、多用すると見苦しい文章になります。「適度」と「多用」の境目を、論理的に説明するのは困難です。実例をあげる方法もありますが、文章全体の雰囲気を伝えるために非常に長い引用が必要になります。さらにいえば、実例をあげても感覚的な問題になる部分も多いため、あまり役には立たないはずです。
 どうしても使い方を知りたい人には、『日本語練習帳』が参考になるかもしれません。デス・マス体で書かれている同書には、非常に多くの変則形が使われています。たとえば、「まえがき」の2つ目の段落は次の文章です。

  どんな心構えをもって、どんなことに気をつければいいのか。よい日本語を書くと言われる人たちはどんなことをしてきたのか知りたい。そういう希望に対して、世に文章読本とか、作文技術とかいう本がたくさん書かれています。見るとそれぞれ立派な案内書です。大事なことが書いてある。中には具体的に細かい技法まで示すものもあります。

 6つの文末のうち、3つが変則形(デアル体)になっています。この文章の文末をすべてデス・マス体にすると、かなり感じが変わってくるはずです。
 前のほうの2つはよく見る形で、書き手以外の第三者の意見を挿入するときなどに使われます。デス・マス体の短い文が続く中に唐突にデアル体が出てくる「大事なことが書いてある。」は、珍しい形です。「大事なことが書いてあります。」にすると非常に単調な感じになるところに、デアル体をまじえて変化をつけています。
 しかし、こういった手法を安易にマネることはおすすめできません。使い方の呼吸がわかっていないと、先に書いたように「悪い文章の典型」になってしまいます。
 基本的には、変則形の文末は避けるほうが無難です。使うとしても、乱用せずに「ここぞ」というところに使ってこそ効果があります。とはいっても、体言止めを使うことにすらためらいを感じているレベルの書き手には、比較的使いやすい倒置の「〜が。」を使うのが精一杯ですが……。


【表のテキスト】
      現 在 形       過 去 形
デアル体 デス・マス体 デアル体 デス・マス体

●「名詞+〇〇」で終わる形
デアル デス であった デシタ
ダ だった (だったデス)
●動詞で終わる形
会う 会い 会った 会い
書く 書き 書いた 書き
出す 出し 出した 出し
立つ 立ち 立った 立ち
死ぬ 死に  マス 死んだ 死に  マシタ
飲む 飲み 飲んだ 飲み
乗る 乗り 乗った 乗り
泳ぐ 泳ぎ  泳いだ 泳ぎ
遊ぶ 遊び 遊んだ 遊び
●やや特殊な形
ない ありマセン なかった (ありませんデシタ)
(ないデス) (なかったデス)
だろう でショウ (だっただろう) (だったでショウ)
だろうか でショウカ (だっただろうか) (だったでショウカ)
していただきたい してクダサイ していただきたかった (していただきたかったデス)
してほしい してクダサイ してほしかった (してほしかったデス)
しなさい − − −

〈例外1〉(形容詞)
高い (高いデス) 高かった (高かったデス)
〈例外2〉(動詞の語尾変化)
会わない 会いマセン 会わなかった (会いませんデシタ)
(会わないデス) (会わなかったデス)
会いたい (会いたいデス) 会いたかった (会いたかったデス)
会え − − −
会おう 会いまショウ − −
〈例外3〉(文語調)
(いえよう) (いえまショウ) − −

テーマ : ことば
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