下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)【3】
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『うまい文章の裏ワザ・隠しワザ』(日本語倶楽部編/KAWADE夢文庫/2001年11月1日初版発行)
ちょっと事情があって10年近く前に書いた読書感想文を引っ張りだす。
読む前から偏見があった。このテの文庫からは同工異曲の「日本語雑学」系の本がかなり出ている。さらにこのシリーズからは「〇〇の裏ワザ・隠しワザ」といったタイトルの本がかなり出ていて、「まあ暇つぶしのためにはどうぞ」といった内容。そういうシリーズの一冊だと、はっきり申しまして、期待をする気にはなれない。参考文献のリストを見て期待はますます薄らいだ。まずリストをメモしておこう。
1)『読ませる技術』 山口文憲
2)『ダカーポの文章上達講座』 ダカーポ編集部編 マガジンハウス
3)『うまい!と言われる文章の技術』 轡田隆史 三笠書房
4)『知のソフトウェア』 立花隆
5)『考える技術・書く技術』 板坂元 講談社
6)『書く技術』 森脇逸男 創元社
7)『成川式文章の書き方』 成川豊彦 PHP
一部版元が抜けている理由はよく判らない。類書を見ると直前の本と同じ版元らしいが、掲載されている形式では判りにくい。1)6)は記憶にない。2)3)7)に関してはあまりコメントしたくない。4)5)は書名をよく目にするが、どんな内容なんでせう。
で、本書の内容。
書名に「うまい」がつくことに対する嫌悪感は個人的な趣味の問題にしておこう。「裏ワザ・隠しワザ」というケレン味あふれすぎのフレーズも、シリーズタイトルみないなものだからしかたがないだろうね……てな感じで読みはじめて、ほとんど抵抗なくすらすら読めてしまって驚く。常識的な「文章読本」としては、けっこう纏まっている。
常識的な「文章読本」と言い方は、当然のことながら褒め言葉ではなく、本書も実用的な「文章読本」に共通する欠点が目立つ。新鮮味がないのもしかたがない。このテの本に書かれている心得はみんな変わり映えがしないから、類書を何冊か読むと飽きてしまう。
にもかかわらず、読んでいて不快感が湧かないのはなぜなのだろう。まず、適確な指摘が多いから、納得できる。さらに大きいのは、「偉そうじゃない」ことじゃなかろうか。
例によって細かい部分を見ていく。
P.90~91〈ダラダラと長い文章を書かない〉。
ここでいう「文章」とは「一文」のことで、このあたりの言葉はキッチリ使ってほしいが、おいておく。
長い一文を書きかえる前提として「こんな文章でも、接続詞を使いながらいくつかに分けてしまえば、すっきりする」と解説している。この問題に関しては後述。
P.96~98〈誤解を避けるには肯定文で書く〉。
この心得は、ビジネス文書では常識のようにされているが、同意しかねる。
【引用部】
どうしても、否定文を使いたいときは、あらかじめ否定文であることを匂わせる工夫が必要だろう。たとえば文の頭に「残念ながら」とか「けっして」「申し訳ありませんが」「かならずしも」といった言葉をいれておく。こうした言葉は否定文と結びつくから、読み手もこれは否定の文章であるとすぐに判断できる。
といった指摘や、「とりわけ避けたいのは、二重否定の文章である」といった指摘は、説明も判りやすい。
P.113~114〈「そして」「~が」を使いすぎない〉。
【引用部】
接続詞には、文章の流れをはっきりさせていく働きがある。しかし、接続詞が多くなると、文章はどうしてもドタバタする。
「ドタバタする」か否かは不明だが、説明調が強くなり、ヘンな感じになるのは確か。「とりわけ注意したい接続詞」として「そして」があげられている。ほとんどの「そして」は必要ない、という指摘は同感。「バブルははじけたが、銀行に不良債権が残った」のような順接の「ガ、」も使わないほうがいい、という指摘もごもっとも。ただ、次の結びはどんなものだろう。
【引用部】
「バブルははじけ、銀行に不良債権が残った」、あるいは「バブルははじけた。そして、銀行に不良債権が残った」のように、二つの文章にしたほうがいい。
とりわけ注意したい「そして」をここで使うのはなあ。ほとんど自爆じゃないかね。かといって、「そして、」を削除すると、明らかにリズムが崩れる。このように単文が続くと、つい接続詞を入れたくなる。しかも前後の因果関係がはっきりせずに、AのあとにBという事象が起こっていると、「そして」ぐらいしか使えない。結論を言えば、例文が不適。
P.115~116〈「しかし」は必要な時だけ使う〉
【引用部】
文豪として名高い谷崎潤一郎は、文章の中に接続詞を入れるのを嫌った。「しかし」「けれども」といった接続詞が入ってくると、文章に重みがなくなるというのである。だからだろうか、たいていの“文章読本”には、接続詞を多用しないと書かれているが、接続詞がまったくない文章は読みづらいのも事実だ。接続詞はその文脈を見きわめて、使うか、使わないかを判断したい。
接続詞のなかで「最も注意を払いたい」のが「しかし」なんだそうな。「そして」と「しかし」はどちらが注意すべきなのか、なんて妙なツッコミはやめておく。ここでおもしろい例文が紹介されている。
【原文】
昨夜は飲みすぎた。しかし、二日酔いにはならなかった。しかし、彼女からは酒臭いといわれた。
【修正案】
1)昨夜は飲みすぎたが、二日酔いにはならなかった。しかし、彼女から酒臭いといわれた。
2)昨夜は飲みすぎた。二日酔いにはならなかったが、彼女から酒臭いといわれた。
原文にある「彼女からは」の「は」が修正案ではなくなっているのは単なる不注意だろう。前の文に「二日酔いには」と「は」があるからダブりを避けたのかもしれないが、それはまた別の話。もしそうなら、そのことを明記しないと趣旨が濁る。
修正案1)のように、一方の「。しかし」を「が、」にするのが、最も手軽な修正案だろう。注目すべきは、修正案1)ではまだ残っている2度の逆接が、修正案2)では1度になっていること。「が、」が2度の逆接を兼任している。これは応用できるかもしれない。
P.119~120〈一つの文に「が」を何度も使わない〉
【引用部】
とくに知っておきたいのは、「が」を「の」に変えるというテクニックだ。
「が」のついている言葉を、主格からべつの格に変えていくのである。たとえば、「私が思っていること」なら、「私の思っていること」にすればいい。
ちょっと言葉足らずだけど、おもしろい指摘。
ここで紹介されているテクニックは、きわめて基本的なものだろう。実用書タイプの「文章読本」では、この「の」の用法は文意があいまいになるので避けなさい、としていることが多い。文法的に見るとどういうことになるのだろう、ということを考えさせる。「私の思っていること」の「の」はやはり所有格なんだろうか。「私の感想」なら明らかかに所有格だもんな。引用文中の〈「が」のついている言葉〉も、文法的には〈「が」がついている言葉〉のほうが正しいんだろうな。ちなみに、第1文の「変えるというテクニック」の「という」は削除してほしかった。
P.122~123〈「です・ます調」の方が丁寧とは限らない〉。
デス・マス体でていねいに書いたつもりが、逆に相手を見下したような印象になる例として、次の文章があげられている。
【引用部】
私は夜八時までには食事を終えることにしています。粗末な食事ですが、家族といっしょの食事はじつに楽しいものがあります。
これは文体の問題ではないだろう。こんな内容の文章はデアル体で書いたって嫌みったらしいことに変わりはない。
【引用部】
また、「です・ます」で書いていくと、一つの文がどうしても長くなる。長い文ばかりになると、文章全体がだらけてくるし、文の調子もおかしくなる。
結局のところ、「です・ます」調は、文章のうまい人にしか使いこなせない。文章に自信がない人は、できるだけ「である調」で書いたほうが無難なのだ。
結論には賛成。ただ、デス・マス体で書くと「一つの文がどうしても長くなる」か否かは疑問。文章の全体量が増える傾向はあるが。「単調な文末をできるだけ減らそうとするため」ということだろうか。まあ「一つの文がどちらかと言うと長くなりがち」ぐらいは言えるかもしれない。「文章全体がだらけてくる」「文の調子もおかしくなる」も不明。何が「結局のところ」なのかは、さらに不明。ついでに書かせていただくと、〈「です・ます」で書く〉〈「です・ます」調〉〈「である調」〉あたりは表記を統一してほしい。
P.133~134〈“オリジナル紋切り型”を考えだそう〉。
これはほとんどギャグです。気持ちは判らなくはないけれど。
P.155~156〈「~に行く」と「~へ行く」の違いを知る〉。
表題の「~に」と「~へ」の違いはよく見る。正直なところ、どう違うのかよく判らない。「~に」と「~へ」の違いに続いて「と」と「に」の違いについての解説がある。
【引用部】
(1)「大学生となる」
(2)「大学生になる」
日没の光が失せ、夜になった、とは言うが、夜となった、とはめったに言わない。「~になった」は、自然にそのような状態に達した時に使う。よって、(2)は、たいして考えもせず、または苦労せずに、昼が夜になるように大学生になったというニュアンスである。それに対し、「~となる」は、能動的な意志を表すので、(1)からは、意思や苦労が伝わってくる。
こんなことが言えるのだろうか。たとえば将来の夢を訊かれた小学生が「〇〇になる」と答える。これは受動的? よく判らん。
【追記】
いかん。〈小学生が「〇〇になる」〉の場合は目標なんかを表わすんで、「結果」とは違うや。
P.160~161〈「~こと」「である」は使い過ぎない〉。
趣旨はよく判る。次のような例文が出てくる。
【原文】
いままでやってきたことを改めないと、借金生活から抜け出すことができないだけでなく、ふたたび他人に迷惑をかけることや、子どもの評判を落とすことにもなりかねない。
【修正案】
いままでやってきたことを改めないと、借金生活から抜け出せないだけでなく、ふたたび他人に迷惑をかけたり、子どもの評判を落としかねない。
【修正案】が「片たり」になってしまっている。「落としたりしかねない」は美しくないけどさ。いっそ、前の「かけたり」を「かけ」にしちゃえばいいのに。
P.169~170〈あげる例が一つなら「~など」とは書かない〉。
微妙。悪い例としてあげられている「ビールなどのお酒が好きです」は、近年、話し言葉の乱れの例としてあげられることがある。この悪い例がなぜヘンなのかうまく説明できない。何を言いたいのかもよく判らないが、一般的には「ビール」をあげて「~など」をつけることによって、お酒全般が好きなことを表わすらしい。「~とか」あたりも同じ用法が増えているかもしれない。
これが最低2つ以上の例を出して「ビールや日本酒、ウイスキーなどのお酒が好きです」と書けば、「お酒全般が好きだということがすぐにわかる」としている。それはないでしょ。日本語としては相変わらず不自然。根本的な問題として、例が悪い。もしアルコール全般が好きだと言いたいなら、2つあげようが3つあげようが、例をあげること自体が不自然だし、「など」を使うのもヘン。「とか」ならまだマシな気がする。
例を1つしかあげないときには「など」を使わない、というのもなんのことだか判らない。「スペースの都合などがあって2つ以上の例をあげることができない」のように、代表的な例を1つあげ、「など」をつけることで「ほかにも理由がある」ことを暗示する例はいくらでもある。
P.171~172〈「の」の多用は未熟のしるし〉。
これが一般的な意見だろう。本書では、「三回も続けて書いている人」は文章を書き慣れていない人としている。
【原文】
皆様の懸命の応援のおかげをもちまして
【修正案】
1)皆様による懸命な応援によりまして
2)皆様が本気になって応援してくださったおかげで
この修正案はどちらもおすすめできない。まず、インネンをつけると、原文にもある「懸命」って表現はどうなんだろう。本人が懸命になるのは問題がないだろうが、支持者の態度に対して「懸命」と表現するのは不遜ではないか。「温かい」ぐらいが一般的。【修正案】2)に出てくる「本気になって」も、ちょっと引っ掛かる。
それはさておき、【修正案】1)は「よる」と「より」のダブりが気になる。【修正案】2)がなんでヘンなのかは説明不能。言葉づかいが不自然としか言いようがない。要はあまり見かけないということなんだろう。「皆様の温かな応援によりまして……」あるいは「皆様の温かな応援のおかげをもちまして」ぐらいが自然。
P.173~174〈指示語は避けて具体的に書く〉。
【原文】
大阪では多くの会社が倒産したが、それによって失業問題も出ている。その解決は、まだ先のことである。
【修正案】
大阪では多くの会社が倒れたが、倒産によって失業問題も出ている。失業問題の解決は、まだ先のことである。
やっちまいましたね、といったところか。第1文の「が、」は避けなければいけない順接。著者は気がついてないんだろうか。
修正案では「倒産」の繰り返しを避けるために、「倒れた」にかえている。「倒産」を繰り返すのはよくないかもしれないが、この書きかえは不自然。最初の「それ」を消すほうがずっとすっきりする。
大阪では多くの会社が倒産し、失業問題も出ている。その解決は、まだ先のことである。
なんなら「その」も消しましょか。
大阪で多くの会社の倒産によって生じた失業問題の解決は、まだ先のことである。
さすがにやりすぎだな。こういう操作を続けていくと、文は徐々にオネオネとした新聞のリードに近づいていく。
また、指示語をできるだけ使わないようにすることは、文章を上達させる訓練にもなる。指示語を使わないと、文章は長くなりがちだ。長い文章を避けようとすれば、ムダな表現をカットしていくことになる。このカットの工夫が、文章を上達させていくのである。
ここでも、「文章」が「一文」の意味で使われている(4つ出てくるうち、2つ目と3つ目)。
指示語を使わないと一文が長くなりがちなのは事実。おそらく、この引用文は指示語を使わないことを意識しながら書いている(「この」が1カ所残っているけど)。その結果どうなるか。指示語を使わずに一文を短くしようと工夫すると、このように同じ語句を繰り返し、前の文の一部を引きずりながら書くことになる。これも自爆に近い。
テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌