垣間見る」「垣間見える」「垣間見せる」「垣間見られる」(受身)
テーマトピは下記。(525~528)
【大衆の目に触れるメディアやネットのSS(スクリーンショット)を貼りつけるトピ。】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9756702
コメントを回収しておく。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
[525]
(前略)
「垣間見れる」は明らかに間違っていますが、「垣間見える」と「垣間見られる」だと、どちらが正しいのでしょうか?
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
[526]
2013年01月29日 10:50
tobirisu
■Web辞書『大辞泉』から
http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%BF%E3%82%8B&stype=0&dtype=0
================引用開始
かいま・みる【▽垣間見る】
[動マ上一][文][マ上一]《「かきまみる」の音変化》物のすきまから、こっそりとのぞき見る。また、ちらっと見る。物事のようすなどの一端をうかがう。「カーテンの間から―・みる」「大人の世界を―・みる」
================引用終了
本来は「垣間見る」(能動的な用法限定)で、「垣間見える」「垣間見せる」「垣間見られる」(受身)には異和感があるので、自分では使いません。
以下、裏がとれないので主観で失礼します。
>「垣間見える」と「垣間見られる」だと、どちらが正しいのでしょうか
「垣間見える」は「可能」と言うより「自発?」って気がします。「見る」の可能形は「見える」だ、と言われると困りますが(もはや別の動詞だと思います)。
「垣間見る」を「可能」の形にするなら「垣間見られる」もアリなのかしれません。でも「受身」にしか見えないので、「垣間みることができる」と言うしかないような気がします。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
[527]
2013年01月29日 11:30
>>[526]
「垣間見る」の原義は「物のすき間からこっそりとのぞき見る」なので、確かに受動態はおかしいですね。
ただ、「見られる」と「見える」が同一視できないのであれば、「垣間見ることができる」とはっきり書くこともやむなしですね。
なお、「見られる」と「見える」について、このような見解がありましたので、既知とは存じますがURLを提示いたします。
http://www.tjf.or.jp/hidamari/4_mondou/mondou20.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ウーン。
紹介してもらったサイトは大学先生が書いているらしいが、「見える」と「見られる」が逆のような気がする。どちらかと言うと、「見える」が可能で、「見られる」が自発では。だって、「見られる」には可能、受身、自発、尊敬の4つの意味があるはずだけど、「見える」は可能に特化しているのでは。
ただ、この問題はいろいろメンドーな話を含んでいるけど。
================引用開始
2004年7月
「見える」と「見られる」の違い
問 「見える」と「見られる」はどちらも中国語では「看得见」「能看到」となるので、生徒には使い分けが難しい。どのように違いを説明すればいいでしょうか。
答 ここでは「見える」と「見られる」は、何かを見て目で感じる時に限定して取り上げます。まず、「見える」を使う例文を見てみましょう。
めがねをかけると、新聞の字がよく見えます。
これはめがねをかけることによって、字を見るという目の「機能」がよく働くようになったことを表しています。また、「目の前が一瞬見えなくなった」という場合も、何らかの原因で目の「機能」が一時的に働かなくなったことを表します。このように、目の「機能」を問題にする時には「見える」を使います。
次に、「見える」「見られる」どちらも使える場合を見てみましょう。
ここから海が見えます/見られます。
晴れると富士山が見えます/見られます。
これらの例文は、「見える」「見られる」のどちらも使うことができます。2.、3. は、「ここから」「晴れる」という条件を付加することによって、「見える状態」になることを表しています。ただし、両者のニュアンスは少し違います。「見える」は、意思に関わりなく対象が目に入ってくる状態だといえます。一方、「見られる」は、話者が「ここから」「晴れる」という条件を作為的にとらえ、可能性として「富士山を見ることができる」と判断したと考えられます。つまり、「見える」は自発的であり、「見られる」は可能性に重点が置かれています。
次の例文を見てください。
正月、日本では着物を着た女性の姿が見られます。
この文には「正月、日本」と条件がかなり限定されています。話者が作為的に条件を表し、その結果、そのような可能性や機会を持つことができる場合は、「見られる」のほうが自然です。逆にいうと、着物姿を見る条件として、正月や日本が欠かせないということです。しかし、正月や日本という条件をはずし、話者の眼前の様子を述べる場合は、「着物を着た女性の姿が見えます」と言っても不自然にはなりません。
さて、次のような誤用をよく目にします。
(×)街のいたるところにゴミが見えます。
これは自発的なニュアンスを持つ「見える」をそのまま用いたことによる誤用だと考えられます。また、発話意図から考えると「見られる」を用いてもしっくりきません。この文は、「いたるところ」を使っているように、ただ目で感じたことを述べたものではなく、観察をした結果、ゴミがたくさんある、汚いといった判断や心理面も関係するので、「目立つ」や「目につく」などが表現として適切です。
ところで、1. の「よく」は「くっきり」「はっきり」「きれいに」というような意味です。2.、3. に「よく」が付くとどうでしょうか。
「ここからは海がよく見えます」「晴れると富士山がよく見えます」、これらの場合も、1. と同様の意味となります。この時、「見られる」は使えません。
では、「見られる」に「よく」が付くとどうなるでしょうか。例えば、「正月、日本では着物を着た女性の姿がよく見られます」の場合、「よく」は「頻繁に」という意味になります。この時、「見える」は使えません。
「見える」と「見られる」は、中国語に置き換えて対応できる場合もありますが、両者を使い分けるには、日本語からのアプローチが大切になってきます。
加納陸人
文教大学教授/『日語』日本側主任編集委員
================引用終了
【追記】
違うか。
「見える」は一般には可能動詞ではないな。
「聞く」で考えると、4種類に解釈できるのが「聞かれる」で、可能動詞が「聞ける」。「聞こえる」は別だ。「自然に聞こえる」だから、「自発」に近いか。
改めてネット検索するとドッサリ引っかかって、何がなんだか(泣)。
【大衆の目に触れるメディアやネットのSS(スクリーンショット)を貼りつけるトピ。】
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■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
[525]
(前略)
「垣間見れる」は明らかに間違っていますが、「垣間見える」と「垣間見られる」だと、どちらが正しいのでしょうか?
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[526]
2013年01月29日 10:50
tobirisu
■Web辞書『大辞泉』から
http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%BF%E3%82%8B&stype=0&dtype=0
================引用開始
かいま・みる【▽垣間見る】
[動マ上一][文][マ上一]《「かきまみる」の音変化》物のすきまから、こっそりとのぞき見る。また、ちらっと見る。物事のようすなどの一端をうかがう。「カーテンの間から―・みる」「大人の世界を―・みる」
================引用終了
本来は「垣間見る」(能動的な用法限定)で、「垣間見える」「垣間見せる」「垣間見られる」(受身)には異和感があるので、自分では使いません。
以下、裏がとれないので主観で失礼します。
>「垣間見える」と「垣間見られる」だと、どちらが正しいのでしょうか
「垣間見える」は「可能」と言うより「自発?」って気がします。「見る」の可能形は「見える」だ、と言われると困りますが(もはや別の動詞だと思います)。
「垣間見る」を「可能」の形にするなら「垣間見られる」もアリなのかしれません。でも「受身」にしか見えないので、「垣間みることができる」と言うしかないような気がします。
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2013年01月29日 11:30
>>[526]
「垣間見る」の原義は「物のすき間からこっそりとのぞき見る」なので、確かに受動態はおかしいですね。
ただ、「見られる」と「見える」が同一視できないのであれば、「垣間見ることができる」とはっきり書くこともやむなしですね。
なお、「見られる」と「見える」について、このような見解がありましたので、既知とは存じますがURLを提示いたします。
http://www.tjf.or.jp/hidamari/4_mondou/mondou20.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ウーン。
紹介してもらったサイトは大学先生が書いているらしいが、「見える」と「見られる」が逆のような気がする。どちらかと言うと、「見える」が可能で、「見られる」が自発では。だって、「見られる」には可能、受身、自発、尊敬の4つの意味があるはずだけど、「見える」は可能に特化しているのでは。
ただ、この問題はいろいろメンドーな話を含んでいるけど。
================引用開始
2004年7月
「見える」と「見られる」の違い
問 「見える」と「見られる」はどちらも中国語では「看得见」「能看到」となるので、生徒には使い分けが難しい。どのように違いを説明すればいいでしょうか。
答 ここでは「見える」と「見られる」は、何かを見て目で感じる時に限定して取り上げます。まず、「見える」を使う例文を見てみましょう。
めがねをかけると、新聞の字がよく見えます。
これはめがねをかけることによって、字を見るという目の「機能」がよく働くようになったことを表しています。また、「目の前が一瞬見えなくなった」という場合も、何らかの原因で目の「機能」が一時的に働かなくなったことを表します。このように、目の「機能」を問題にする時には「見える」を使います。
次に、「見える」「見られる」どちらも使える場合を見てみましょう。
ここから海が見えます/見られます。
晴れると富士山が見えます/見られます。
これらの例文は、「見える」「見られる」のどちらも使うことができます。2.、3. は、「ここから」「晴れる」という条件を付加することによって、「見える状態」になることを表しています。ただし、両者のニュアンスは少し違います。「見える」は、意思に関わりなく対象が目に入ってくる状態だといえます。一方、「見られる」は、話者が「ここから」「晴れる」という条件を作為的にとらえ、可能性として「富士山を見ることができる」と判断したと考えられます。つまり、「見える」は自発的であり、「見られる」は可能性に重点が置かれています。
次の例文を見てください。
正月、日本では着物を着た女性の姿が見られます。
この文には「正月、日本」と条件がかなり限定されています。話者が作為的に条件を表し、その結果、そのような可能性や機会を持つことができる場合は、「見られる」のほうが自然です。逆にいうと、着物姿を見る条件として、正月や日本が欠かせないということです。しかし、正月や日本という条件をはずし、話者の眼前の様子を述べる場合は、「着物を着た女性の姿が見えます」と言っても不自然にはなりません。
さて、次のような誤用をよく目にします。
(×)街のいたるところにゴミが見えます。
これは自発的なニュアンスを持つ「見える」をそのまま用いたことによる誤用だと考えられます。また、発話意図から考えると「見られる」を用いてもしっくりきません。この文は、「いたるところ」を使っているように、ただ目で感じたことを述べたものではなく、観察をした結果、ゴミがたくさんある、汚いといった判断や心理面も関係するので、「目立つ」や「目につく」などが表現として適切です。
ところで、1. の「よく」は「くっきり」「はっきり」「きれいに」というような意味です。2.、3. に「よく」が付くとどうでしょうか。
「ここからは海がよく見えます」「晴れると富士山がよく見えます」、これらの場合も、1. と同様の意味となります。この時、「見られる」は使えません。
では、「見られる」に「よく」が付くとどうなるでしょうか。例えば、「正月、日本では着物を着た女性の姿がよく見られます」の場合、「よく」は「頻繁に」という意味になります。この時、「見える」は使えません。
「見える」と「見られる」は、中国語に置き換えて対応できる場合もありますが、両者を使い分けるには、日本語からのアプローチが大切になってきます。
加納陸人
文教大学教授/『日語』日本側主任編集委員
================引用終了
【追記】
違うか。
「見える」は一般には可能動詞ではないな。
「聞く」で考えると、4種類に解釈できるのが「聞かれる」で、可能動詞が「聞ける」。「聞こえる」は別だ。「自然に聞こえる」だから、「自発」に近いか。
改めてネット検索するとドッサリ引っかかって、何がなんだか(泣)。
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