読書感想文『仕事文の書き方』
ちょっと事情があって、古い読書感想文をアップしておく。
『仕事文の書き方』(高橋昭男/岩波新書/1997年8月20日第1刷発行/1999年7月15日第7刷発行)
昨年9月に読んだ『横書き文の書き方・鍛え方』(宝島新書)と同じ著者。『仕事文の書き方』のほうが約3年も先に出版されているので読む順番が逆になってしまった。
同じ著者が似たような手法で書いているから、当然内容はダブっている。両著の印象の違いをひとことで言うと、『仕事文の書き方』のほうがていねいに書かれている。問題は、ていねいになればなるほど理屈っぽい印象になってしまうこと。論理的にすればするほど、例外を作らないようにすればするほど、どうしても理屈っぽくて小むずかしくなってしまう。かと言って『横書き文の書き方・鍛え方』のようにハショって書くと、読みやすくはあっても不正確な記述になってしまう。どちらが読みごたえがあって役に立つのかは言うまでもない。例によって原文で「,.」を使っている句読点は、勝手に「。、」にしてしまう。
P.2。実用書であるにも関わらず、いきなり『土佐日記』が出てくる。趣旨はよく判る。「一文には、1つの情報だけを盛りこむ」「対比の文章を書く」という心得を解説するための格好の例ではある。でもねえ……。
『土佐日記』が大学受験の問題文にほとんど採択されないのは、「内容、文章、言葉がともにやさしい」かららしい、という話は興味深い(3つの並列は、通常「ともに」ではなく「いずれも」などを使うべき)。なんだか受験問題の本質をついている気がする。この本には、このテのおもしろい話がいろいろと出てくる。
P.12には「典型的な官庁の通達文」として「可及的速やかに」を含む例文が出てくる。やはりこのフレーズは使えそう(詳細は後述)。
P.28のインターネットの歴史の変遷の話もおもしろい。もともとアメリカで学術用に発達したインターネットは、「信頼と善意が根底にあるネットワーク」だった。必然的に透明度の高いシステムで運用されていた。当時もクラッカー(侵入者)は存在したが、情報内容が学術研究用中心で公共性が高かったため、深刻な問題ではなかったらしい(クラッカーってハッカーとは別なのかしら)。
【引用部】
「序破急」や「まくら、さわり、おち」は、「起承転結」における「承」の内容の一部が「起」に、そして残りの一部が「転と結」に吸収された形であり、原則的には、起承転結と同じ思想である。(P.48)
これは初めて聞いた。なんでこんなことが断言できるのだろう。4段階から3段階になるときは、「転」がなくなることのほうが多いんじゃないだろうか。この文は日本語としても相当怪しい。すごく判りにくいし、「残りの一部」が吸収されたとして「残りの大半」はどこに行ってしまうのだろう。「残りの一部」は「残り全部」の意味なんだろうな。それなら単に「残り」と書けばいい。
【引用部】
起承転結と序破急が東洋に生まれ、世界に羽ばたいた理論であるのにたいし、パラグラフ(段落)は中世ヨーロッパで、寺院の僧侶たちの手によって生まれた。
読み手が、1つのキーワードについて説明が長くなると、緊張度が薄れて、集中力がなくなってしまうことにたいして、適切な字数で、話題を変えていく考えが基本となり、パラグラフが考え出された。
認知心理学者などの研究によれば、日本語では、300~350字ていどが、緊張持続時間の限度といわれている。したがって、1パラグラフは300字ていどにおさめることが常識とされている。(P.48)
順番に見ていく。
第1文。この記述もかなり大胆。この少し前には、「世界の名作といわれる劇作は、すべて、能の思想を規範にしているといわれている」などという恐ろしい記述もある。規範になる「能の思想」が伝播する以前、日本以外の国で生まれた劇作はすべて駄作なんだろうか。「いわれている」と書けばなんでも許されると思ってはいけない。
第2文。かなりの悪文。「読み手が」の位置がヘンだし、「たいして、」の用法が不自然。緊張“度”は上がったり下がったり(高くなったり低くなったり)するもので、濃くも薄くもならないのでは。ふつうに書いてみよう。
【修正案1】
1つのキーワードについての説明が長くなると、読み手は緊張感が薄れ、集中力がなくなってしまう。この弊害を防ぐため、適切な字数で話題を変えていく考えが基本になり、パラグラフが考え出された。
「考えが基本」のフレーズを生かさなくてもいいなら、2つ目の文はもっとスッキリさせることもできそう。
【修正案2】
1つのキーワードについての説明が長くなると、読み手は緊張感が薄れ、集中力がなくなってしまう。この弊害を防ぐために、適切な字数で話題を変えていくパラグラフという手法が考え出された。
第3・4文。「300~350字ていど」(厳密に言うと重言かな)が「時間」の限度ってどういう意味だろう。どんな人でも、読むスピードが一定なんだろうか。それはさておき、こういう牽強付会がアリなら、同じことを根拠に「一文の長さは300字程度におさめるべき」とも言える。「常識とされている」は、いくらなんでも決めつけすぎ。
P.50~で、デス・マス体の特徴と欠点についてふれている。文化庁発行の資料では、特定の対象者に対してはデアル体、不特定多数の人に対してはデス・マス体を使うように指導しているらしい。
筆者は2つの文体の特徴について、次のようにまとめている。
デアル体 どちらかというと紋切型
目上に対しては失礼になることが多い
デス・マス体 表現がやわらかい
ていねい調
デアル体がなんで「どちらかというと紋切型」になるのか理解できないが、おいておく。問題は、デス・マス体の「2つの大きな欠点」として指摘されている内容。
1)文章の絶対量がふえる
2)表記がわずらわしい
まず1)について。同じ情報量を提示する場合、デス・マス体はデアル体に比べて「2、3%長くなってしまう」らしい。根拠は不明。経験則ではもっと長くなる気がする。このあとには、2858ページある『広辞苑』をデス・マス体で書くと「80ページ以上も分厚くなってしまう」とある。これは理科系の書き手とは思えない不用意な書き方。数字はもっと正確に使いましょう。
第1の問題は、『広辞苑』は版がかわってもページの増減がまったくないのか、ということ。仮に増減はなかったとしても、どこからどこまでを「ページ」として扱うのかは微妙な問題。1ケタまで出すから、こういうバカなツッコミを入れられることになる。細かく書けば正確というものではなく、どちらも概数にしておいたほうが正確になる。80は2858の約2.8%にあたるから間違いではないけど。ちなみに2858の2%は57.2で、3%は85.7。
「3000ページ近い『広辞苑』は、デス・マス体にすると60~90ページ程度も増えることになる」ぐらいにしておくのが正解だろう。ただし、「2~3%」の根拠をはっきりさせないと話にならない。
次に2)について。
第二の欠点は、表記のわずらわしさである。
秋の京都は美しい。
レーザープリンタで印字された文字は美しい。
のように、われわれは「~は、~である」型の文、英語の型でいえば、S+V+Cの型の文を書くことが多い。このケースで、述部(Cの部分)に形容詞がくると、「ですます体」では表記が困難になる。形容詞の語尾と文の語尾にダブリが生ずるからである。
秋の京都は美しいです。
レーザープリンタで印字された文字は美しいです。
とすることに抵抗を感ずる。小学生が書いた文、という感じを読み手が受けてしまう。
秋の京都はきれいです。
レーザープリンタで印字された文字はきれいです。
と、言葉を変えなければならない。
だから、同意語や類語のボキャブラリーが要求されることになる。書き手にとっては大きな負担である。さらに、この例の「美しい」と「きれい」は、類語ではあるが、同意語ではない。
……こういうのを「表記のわずらわしさ」って言うのだろうか。「形容詞の語尾と文の語尾にダブリが生ずる」もヘンな気がする。などと重箱の隅をほじくるのはやめよう。
この記述は、意外なことに新鮮。こういう当たり前のことをキチンと指摘している「文章読本」は少ない。
P.75~に出てくる機械翻訳の話は傑作。斯界では有名な話なのかな。ある翻訳システムで聖書の一部を英文露訳したあとで、再度露文英訳したところ、次のような結果になった。
The spirit is willing, but the flesh is weak.
(精神は強く、肉体は弱し)
The vodka is good, but the meat is rotten.
(酒は最高だが、肉は腐っている)
P.88~に「一文一義の文を書く」の項目がある。著者の文章術の根幹にあるのがこの思想なのではないか。『横書き文の書き方・鍛え方』にも似たような項目があったが、あまりにもあっさりと流していたため、趣旨が判りにくかった。こちらのほうが説明が徹底され、はるかに判りやすい。大前提として、P.44の定義がある。
文=形の上で完結した、1つの意味を表す言語表現の単位。したがって、「花は咲き、鳥は歌う」という文は、2つの文から成っている。ただし、学校文法では、句点(。)から句点までにわたる、ひとつづきの言語表現単位、と定義している。
傾聴に値する指摘だと思う。ただ、この書き方で読者が理解できるのだろうか。要は、句点がなくても、主部と述部があれば一文ということ。たしかに、どんなに長い文でも、著者がいう「文」の積み重ねならば、判りにくくはならない。「花は咲き、鳥は歌い、虫は鳴き、風は吹き……」と延々と続いても、判りやすさの面では何も問題がない(文として自然か否かは別問題)。「長くても判りにくくない文はどんな文か」を考えるヒントになる。
P.94にの「ある週刊誌に載った大手コンピュータ会社からの報告」。ユーザーのクレームを受けたソフトウェアの会社の人間が「ハードウェアの規模が不十分だと判断」し、環境を設定し直すようにアドバイスする。翌日、ユーザーから再び電話が入る。
「機器を2階の窓際に置いたのですが、動きません」
【引用部】
カタカナ語で表現したほうがよいばあいもある。たとえば、「やせていますね」と言うよりは「スリムですね」のほうが、言われたほうもあまり気にならない。「この問題を解決する」よりは「このハードルをクリアする」のほうが、肩のこらない文章だといえる。(P.109)
「カタカナ語の氾濫」に警鐘を鳴らしたあとの文章なんだから話にならない。この数行で、それまでの文章が台なしになっている。あげられた2例は、なぜ「気にならない」のか、なぜ「肩のこらない」のか、さっぱり判らない。やせていることを気にしている人は、スリムと言われようが、スマートと言われようが気になるはず。エステ会社が「スリム」を使いたがるのは、そのほうがカッコイイから。あとに出てくる筆者の言葉を借りて「新鮮味」がある、と言ってもいい。「このハードルをクリアする」なんて、カタカナ語乱用の悪例として使いたいぐらい。このあとに続く記述のほうが例も適切だし、よほど説得力がある。
【引用部】
カタカナ語とは、いうまでもなく英語の日本語表記である。たしかに恰好がいい。たとえば、技術革新というよりは、イノベーションのほうが新鮮味を感じる。
黙っていても、カタカナ語は増えていく。だから、変換できる言葉ぐらいは、漢字で表記したいものである。
一般論として、日本語よりカタカナのほうが「新鮮味」があるだろう。このニュアンスの違いが、カタカナ語が氾濫している大きな理由。当然例外もある。カタカナで定着している言葉をあえて日本語にすると、新鮮味があったりする。ただ、カタカナのほうが「格好よく」感じられるのは確か。あえて日本語を使うほうがレトロっぽくてカッコイイ場合もあるけど。
【引用部】
アメリカにおいては、仕事文では短い文を書くことが義務づけられている。企業が発行する各種のマニュアルの表記の「注意」書きに、関係代名詞の使用を禁止した。文が長くなってしまうことを避けるためである。(P.116)
英語の場合は、この方法がかなりの効力を発揮しそう。日本語の場合は何を禁止すればよいのだろう。とりあえず「順接のガ」を禁止して、あとは……ウーム。
P.119に、情報処理学会で発表された一文の長さに関するデータが出ている。
・小学3年生の教科書 25文字
・児童雑誌 29文字
・中学3年生の教科書 42文字
・高校3年生の教科書 46文字
長年「天声人語」を担当していた辰濃和男氏は、『文章の書き方』(岩波新書)の中で、一文30字を目標にしたと書いているそうな。
P.119で示されている箇条書きのルール。
・本文が「ですます体」の文章でも、箇条書きの部分は「である体」の表記にする
・情報の提示順序に気をつける
・文末に句点(。)をつけない
・必要におうじて、No.を入れる……1)2)や(1)(2)など
・センテンスごとに改行する
2つ目は当然の心得だが、「ルール」ではない。ほかの4つは、いずれも個人的にはそのとおりだと思うが、趣味の問題と言ってしまえば趣味の問題。
1つ目。そうしない人もいるような気がする。
3つ目。これは完全に趣味の問題の範疇。たしか新聞は「つける」にしている。
4つ目。そうすべきだと思う。No.がないと、解説がこんなに不格好になる。必要がない場合でもNo.をつけるのはアリだろう。
5つ目。これも「箇条書き」の本来の意味を考えればそうするべき。しかし、スペースの関係で追い込んでいる例もある。
P.120~の「接続詞の効用」。接続詞を肯定する書き方は、「文章読本」のなかでは珍しい。
「私は愛煙家である。私は、棄てない」の2つの文の間にどんな接続詞を入れるかによって内容が変わるという話はおもしろい。
「しかし」を入れると、「愛煙家=マナーを守らない人」になり、「だから」を入れると、「愛煙家=マナーを守る人」になる。
この本の文体も、かなり接続詞が多い。著者が意識的にやっていることを伺わせる記述がある。
【引用部】
接続詞はこのように、短いが、味のある言葉である。接続詞を巧みにいかすことによって、書き手の思いを事前に伝えることができる。このような場面で効果を発揮するのが、接続詞などの「つなぎ語」である。
つなぎ語には、接続詞の他、副詞、副詞句などもある。つなぎ語は、以上の効果に加えて、文章にリズム感をつける役割もあわせもっている。
本書冒頭で、「文は短く書け」と主張しているが、文を短くすると、文間のリズムが切れてしまう。それをつなぎあわせるのも、つなぎ語の役目である。いい文章を読んでいて気づくことに、接続詞の巧みな用法がある。
いい文章で「接続詞の巧みな用法」の例を探すのは、けっこうむずかしい。『坊ちゃん』のラストの例を指摘した井上ひさしの着眼点は、凡人にマネのできるものではない。それはさておき、この引用文の指摘は貴重。
判らないのは、デス・マス体の書きにくさを十分に理解している著者があえてデス・マス体で書いた『横書き文の書き方・鍛え方』で、なんであんなにぶつ切れの文章を書いたのか、ということ。もっと接続詞を使えばいいのに。
続いて、「文と文のつなぎに使う接続詞」が分類されている。
1)順接(具体例の提示、換言、結果の提示)
したがって/そこで/だから/ゆえに/すると
2)逆説(逆の意見の提示、限定)
しかし/だが/ところが/でも/が/けれども
3)並列・追加
および/そして/また/加えて/ならびに/その上/なお/しかも/それから/それに/さらに
4)選択
または/あるいは/それとも/もしくは
5)説明・補足
つまり/なぜなら/ただし/すなわち
6)話題の転換
さて/では
このあとに、接続詞と同じような働きをすることがある言葉として、次のものがあげられる。
・順接
このため/そうだとすれば/このようなわけで
・逆説
その反面/そうはいっても
・並列
それと同時に/これとともに
・説明・補足
要約すると/言い換えれば/その理由については/なぜかというと
以上の接続詞&「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」に関する記述は、かなりモレも多く不完全な印象がある。一例をあげると、次の接続詞が抜けている。
たとえば(これは「説明・補足」になるのだろうか)/ところで(「話題の転換」)
接続助詞に分類されそうなものもあるし、接続詞の役割が微妙なものある(「また」は「話題の転換」のほうが一般的では)。
「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」は無限にあってキリがないが、もう少し系統立てることはできそう。
そういった瑕疵は別にして、いろいろと考えさせられることが多い。
・接続詞の定義はむずかしい
・接続詞の役割を分類するのはむずかしい
・「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」をうまく使えば、「接続詞」は使わなくても済む(そんな努力に意味があるか否かは微妙)
P.125~に、「お役所などの通達文の典型的なパターン」と修正案があげらている。
当該課題の措置に関しては、関係各位で可及的速やかな対応策を勘案されたい
【修正案】
この問題については、関係者間でご検討の上、10月31日までに、対応策を文書で提出してください。この件の担当者は、総務の高橋です。
これに続く書きかえ例も参考になるところが多い。
P.129~の「ひらがなと漢字の表記基準」も参考になる。ちなみに文章内の漢字の含有率は30%前後がいちばん読みやすいそうな。
【引用部】
自社製品の売り上げ推移は、以下のとおりである。
売上年度 1994 1995 1996
売上高 300 350 1500
市場占有率 0.2 0.2 1.0
市場占有率は、1996年度で1%であり、微々たる数字である。しかし、1995年度にくらべると、5倍に伸ばしている。
こんなケースでシェアをしめしても、なんの効果もえられない。このようなばあいに、顧客にアピールできるのが、“前年度売上比率”という数字である。
「前年度売上比率5倍」
という文は、顧客の目に、はっきり焼きつくはずである。(P.159)
何が書いてあるのかよく判らない(表中の「売上年度」は「年度」がふつうだろう)。判りにくさの根源は「前年度売上比率5倍」という表現。これは「売上高」が5倍になったということだろうか。「市場占有率」が5倍になったことかとも思ったが、それでは文章がグチャグチャになってしまう。
「前年度売上比率」という言葉を強引に解釈すると、「前年」の「売上比率」。「売上比率」は「売上(高)」の中で占める割合ってことかな。「前年比売上高」もしくは「対前年売上高」と言いたいんじゃないだろうか。このテのことは著者のほうが専門のはずなんだけど。
よく見るのは「売上高は対前年5倍」とか「売上高は前年比5倍」という表現。これを「倍」とするか「倍増」とするかは好みの問題(ただし、前年比140%=前年比40%増)。「対前年比」というのもよく見るけど、たぶん重言。
『仕事文の書き方』(高橋昭男/岩波新書/1997年8月20日第1刷発行/1999年7月15日第7刷発行)
昨年9月に読んだ『横書き文の書き方・鍛え方』(宝島新書)と同じ著者。『仕事文の書き方』のほうが約3年も先に出版されているので読む順番が逆になってしまった。
同じ著者が似たような手法で書いているから、当然内容はダブっている。両著の印象の違いをひとことで言うと、『仕事文の書き方』のほうがていねいに書かれている。問題は、ていねいになればなるほど理屈っぽい印象になってしまうこと。論理的にすればするほど、例外を作らないようにすればするほど、どうしても理屈っぽくて小むずかしくなってしまう。かと言って『横書き文の書き方・鍛え方』のようにハショって書くと、読みやすくはあっても不正確な記述になってしまう。どちらが読みごたえがあって役に立つのかは言うまでもない。例によって原文で「,.」を使っている句読点は、勝手に「。、」にしてしまう。
P.2。実用書であるにも関わらず、いきなり『土佐日記』が出てくる。趣旨はよく判る。「一文には、1つの情報だけを盛りこむ」「対比の文章を書く」という心得を解説するための格好の例ではある。でもねえ……。
『土佐日記』が大学受験の問題文にほとんど採択されないのは、「内容、文章、言葉がともにやさしい」かららしい、という話は興味深い(3つの並列は、通常「ともに」ではなく「いずれも」などを使うべき)。なんだか受験問題の本質をついている気がする。この本には、このテのおもしろい話がいろいろと出てくる。
P.12には「典型的な官庁の通達文」として「可及的速やかに」を含む例文が出てくる。やはりこのフレーズは使えそう(詳細は後述)。
P.28のインターネットの歴史の変遷の話もおもしろい。もともとアメリカで学術用に発達したインターネットは、「信頼と善意が根底にあるネットワーク」だった。必然的に透明度の高いシステムで運用されていた。当時もクラッカー(侵入者)は存在したが、情報内容が学術研究用中心で公共性が高かったため、深刻な問題ではなかったらしい(クラッカーってハッカーとは別なのかしら)。
【引用部】
「序破急」や「まくら、さわり、おち」は、「起承転結」における「承」の内容の一部が「起」に、そして残りの一部が「転と結」に吸収された形であり、原則的には、起承転結と同じ思想である。(P.48)
これは初めて聞いた。なんでこんなことが断言できるのだろう。4段階から3段階になるときは、「転」がなくなることのほうが多いんじゃないだろうか。この文は日本語としても相当怪しい。すごく判りにくいし、「残りの一部」が吸収されたとして「残りの大半」はどこに行ってしまうのだろう。「残りの一部」は「残り全部」の意味なんだろうな。それなら単に「残り」と書けばいい。
【引用部】
起承転結と序破急が東洋に生まれ、世界に羽ばたいた理論であるのにたいし、パラグラフ(段落)は中世ヨーロッパで、寺院の僧侶たちの手によって生まれた。
読み手が、1つのキーワードについて説明が長くなると、緊張度が薄れて、集中力がなくなってしまうことにたいして、適切な字数で、話題を変えていく考えが基本となり、パラグラフが考え出された。
認知心理学者などの研究によれば、日本語では、300~350字ていどが、緊張持続時間の限度といわれている。したがって、1パラグラフは300字ていどにおさめることが常識とされている。(P.48)
順番に見ていく。
第1文。この記述もかなり大胆。この少し前には、「世界の名作といわれる劇作は、すべて、能の思想を規範にしているといわれている」などという恐ろしい記述もある。規範になる「能の思想」が伝播する以前、日本以外の国で生まれた劇作はすべて駄作なんだろうか。「いわれている」と書けばなんでも許されると思ってはいけない。
第2文。かなりの悪文。「読み手が」の位置がヘンだし、「たいして、」の用法が不自然。緊張“度”は上がったり下がったり(高くなったり低くなったり)するもので、濃くも薄くもならないのでは。ふつうに書いてみよう。
【修正案1】
1つのキーワードについての説明が長くなると、読み手は緊張感が薄れ、集中力がなくなってしまう。この弊害を防ぐため、適切な字数で話題を変えていく考えが基本になり、パラグラフが考え出された。
「考えが基本」のフレーズを生かさなくてもいいなら、2つ目の文はもっとスッキリさせることもできそう。
【修正案2】
1つのキーワードについての説明が長くなると、読み手は緊張感が薄れ、集中力がなくなってしまう。この弊害を防ぐために、適切な字数で話題を変えていくパラグラフという手法が考え出された。
第3・4文。「300~350字ていど」(厳密に言うと重言かな)が「時間」の限度ってどういう意味だろう。どんな人でも、読むスピードが一定なんだろうか。それはさておき、こういう牽強付会がアリなら、同じことを根拠に「一文の長さは300字程度におさめるべき」とも言える。「常識とされている」は、いくらなんでも決めつけすぎ。
P.50~で、デス・マス体の特徴と欠点についてふれている。文化庁発行の資料では、特定の対象者に対してはデアル体、不特定多数の人に対してはデス・マス体を使うように指導しているらしい。
筆者は2つの文体の特徴について、次のようにまとめている。
デアル体 どちらかというと紋切型
目上に対しては失礼になることが多い
デス・マス体 表現がやわらかい
ていねい調
デアル体がなんで「どちらかというと紋切型」になるのか理解できないが、おいておく。問題は、デス・マス体の「2つの大きな欠点」として指摘されている内容。
1)文章の絶対量がふえる
2)表記がわずらわしい
まず1)について。同じ情報量を提示する場合、デス・マス体はデアル体に比べて「2、3%長くなってしまう」らしい。根拠は不明。経験則ではもっと長くなる気がする。このあとには、2858ページある『広辞苑』をデス・マス体で書くと「80ページ以上も分厚くなってしまう」とある。これは理科系の書き手とは思えない不用意な書き方。数字はもっと正確に使いましょう。
第1の問題は、『広辞苑』は版がかわってもページの増減がまったくないのか、ということ。仮に増減はなかったとしても、どこからどこまでを「ページ」として扱うのかは微妙な問題。1ケタまで出すから、こういうバカなツッコミを入れられることになる。細かく書けば正確というものではなく、どちらも概数にしておいたほうが正確になる。80は2858の約2.8%にあたるから間違いではないけど。ちなみに2858の2%は57.2で、3%は85.7。
「3000ページ近い『広辞苑』は、デス・マス体にすると60~90ページ程度も増えることになる」ぐらいにしておくのが正解だろう。ただし、「2~3%」の根拠をはっきりさせないと話にならない。
次に2)について。
第二の欠点は、表記のわずらわしさである。
秋の京都は美しい。
レーザープリンタで印字された文字は美しい。
のように、われわれは「~は、~である」型の文、英語の型でいえば、S+V+Cの型の文を書くことが多い。このケースで、述部(Cの部分)に形容詞がくると、「ですます体」では表記が困難になる。形容詞の語尾と文の語尾にダブリが生ずるからである。
秋の京都は美しいです。
レーザープリンタで印字された文字は美しいです。
とすることに抵抗を感ずる。小学生が書いた文、という感じを読み手が受けてしまう。
秋の京都はきれいです。
レーザープリンタで印字された文字はきれいです。
と、言葉を変えなければならない。
だから、同意語や類語のボキャブラリーが要求されることになる。書き手にとっては大きな負担である。さらに、この例の「美しい」と「きれい」は、類語ではあるが、同意語ではない。
……こういうのを「表記のわずらわしさ」って言うのだろうか。「形容詞の語尾と文の語尾にダブリが生ずる」もヘンな気がする。などと重箱の隅をほじくるのはやめよう。
この記述は、意外なことに新鮮。こういう当たり前のことをキチンと指摘している「文章読本」は少ない。
P.75~に出てくる機械翻訳の話は傑作。斯界では有名な話なのかな。ある翻訳システムで聖書の一部を英文露訳したあとで、再度露文英訳したところ、次のような結果になった。
The spirit is willing, but the flesh is weak.
(精神は強く、肉体は弱し)
The vodka is good, but the meat is rotten.
(酒は最高だが、肉は腐っている)
P.88~に「一文一義の文を書く」の項目がある。著者の文章術の根幹にあるのがこの思想なのではないか。『横書き文の書き方・鍛え方』にも似たような項目があったが、あまりにもあっさりと流していたため、趣旨が判りにくかった。こちらのほうが説明が徹底され、はるかに判りやすい。大前提として、P.44の定義がある。
文=形の上で完結した、1つの意味を表す言語表現の単位。したがって、「花は咲き、鳥は歌う」という文は、2つの文から成っている。ただし、学校文法では、句点(。)から句点までにわたる、ひとつづきの言語表現単位、と定義している。
傾聴に値する指摘だと思う。ただ、この書き方で読者が理解できるのだろうか。要は、句点がなくても、主部と述部があれば一文ということ。たしかに、どんなに長い文でも、著者がいう「文」の積み重ねならば、判りにくくはならない。「花は咲き、鳥は歌い、虫は鳴き、風は吹き……」と延々と続いても、判りやすさの面では何も問題がない(文として自然か否かは別問題)。「長くても判りにくくない文はどんな文か」を考えるヒントになる。
P.94にの「ある週刊誌に載った大手コンピュータ会社からの報告」。ユーザーのクレームを受けたソフトウェアの会社の人間が「ハードウェアの規模が不十分だと判断」し、環境を設定し直すようにアドバイスする。翌日、ユーザーから再び電話が入る。
「機器を2階の窓際に置いたのですが、動きません」
【引用部】
カタカナ語で表現したほうがよいばあいもある。たとえば、「やせていますね」と言うよりは「スリムですね」のほうが、言われたほうもあまり気にならない。「この問題を解決する」よりは「このハードルをクリアする」のほうが、肩のこらない文章だといえる。(P.109)
「カタカナ語の氾濫」に警鐘を鳴らしたあとの文章なんだから話にならない。この数行で、それまでの文章が台なしになっている。あげられた2例は、なぜ「気にならない」のか、なぜ「肩のこらない」のか、さっぱり判らない。やせていることを気にしている人は、スリムと言われようが、スマートと言われようが気になるはず。エステ会社が「スリム」を使いたがるのは、そのほうがカッコイイから。あとに出てくる筆者の言葉を借りて「新鮮味」がある、と言ってもいい。「このハードルをクリアする」なんて、カタカナ語乱用の悪例として使いたいぐらい。このあとに続く記述のほうが例も適切だし、よほど説得力がある。
【引用部】
カタカナ語とは、いうまでもなく英語の日本語表記である。たしかに恰好がいい。たとえば、技術革新というよりは、イノベーションのほうが新鮮味を感じる。
黙っていても、カタカナ語は増えていく。だから、変換できる言葉ぐらいは、漢字で表記したいものである。
一般論として、日本語よりカタカナのほうが「新鮮味」があるだろう。このニュアンスの違いが、カタカナ語が氾濫している大きな理由。当然例外もある。カタカナで定着している言葉をあえて日本語にすると、新鮮味があったりする。ただ、カタカナのほうが「格好よく」感じられるのは確か。あえて日本語を使うほうがレトロっぽくてカッコイイ場合もあるけど。
【引用部】
アメリカにおいては、仕事文では短い文を書くことが義務づけられている。企業が発行する各種のマニュアルの表記の「注意」書きに、関係代名詞の使用を禁止した。文が長くなってしまうことを避けるためである。(P.116)
英語の場合は、この方法がかなりの効力を発揮しそう。日本語の場合は何を禁止すればよいのだろう。とりあえず「順接のガ」を禁止して、あとは……ウーム。
P.119に、情報処理学会で発表された一文の長さに関するデータが出ている。
・小学3年生の教科書 25文字
・児童雑誌 29文字
・中学3年生の教科書 42文字
・高校3年生の教科書 46文字
長年「天声人語」を担当していた辰濃和男氏は、『文章の書き方』(岩波新書)の中で、一文30字を目標にしたと書いているそうな。
P.119で示されている箇条書きのルール。
・本文が「ですます体」の文章でも、箇条書きの部分は「である体」の表記にする
・情報の提示順序に気をつける
・文末に句点(。)をつけない
・必要におうじて、No.を入れる……1)2)や(1)(2)など
・センテンスごとに改行する
2つ目は当然の心得だが、「ルール」ではない。ほかの4つは、いずれも個人的にはそのとおりだと思うが、趣味の問題と言ってしまえば趣味の問題。
1つ目。そうしない人もいるような気がする。
3つ目。これは完全に趣味の問題の範疇。たしか新聞は「つける」にしている。
4つ目。そうすべきだと思う。No.がないと、解説がこんなに不格好になる。必要がない場合でもNo.をつけるのはアリだろう。
5つ目。これも「箇条書き」の本来の意味を考えればそうするべき。しかし、スペースの関係で追い込んでいる例もある。
P.120~の「接続詞の効用」。接続詞を肯定する書き方は、「文章読本」のなかでは珍しい。
「私は愛煙家である。私は、棄てない」の2つの文の間にどんな接続詞を入れるかによって内容が変わるという話はおもしろい。
「しかし」を入れると、「愛煙家=マナーを守らない人」になり、「だから」を入れると、「愛煙家=マナーを守る人」になる。
この本の文体も、かなり接続詞が多い。著者が意識的にやっていることを伺わせる記述がある。
【引用部】
接続詞はこのように、短いが、味のある言葉である。接続詞を巧みにいかすことによって、書き手の思いを事前に伝えることができる。このような場面で効果を発揮するのが、接続詞などの「つなぎ語」である。
つなぎ語には、接続詞の他、副詞、副詞句などもある。つなぎ語は、以上の効果に加えて、文章にリズム感をつける役割もあわせもっている。
本書冒頭で、「文は短く書け」と主張しているが、文を短くすると、文間のリズムが切れてしまう。それをつなぎあわせるのも、つなぎ語の役目である。いい文章を読んでいて気づくことに、接続詞の巧みな用法がある。
いい文章で「接続詞の巧みな用法」の例を探すのは、けっこうむずかしい。『坊ちゃん』のラストの例を指摘した井上ひさしの着眼点は、凡人にマネのできるものではない。それはさておき、この引用文の指摘は貴重。
判らないのは、デス・マス体の書きにくさを十分に理解している著者があえてデス・マス体で書いた『横書き文の書き方・鍛え方』で、なんであんなにぶつ切れの文章を書いたのか、ということ。もっと接続詞を使えばいいのに。
続いて、「文と文のつなぎに使う接続詞」が分類されている。
1)順接(具体例の提示、換言、結果の提示)
したがって/そこで/だから/ゆえに/すると
2)逆説(逆の意見の提示、限定)
しかし/だが/ところが/でも/が/けれども
3)並列・追加
および/そして/また/加えて/ならびに/その上/なお/しかも/それから/それに/さらに
4)選択
または/あるいは/それとも/もしくは
5)説明・補足
つまり/なぜなら/ただし/すなわち
6)話題の転換
さて/では
このあとに、接続詞と同じような働きをすることがある言葉として、次のものがあげられる。
・順接
このため/そうだとすれば/このようなわけで
・逆説
その反面/そうはいっても
・並列
それと同時に/これとともに
・説明・補足
要約すると/言い換えれば/その理由については/なぜかというと
以上の接続詞&「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」に関する記述は、かなりモレも多く不完全な印象がある。一例をあげると、次の接続詞が抜けている。
たとえば(これは「説明・補足」になるのだろうか)/ところで(「話題の転換」)
接続助詞に分類されそうなものもあるし、接続詞の役割が微妙なものある(「また」は「話題の転換」のほうが一般的では)。
「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」は無限にあってキリがないが、もう少し系統立てることはできそう。
そういった瑕疵は別にして、いろいろと考えさせられることが多い。
・接続詞の定義はむずかしい
・接続詞の役割を分類するのはむずかしい
・「接続詞と同じような働きをすることがある言葉」をうまく使えば、「接続詞」は使わなくても済む(そんな努力に意味があるか否かは微妙)
P.125~に、「お役所などの通達文の典型的なパターン」と修正案があげらている。
当該課題の措置に関しては、関係各位で可及的速やかな対応策を勘案されたい
【修正案】
この問題については、関係者間でご検討の上、10月31日までに、対応策を文書で提出してください。この件の担当者は、総務の高橋です。
これに続く書きかえ例も参考になるところが多い。
P.129~の「ひらがなと漢字の表記基準」も参考になる。ちなみに文章内の漢字の含有率は30%前後がいちばん読みやすいそうな。
【引用部】
自社製品の売り上げ推移は、以下のとおりである。
売上年度 1994 1995 1996
売上高 300 350 1500
市場占有率 0.2 0.2 1.0
市場占有率は、1996年度で1%であり、微々たる数字である。しかし、1995年度にくらべると、5倍に伸ばしている。
こんなケースでシェアをしめしても、なんの効果もえられない。このようなばあいに、顧客にアピールできるのが、“前年度売上比率”という数字である。
「前年度売上比率5倍」
という文は、顧客の目に、はっきり焼きつくはずである。(P.159)
何が書いてあるのかよく判らない(表中の「売上年度」は「年度」がふつうだろう)。判りにくさの根源は「前年度売上比率5倍」という表現。これは「売上高」が5倍になったということだろうか。「市場占有率」が5倍になったことかとも思ったが、それでは文章がグチャグチャになってしまう。
「前年度売上比率」という言葉を強引に解釈すると、「前年」の「売上比率」。「売上比率」は「売上(高)」の中で占める割合ってことかな。「前年比売上高」もしくは「対前年売上高」と言いたいんじゃないだろうか。このテのことは著者のほうが専門のはずなんだけど。
よく見るのは「売上高は対前年5倍」とか「売上高は前年比5倍」という表現。これを「倍」とするか「倍増」とするかは好みの問題(ただし、前年比140%=前年比40%増)。「対前年比」というのもよく見るけど、たぶん重言。
スポンサーサイト