伝言板【あとがき】
下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)
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日本語アレコレの索引(日々増殖中)【4】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1583890705&owner_id=5019671
mixi日記2010年12月22日から
久々の【伝言板】です。
最後の部分なんで、【お品書き】には入っていません。このあと入れておきます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=949412201&owner_id=5019671
当方の文章読本に対するスタンスは、ほぼ決まっている。
ひと言でいうと、役立つものはきわめて少ない。ただ、役に立たないとは思わない。
「あんなもの読んでも……」という意見には、反論する気はないが、同調する気はもっとない。
レベルと目的(対象文章)に合った文章読本なら、役に立つ可能性は高くなる。まず、書き手(読み手?)のレベルを把握し、目的が何かを明確にすることが先だろう。
あとがき――文章読本は誰のためのものか
■数字で見る(?)文章読本が役に立つ可能性
アナタが文章の書き方を学ぶために、1冊の文章読本を手にしたとする。その文章読本が役に立つ可能性はどのぐらいあるのか、確率的に考えてみよう。
いままでにどのぐらいの数の文章読本が書かれてきたのか、なんて正確な統計は存在しない。1995年に刊行されたある文章読本に〈累積でぼつぼつ四桁に届くかもしれない〉と書いてあるから、キリのいいところで1000冊と考えようか。このうち読む価値がある文章読本は、どんなに多く見積もったって100冊ってとこだ。役に立つ可能性は、とりあえず1割になる。
ここで考えなきゃならないのは、アナタの書き手としてのレベルだ。初級者が上級者向けの文章読本を読んでも、むずかしくて役に立たない。逆に、上級者が初級者向けの文章読本を読んでも、バカバカしいだけで役に立たない。
考えなきゃならないことがもうひとつある。アナタがどんな種類の文章を書こうとしているのかってことだ。書こうとしている文章を対象にしている文章読本じゃないと、役に立つ可能性は低い。身辺雑記を書こうとしている人が論文を対象にしている文章読本を読んでも、当てはまらないことが多いに決まっている。
こういうふうに絞りこんでいくと、アナタにとってホントに役に立つ文章読本は、10冊ぐらいじゃないだろうか。確率で考えると1%だ。ちょっと書き方をかえると、100冊読んで、やっとホントに役に立つ1冊にめぐりあえる計算になる。これだも。ほとんどの文章読本が役に立たないのは当然だ。
このあたりのことを考えて、第3章で文章読本を紹介する際に「レベル」や「対象文章」を付記した。レベルや対象文章なんてそんなにカッチリ分かれるものではないことを承知で勝手にやったことだから、単なる目安でしかない。
もしかすると、すべてのレベルの人に役立つ文章読本や、すべての種類の文章を書くときに役立つ文章読本があるのかもしれない。心当たりがないので、ご存じのかたは教えていただきたい。仮にそういう「奇跡の文章読本」が何冊かあったとしても、役に立つ可能性が1%から2%になる程度のことだけど。
レベルや対象文章を限定した文章読本のほうが役に立つ可能性が高いのは、誰が考えたって当たり前だ。しかし、そういうことをハッキリ断わっている文章読本は少ない。そりゃそうだろう。読者を限定するよりは限定しないほうが、本の売れる可能性が高い。著者のセンセーだって出版社だってそのことをわかっているから、あえてレベルや対象文章をハッキリさせない。そんな策略の犠牲になるのは、読者のほうだ。
実際には、1000冊の文章読本の大半は淘汰されているので、簡単には手に入らないものも多い。したがって、アナタが一般の書店で手にした文章読本が役に立つ可能性は、もう少し高くなる。何%ぐらいだと思いますか?
ちなみに、数字を使ったこういう説明は、どんなにもっともらしく書いてあってもたいていマヤカシだと思って間違いない。都合の悪いことを無視して、自分に都合のいい数字をもってきているだけのことが多い。この場合も、重要な部分をあえて無視している。それがどこなのかはお考えいただきたい。
もうひとつちなみに、どこがマヤカシなのかがわかっても、あまり意味のあることじゃない。文章読本が役に立つ確率はきわめて低い、って事実にかわりはないんだから。
■文章読本は誰が読んでいるのか――素朴な疑問で申し訳ない
文章読本って誰が読んでいるんだろう……長年疑問に思ってきた。わざわざあのテの本を読むんだから、上達志向(なんかヘンな言葉だな)がある人ってことは間違いない。そういう人たちは、どういう職業なんだろう。
学生って可能性はある。レポートなどを書く機会は多いはずだし、「ジャーナリスト志望者必読」みたいにうたっている文章読本もある。ただ、そういうマジメな学生がどのぐらい生存しているのかは不明だ。
一般の社会人について考えると、文章を書く機会がない人は読まないよな。「文章を書く機会はないけど、ああいう本を読むのが趣味」って人には何もいう気はない。
フツーに考えると、なんらかの形で文章にかかわる仕事をしている方々だろう。そう考えるのが素直なんだけど、どうも実態は違うらしい。知り合いの編集者やライターにきいてみたところ、読んでいる人は意外なほど少なかった。曲がりなりにもプロだけあって、何冊かは読んでいる(なかには「まったく読んだことがない」ってツワモノもいた)。しかし、「3冊も読んでいれば多いほう」って印象だった。文章読本に対して、露骨に嫌悪感を示した人も少なくない。
じゃあいったい誰が読んでいるのか?
消去法で考えると、プロではないけど文章を書くのが好きな人、ってあたりになるのだろうか。この疑問はひとまずおいといて、なんで文章のプロが文章読本に興味をもたないのか、ってことを考えてみたい。
もしかすると、文章のプロのなかでもマジメな人は、多数の文章読本を読破して修業しているのかもしれない。そういう人が、たまたま自分のまわりにはいないだけ……可能性は否定できない。それはさておき、あんまりマジメじゃない文章のプロの意見を聞くと、大きく2つのタイプに分かれる。
1つ目のタイプは、本物の上級者。何冊か読んだうえで、文章読本の主張をアホくさく感じている。当たり前のこと(あるいは、的外れのこと)を偉そうに書いてあるだけだから、読む気にならない。ただし、そんな人はほんのひとにぎりで、たいていは勘違いしているだけだ。
2つ目のタイプは、文章を論理的に考えるのが苦手なタイプ。あんなもの、メンドくさくて読んじゃいられない、と考えている。この人たちが上級者なのかエセ上級者なのかは、一概にはいえない。「文章を論理的に考える能力」と「文章を書く能力」とは、まったくといっていいほど別物だからだ。
ここから先は、文章を論理的に考えて書ける能力を「論理型文才」と呼び、文章を論理的に考えずに書ける能力を「感覚型文才」と呼ぶ。うんと乱暴に書くと、論理型文才は実用文向きで、感覚型文才は芸術文向きといえるかもしれない。
■センスがなけりゃウマい文章は書けない――そりゃそうでしょ
少し具体的な書き方をしよう。
知り合いに、マニアックな旅好きの校正者がいる。この人が経験してきた旅は信じられないような話が多く、冒険物語みたいでメチャクチャおもしろい。「本を書けばいい」とアドバイスをする人も多いそうだが、本人にはまったくその気がない。「自分が書く文章はツマラナイ」ということを思い知っているらしい。簡単にいってしまえば、優秀な校正者である彼は論理型文才はあっても、感覚型文才がない。だから、おもしろい文章(「名文」とか「ウマい文章」といいかえても大きな違いはない)は書けない。
別の例でいえば、自分では文章が書けても、他者が書いた文章を手直しするのが苦手な編集者がいる。ヘンな文章であることはわかっても、どうしてヘンなのかがわからない。当然、どう手直しすればいいのかもわからない。コチャコチャ直すぐらいなら、全面的に書き直してしまうほうがラクらしい(気持ちはよーくわかる)。この人の文才は感覚型であり、論理型ではないってことだ。
名文やウマい文章を書くのに必要なのがどっちの文才なのかはハッキリしている。感覚型文才だ。才能やセンスといいかえてもいい。「日本語に関して理屈っぽいことをいうヤツに限って、文章を書かせるとつまらない」なんて説を耳にするのは、このあたりのことと関係するのだろう。論理的なことと理屈っぽいことは、厳密にいえば別のことだから、こういう極論はあまり認めたくない。しかし、論理型文才に基づいた文章ほどつまらない傾向があることは否定できない。
感覚型文才は、努力や勉強でどうにかなるもんじゃない。まして、文章読本を何冊か読んだぐらいで身につくもんじゃない。芸術文向けの文章読本を片っ端から読みまくれば多少は磨かれるかもしれないが、道ははるか遠く、とてつもなく険しい。
しつっこく繰り返すけど、だから文章読本なんて読んでもムダ、ってことじゃないからね。「文章読本なんか読んでも、センスがなけりゃウマい文章は書けない」みたいなことを、したり顔でおっしゃる人は多い。そんなのは当たり前なの。ワザワザ口にするなら、このぐらい理屈っぽく(「論理的に」とは思ってもらえないよね)説明しなよ。
センスなんてことをいいはじめたら、何を書いてもムダになる。
たしかに文章読本には、「いい文章を書きたければセンスを磨け」なんて堂々と書いてあったりする。それができりゃ誰も苦労しないよ。こういう無意味な精神論はやめてほしい。よせばいいのに、「センスの磨き方」をウダウダ説明していることさえある。そんなノウハウがあると本気で思ってるんだったら、そのセンセーのセンスはどうかしている。文章を書くのやめたほうがいいよ。
ああいうムチャなご高説を真剣に読む人なんているのだろうか。ちょっと考えりゃ、どんなにヘンな話かわかるはずだ。センスのある人(あるいは「あると思っている人」)は、そんなものを読みはしない。かといって、「センスの磨き方」なんてものを真に受ける人が、センスをもっているとは思えない。ないものは磨けません。
■論理型文才は努力しだいでどうにかなる可能性はある
一般に、作家と呼ばれる人たちは感覚型文才が突出している。だから読者を魅了するような文章が書けるのだが、論理型文才を兼ね備えているかというと、疑問が残る人もいる。たとえば……さすがに書けません。ご想像ください。ちなみに、実用文向けの文章読本を書くセンセーは、論理型文才の持ち主であることは間違いない(程度には個人差がある)。しかし、感覚型文才をもっているセンセーはあまりいないようだ(これも当然個人差がある)。ここから必然的に導き出される結論も、ご想像におまかせする。
感覚型文才が突出していれば、論理型文才がなくても作家になれる。感覚型文才が多少あっても論理型文才がないと、三流のライターになるのがせいぜいだ。
そういうヤカラの文章を読んでいると、イライラしてくる。テニヲハはメチャクチャ、言葉の使い方は間違いだらけ、一文はヤタラに長いから意味がわかりにくい。ヒドいのになると、どこで覚えたのかウマそうな文章を書くための小手先のテクニックだけはもっていたりする。
半ば本気で腹を立てながら「もったいない」とも思う。少し論理型文才を伸ばせば、格段に文章が上達するのがハッキリしているからだ。すっごくおもしろいネタを台なしにしていたりすると、「もう少し基本的なことを勉強しなよ」と余計なことをいいたくなる。
話の成り行きで、一応文章のプロといわれる方々のことを書いてきた。セミプロやアマの場合も、事情はほとんど変わらないはずだ。まあ、ひと口に文章のプロといっても、レベルには恐ろしく幅がある。上を見たらキリがないし、下を見てもこれまたキリがない。このあたりのことを考えると気持ちが暗くなる。自分がどのあたりに位置しているか、なんてことを考えると……そういう恐ろしいことを考えてはいけない。近年、レベルの平均値が著しく低下していることだけは痛感している。例なんていくらでもあげられるし、原因もいくつか思い当たる。書きはじめると長くなるので、パスしておく。
感覚型文才は努力でどうにかなるもんじゃないが、ソコソコの文章を書くための論理型文才なら、どうにかなる可能性はある。この点は、プロでもセミプロでもアマでも同じ(クドい書き方だな)。「どうにかなる」なんて書いたが、具体的にどうすればいいのかは、一概にはいえない。要は自分に合った修業法を見つけることなんだろう。選択を間違えなければ、文章読本を読むことだって有力な修業法だ。
どんな文章読本でも、ジックリ読んでみると「なるほど」と思えるような新しい発見がある(例外は多い)。「バッカじゃないの」と笑うしかない記述もある(例外は少ない)。問題は、それぞれの出現率(なんのこっちゃ)だ。
この本で好意的に紹介した文章読本なら、「なるほど」の出現率が比較的高いはずだ。レベルや対象文章を間違えなければ、ソコソコ役に立つのではないかと思わなくもない。とくに注意が必要なのはレベルに関して。猫に小判の場合も、釈迦に説法の場合も、読むだけムダになる。
もちろん、ほかにも役に立つ文章読本は数多くあるのだろう。「奇跡の文章読本」にめぐりあえる可能性だって否定する気はない。
健闘を祈ることしかできません。
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mixi日記2010年12月22日から
久々の【伝言板】です。
最後の部分なんで、【お品書き】には入っていません。このあと入れておきます。
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当方の文章読本に対するスタンスは、ほぼ決まっている。
ひと言でいうと、役立つものはきわめて少ない。ただ、役に立たないとは思わない。
「あんなもの読んでも……」という意見には、反論する気はないが、同調する気はもっとない。
レベルと目的(対象文章)に合った文章読本なら、役に立つ可能性は高くなる。まず、書き手(読み手?)のレベルを把握し、目的が何かを明確にすることが先だろう。
あとがき――文章読本は誰のためのものか
■数字で見る(?)文章読本が役に立つ可能性
アナタが文章の書き方を学ぶために、1冊の文章読本を手にしたとする。その文章読本が役に立つ可能性はどのぐらいあるのか、確率的に考えてみよう。
いままでにどのぐらいの数の文章読本が書かれてきたのか、なんて正確な統計は存在しない。1995年に刊行されたある文章読本に〈累積でぼつぼつ四桁に届くかもしれない〉と書いてあるから、キリのいいところで1000冊と考えようか。このうち読む価値がある文章読本は、どんなに多く見積もったって100冊ってとこだ。役に立つ可能性は、とりあえず1割になる。
ここで考えなきゃならないのは、アナタの書き手としてのレベルだ。初級者が上級者向けの文章読本を読んでも、むずかしくて役に立たない。逆に、上級者が初級者向けの文章読本を読んでも、バカバカしいだけで役に立たない。
考えなきゃならないことがもうひとつある。アナタがどんな種類の文章を書こうとしているのかってことだ。書こうとしている文章を対象にしている文章読本じゃないと、役に立つ可能性は低い。身辺雑記を書こうとしている人が論文を対象にしている文章読本を読んでも、当てはまらないことが多いに決まっている。
こういうふうに絞りこんでいくと、アナタにとってホントに役に立つ文章読本は、10冊ぐらいじゃないだろうか。確率で考えると1%だ。ちょっと書き方をかえると、100冊読んで、やっとホントに役に立つ1冊にめぐりあえる計算になる。これだも。ほとんどの文章読本が役に立たないのは当然だ。
このあたりのことを考えて、第3章で文章読本を紹介する際に「レベル」や「対象文章」を付記した。レベルや対象文章なんてそんなにカッチリ分かれるものではないことを承知で勝手にやったことだから、単なる目安でしかない。
もしかすると、すべてのレベルの人に役立つ文章読本や、すべての種類の文章を書くときに役立つ文章読本があるのかもしれない。心当たりがないので、ご存じのかたは教えていただきたい。仮にそういう「奇跡の文章読本」が何冊かあったとしても、役に立つ可能性が1%から2%になる程度のことだけど。
レベルや対象文章を限定した文章読本のほうが役に立つ可能性が高いのは、誰が考えたって当たり前だ。しかし、そういうことをハッキリ断わっている文章読本は少ない。そりゃそうだろう。読者を限定するよりは限定しないほうが、本の売れる可能性が高い。著者のセンセーだって出版社だってそのことをわかっているから、あえてレベルや対象文章をハッキリさせない。そんな策略の犠牲になるのは、読者のほうだ。
実際には、1000冊の文章読本の大半は淘汰されているので、簡単には手に入らないものも多い。したがって、アナタが一般の書店で手にした文章読本が役に立つ可能性は、もう少し高くなる。何%ぐらいだと思いますか?
ちなみに、数字を使ったこういう説明は、どんなにもっともらしく書いてあってもたいていマヤカシだと思って間違いない。都合の悪いことを無視して、自分に都合のいい数字をもってきているだけのことが多い。この場合も、重要な部分をあえて無視している。それがどこなのかはお考えいただきたい。
もうひとつちなみに、どこがマヤカシなのかがわかっても、あまり意味のあることじゃない。文章読本が役に立つ確率はきわめて低い、って事実にかわりはないんだから。
■文章読本は誰が読んでいるのか――素朴な疑問で申し訳ない
文章読本って誰が読んでいるんだろう……長年疑問に思ってきた。わざわざあのテの本を読むんだから、上達志向(なんかヘンな言葉だな)がある人ってことは間違いない。そういう人たちは、どういう職業なんだろう。
学生って可能性はある。レポートなどを書く機会は多いはずだし、「ジャーナリスト志望者必読」みたいにうたっている文章読本もある。ただ、そういうマジメな学生がどのぐらい生存しているのかは不明だ。
一般の社会人について考えると、文章を書く機会がない人は読まないよな。「文章を書く機会はないけど、ああいう本を読むのが趣味」って人には何もいう気はない。
フツーに考えると、なんらかの形で文章にかかわる仕事をしている方々だろう。そう考えるのが素直なんだけど、どうも実態は違うらしい。知り合いの編集者やライターにきいてみたところ、読んでいる人は意外なほど少なかった。曲がりなりにもプロだけあって、何冊かは読んでいる(なかには「まったく読んだことがない」ってツワモノもいた)。しかし、「3冊も読んでいれば多いほう」って印象だった。文章読本に対して、露骨に嫌悪感を示した人も少なくない。
じゃあいったい誰が読んでいるのか?
消去法で考えると、プロではないけど文章を書くのが好きな人、ってあたりになるのだろうか。この疑問はひとまずおいといて、なんで文章のプロが文章読本に興味をもたないのか、ってことを考えてみたい。
もしかすると、文章のプロのなかでもマジメな人は、多数の文章読本を読破して修業しているのかもしれない。そういう人が、たまたま自分のまわりにはいないだけ……可能性は否定できない。それはさておき、あんまりマジメじゃない文章のプロの意見を聞くと、大きく2つのタイプに分かれる。
1つ目のタイプは、本物の上級者。何冊か読んだうえで、文章読本の主張をアホくさく感じている。当たり前のこと(あるいは、的外れのこと)を偉そうに書いてあるだけだから、読む気にならない。ただし、そんな人はほんのひとにぎりで、たいていは勘違いしているだけだ。
2つ目のタイプは、文章を論理的に考えるのが苦手なタイプ。あんなもの、メンドくさくて読んじゃいられない、と考えている。この人たちが上級者なのかエセ上級者なのかは、一概にはいえない。「文章を論理的に考える能力」と「文章を書く能力」とは、まったくといっていいほど別物だからだ。
ここから先は、文章を論理的に考えて書ける能力を「論理型文才」と呼び、文章を論理的に考えずに書ける能力を「感覚型文才」と呼ぶ。うんと乱暴に書くと、論理型文才は実用文向きで、感覚型文才は芸術文向きといえるかもしれない。
■センスがなけりゃウマい文章は書けない――そりゃそうでしょ
少し具体的な書き方をしよう。
知り合いに、マニアックな旅好きの校正者がいる。この人が経験してきた旅は信じられないような話が多く、冒険物語みたいでメチャクチャおもしろい。「本を書けばいい」とアドバイスをする人も多いそうだが、本人にはまったくその気がない。「自分が書く文章はツマラナイ」ということを思い知っているらしい。簡単にいってしまえば、優秀な校正者である彼は論理型文才はあっても、感覚型文才がない。だから、おもしろい文章(「名文」とか「ウマい文章」といいかえても大きな違いはない)は書けない。
別の例でいえば、自分では文章が書けても、他者が書いた文章を手直しするのが苦手な編集者がいる。ヘンな文章であることはわかっても、どうしてヘンなのかがわからない。当然、どう手直しすればいいのかもわからない。コチャコチャ直すぐらいなら、全面的に書き直してしまうほうがラクらしい(気持ちはよーくわかる)。この人の文才は感覚型であり、論理型ではないってことだ。
名文やウマい文章を書くのに必要なのがどっちの文才なのかはハッキリしている。感覚型文才だ。才能やセンスといいかえてもいい。「日本語に関して理屈っぽいことをいうヤツに限って、文章を書かせるとつまらない」なんて説を耳にするのは、このあたりのことと関係するのだろう。論理的なことと理屈っぽいことは、厳密にいえば別のことだから、こういう極論はあまり認めたくない。しかし、論理型文才に基づいた文章ほどつまらない傾向があることは否定できない。
感覚型文才は、努力や勉強でどうにかなるもんじゃない。まして、文章読本を何冊か読んだぐらいで身につくもんじゃない。芸術文向けの文章読本を片っ端から読みまくれば多少は磨かれるかもしれないが、道ははるか遠く、とてつもなく険しい。
しつっこく繰り返すけど、だから文章読本なんて読んでもムダ、ってことじゃないからね。「文章読本なんか読んでも、センスがなけりゃウマい文章は書けない」みたいなことを、したり顔でおっしゃる人は多い。そんなのは当たり前なの。ワザワザ口にするなら、このぐらい理屈っぽく(「論理的に」とは思ってもらえないよね)説明しなよ。
センスなんてことをいいはじめたら、何を書いてもムダになる。
たしかに文章読本には、「いい文章を書きたければセンスを磨け」なんて堂々と書いてあったりする。それができりゃ誰も苦労しないよ。こういう無意味な精神論はやめてほしい。よせばいいのに、「センスの磨き方」をウダウダ説明していることさえある。そんなノウハウがあると本気で思ってるんだったら、そのセンセーのセンスはどうかしている。文章を書くのやめたほうがいいよ。
ああいうムチャなご高説を真剣に読む人なんているのだろうか。ちょっと考えりゃ、どんなにヘンな話かわかるはずだ。センスのある人(あるいは「あると思っている人」)は、そんなものを読みはしない。かといって、「センスの磨き方」なんてものを真に受ける人が、センスをもっているとは思えない。ないものは磨けません。
■論理型文才は努力しだいでどうにかなる可能性はある
一般に、作家と呼ばれる人たちは感覚型文才が突出している。だから読者を魅了するような文章が書けるのだが、論理型文才を兼ね備えているかというと、疑問が残る人もいる。たとえば……さすがに書けません。ご想像ください。ちなみに、実用文向けの文章読本を書くセンセーは、論理型文才の持ち主であることは間違いない(程度には個人差がある)。しかし、感覚型文才をもっているセンセーはあまりいないようだ(これも当然個人差がある)。ここから必然的に導き出される結論も、ご想像におまかせする。
感覚型文才が突出していれば、論理型文才がなくても作家になれる。感覚型文才が多少あっても論理型文才がないと、三流のライターになるのがせいぜいだ。
そういうヤカラの文章を読んでいると、イライラしてくる。テニヲハはメチャクチャ、言葉の使い方は間違いだらけ、一文はヤタラに長いから意味がわかりにくい。ヒドいのになると、どこで覚えたのかウマそうな文章を書くための小手先のテクニックだけはもっていたりする。
半ば本気で腹を立てながら「もったいない」とも思う。少し論理型文才を伸ばせば、格段に文章が上達するのがハッキリしているからだ。すっごくおもしろいネタを台なしにしていたりすると、「もう少し基本的なことを勉強しなよ」と余計なことをいいたくなる。
話の成り行きで、一応文章のプロといわれる方々のことを書いてきた。セミプロやアマの場合も、事情はほとんど変わらないはずだ。まあ、ひと口に文章のプロといっても、レベルには恐ろしく幅がある。上を見たらキリがないし、下を見てもこれまたキリがない。このあたりのことを考えると気持ちが暗くなる。自分がどのあたりに位置しているか、なんてことを考えると……そういう恐ろしいことを考えてはいけない。近年、レベルの平均値が著しく低下していることだけは痛感している。例なんていくらでもあげられるし、原因もいくつか思い当たる。書きはじめると長くなるので、パスしておく。
感覚型文才は努力でどうにかなるもんじゃないが、ソコソコの文章を書くための論理型文才なら、どうにかなる可能性はある。この点は、プロでもセミプロでもアマでも同じ(クドい書き方だな)。「どうにかなる」なんて書いたが、具体的にどうすればいいのかは、一概にはいえない。要は自分に合った修業法を見つけることなんだろう。選択を間違えなければ、文章読本を読むことだって有力な修業法だ。
どんな文章読本でも、ジックリ読んでみると「なるほど」と思えるような新しい発見がある(例外は多い)。「バッカじゃないの」と笑うしかない記述もある(例外は少ない)。問題は、それぞれの出現率(なんのこっちゃ)だ。
この本で好意的に紹介した文章読本なら、「なるほど」の出現率が比較的高いはずだ。レベルや対象文章を間違えなければ、ソコソコ役に立つのではないかと思わなくもない。とくに注意が必要なのはレベルに関して。猫に小判の場合も、釈迦に説法の場合も、読むだけムダになる。
もちろん、ほかにも役に立つ文章読本は数多くあるのだろう。「奇跡の文章読本」にめぐりあえる可能性だって否定する気はない。
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