電脳の譜 3

【3】2回戦 サークラ対船井竜平五段(4組優勝)

 2回戦でサークラを迎え撃つのは、電王戦で中堅を務めた船井竜平五段だった。1回戦に続いて電王戦に参戦した若手棋士が登場するのは、偶然というより必然だった。電王戦にも起用された精鋭が、棋神戦でも勝ち上がってきていた。
 一部の将棋のファン間では、電王戦でポイントゲッターとして一番期待できるのは船井五段といわれていた。現役A級棋士の武浦八段は別格として、ほかの棋士のなかではもっとも勝利に近いのでは……と。
 25歳の船井五段は奨励会時代が長かったために、プロ入りしたのが23歳と遅かった。しかし、五段ではあってもそれ以上の棋力をもつといわれ、とくに詰将棋の正確さはトップクラスと定評があった。段位以上に棋士の強さを正確に表わすとされるレーティングの数字で見ると、船井五段の順位は30位前後を推移し、「若手」というよりトップクラスまでもう一歩という位置だった。
 船井五段の対戦相手の将棋ソフトの知名度が低かったことも影響した。サークラの強さは将棋ファンの間でも知られていたが、それ以外のソフトはさほどでもない、という印象があった。船井五段が惜敗したことで、「もしかすると武浦八段も危ないのでは……」というイヤな雰囲気が出来上がり、それが現実になってしまった。
 今回の対局は、船井五段にとっては絶好のリベンジマッチだった。

 大盤解説会場のモニターに対局室の船井五段の様子が映し出させると、会場がざわつき、「ワラワラ動画」の実況中継のコメント欄にも驚きのコメントがあふれた。
 精悍な印象があった船井五段の風貌が、別人のようだった。目は落ちくぼみ、頬はげっそりと削げて重病人のようで、テニス好きのスポーツマンの面影はなかった。
 電王戦の敗戦から約3か月、船井五段は対局と睡眠以外の時間はほぼ将棋ソフトの研究に没頭した。将棋ソフトとの再戦を誰よりも熱望していたのは、船井五段だった。約1か月前にサークラを貸与されてからはさらに睡眠時間を削り、自由になる時間のほとんどを研究に費やした。これほど将棋漬けの日々を送ったのは、四段になる直前以来だった。
 対局が始まると船井五段は異常なまでの早指しを見せ、ほとんど考慮時間を使わなかった。少考を繰り返すようにプログラムされているサークラとは考慮時間に差が出て、序盤で1時間ほど開いた。棋神戦の持ち時間は各5時間で電王戦よりも1時間長いが、電王戦で終盤に時間がなくなった苦い経験を活かした作戦だった。十分な研究を積んできた証しでもある。
 局面は電王戦と同じ角換わりになった。先手の船井五段だけが飛車先の歩を交換し、やや有利な形勢に見えた。
「なぜ将棋ソフトが無条件で飛車先の歩の交換を許すのか、ボクには理解できません。ぜひ将棋ソフトに訊いてみたいところですが、答えてくれないでしょうね」
 と、和田棋神が首を傾げる。「もし角換わりは飛車先の歩を交換したら不利、なんてことになったら、数百年続いた将棋の常識がひっくり返ります。昔から、飛車先の歩交換に3つの利あり、なんていいます。藤野さんは、3つともわかりますか」
 いきなり話を振られ、藤野女流初段が戸惑いを見せる。
「えーと。ひとつは一歩を手持ちにできること。ひとつは、飛車が敵陣に直射すること。もうひとつは……なんでしたっけ」
「実はもうひとつはボクもわかりません」
 と言って和田棋神が会場の笑いを誘う。「攻め駒の自由度が高まるとか、相手の金が角頭の守りに釘づけになるとか、いろいろ言われますが、なんなんでしょう。一番大きいのは、自分だけ得したようで気分がいいことではないかと……」
 会場に爆笑が起こった。
「そろそろ森山先生の質問タイムに移りたいと思いますが、何かございますか」
 和田棋神が、最前列の森山に問いかける。
「最大の疑問は……無条件で飛車先の歩の交換を許す点を含めて、将棋ソフト独特の序盤感覚がどこから来ているのか、ってことです。1回戦にしても、プロ棋士の判断では、序盤は矢部四段戦のほうが形勢がよかったはずです。ところが、将棋ソフトはそうは考えないようです。そのせいなのか、違う将棋ソフトなのに、指し手が似ている気がしました」
「そうですね……たしかに似ていました。プロ棋士側は、これで悪いわけがないと思っているので、手をかえる理由はない。そうなると、必然的に同じような局面になります。矢部四段戦ではサークラが電王戦のしかけを見送って王を固めました」
 と言って、和田棋戦はやや上方に目をやった。「あれがうまい作戦でしたね。じっくり王を固めて、最高のタイミングでしかけました。局後のインタビューで、矢部四段が嘆いていたのがわかります」
「もうひとつの質問は、その矢部四段のコメントに関してなんです。和田棋神は、サークラの進化を感じましたか?」
 局後、矢部四段はショックを隠しきれない様子で途切れがちに語った。矢部四段が研究に使ったサークラは、電王戦と似た手順で攻めてきた。その対応策は十分に練ってきたのに、本番でサークラはまったく違う順を選んだ。そのほかにも、研究に使ったサークラよりも、はるかに読みが深いと感じた。
──サークラは、たった1か月の間に、とてつもなく、進化していました。
 矢部四段が絞り出すように語ったこの言葉に、森山は衝撃を受けた。本当にそんな短期間で進化を遂げるのなら、どこまで強くなるのか見当がつかなかった。研究で使った将棋ソフトは単体のコンピューターで動かしている。本番のサークラは、数百台のコンピューターを接続している。その分、計算速度が段違いに速くなるが、そのことと棋力向上は少し別の話のはずだった。
「そうですね……サークラの貸与を受けたのは1か月前でも、実際にはもう少し前のバージョンのはずです。仮に2か月のタイムラグがあったとして、どの程度の進化が可能なのかは、開発者に訊かないとわかりません。たぶん訊いたとしても、どの程度なのかを具体的に示すことはできないでしょう。その2か月の間に、新しい棋譜をどの程度インプットしたのかが問題です。おそらく、電王戦の棋譜はインプットしたはずです。対局日までに、プロの公式戦で角換わりの将棋が何局あって、そのうち何局をインプットしたのか、それによってどの程度進化するのか……なんだか雲をつかむような話です」
 和田棋神は、しばらく考えたあと、口を開いた。「元々電王戦で矢部四段の対戦したソフトよりも、サークラが格上とされています。しかし、矢部四段はずいぶん研究していたようです。あれほど驚いたのですから、進化を感じさせる何かがあったのでしょう。いまはその程度のことしかいえません。船井五段の指し手が早いので、局面が進んでいるようです。解説に戻ってよろしいでしょうか」
「ありがとうございます。解説をお願いします」
 指し手は40手を過ぎ、中盤に入っていた。電王戦のときはすでに将棋ソフトがしかけていたが、今日はじっくりした駒組みが続いていた。
「といってたら、さすがに船井五段のペースが落ちてきましたね。この間に、大急ぎで電王戦の船井五段の棋譜を振り返ってみましょうか」
 会場に大きな拍手が起きた。
 時間がないことを意識してか、初形に戻した和田棋神はものすごいスピードで駒を動かしていった。棋譜を確認している藤野女流初段が訂正を入れたのは1か所だけで、あとは正確に実際の指し手をなぞった。
 強引なしかけから数手目で、和田棋神の手が止まる。
「この6六角が、この将棋のひとつ目のポイントでした。これはさすがにムチャで、うまく対応して先手が有利になりました。このあと、船井五段が着実に指しているのですが、コンピューターの粘りがみごとでした」
 和田棋神は、要所要所にコメントを入れながら、指し手を進めていく。
「この2二金は、人間にはなかなか指せません。こういう受け一方の手は、負けても指すな、と師匠に叱られる類いの手です。コンピューターは師匠に叱られる心配がないせいか、平気でこういう手を指します」
「この5五香は、浮かびにくい好手です。おそらく、この局一番の好手でしょう」
「そしてこの6六銀のタダ捨て。これがこの局の二番目のポイントだったと思います。強引なしかけからの6六角とタダ捨ての6六銀。2つの6六が、印象に残っています。6六銀自体は悪手かもしれません。このあと先手がはっきりよくなりましたから。勝勢になったといってもいいと思います。ではほかにどう指せばよかったのかがわかりません。ということは、結果的には最善の粘りだった可能性があります。この手の意味自体は説明できるんです……」
 和田棋神の解説はむずかしくなかったが、森山の耳には入ってこなかった。森山は息苦しいものを感じながら、別のことを考えていた。解説は将棋の専門誌などで読んでいたので、指し手の意味はわかった。そんなことよりも、ネットの実況中継で見た船井五段の表情が強烈に記憶に焼きついていた。
 それまで、森山は電王戦にさほど興味をもっていなかった。次鋒戦でプロ棋士が負けたと知ったときも「そういうことがあっても不思議ではないだろう」くらいに思った。仕事が一段落した時期に行なわれた中堅戦の実況中継をネットで観戦し、異様な感覚に囚われて目が離せなくなった。
 将棋ソフトの指し手は明らかに異筋で、初心者の指し手のようにも見えた。
 一時は勝勢になった船井五段が、将棋ソフトの意外な粘りを持て余し、しだいに苦しげな表情を浮かべはじめる。対局中にまったく表情をかえない棋士もいたが、最近の若手には珍しく、船井五段の表情には形勢が如実に現れた。「代指し」の奨励会員は、当然のことながらまったく表情がかわらない。別室に控えるサークラの開発者からの指示をイヤホンで受け、淡々と指していた。
 戦いが長期戦になって秒読みが始まると、船井五段の表情には疲労と焦燥がいっそう濃くなる。一手指すごとに、ため息とも深呼吸とも思えるような荒い息を吐いた。「代指し」の奨励会員の無表情とのコントラストが、船井五段の苦戦をいっそう強く印象づけた。
 最終盤のむずかしい寄せ合いになると、船井五段の苦悶はさらに深くなる。本来ならもっとも得意な場面だったが、相手の将棋ソフトはそれ以上に終盤を得意にしていた。ギリギリの攻めを、将棋ソフトが適確に受けきる。
 船井五段が投了すると、大盤解説会場は重苦しい雰囲気に包まれた。その沈痛な空気は、ネット中継を見ていた多くの視聴者にもリアルに伝わった。

 棋神戦2回戦のほうは中盤に入り、船井五段が優勢になる。優勢になってからも着実に指し手を進め、勝勢に近い局面になった。
 先手の攻め駒がきれいにさばけ、3一で孤立する後手玉を守っているのは、8二の飛車の横利きだけだった。2四に飛び出した角と4三のと金で後手玉を制した形は、必勝形に見えた。ここでサークラが考え込んだ。後手は豊富な持ち駒をもっているが受けるのはむずかしい。攻め合うにしても、先手の矢倉は右の金が5六にうわずっていることを除くと手つかずだった。
 長考の末にサークラが選んだのは、2八飛車と角取りに打つ手だった。3三に角が成って後手玉は一段と受けにくくなり、ほとんど必至だった。
「コンピューターにも形づくりという概念はあるんですかね」
 和田棋神が唐突に藤野女流初段に訊く。
「たぶん……ないと思います」
「そうですよね。そうなると、一応王手をかけるだけかけて、詰まないことがはっきりしたところで投げるつもりですかね。人間が相手だと、詰めようとしているのか、形づくりに来たのか、なんとなく雰囲気でわかるものなのですが……」
 サークラは、少考を続けながら王手を続ける。どんな場面でも、指し手のペースはほとんどかわらなかった。もちろん表情もうかがえないので、形勢をどう判断しているのかまったく判断材料がなかった。
 同じペースで王手をかけ、7三にいた角が王手で6四に上がる。先手が惜しげもなくタダで取られる7五に金を合駒した。この金を取ればまだ王手は続くが、詰みがないことははっきりしていた。
 この瞬間、大盤解説のコンピューターの「評価関数」が、先手の優勢から後手の必勝に急変した。何が起こったのか事情がわからないまま、会場内には悲鳴のような歓声が起こった。
「ちょっと待ってください……」
 和田棋神の顔色がかわる。「まさか歩打ちで受かってますか?」
 そう言って和田棋神は慌てた様子で3二に歩を置いた。8二の飛車に加えて6四の角が4二の地点に利いたので、先手の攻めは頓挫していた。こうなってみると、2八に打った飛車までが受けに役立っていた。
 和田棋神があれこれ指してみたが、結論はかわらなかった。事態を理解したのか、船井五段の顔がみるみる赤くなり、苦しげに歪む。そして、3二歩が指された。
 秒読みの時間ギリギリまで考えて力ない手つきで6四の角を取った船井五段が、急に小さくなったように見えた。サークラが3三歩と馬を取ると、船井五段は静かに投了の意思表示をした。
※参考棋譜① ▲泉正樹五段対△羽生善治五段
(1988年/順位戦C級1組)


電脳の譜【1】
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