読書感想文 『悪文』(中村明/ちくま新書/1995年5月20日第1刷発行)

 ちょっと事情があって、古い読書感想文をアップする。
 文章読本の関する感想文のNo.4なので、かなり早い時期の感想文になる。この段階の感想文だと、まだそんなに毒を吐いていない。さほど性格が歪んでいないようだ。
 読み返してみると、本書は言葉に関するさまざまな問題に言及している。「広く浅く」という印象だが。



『悪文』(中村明/ちくま新書/1995年5月20日第1刷発行)→2000年8月再読
 ちょっと気になることがあり、書棚にあるはずの同名の単行本をずいぶん探す。新書だったのでなかなか見つからなかった。これだったかな。ほかにもあったような気がする。たしか岩淵悦太郎の著作だったはず。引っ越しのドサクサでなくしたうちの一冊なんだろう。本書は95年7月に読んでいるが、マーカーを片手にあらためて精読する。「裏返し文章読本」というサブタイトルから連想されるような悪文集ではなく、実用書タイプの「文章読本」。
 まず根本的な問題から。文章のお手本にするため、ほとんどの「文章読本」が「名文」を持ってくる。たしかに、最後の最後の段階ではそれしかない気がする。しかし、それはきわめて高度なレベルの話。もっと基本的な技術を身につけるためには「名文」をお手本にしても効果はなく、むしろ害のほうが大きい。個人的な経験と照らし合わせても、反面教師としての「悪文」のほうがよほど有効だった。ちょっと考えれば判ることでしょうが。「この文章はうまい」と思っても、マネするのは容易なことではない。しかし、「この文章はヘタ」と思ったらその原因を考え、そういう書き方を避けるようにするほうがよほど簡単。問題は、その原因をどこまで論理的に把握できるか、ということ。
 本書の話に戻ろう。けっこう参考になることが多かったけど、引用文にコメントをつけているうちにいい加減な点も目についてきて、段々ハラが立ってきた。表記の点では、教えられる点が多いけれど。
 個人的な趣味に関わる問題であることを承知で書くと、中途半端な文学志向はやめてほしい。文章の添削例に顕著だが、ヘタな創作みたいな例を「望ましい文章」のように扱うのは大きな問題だと思う。

【引用部】
 出版文化の隆盛とともに、量産の時代を迎えた。一九七七年以降の文章作法書の刊行点数は、毎年実に三〇冊を上まわるという驚異的な調査結果も報告されている。
(中略)陋屋の三畳ほどのかたつむりみたいな書庫に何百冊かの文章作法書が大きな顔で並んでいる。(p.9)
 やっぱこのぐらい読み込んでいないと、「多くの文章作法書を読んできた」なんて口にできないのかね。何百冊をいくつかに分類・解説していて、「その他」には「必勝の文章戦略」「よくない文章ドク本」なんてのが入っている。
 記憶があって書棚をのぞくと、『必勝の文章戦略』(林洋/日刊工業新聞社/1979年10月25日初版発行)は、懸賞論文の達人が書いた文章構築のハウツー本。これはいいとして、『よくない文章ドク本』(橋本治/徳間文庫/1987年10月15日初刷)は、ジャンルとしてはエッセイだろう(書評的な要素もあるけど)。同名異書かな。こんな書名の本がほかにあるのかね。

【引用部】
 個々の一冊は別として、一般にどのような目的の人にどういう本が役立つのだろうか。それはまず、文章を書く動機の違いによって大きく二つに分かれる。
 ひとつは必要に迫られて書く文章、もうひとつは自分から進んで書く文章だ。(中略)文章はその種類によって基本姿勢に差があり、全部いっしょにはあつかえない。(p.16)
 こういう分類のしかたもアリか。ほかにどんな分類のしかたがあるか、うんと乱暴に纏めてみる。
〈必要に迫られて書く文章〉
  1)実用的文章
  2)伝達のための文章
  3)基本の文章
〈自分から進んで書く文章〉
  1)芸術的文章
  2)表現のための文章
  3)応用の文章
 どんな言い方をしても、趣旨は同じだと思う。谷崎潤一郎あたりからの伝統を重んじるなら、1)の組み合わせが一般的かな。本書の分類にもっとも近いのは、2)の組み合わせ(何で見たか覚えてない)ではないだろうか。

【引用部】
 また、悪文治療のための参考書も、けっして害にはならないし、文章一般に共通する基本的な注意事項ぐらいには目をとおしておいたほうがいいが、細部にはあまりこだわりたくない。(p.18)
 どうでもいいことかもしれないけど、一文が長くないか? この場合は判りにくくはないけど、あとに出てくる一文の長さに関する主張に反している。「文章読本」の書き手って、みんなこれ。たいした根拠もなしに「一文は〇字以内に」と書くそばから、けっこう長い文章を書く。「自分は上級者だから長い一文を書いても許される」とでも言いたいのかね。この場合は、「が、」をやめて「。しかし、」ぐらいすればすむだろう。
 それはそれとして、もっともらしく書いてはあるが、なんの役にも立たない。理由はハッキリしていて、「基本的な注意事項」と「細部」を見分ける基準が示されていないから。そんな基準はないよね。ということは、こういう説明はなんの意味もない。

【引用部】
 真摯な文章読本はまず、文章というものは自分の意のままにはならないことを、ましてや名文ともなれば、書こうとして書けるものではけっしてないことを、隠さずにいわなければならないだろう。(p.19)
 これも一文がちょっと長い。しかも少しばかり判りにくい印象がある。それはさておき、内容はおっしゃるとおり。ところが世の「文章読本」は、なかなかそんなことを認めはしない。恐ろしいことに、「うまい文章の書き方」といった類いの書名を冠した「文章読本」がずいぶん出ている(さすがに「名文云々」とまで大胆なタイトルをつけたものは少ないが)。「うまい文章の書き方」といった書名をつけるってことは、書き手は「自分は文章がうまい」って自信があるんだろうな。もっと素朴な疑問を書かせてもらうと、どんな文章が「うまい文章」なのか判ってるんだろうな。

【引用部】
 肝腎なのは、このようにして身につけた知識をすぐ使ってみようとしないことだ。使おうとすれば、どうしても無理が出る。自制心がないと、技術をちらつかせた鼻もちならぬ文章になる危険があるからだ。できれば、読んだことを一度すっかり忘れることである。それでも、いつかほんとに必要になった折にふと浮かんでくる。このレトリックの知識はひょいと浮かんでくるときに生きるのだと思う。(p.20)
 基本的にはそのとおり。ただね。レトリック云々を問題にするのはかなりの上級者だろう。どういうレベルの読者層を想定しているのか判らない。

  ことばが変わればニュアンスが違ってくるから、これらの一卵性の定義にも、むろん、若干の区別はある。たとえば、「わかりにくい」ことと「へた」であることと、どちらを第一条件と考えるか、という点で分かれる。(p.25)
「悪文」の定義についてふれた記述。「わかりにくい」と「へた」を同列に扱っていいのだろうか。反意語を考えると判りやすい。「わかりやすい」と「じょうず」(別に「うまい」でもいいけど品詞を揃えておく)は明らかに違う。「わかりやすい」けれど「へた」な文章はいくらでもある。要は、「わかりやすさ」のほうが基本的な条件。とりあえず、目指すのは判りやすい文章で、「じょうず」「へた」は、もっと上の概念だろう。「わかりにくい」けれど「じょうず」な文章もなくはないけど、一般人が目指すべきものではない。

【引用部】
 これは偶然だろうか。不名誉な三冠王は偶然生まれるものとはかぎらない。というより、よくわかっていないことを書く、読み手のことを意に介さない、何のために書いているのかはっきりしない、というこの三大条件は、ひとりの人間のあり方としてむしろ密接につながっているではなかろうか。(p.36)
 ついに一文が100字に達した。この場合は、長めの事柄を列記しているから必然的に長くなる。箇条書きでもするしかないかな。それはさておき、「ひとりの人間のあり方としてむしろ密接につながっているではなかろうか」ってどういう意味なんだろう。まあ、「自分本位の人間がこういう文章を書く」とでも言いたいのかね。そういう説明もなしに、こんな精神論を振り回されてもなあ。文章に関してインネンをつけると、「ひとりの人間のあり方として」はヘン。「ひとりの人間のあり方に」か「ひとりの人間としてのあり方に」ならまだマシ。

【引用部】
 論証や説得を目的とする文章に限らず、一般に作文の構成を問題にするとき、まっさきに頭に浮かぶのは、「起承転結」の四部構成だろう。これは本来、漢詩の絶句の構成についていわれたものらしい。それがだんだん広まって散文にも適用されるようになる。
(中略)
 起承転結に次いでよくとりあげられるものに、「序破急」という三部構成がある。これはもと、雅楽の楽曲構成上の三つの区分から出たものというが、のちに導入部・展開部・結末部という程度の意味に一般化して、能楽や浄瑠璃の脚本構成などに取り入れられ、さらに散文の文章構成にも広がった。事件を叙述する物語などでは、発端・経緯・結末というのがそれにあたる。論文では序論・本論・結論という三部構成がふつうに見られ、論理的な文章の基本形ともなっている。(p.53〜54)
「起承転結」と「序破急」に関しては、簡潔にまとめられている。引用した定義(?)のほかに、具体例も添えられている。「起承転結」の例としてあげられているのは例によって頼山陽の作といわれる“糸屋の娘”の4行詩(?)。こういうのは、慣用表現による陳腐化(後述)とは言わないのかね。
「序破急」に関する記述中の2番目の文がヘン。「という程度の意味に一般化して」の直後の読点は不要のはず。それ以前に、この文は分割するべき(順接の「が、」を使っているのも不用意。後述)。

 p.57〜にまとめられている文章展開の5タイプは参考になる。
 1)追歩式(順叙式)。もっとも自然で基本的な型で、物事を順を追って述べていく。
 2)散叙式(雑叙式)。一見、雑然と書き散らしたような感じになる。ただし、「堂々とこのタイプを名のれるのは、そういう書き方をあえて選ぶ場合に限」り、「結果として散漫になってしまった文章」とは別物とか。例として『枕草子』をもってきたのはうまい。
 残りの3)頭括式(演繹式)4)尾括式(帰納式)5)双括式は、文章のどこかで全体をまとめるかによる。ひと通り説明したあと、それぞれどんなタイプの文章に向くかを解説する。
  1)は説明文、報告文、紀行文、伝記・歴史関係の文章、物語に多い。
  2)は随筆(とくに身辺雑記ふうの作品)に多い。
 論説文や小論文は3)〜5)が一般的で、なかでも本式の論文は5)が最適とか。このほかにも、いくつかのパターンが紹介される。

【引用部】
 ことがら自体に特に因果関係がなく、たがいに独立したことを並べる場合は、順番にさほど神経を使わなくてもいい。「気がついたことを三点指摘する」、「主要なものを五つあげておこう」という調子ですむからだ。これを「カタログ式配列」ともいう。(p.61〜62)
 ことがらの重要性に差がある場合は、順不同に並べるとデタラメな感じになる。とくに新聞のように、読者がどこで読むのを中断するか判らない場合は、重要なものから順に並べる。文学的文章以外は、これに準ずるべき、と主張する人もいるらしい。『実践・言語技術入門』では、これを「重点先行」と読んで推奨しているとのこと。
  短い文章のときには、たしかに論点が明確になって高い効果が期待できそうだ。が、全部読むことを前提として書く一般の文章では、必ずしもそうとはかぎらないだろう。長々と並列的に展開する文章で、論点がだんだん軽くなると、いいかげんでやめたくなる。読んだあとの印象も薄くなる。

【引用部】
 逆に、軽いものから入り、だんだん重みを増すように並べて、最後にいちばん大事なことを述べたほうが、漸層的な効果が上がり、文章全体ももり上がる場合もある。ただし、これも、はじめにあまりくだらないものを並べると、読み手があきれて途中で投げだすおそれもある。そのへんの呼吸がむずかしい。(p.62)
 やはりイマイチ煮え切らない。結局どちらがいいのかは、文章の内容しだいとしか言えない。「カタログ式配列」は味わいに欠け、「重点先行」もその傾向がある。筆者自身が“苦し紛れ”に使う「重点先行」はとくにひどいんだけど、その点については後述する。

【引用部】
 しかし、どういうものか、活字で印刷された日本語を見ると、そこに個人的な気持ちがわいてこない。だから、活字の手紙だと、公衆の面前で親しそうに話しかけられた気がして、とまどうのだろう。文面のささやきが妙にくすぐったく感じられるのである。(p.74)
 読点の打ち方の問題は別として、言いたいことはよく判る。ちょっと言葉足らずの気がしないでもない。おそらく、「公衆の面前で」を「公の場で」に替えるか、直前に「偉い人に」ぐらいを加えれば、マシになる。メールがこれだけ普及した現代では、死語ならぬ“死感”かな。

【引用部】
 道路交通法に「児童(六歳以上十三歳未満の者をいう。以下同じ。)若しくは幼児(六歳未満の者をいう。以下同じ。)を保護する責任ある者は、交通の頻繁な道路又は踏切若しくはその附近の道路において、児童若しくは幼児を遊戯させ、又は自ら若しくはこれに変わる監護者が付き添わないで幼児を歩行させてはならない」といった恐るべき表現があるらしい。法律の文章だからやむをえない面もあるが、日常生活でこんな調子の文章を読まされるぐらいなら、少々不正確でもすっきりとした文章が恋しくなるにちがいない。(p.84)
 ほかの読み方が絶対に成り立たないように書くのは厳密にはきわめてむずかしく、そんなことをすると読みやすい文章にはならない、ということを示すためにもってきたものらしい。やっぱさ、法律の文章を相手にしてはいけません。あんなものは日本語ではない。やたらとむずかしい表現を多用する評論あたりも同じようなものだろうか。もっと一般的な文章を持ってこないと説得力がないのでは?

【引用部】
 因縁をつけるわけではないが、「大きな箱」の「大きな」と「大きな小錦」の「大きな」とは働きがちょっと違う。小さな箱はあるが、小さな小錦は今いないのだ。前者は箱を限定して意味をしぼりこむ働きをする。が、後者は小錦の大きさを意識させる働きをしているにすぎず、対象を限定する力はない。(p.94)
 あまりインネンはつけたくないが、この文章に出てくる「因縁をつけるわけではないが」がどういう働きをしているのか何度読み直しても判らない。「大きな箱」も「大きな小錦」も初出。何に対しての因縁なんだろう。さらに言えば、この直前に書かれているのは指示語の話で、この段落とまったく繋がらない。読解力不足かしら。
 そういったインネンを別にすると、この文章がふれている問題はおもしろい。
「大きな蟻」は「大きな箱」と同様に限定。「大きな象」は両方ありえる。曖昧さを避けるなら「象という大きな動物」「ふつうより大きな象」と補うべき、という記述は新鮮だった。

【引用部】
 もう一つ、確実にあいまいになる表現をとりあげておく。それは「……ように……ない」という構文だ。「彼は彼女のように成績がよくない」などと平気で書く人がいる。(p.96)
「ように+否定形」の構文の話はよく見かける。ちょっと屁理屈を言うと、「……ように……ません」なんてのもあるから、「ように+否定形」のほうが正確なはず。
 このあとに、「三とおりの解釈が可能」と続いているので、一瞬戸惑った。たしかにこの文の場合は、以下のように3通りに解釈できる。
  1)彼は彼女と違って成績がよくない
  2)彼は彼女ほど成績がよくない
  3)彼も彼女と同じで、成績がよくない
「成績がよくない」が「泳げない」になって「彼は彼女のように泳げない」でも事情は同じ。
  1)彼は彼女と違って泳げない
  2)彼は彼女ほど泳げない
  3)彼も彼女と同じで泳げない
 まったく考えていなかったが、「彼は彼女のように泳げない」は3通りに解釈でき、「彼は彼女と同じように泳げない」は2通りにしか解釈できない。冷静に考えれば判ることだが、1)〜3)のうち、1)の解釈ができなくなっている。
 なんか釈然としない感じが残るな。理由はよく判らん。

【引用部】
 「驚く」で充分なのにあえて「驚かされる」といい、「害をもたらす」で済むのにわざわざ「被害がもたらされる」などとするように、やたらに受身を使って表現する文章は、発想自体が日本的でない。日本語では本来、こんな受身など使わなくても表現できたはずだ。人間以外、それも動物以外、ことに抽象名詞などを主語にして、それを受身表現で展開させるような文章は、むやみに舶来めかして格好をつけた悪文と考えたい。
 ただし、ものの考え方がここまで西欧化した現代日本で、受身をいっさい使わずに書こうとすると、発想に無理が出てかえって不自然な文章になるかもしれない。要は、借り物でない自然な発想で書くことだろう。そして、この受身はほんとうに必要なのかどうか、ちらと考えてみるだけでもずいぶん違う。(p.98)
 まずインネンつけから行こう。「済む」はほかのところでは「すむ」にしていることが多い。「害をもたらす」の受け身を「被害がもたらされる」にしているのはなぜなのだろう。「害がもたらされる」ではいけないのだろうか。ひどい重言のような印象のある「被害がもたらされる」って、どういう文脈で使うのだろう。 たとえば、「大量発生した虫」を主語にして考えてみる。
  1)大量発生した虫が害をもたらす
  2)大量発生した虫によって害がもたらされる
  3)大量発生した虫が被害をもたらす
  4)大量発生した虫によって被害がもたらされる
  5)大量発生した虫によって被害が生じる
 3)は厳密に言えば重言なんだろうけど、まだマシ。この文は能動態ではあるが、意味的には受け身のような気がする。うまく説明できないが、重言を防いで5)にすると、なんとなく判ってくる。動詞の形は能動態だが、助詞は受動態と同じ形のままで、意味はおそらく受け身。これを受動態にはしにくい。なんかよく判らんなあ。
 そもそも「もたらす」という動詞が受け身に近いニュアンスをもっているので、「もたらされる」という日本語が不自然ではないだろうか。「幸運がもたらされる」はアリの気もするけど。
 文章の趣旨に関して言えば、言ってることは正しい(気がする)。異和感があったのは論の運び方のせい。単純にいってしまえば、受け身を使うことに対して、否定、肯定、否定の流れになっている。もう少し書き方がある気がする。「要は、借り物でない自然な発想で書くことだろう」って記述がある。「要は」と来たからには、ここがポイントのはず。しかし、「自然な発想で書く」のがポイントじゃあんまりだよな。
 この章は「調子の合わない文章」というテーマで、その原因を列挙しているが、文の流れがあまりにも唐突。先の引用文の直前までは堅苦しい言葉使いの話をしていて、いきなり「『驚く』で充分なのに……」と来る。
 さらに、先の引用文に続いていきなり話は接続詞のことになる。

【引用部】
 文と文とは自然に結びつく。それぞれの内容によって、逆説だったり累加だったり補足だったりする。文と文との関係をそういうふうにはっきりきめたい場合、あるいはその関係を強調したい場合に、書き手は自分の解釈として接続詞を置くのだろうと思う。接続詞というものは、文と文との本来の論理的な意味関係から必然的に生じるというより、そんなふうに読み手のかってな解釈を制限して、書き手のめざす方向へ誘導するために配するものなのではないか。
 そう考えるなら、二つの文の間に接続詞があるのは、それが自然な姿だからではなく、書き手の意図が働いて読みを方向づける操作をおこなった姿だということになる。(p.98〜99)
 ある程度までは納得できるが、こういった意見を全面的に認めると、すべての接続詞が削除できることになる。「読んでいて、いいなあと思う随筆を、そういう目であとから読み返すと、驚くほど接続詞が少ないことに気づく」(p.100)という記述も出てくる。これも「文章読本」の常套手段。「だから接続詞が少ない文章がいい文章だ」と言いたいのだろうが、説得力があるとは思えない。それは随筆だからであって、説明文や論説文の場合は違ってくる。接続詞を使わずに書けるものなら書いてみなさい。ちなみに、「だろうと思う」は重言風だろうと思う。

【引用部】
 辰濃和男『文章の書き方』に新聞の文章の常套句がいろいろ紹介されている。たとえば、遭難があると「尊い山の犠牲」、海水検査では「大腸菌がうようよ」、容疑者は取調室できまって「ふてぶてしさを装いながらも、動揺を隠しきれない」。汚職事件が発覚すると、その「その衝撃が日本列島を走り抜け」、人びとはその「大胆な手口」に「怒りをあらわにし」、「癒着構造」に「捜査のメスが入って」「政界浄化」の実ることを期待する。政府与党の幹部はたいてい「複雑な表情を見せ」、その「対応に苦慮」する。一方、国会内は「一時は騒然となって」「真相の徹底究明が叫ばれ」、「成り行きが注目される」のだという。(p.100)
 よくも並べたもんだ。常套句(紋切り型ともいうかな)は、たしかに文章を陳腐化する。このあとで「既成の表現だからこそ、事件の概略がつかみやすくなるという面」があると肯定的に書いているのは珍しい例かもしれない。それは新聞だから許されるのであって、一般の文章の場合は望ましくない、というのもきわめて正論。

【引用部】
 むろん、長い文といってもいろいろあって、みな同じにあつかうのは非常識だろう。部分的に文の情報が完結しながらいくつもつながって、結果として長くなったくさり型の長文なら、環(わ)の一つ一つの独立性が高いため、少々長くなっても、その構造上比較的わかりやすい。一方、同じ長文でも、文頭の副詞が文末の述語にかかったり、文中に他の文が組み込まれていたりする複雑な構文の長文になると、段違いにむずかしくなる。が、いずれにしても、長い文は短い文に比べて、読んで理解するのに時間がかかるという点が共通している。(p.122)
 この当たり前のことを、ちゃんと書いていない「文章読本」は実に多い。その点、この本は非常に親切(ただし、どんな文なら多少長くても大丈夫なのかは、この説明ではまず判らない)。このことを踏まえたうえで、それでも一文が長いと誤読の可能性が高くなることを解説する。

【引用部】
 以上は読む側から見た弊害だが、長い文は書く側にもさまざまな実害をもたらす。文が長くなりすぎると、文を構成するいろいろな要素があらわれ、そういう要素どうしの照応が乱れやすい。主語が途中で変わったことに気がつかなかったり、修飾するつもりで置いたことばを忘れてしまったりして、つながりがねじれることも起こりやすくなる。
 しかも、長すぎるために、推敲段階で読み返す際にも、そういう誤りや不備な点に気づきにくい。(p.123〜124)
 一文が長いことの最大の問題は、この最後の点。推敲で「誤りや不備」(「不備な点」って「不備」とどう違うのだろう)に気づきにくいし、読み手も「なんか気持ち悪い」と感じ、原因不明の不快感を覚える。

【引用部】
 ジャンルの違いとしては、小説が短いほうで、平均四〇字ほどになる。随筆はそれよりいくらか長いかもしれない。批評・論説の方面では一般にもっと長くなり、総合雑誌の場合で平均六〇字に近づく。専門雑誌の論文では平均七〇字を上まわるという。
 このようにいろいろな条件で数値は違ってくるが、これを読みやすさという観点から見ると、一般的にいって、平均三〇字未満となるような文章は「やさしい」と考えていい。平均三五字あたりでも「かなりやさしいほう」で、平均四〇字ぐらいまでなら「ほとんど抵抗がない」と思われる。平均四五字前後で「ふつう」、平均五〇字を超えると「少しむずかしい」部類に属し、平均六〇字を超えれば「むずかしい」文章と考えられよう。そして、平均で七〇字を超えるようなら「非常にむずかしい」文章といってさしつかえない。(p.126)
 同じ書き手でも文章の種類によって、一文の長さは変わる。読者の年齢が限定されれば、当然影響が出る。そりゃそうだ。それにしても、この数値のあげ方はなんなんだろう。ちょっと見やすくしてみる。
  平均30字未満=やさしい
  平均35字あたり=かなりやさしいほう
  平均40字ぐらいまで=ほとんど抵抗がない
  平均45字前後=ふつう
  平均50字超=少しむずかしい部類に属す
  平均60字超=むずかしい
  平均70字超=非常にむずかしい
 何を根拠にこんなに細かい基準を出したのか教えてほしい。かなりぼかした表現で、断言はしていないのに、ここまで細かく分ける意味があるのだろうか。やはり、いくら目安とはいっても、文字数で決めるのはむずかしい。形容詞の多寡、という問題ひとつをとっても当然判りやすさに影響してくる。ちなみに「平均40字ぐらい」「平均45字前後」は重言風だろう。
 ちょっと話がまぎらわしくなりそうなので、まったく別の例で考える。
 個々の数字が具体的に出ていて、平均が40.2になったのを概数にして「平均約40」にするのはアリ。いくつかの平均値があり、その平均値の平均が40に近ければ「平均40前後」はアリ。
 しかし、ここで著者があげているのは目安としての数値なんだから。「ぐらい」や「前後」は要らないはず。「あたり」はかなり微妙で、「約40字あたり」は許される気がする。「約40字といったところ」ならさらに微妙になる。

【引用部】
 極端に長い文が交じると平均は長いほうにひきずられるから、実際には平均値より少し短めの文がふつうの長さの文としてよくあらわれるものと推測される。と、めんどうなことを論ずると、こんなふうに文が長くなる。だから、おおざっぱに、原稿用紙で二、三行以内におさまるように文を切るよう努める、とだけいっておこう。(p.126〜127)
 先の【引用部】の続き。このあたりから完全にインネンモードに入ってしまった。
 まず第1文。もっともらしいが、典型的な文系文章のような気がする。「平均」ってそういうものじゃないでしょう。逆に極端に短い文だってあるんだし。そりゃ短いほうはどんなに頑張っても1(厳密には2かな)にしかならないのに比べて、長いほうは無限だから……と言えなくはない。でもそれは屁理屈ってもんでしょ。なにより、極端に長いものが交じると、わかりやすさの評価もかわってくるのでは。
 第2文。一瞬意味が判らなかった。「こんなふうに」は直前の文(第1文)を指しているのだろうか。一般的にはさほど問題にするべき長さではない第1文(71字)が「一文はもっと短くするべき」という著者のモットーに反し、この場合はたまたま「めんどうなことを論ずる」ために長くなっただけで自分はふだんはもっと一文を短くしていると主張する気なら、ほかの箇所にたびたび登場するもっと長い一文に関してはどう考えればいいのだろう。それに、この文の場合は、「から、」を「。だから、」にすればいいだけの話。もっと簡単に書きましょうか。技を使おうとしてスベっている。

 p.139には『悪文の構造』(千早耿一郎著)に載っている例として山崎豊子の『華麗なる一族』の一部が抜粋されている。たしかに判りにくい文なんだけど、小説の文章は放っておくしかないんだよな。『悪文の構造』は、よせばいいのに修正案まで出しているらしい。

【引用部】
 「日常生活でいろいろ観察したり、新しく発見したことなどを手帳に書き留めておく」といった流れはかなり自然に見える。が、そういう目で読み返すと、「観察したり」と対をなす「たり」が後半に欠けていることに気づく。書き手の心理としては、「発見したこと」のあとに「など」とつけたことで意味のバランスをとった気持ちなのかもしれない。(p.148)
 このあとに、「たり」がひとつで済む用法を対比させ、「片たり」と通じるものがある、と解説する。ここまではいい。「片たり」を防ぐ方法としては、「発見したりしたこと」と「たり」を繰り返すことをあげる。そのほうがやはり落ち着くんだそうな。これだから「文章読本」は嫌いだ。それがくどいから、「片たり」にしてしまうんでしょうが。もう少しましな書き方を教えてあげなさい。この場合なら、「日常生活でいろいろ観察したことや新しく発見したことなどを……」で何も問題がない。それ以前に、これって並列かしら。「観察した結果、発見したこと」ではないだろうか。「観察した」だけのことも、なくはないんだろうけど。「いろいろ」の位置もヘンな気がするがあまり考えたくない。
 このあとに並列関係の言葉の解説が続く。
  1)「とか」も後ろが脱落しやすい
  2)「AとかBとかいう」は正式には「AとかBとかという」にするべき(「AとBとを」とせずに「AとBを」と書く文章なら「AとかBとかいう」でも可)
 2)の指摘が新鮮。「AとかBとかいう」と「AとBを」が仲間だとは気づかなかった。

【引用部】
 私の意見を述べる。今回の調査で、ろくに基礎も身につかないうちに模擬試験を受けて、それだけで勉強したつもりになっている生徒の多いことがわかった。これは最近の傾向だろう。数学は別として、ほんとうの学力は問題を解いただけでつくものではない、と新聞にも出ていた。生徒たちにそういって忠告しても、彼らはなかなか信じてくれなくて困っている。(p.157)
 これは〈書きかえ文〉で、〈原文〉は接続助詞の「が」が頻出する次の文。
【引用部】
 私の意見だが、最近の傾向ではないかと思うのだが、今回実際に調査してみてわかったことであるが、このごろ、ろくに基礎も身につかないうちに模擬試験だけ受ける生徒が多いが、彼らはそれで勉強したつもりになっているようだが、この間、新聞にも出ていたが、数学は別かもしれないが、ほんとうの学力というものは問題を解いただけでつくものではないと忠告するのだが、このごろの生徒たちはなかなか信じてくれなくて困っているのだが……(p.156〜157)
 たしかに〈原文〉は問題外。「が、」が何度も出てくるのが問題という点も御説のとおり。しかし、この〈書きかえ文〉はいただけない。まず、いじりすぎ。「が」を全部省くためにやったことだろうが、これではどうやって「が、」を減らすか理解できない。冒頭で「私の意見を述べる。」と言いきっているのも気になる。これは本来の日本語の文章ではないはず。
 この〈書きかえ文〉の前に「少しぶっきらぼうかもしれないが、こんなふうに書くべきだろうか」とある。この「ぶっきらぼう」はどの点を指しているのだろう。冒頭で言いきることを指しているようにも取れる。しかし、p.137では論旨が揺れ動くことを防ぐために「文章構成にもひとくふうありたい」として「私はこう考える。」で始まる文に書きかえている。この点を考えると、「ぶっきらぼう」は、冒頭で言いきっていることではなく、細切れ文章全体のことを言っているのだろう。著者は“冒頭言いきり”を肯定している節がある。
「私の意見を述べる。」も「私はこう考える。」も削除してしまえばいい。どうしても「私見」であることを断りたいのなら、もっと別の言い方があるはず。あまり気は進まないが、一例をあげてみる。
  今回実際に調査してみてわかったことに関して、私見を述べてみたい。最近の傾向ではないかと思うのだが、ろくに基礎も身につかないうちに模擬試験だけ受ける生徒が多い。彼らはそれで勉強したつもりになっているようだ。数学は別かもしれないが、ほんとうの学力というものは問題を解いただけでつくものではないことは、この間、新聞にも出ていた。そう忠告するのだが、このごろの生徒たちはなかなか信じてくれなくて困っている。
“冒頭言いきり”の不自然さは、こんな感じで緩和できる。
「が、」の問題に関しては、とりあえず順接の「が、」を消した例を提示するべき。その気になれば、逆接の「が、」も、「として」や「しても」を使って消すことができても、それを実践するか否かは好みの問題でしかない。

 p.161で修飾関係がわかりにくくなる例として「評判の悪い近所の家の犬が……」という例があげられている。この解説がイマイチ。本多さんならどうするのかしら。
 犬の評判が悪いなら、「近所の家で飼っている評判の悪い犬」とすれば済むとしているが、そんなことをしなくても、「近所の家の評判の悪い犬」で十分だろう(「の」の連続が気になるというのは、ここでは別問題。どうしてもって言うなら、「評判が悪い」にすればいい)。問題は家の評判が悪い場合。「近所の評判の悪い家の犬が」とするのもひとつと手法としている。判りにくくはあっても、ほかにとりようがないそうだ。よく判らん。一理あるような気もする。あえて逆順にしなくても、「評判の悪い近所の家の犬が」のままで誤解はないと思うけど。「飼っている」を使っていいなら「評判の悪い近所の家で飼っている犬」にすればもっとはっきりする。
 ちなみに、p.94では、意味が曖昧になる例として「このあいだ亡くなった社長の奥さん」をあげている。p.161とどう使い分けているか判らないよー。まさか全体の構成を考えずに書いた結果、こうなったなんてことはないよね……。この場合、死んだのが奥さんなら、イヤな読点を使って「このあいだ亡くなった、社長の奥さん」かな。「このあいだ亡くなった社長夫人」はアリだな。死んだのが社長なら「このあいだ亡くなった社長の、奥さん」だってか。「夫である社長がこのあいだ亡くなった奥さん」かな。
 このテのことは、大手術を施すか、文脈で判らせるしかない気がする。

 p.164では、修飾に関するひとつのルールとして本多勝一の『日本語の作文技術』についてふれている。本多さんの『わかりやすい文章のために』の中では、複数の修飾語を配列する際の順序について、4つの原則を優先順に並べているそうだ(これ、ほかの本で読んだ気がする)。
  1)長いほうが先(例:「古色蒼然とした透明な青いコップ」)
  2)句や連文節が先(例:「彼がくれた古色蒼然たる透明なコップ」)
  3)大きな状況が先(例:「日本列島の上空に花子の放った風船が小さな点となって消えていった」)
  4)親和度を考慮に入れる(例:「もえる夕日に初夏のみどりが照り映えた」)
 4)は、「初夏のみどりがもえる夕日に照り映えた」にすると、「みどりがもえる」というなじみの深い組み合わせが並んで誤解を招きかねない。
 4つの原則について、「傾聴に値する」としながら「いずれも、わかりやすさを基準にしている。文学的な効果をねらう場合はもうひとくふう必要だろう」と結んでいる。そんなこたあ判ってるの。それで片づけちゃって、解説になってるつもりかしら。「文学的な効果を狙うひと工夫」ってなんやねん。説明できるものなら、してもらおうじゃないの。

【引用部】
 そこで、「お安くなっております」の代わりに、つい「お求めやすくなっております」といってしまいそうになる。ところが、「お早い」「お美しい」とはいっても、「お書きやすい」「お歩きにくい」とはふつういわない。形容詞になりきらないうちは、やはり、「お求めになりやすい」「お書きになりやすい」「お歩きになりにくい」とすべきだろう。(p.170〜171)
 これはちょっと盲点だった。おっしゃるとおりです。

【引用部】
 デアル調に比べてダ調はいくらかぞんざいな感じになるが、それほど改まらない文章では、両方交ぜることも少なくない。事実、きまじめなこの本の文章自体も、そういう気楽な調子で書いている。この場合はともに常体だから小さな違和感ですむ。また、交じったほうが文末に変化が生まれ、文章に凹凸を感じさせるというプラス面もある。しかし、デス・マス調は敬体なので、これが交じると、とっくりのセーターでネクタイでも締めたような、ちぐはぐな感じになって好ましくない。(p.174〜175)
 きまじめな本を気楽な調子で書く、ってどういう執筆姿勢だ。「きまじめになりがちなテーマを扱ったこの本」ぐらいの意味なんだろうな。
 デアル体とダ体の違いに、これほど敏感な人もいるんですね。そんなこと感じたこともなかった。まあ、デアル体のほうが偉そうな感じがあるとは思う。とくにダッタで済むところをわざわざデアッタにしている文章は古臭い印象になる。「とっくりのセーターでネクタイでも締めたような」は、うまい比喩なんだろうな(「とっくり」は死語という説もある)。
 このあとに、日本語は「肝腎なことが文末できまる」性質があり、「書く人の姿勢や態度がそこに反映され」「文章の印象を左右することになる」と、ずいぶん力強い文章が続く。よく見受けるダメな例として、次のようなものをあげる(「」をつけた文末表現に「……」がなかったりあったりするのは、原文に従っている。なんでこんなことしているのだろう)。
・「だ」「である」で済むところで、やたらに「だろう」「ではなかろうか」「であるかもしれない」「ではないともいえない」などが続く(文章全体がぐずぐずした感じを与える)
・むやみに断定する。「……だ」「……である」「……にほかならない」「……でなくて何であろう」「……以外の何ものでもない」が続く(頭ごなしにたたき込まれる感じになる)
 じゃあどないせいっつうんや。要は「むやみに同じ調子を続けてはいけない」と言いたいんだろうが、統一性も必要だろう。これでは何も言っていないのと同じ、とはいえなくもないかもしれない。

【引用部】
 「石みたいに硬い」を「石みたく」という人がいる。「……を見た様だ」から転じた比況の助動詞「みたいだ」の「たい」の部分を希望の助動詞と混同しているのだろうか。あるいは、「石みたいに」全体を一つの形容詞と錯覚しているのかもしれない。
「少し多めに入れる」を「多いめ」という人もいる。「長め」「短め」「高め」「低め」などは問題ないし、「薄め」も抵抗がないが、その反対の「濃い」のように語感が一音節しかない場合は、「濃め」のコだけで意味がちゃんと伝わるかどうか頼りない感じがする。それで、つい「濃いめ」といいやすい。「多い」のオオもいささか心細いのだろう。(p.188)
 前半は何書いてあるか判んなーい。これを読んで趣旨を理解できる人がどのぐらいいるのだろう。個人的には、「みたく」を使うことはなさそうだから放っておこう。「みたいに」は話し言葉としてなら使いそうだな。バカであることを臭わせるために「みたく」も使うだろうか。ここの「あるいは、」や次の段落の「それで、」なんて接続詞、使っていいの?
「濃め」と「濃いめ」ね。意識したことがなかった。たぶん、「濃いめ」を使っている。ワープロも、「濃いめ」しか変換してくれない。引用部のあとに「濃緑」が「こみどり」のほかに「こいみどり」も広く使われている、とある。こちらはなぜか「こみどり」しか変換できない。「濃緑」なんて語彙になかったもんね。深緑(ふかみどり)とか濃紺(のうこん)とか(と?)ならあるけど。それにしても、「多いめ」なんていう人がいるのだろうか。
 このあとに続くのが、おなじみの「とんでもありません」「とんでもございません」。「とんでもないことです」ではていねいさが不足するのでゴザイマスをつけたければ「とんでもないことでございます」になるはずだが、伝統的に「とんでものうございます」としたほうが「簡潔でこなれた感じになる」らしい。年配者はみんなそういうけどさ。そんな年寄りくさい表現を使う人はほとんどいないんだよね。
 よく判らないのは、「申し訳ない」は「申し訳ありません」とか「申し訳ございません」と言っていいんだろうか、という問題。「とんでもない」と同じことだと思う。p.180に謝罪表現のひとつとして「申し訳ありません」があげられている。「申し訳」は名詞でもあるので、「申し訳がありません」「申し訳がございません」とするのもアリ?

【引用部】
 いつだったか、浦島太郎のレコードを聴いていた。乙姫さまのことだった気がするが、語りのなかに「それはそれは美しいでした」ということばが出てきて、おやおやっと思った。「美しかったです」とすれば抵抗は減るが、まだすっきりとはしない。「きれいだ」とはいっても「美しいだ」とはいわない。「きれいです」は問題ないが、「美しいです」にはまだ多少ひっかかるものを感じる人がいる。私もそのひとりだ。
(中略)手もとにある三十年有余を経た古い本にこう書いてある。「歯がゆいです」は「歯がゆく思います」、「多いでした」は「たくさんありました」とするのが穏当であり、「出れる」「見れない」などは許容するわけにはいかない。(p.190〜191)
 なんでいきなり「ラ抜き言葉」の話になったのかは凡人には理解できない。この場合は、「古い本」にそう書いてあったのだろうが、そうだったとしても、もう少し書き方があるだろうに。
 やっぱり「美しいです」「美しかったです」は美しくない(「美しいでした」は日本語ですらない)。問題は「歯がゆいです」の修正案が「歯がゆく思います」になり、「思います」がついてまうことと、「たくさんありました」の類いは類語がない場合にうまく書きかえられないこと。「歯がゆいです」の場合は、「歯がゆい限りです」なんてのもありそうだな。
 この記述がある章のテーマは「用語の不注意」で、例によってさまざまな話が脈絡もなく並んでいる。先の引用部の次には、「そのほうが自然のようだ」「それは一見、不可能のようである」の「自然」「不可能」は名詞ではなく形容動詞としての用法だから、ノではナにするほうが無難と書いてある。名詞という解釈もできそうだけどね。たとえば、「そのほうが正論のようだ」「それは一見、正論のようである」のように、この文脈では名詞も入る。ただ、名詞の「自然」と解釈すると、意味が少し変わる気がする。「不可能」のほうも、名詞と見るのは少し無理がある感じがする。うまく説明できない。

【引用部】
 ことばは時代とともに変わる。おかしいものと正しいものとの境界も移る。だから、世代によって判断の違う微妙な領域がいつもある。「春っぽい花」「公園っぽい場所」「電車の前っぽい席」などという「っぽい」の用法は、ある年齢以上の人間にはまだまだ抵抗が大きい。「すごい足が速い」「あいつ、すっごい元気だ」のように、「すごく」の意味で使う「すごい」なども同様だろう。「こっちのほうが全然お買い得だ」のように「断然」の代わりといったおもむきの「全然」の用法にもまだ抵抗があるように思う。(p.191)
「っぽい」は、使い方しだいとしかいいようがない。「前っぽい」なんて使い方はバカっぽくてヘン。「すごい」と「すごく」は、要は形容詞か副詞かってことだよな。「全然」はおなじみ。

【引用部】
 (前略)「生きざま」という語は、ある座談会で大岡信が嫌いなことばの一つにあげ、谷川俊太郎が同感と応じ、辻邦生がうなずいた現場を私が司会として目撃した因縁のことばである。(p.192)
 やっぱり「生きざま」はアカンのかね。使いやすい言葉なので、よく見かけるんだよね。お歴々が認めてないんだからダメなんだろうな。小林信彦も強硬に反対してたしなあ。

【引用部】
 「あの夫婦もとうとう結婚して十年ぶりにようやく念願の子宝に恵まれた」といった例が話題になったことがある。が、こういう「ぶり」の用法になると、あまり目だった反応を示さない人が多いようだ。(p.192)
 これは「ぶり」の用法の解説。この例文はよくない。「とうとう」が気になってしまう。位置がよくない、肯定的なことに使っているのが不自然(アリかな?)、「ようやく」と言葉がダブる、とみごとなまでにヘン。修正案として「結婚後十年にしてようやく」をあげているが、「にして」は語感が古い、ってのはインネンかな。

【引用部】
 「あのお宅ではいまだに白黒テレビだそうですよ」などというのはどうだろう。違和感を持つ人はさらに少ないような気がする。問題は「いまだに」の使い方である。「依然として」と言い換えても完全なまちがいではないが、「いまだに」は「いまだ」に「に」がついたことばである。「未(いま)だ」とあるからには打消に使うのが本来の用法だったはずだ。(p.192)
 例文に出てくる「だそう」は、やはり美しくない。「だそうだ」にでもなるとさらに美しくなくなる。主として語感の問題なんだろうが、うんと屁理屈をこねると、断定調の「だ」と推定の「そう」の組み合わせはヘン(「死んだそうだ」のように動詞の語尾変化の「だ」ならさほどヘンじゃない)。それはさておき、たしかに「いまだに」も本来は「+否定形」で使う言葉なのだろう。ただ、「いまだに」は、その名残りか、否定的な内容に使うことが多い気がする……と書いて、そうでもない気もしてきた。
  1)「いまだに白黒テレビを見ている」は否定的
  2)「いまだに古い風習が残っている」は中立(?)
  3)「いまだに伝統的な製法を守っている」は肯定的
 2)と3)は、「いまだに」を削除したほうが自然ではないだろうか。よう判らん。

【引用部】
 送り仮名では、「短かい」「必らず」と送りすぎるのが東西の横綱とすれば、「断る」でいいのを「断わる」とし、「賜る」で充分なのに「賜わる」とするのが送りすぎの非運の両大関だろうか。「非運の」というのは、行政の気まぐれにでも翻弄されたのか、栄誉ある正則の座から許容の座へとすべり落ちたからだ。いずれも、昭和三四年の内閣告示で正則として幅を利かせていたものが昭和四八年の内閣告示で許容に転落して冷や飯を食わされるという不幸な星のもとに生まれたことばであるという。「表わす」「現われる」「行なう」も同じ理由で今は肩身の狭い思いをしている。「承る」を「承わる」と書く例もよく見かける。ご丁寧に「受け承る」と重ねる例さえ散歩の途中に近所で発見した。このあたりはさしずめ三役クラスというところだろう。(p.196)
 ここで問題です。三役クラスはどれでしょう。
 文章の流れから考えると、「表わす」「現われる」「行なう」「承わる」だろう。これはヘン。内閣告示に翻弄された点で、「表わす」「現われる」「行なう」は「断わる」「賜わる」と同格のはず。単なる間違いの「承わる」と並べられては堪らない。
 この正則の話は初耳。ちゃんと調べてみる価値はありそうだが、一般人には関係ないよな。
 このほかに「複合語の法令・公用文における許容」が184語(「打合せ」「取扱い」「申込み」など)あり、慣用として送り仮名の省略が認められているのが307語(「売主」「肩書」「差出人」など)あるそうな。「新聞・放送・教育では本則を適用することになっているので、並の人間にはとても全部はマスターできない」とあるが、新聞は独自で送り仮名の規則を作っているはず。どっちにしても「とてもマスターできない」ことに変わりはないけどさ。

【引用部】
 この複雑怪奇な現実に忠実に適応しようとすると、全体としてつじつまの合わぬ乱雑な表記になりやすい。素人が表記による悪文から脱出する道は限られている。すべて本則どおりに書くか、従来の世間の慣用に忠実に書くか、自分の美意識にしたがって自由奔放に書くかの三本だろう。それ以外に自信をもって推薦できる道はない。(p.197)
 これはメチャクチャ。一般論として、具体的な違いをはっきりとさせないでオススメを3つも示すのは不親切。それ以上に問題なのは、この場合3つとも「脱出する道」になっていないこと。「本則どおりに書く」のがむずかしいことは、自分で主張している。「従来の世間の慣用」ってなんですか? こんなものがあるのなら教えてほしい。「自分の美意識にしたがって自由奔放に書く」って、それが素人が「表記による悪文」を書いてしまう原因なんじゃないの? この3つは「自信をもって推薦できる」んですか。バカバカしいにもほどがある。

【引用部】
 訓読みのことばは和語だから、たいていは仮名書きでも伝わる。しかし、あまり仮名ばかりが続くと、語形が埋没してぱっと意味がとりにくい。そのため、和語を仮名書きにする習慣のある人はどうしても漢語の使用が増える傾向があるようだ。(p.200)
 表記に関する記述は「傾聴に値する」。著者の用字法は、おおむね次のように纏めることができる。
・漢語は漢字で書く
・和語でも実質的な意味をもつ名詞は、一般に漢字のほうが読みやすい(「花」「花見」「石」など)
・とくに一音節の名詞は仮名書きすると読みにくい(「芽」「歯」「戸」など)
・動詞や形容詞は、実質的な意味をもつ場合は、語頭が漢字のほうが意味の把握が早い(「裂く」「織る」「早い」「貧しい」など)
・複合動詞は主たる意味が後要素にある場合は両方を漢字で書きたい(「立ち去る」「取り扱う」「消え残る」など)
・その他の品詞の和語はできるだけ仮名書きにする
・以上は常識的な範囲の漢字で、難解なものは仮名書きのほうが読みやすい
 まずインネンから。ほかの部分にもいろいろな例があるけど、「漢字で書く」「漢字のほうが読みやすい」などと表現を変える必要があるのだろうか。できるだけ原文に従って書いたら、うっとうしくてしょうがない。こういうのを、「表現に変化をつける」っていうのかな。並列の場合はできるだけ同じにしないと、ヘンなニュアンスが加わる場合がある。「漢字で書く」を優先するなら、「漢字のほうが読みやすい」は「読みやすさを考慮して漢字で書く」といった要領で統一すりゃいいじゃないのかな。
「実質的な意味をもつ」ってのは判りにくい場合もあるけど、ほかに書きようがない。動詞の場合は「具体的な動作を伴う」とか書いたりするけど、大きな変わりはない。
 こういった基準で書くと、一般的な表記法とはかなり違ってきて、全体にひらがなが多くなる。この本が内容の割には読みやすいのは、この表記法によるところが大きい。ひとつの試みとして参考になる。とくに、複合動詞の表記法の話は泣かせる。
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