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読書感想文『文章読本さん江』

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mixi日記2008年05月03日から

 ええと。読書感想文です。
 家宝にしている『文章読本さん江』(斎藤美奈子)が文庫になっていました。数年ぶりに読み返してみて、やはり大笑いしてしまった。単行本を読んだときに書いた感想文に多少手を加えてアップしておきます。

 困っちまった。これはおもしろい。著者の名前を見かけることはあったが、著作を読むのは初めて。ニューウエーブの文芸評論家という印象があったが、この一冊はほとんど脱帽もんです。
 巻末の「引用文献/参考文献」のリストの量にまずのけぞる。「文章読本・文章指南書関係」が81冊、「文章史・作文教育史関係」が23冊並んでいる。まあ、「文章読本の文章読本」を本気で書こうとすると、このぐらいは資料として必要なのかも。

 著者は「小声でいうが、文章読本は、この挨拶部分がなによりいちばんおもしろい」と書く。入魂の挨拶文を次の3つに分類している。
1)恫喝型
2)道場破り型
3)恐れ入り型
【引用部】
 いままで我慢して見てきたが → ここまでひどくては仕方があるまい → いよいよワシの出番が来たようじゃ。他人が何ごとかを要領悪くやっているのを見ていれば、ついつい手出し、口出ししたくなるのが人情である。「ええい、ちょっとこっちへ貸してみな」の心境である。過去の文章読本がいかに使えないか=なぜ自分が出陣せねばならなかったかの陳述に一章全部費やしている文章読本まであるほどに、この境地はかなり多くの文章家に共有されているようである。(p.27)
 これは2)の解説にある文章。そんなすごい本があるんですね。例の本は参考文献のリストに入っていないから、「一章全部費やしている文章読本」って、別の本のことだよね。例の本は、「一冊全部費やしている」ようなもんだから違うよな。それにしても、「ええい、ちょっとこっちへ貸してみな」はおかしい。この表現は、このあとにも何回か出てくる。

【引用部】
 気持ちはわからないでもない。文章についての文章(=メタ文章)は、たしかにヤバい代物ではあるからだ。音楽の先生が音痴だったり、絵の先生のデッサンがくるっていたり、ダイエットの指導者がデブだったらシャレにならないのと同じ。「先にご自分の心配をなさったら?」とあらぬ指摘を受けぬためにも、あらかじめ逃げを打ちたくなる気持ちは理解できる。ワタシはみなさんが期待するような名文家じゃないですよ、と。(p.29)

 こちらは3)の解説中にあったもの。まあ謙遜ととってあげようよ。
 ただ、名文か否かなどというレベルではなく、ホントに「ご自分の心配」をしたほうがいい文章で書かれている「文章読本」が多いのも事実。それよりも許せないのは、実用書タイプの「文章読本」のほとんどが、思いつく限りの禁止事項をあげながら、それを説明する文章で実践していないこと。要は読者に無理難題を押し付けている、ってことを証明していらっしゃる。

 p.44~は、文章読本界の御三家&新御三家の要点を解説している。取り上げているのは次の6冊。
・文章読本界の御三家
  谷崎潤一郎『文章読本』(中央公論社・一九三四/中公文庫・一九七五)
  三島由紀夫『文章読本』(中央公論社・一九五九/中公文庫・一九七三)
  清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書・一九五九)
・文章読本界の新御三家
  本多勝一『日本語の作文技術』(朝日新聞社・一九七六/朝日文庫=改訂版・一九八二)
  丸谷才一『文章読本』(中央公論社・一九七七/中公文庫・一九八〇)
  井上ひさし『自家製 文章読本』(新潮社・一九八四/新潮文庫・一九八七)
 さすがにいいところをついてくる。この6冊は、並みいる「文章読本」のなかでも別格扱いされてしかるべき。
 おかしかったのは、『日本語の作文技術』に対するコメント。

【引用部】
 親切過剰というか神経症的というか、一事が万事この調子。「文のわかりやすさ」に最大の価値を置く本多読本は、このくどさゆえに、いうほど「わかりやすく」も簡潔明瞭でもない。(p.64)

 これが一般的な受け取り方かもしれない。「親切過剰」や「神経症的」は言いすぎだと思うが、たしかにその傾向は否定できない。一般論として、ていねいに書けば書くほど、回りくどい印象になる。もっとヤバいのは、読み手の読解力との関連性。うんと単純に言ってしまうと、判る人はこのようなていねいな書き方を「親切過剰」と感じ、判らない人はどんなにていねいに書いても理解できない。そう考えてしまうと、懇切ていねいな説明なんてまったくムダ?

【引用部】
 どっちにしても文章読本の必要性はない──谷崎読本の冒頭部分と同じくらいの、これは「爆弾発言」である。〈この読本の唯一の教訓〉として井上は皮肉まじりに書く。〈伝達ではなく、表現の文章を綴ろうとなさる方は、各自、自分用の文章読本を編まれるのがよろしい〉と。(p.79)

 これはちと説明がいるだろう。〈谷崎読本の冒頭部分〉の要点は、p.47に次のように纏められている。
  (A)文章に実用的・芸術的の区別はない
  (B)あるがまま(見た通り、思った通り)に書け
  (C)文章は簡潔明瞭なのがベストである
 この記述が、後世の多くの「文章読本」で取り上げられてきた。これについて書きはじめると長ーくなるのでパス。そいでもって、先の引用文は、井上読本の末尾にある記述に対するもの。たしかに根本的な問題として、〈どっちにしても文章読本の必要性はない〉は正論なんだよな。ただし、これを正論として認めてしまうとつらいものがある。

【引用部】
 はたしてそのせいなのか、御三家、新御三家が水面下で論争をくりひろげていたようなテーマを、ほとんどの文章読本は正面きって論じてはいない。「話すように書け」「あるがままに書け」とすすめる本が予想したほど多くないのと同様に、「話すように書くな」「あるがままに書くな」とわざわざ記しているような本も、さほど多くはないのである。
 たいがいの文章読本が血道をあげているのは、原則論ではなく、もっと実用的、かつ具体的な文章作法上の心得や技術論である。とはいえ、そもそも「ワシにもいわせろ」の心境が引き金となって拡大再生産されてきたジャンルである。内容的に、ものすごーく新しいこと、はめったにない。たいていは「どこかで聞いた」「さっきも聞いた」「とっくに聞いた」な話である。文章の指導者がこんなに没個性でいいのかと、人ごとながらふと心配になるほどだ。(p.85)

 最後の一文がきいている。瑣末な〈実用的、かつ具体的な文章作法上の心得や技術論〉に限った話ではないだろう。原則論のほうだって、〈ものすごーく新しいこと〉はめったにない。
 このあとに、「文章読本が説く五大心得」が紹介される。
  1)わかりやすく書け
  2)短く書け 
  3)書き出しに気を配れ
  4)起承転結にのっとって書け
  5)品位をもて
 1)~5)の相関関係を見ると、1)と2)は深く関わっている。大前提として1)がある。そのためにどうしたらよいか、ということで2)が登場する。ごく一部のものを除き、ほとんどの「文章読本」は2)の主張をしている。その弊害についてふれている「文章読本」は少ない。
 本書では、2)の心得を紹介したあとで次のように書いている。

【引用部】
 短く書く。困難な課題だ。センテンスをブツブツ切る。調子が狂う。やってみればわかる。「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくい。のだ。(p.90~91)

 おっしゃるとおり。こんな当たり前のことをほとんどの「文章読本」が無視している。著者はこの直後に39字×9行の一文を書くほど念入りにオチョクる。このオチョクリかげんが絶妙だからたまらない。
 3)4)もいろいろ問題はあるけど、いちばん説明しにくいのが5)の問題。そこで登場するのが「文章読本が激する三大禁忌」だ。
  1)新奇な語(新語・流行語・外来語など)を使うな
  2)紋切り型を使うな
  3)軽薄な表現はするな
 かくして禁じ手が増えつづけ、読んだ人は、どんな文章を書けばいいのかますます判らなくなってしまう。このあたりは笑いなくしては読めない。

【引用部】
 こうしてみると、文書読本とはなんと堅っ苦しい世界なのだろう。「新語を使うな」といわず、せめて「新語はちょっとだけ使うと効果的です。でも、ちょっとだけにしておかないとダサくなるよ」とでもいえば納得するのに。あるいは「紋切り型を使うな」ではなく「紋切り型の表現も紋切り型でない場面で使えば効果的です。この方法を異化といいます」とでもいってくれたら、やる気が出るのに。こう禁止禁止じゃ、ただでさえ苦痛なのに、ますます書くのが楽しくなくなるよ。(p.107)

 次に紹介されているのが、「文章読本が推す三大修業法」。
  1)名文を読め
  2)好きな文章を書き写せ
  3)毎日書け
 やはりこのあたりに辿り着くんだよな。こんな修業法でマトモな文章が書けるようになるとは思えない。とくに3)の効果は相当にあやしい。ヤミクモに書いて何かいいことあるのだろうか。1)だってどこまで信用できるのかは疑問が残る。じゃあどうしたらよいかと言うと、ほかにいい方法がないんだからしょうがない。2)は1)と本質的に変わらないだろうな。もし1)に効果があるんなら、2)まで徹底しなさい、ってこと。

【引用部】
 文章読本界きっての教えである。丸谷読本などは「名文を読め」だけのために一章全部を費やしているほどである。文例2は、それを大袈裟に褒めそやした例。人のフンドシで相撲をとりたいとき、だれかの太鼓持ちをしたいときには、ぜひ参考にしたい文章である。
 名文を読め。もっともな教訓のように思えるけれど、この教えの唯一の問題点は、「名文とは何か」を定義できる人がだれもいないことである。どんな文章読本も「これぞ名文」と著者が信じる文章を個別に示し、「この文章のここが名文だ」という個別の解説がつくのみである。(p.109)

 この論法でいくと、唯一の方法とも言える「名文を読め」もあやしくなってしまう。ホンマにどうしたらよいんでしょ。

【引用部】
 この文章の出典は薬の効能書きである。〈栄養の助長に奏功します〉は〈栄養の助けになります〉でよい。〈拮抗する〉〈発現する〉〈産出する〉ももっと平易ないい方があるだろう、と著者は述べる。そういわれれば、たしかにその通りである。だが、この本は著者の思惑とはちがった種類の感慨を抱かせる。「正しいこと」と「おもしろいこと」は両立しにくい。ハハハ、そうなのだ。「悪文」というものは、存外おもしろいのである。(p.124~125)

 そうなんだよね。「悪文」は時におもしろい。少し違うが、「破調の文章のおもしろさ」ってのもある。そういった文章を常識的な形にかえると、ひどくつまらないものになってしまう。でもねえ。じゃあ「悪文」や「破調の文」をおすすめできるかと言うと、それは無謀。ちょっと別の話になってしまう。

【引用部】
 第二に「人文一致」であれば、文章の訓練などはしょせん虚しいものである、ということになってしまう。「人文一致」は文章のテクニック=レトリックを否定し、書く楽しみ、工夫する楽しみを奪う。つまり書き手にとって、なんにもいいことはないのである。「文は人なり」が人口に膾炙したのは昭和期前半ではなかったかと私は類推するのだが、ともあれこの妄言が、人々をどれほど惑わせ、文章論の世界をどれだけ堕落させたかしれない。「文は人なり」派の人は、「文章読本」ではなく「人格読本」を書けばよいのだ。(p.165)

 なんて痛烈なんでしょ。「文は人なり」が妄言である根拠の「第一」としては、〈文と人が一致しない例などは山のようにある〉ことが指摘されている。極端な例として、1997年の神戸小学生殺傷事件の際の犯行声明文をあげる。

【引用部】
 となると、文章読本てのは、だれの役に立っているのか、ますます不可解なジャンルということになる。本を何冊か読んだくらいで、そう簡単に文痴は治癒しまい。逆に文才型の人は、文章読本に書かれている程度のことはとっくにクリアしているか、コケにしているだろう。そして、唯一、文章読本が役に立ちそうな従順な修業者=文章マニアの人たちに、文章読本がいい影響を及ぼしているとは、あまり思えないのである。(p.176)

 そうなんだよな。こういうふうに指摘されると返す言葉がなくなる。でもなあ。論理的に考えようとすると、どうしてもこういう結論に近づいてしまう。

【引用部】
 一般に流布しているこの説がマユツバだという気はもうとうない。トップデザイナーがファッション界をリードしてきたのと同様に、小説家が文章界をリードしてきたのは事実である。事実だが、文学中心の文章史には、ストリートファッションをいっさい無視し、パリコレの出品作だけ見て服飾史を語るような馬鹿ばかしさがある。
 明治二〇年代に、山田美妙が「です体」を、尾崎紅葉が「である体」を、嵯峨の屋お室が「であります体」を、二葉亭四迷が「だ体」を開発して言文一致体が完成した、といった文学史的話題は興味深くはあるけれど、日常の手紙や作文の課題に四苦八苦している下々の者にとっては「暇な芸術家が、なんやゴチャゴチャやってるわ」という程度の話だろう。現代の文章読本が「一般的な文章術を伝授する」と宣言しながら、いつのまにか著名な文学作品の引用に傾くのも、ハイファッション中心の歴史観にからめとられているせいかもしれない。私たちは、小説家中心の「文学主義」的文章史観からひとまず抜け出したほうがいいのである。(p.192~193)

「実用文」を対象にしているはずの「文章読本」が、文学作品を引き合いに出すのは少なくない。エッセイなどは小説とは違う別種かもしれないが、個性的な書き手によるものは引き合いに出すべきでないのは同様だろう。「名文」を意識しはじめると、この陥穽に陥りやすい。

 p.199~で紹介されている若松賎子による翻訳文。これ、何かで読んだ記憶がある。「かった体」とか呼ばれるとか。「ありませんでした」が定着する以前には、こんな試行錯誤があったらしい。ってことは、「ありませんでした」って定着しているんですね。

【引用部】
 文芸作品に偏った引用文、説明すべきところを実例でゴマ化す手法、感覚的な用語に頼った解説。文章指導の根幹が、解析ではなく「鑑賞」に流れていることがわかるはずだ。
 ところで、お笑いなのは、菊池読本と川端読本の成り立ちである。すでによく知られた話だが、この二冊、じつは後に代作疑惑がもちあがり、どちらも文章読本界から抹殺されたという因縁つきの本なのだ。内容的にもかなりひどい。代作疑惑が出てこなくても盗用問題にはなったかも、というほど双方ともに谷崎読本からのパクリが多い。しかし、ゆゆしき二冊の文章読本は、おもしろい事実を教えてくれる。著者が代理でも内容がパクリでも、気づかれることなく菊池読本と川端読本は版を重ねた。すなわち「文は人ではない」のである。(p.301)

 川端読本に代作疑惑があった話は何かで読んだ。菊池読本もそうですか。まあ、あのレベルの文豪が書いたとなると、そこそこ売れるだろうな。それにしても、ここで〈すなわち「文は人ではない」のである〉と主張するのはほとんど反則だよな。説得力がありすぎる。
 
【引用部】
 谷崎潤一郎『文章読本』、鈴木三重吉『綴方読本』をルーツとする文芸批評的な(換言すればいいかげんな読み物的な)文章指南書は、そのなかではもっとも新しいタイプの本だったといえるだろう。個人文体の研究とは、ひっきょう「天才」の技なり芸なり癖なりを分析する領域である。技術論をともなわない天才芸の鑑賞は、いたずらな名文信仰を育てるだけで、あまり建設的とはいえない。けれども、こうした文芸批評的=文学主義的なスタイルは、あっというまに文章読本のスタンダードとして定着した。代作疑惑、盗用疑惑の濃い菊池寛『文章読本』が発行されたのは、谷崎読本のわずか三年後のことなのである。(p.302)

 ポイントになるのは、〈技術論をともなわない天才芸の鑑賞は、いたずらな名文信仰を育てるだけで、あまり建設的とはいえない〉という一文。だから名文なんてお手本してはいけません。

 p.307~の〈いばるな、文章読本!〉では、橋本治『よくない文章ドク本』の中の「えばるな、文章読本!!」を取り上げている。原典も過激だが、この紹介のしかたもかなり過激。できれば全文引用したいぐらい。

【引用部】
 どうりで、ジャーナリスト系の文章読本には色気が不足していたはずである。彼らの念頭には人前に出ても恥ずかしくない服(文)のことしかない。彼らの教えに従ってたら、文章はなべてドブネズミ色した吊しのスーツみたいなもんになる。新聞記者の文章作法は「正しいドブネズミ・ルックのすすめ」であり、まさに新聞記者のファッション風なのだ。ついでによけいなひとことを加えれば、ドブネズミ・ルックの慣れた人がたまに気張って軽い文章を書こうとすると、カジュアル・フライデーに妙な格好であらわれるお父さんみたいな感じになる。新聞記者系の文章読本がなべてカジュアル・フライデーっぽいのは偶然だろうか。(p.331)

 ドブネズミ・ルックにカジュアル・フライデーか。ウマいことをいうもんだ。「言い得て妙」って言葉はこういうときに使うんだろう。本書の最後のほうに登場する「文章=衣装」って類喩は、あまりにも適切すぎる。「共通点が多い類喩だとこんなにいろんなことが書ける」って見本にするのに、これほど適した例はめったにない。最後に紹介する本書の結びの言葉の鮮やかさも、この類喩の力があったればこそだ(生まれて初めて使う表現だな)。

【引用部】
 そんなことをいってたら堅い文章がますます書けなくなる?
 んなもの、いちいち心配しなくて大丈夫だよ。文は服だっていったじゃん。服だもん。必要ならば、TPOごとに着替えりゃいいのだ。で、服だもん。いつどこでどんなものを着るかは、本来、人に指図されるようなものではないのである。(p.338)

 ……と、なんかもっともらしい結びができたんで、ここで本書の話を終わらせてもいい。しかし、ひと言多い性分なので、少し余計なことを付け加えたい。筋違いであるとは知りながら、やや批判めいたことを書いてしまう。
 本書を読んで読者がどんな印象をもつのか、素朴な疑問を感じる。個人的にはこういう内容は大歓迎だ。こんなに楽しめた本は久しぶりだし、メチャクチャ笑わせてもらった。家宝にしたい。ただ、そんな読み方をする人がどれぐらいいるのだろう。「これだと単なる悪口ジャン」って気がしないでもない。まあ、悪口もここまで行けば立派な芸であることは間違いないが。
 どんな服を着るかとか、文章をどう書くかなんて〈本来、人に指図されるようなものではない〉ってのはおっしゃるとおり。そういってしまうと、文章読本なんて無意味なものになる。ただ、いくら個人の趣味の問題といっても限度がある。町中を何も着ないでウロウロしたり、パンツを頭に被って歩いたりすると、ちょっと問題になる。ネクタイをきつく締めすぎて窒息するのもおすすめできない。そういう人がいたら、あえて〈指図〉してあげるのが親切ってものだろう(危ないから近づかない、って選択肢が正解かな)。
 文章にだって最低限のルールがある。もちろん、「放っといてくれ」って人に親切を押し売りする必要はない。でも、わざわざ文章読本を読もうってほどの人なんだから、〈指図〉されたがってるんだよ。あえて〈指図〉するなら、嘘を教えるんじゃなくて、それなりのアドバイスをするべきだろう。
 著者は、本書を書くために多くの文章読本を精読しているはずだ。それなら、こんなに意地悪なことばかり書かないで、もう少し建設的なことが書けるんじゃないかね。その気になれば、『斎藤美奈子流文章読本』だって書けるだろう。なんせ、まともに文章が書ける人で、ここまで文章読本の世界に足を突っ込んだ人はそうはいないんだから。これはぜひお願いしたいけど、そういうのはダサいからやらないか。
 実力者がゲリラ戦法に徹しているのも、横綱が平幕相手に足取りをするみたいで、あんまり品のいいことじゃない。あまりにも大人気ない、というべきか。勝負の世界は勝てばナンデモアリかもしれないし、文章だっておもしろけりゃナンデモアリなんだろうけど。
 文章読本全般のことをまともに書けば、どうしたって否定的な内容になる。ただ、どれもこれもとにかく全部ダメ、じゃ救いがない。なかにはマットーなことを書いているものがないわけではない。部分的に見れば役に立つことを書いている場合もある。徹頭徹尾オバカな文章読本も、ギャグとしては価値がある。ミソも〇〇もひっくるめて全部ダメってのはアンマリだ。そのあたりのことをもう少し書いてくれたら、読者にとって有意義なものになるはずなんだけど。そういうのもダサいのかな。



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