ユキの天(そら)
囲碁の三大タイトルのうち、一番格が上なのは、本因坊か、棋聖か、名人か……。
いろいろ考え方はあるのでしょうが、わかりやすさを重視して「名人」にしています。
ユキの天(そら)
●5年前。囲碁名人戦最終局前夜。
例年以上に囲碁界の注目を集めた名人戦は、下馬評をくつがえして最終局にもつれ込んでいた。
初防衛を目指すのは林明水名人。1年前に名人位を奪取して以来快進撃を続け、現在四冠を堅持する最強の棋士である。対するは天宮忠行名誉王座。昨年名人位を奪われた天宮にとっては、リターンマッチになる戦いだった。
戦前には、林名人を推す声が圧倒的に優勢だった。心情的には天宮を応援したい棋士も多かったが、林名人の最近の充実ぶりは目覚ましい。ほとんどのタイトル争いにからみ、囲碁界では例のない全タイトル制覇にもっとも近い棋士といわれていた。一方の天宮は、名人位を奪われて以来、体調がすぐれないこともあっていまひとつ精彩を欠く。しかも厚みを重視する棋風の天宮は、地にカラく弱石のシノギに絶対的な自信をもつ林名人と相性が悪く、対戦成績でも大きく水をあけられていた。
接戦になった第1局は、終盤に天宮の手痛い失着が出て林名人が制した。第2局、第3局と危なげのない内容で名人が連勝すると、「このまま第4局で終わり」という雰囲気が生まれたのも無理のないことだった。
カド番に追い込まれた天宮は、先番になった第4局で思い切った策に出る。何年も打っていなかった「初手の天元」を復活させたのだ。
大模様を張る天宮の独特の碁風は「天宮流」「天空流」などと呼ばれる。その象徴ともいえるのが「初手の天元」だった。雄大な構想で盤上に絵画を描くような碁風はロマンを感じさせ、プロ・アマを問わず人気が高くてマネをするファンも多い。だが、「初手の天元」だけは理論的に「やや損な手」とされ、追随する者はほとんどいなかった。対策が研究されて勝率が下がってからは、天宮自身もほとんど打つことがなかった。それをこの大切な対局で用いたのだから、対戦相手の林名人はもちろんのこと、対局を見守った関係者一同が意表をつかれた。
天宮の奇策は功を奏した。
完璧な打ち回しで林名人を圧倒した第4局は、天宮の名局と評判を呼んだ。続く第5局でも天宮は白番にもかかわらず「初手の天元」を連採し、周囲を驚かせる。白番での「初手の天元」はあとの運びがことのほかむずかしく、天宮でさえほとんど用いていなかったからだ。名人の緩手を巧みにとがめた天宮が第5局を快勝すると、七番勝負の流れが明らかに変わった。苦し紛れとさえ思われた「初手の天元」が、無敵の布石に変貌した印象さえあった。再び黒番になった第6局でも天宮は当然のように「初手の天元」を採用して勝利をつかみ、五分の星に持ち直した。
持ち時間の長い2日制のタイトル戦は、対局者の心身に大きな負担をかける。対局を重ねるごとに天宮の体調が悪くなっているのは、傍目にも明らかだった。天宮の3連勝は思わしくない体調を補ってあまりある執念が生んだ快挙であり、第4局以降の棋譜だけを見ると、全盛期の力強さが戻ってきたかのようだった。
こうなると、棋士たちの予想もまっぷたつに分かれる。3連敗の後の4連勝は、七番勝負の長い歴史のなかでもめったにあることではない。最後は林名人が勝負強さを発揮する、と考える棋士も多かった。その一方で、改めて先後を決め直す第7局で天宮が先番を握ればむしろ有利、と主張する棋士も譲らない。どんな戦いになるか予断を許さない状況で迎えた最終局ではあったが、誰もがこれまで以上の熱戦になることを期待した。
対局当日の天宮の異変を知るまでは……。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
「ご無沙汰しております」
会場を訪れた天宮楓子・ユキの親娘を見つけた桂木亮介天元が声をかけた。
「こちらこそ、いつもいつもご無沙汰ばかりで、本当に申し訳ございません」
楓子が深々と頭を下げる。
「頭を上げてください。困ります」
桂木が恐縮する。「ボクはいまでも天宮先生の不肖の弟子なんですから」
楓子がいたずらっぽい上目づかいで桂木を見る。
「やっぱりちょっと困った?」
「楓子先生、勘弁してくださいよ」
桂木が苦笑する。
「桂木先生があんまり他人行儀なんで、ちょっとからかってみたくなっただけ」
楓子が茶目っ気タップリに笑う。
3年間、天宮忠行の内弟子として天宮家で過ごしたことのある桂木は、今年25歳になる。「若手四天王」の一角を占める実力者だった。
「那智クンは緊張していませんでしたか?」
「おかげさまでいつもどおりでしたよ。決勝まで来ることができただけで上出来ですから。今日のお相手は林名人のお嬢さんなんですよね。恥をかかなければいいのですが」
「そんなことはありません。那智クンの力はボクが保証します。今日もいい勝負になると思いますよ」
と言って桂木はユキを見た。「ユキちゃんも大きくなったな。たしか今年中学に入ったんだよな」
「入学祝いがまだだよ、桂木センセ。桂木センセも偉くなったな。たしか天元になったんだよな、お祝いは贈ってないけど」
と言ったユキは、楓子にたしなめられて舌を出す。
「こんな会場に来て、大丈夫なんですか?」
桂木が楓子に訊く。
「大丈夫だよ。もうなんともないんだから」
ユキが明るく笑う。
「だったらよいのですが……」
と桂木が言う。「お2人とも招待席ですよね。お邪魔でなければ隣の席を取っておいてください。あとでうかがいます」
「席はお取りしておきます。よろしくお願いします」
楓子が頭を下げる。
「じゃあね。待ってるから」
手を振るユキを、桂木は温かい視線で見つめる。桂木にとって、ユキは年の離れた妹のような存在だった。ユキも、実兄の那智を慕うように彼を慕っていた。ユキの様子を心配しながら、連絡を取りにくい事情があったことを、桂木は心苦しく思っていた。
「大盛況だね」
声をかけたのは月刊『囲碁』の須藤編集長である。新人編集者の会田と2人連れだった。「いまのは、天宮夫人だよね」
「はい。楓子先生です。すっかりご無沙汰していたのですが、おかわりがないようで安心しました」
桂木が答えると、会田が口を挟んだ。
「実物を見るのは初めてですけど……痛っ」
会田の頭を引っぱたいた須藤が怒鳴る。
「口のきき方に気をつけろ!」
「なんかマズいこと言いましたぁ?」
頭を押さえながら会田が言う。
「実物を見るのは初めて、って見せ物じゃねえんだよ!」
「そうですかぁ?」
会田は不満そうだった。「お目にかかるのは初めてですけど、本当に美人ですね。女医さんなんですよね?」
「それだけじゃないよ。アーベル賞を受賞している天才数学者でもあるんだから。会田なんかとは頭のデキが違うんだよ」
「なんですか、アーベル賞って」
「自分で調べな」
須藤に突き放されて、顔をしかめた会田は桂木を見た。
「じゃあ、一緒にいた超可愛い子が那智クンの妹さん? 那智クン以上の才能があったって噂の」
「お嬢さんの才能を過去形にしないでください」
静かではあったが強い口調で桂木が言う。
「そう言ったって……」
と言いかけて会田は、桂木の鋭い眼光にあって言葉に詰まる。
「よくこんなに集まったもんだ」
須藤があわて気味に話を逸らした。「たしかにネットなんかでは大騒ぎになってるらしいけど」
「今回は特別ですから」
今回の高校名人戦には特別枠で2人の中学生が参加していた。
──ひとりは、伝説の大名人の息子、天宮那智。
──もうひとりは、現在の最強名人の娘、林明日香。
プロの名棋士を親にもつ2人の実力は、小学生の頃から「別格」扱いされていた。「なぜすぐにでも院生になってプロを目指さないのか」と訝しがる声もあったが、2人とも中学卒業まではその意思はなく、公式の大会にもほとんど参加していない。
この2人とともに注目を集めていたのが、高校名人戦3連覇に挑む対馬勇作だった。中学生まで院生だった対馬はプロデビュー目前まで行ったが、開業医の親の跡を継いで医者になる道を選んでいた。
3人とも、十代のアマチュアながら実力はプロ級といわれている。来春の卒業後には院生になってプロを目指す2人の特別な中学生を、院生経験のある高校名人と対決させてみたい、という思惑から特別枠が設けられたとの噂もあった。
前評判どおり、3人は順調にトーナメントを勝ち進んだ。
直接対決が実現したのは、対馬勇作と林明日香が対局した準決勝戦だった。大熱戦の末に明日香が勝ち上がる。もう一方のブロックからは、天宮那智が決勝に進んだ。力の差を見せつけるような、安定した勝ちっぷりだった。
可能性としては十分に考えられたが、実際に特別枠の中学生2人が決勝を争うことになると、関係者一同が驚きを隠せなかった。高校生を相手にどこまで通用するのか半信半疑の者も多かったからである。プロ棋士はもちろん、アマチュアの囲碁ファンの間でも、2人の対決は大きな注目を集めた。
誰もが、2人の父親が戦った5年前の名人戦……そして最終局の「吐血の一局」を思い出さずにはいられなかった。
●5年前。囲碁名人戦最終局当日。
先に対局室に入った林名人が上座に座っている。若い頃から囲碁界の三美男に数えられる端正な顔立ちで、タイトル戦恒例の和服の着こなしには一分のスキもない。
定刻ギリギリにあわただしく到着した天宮の様子は尋常ではなかった。対局室まで妻の楓子の肩を借りてきた天宮は、立会人の橋本善太郎九段と激しい口調で押し問答をした。
「天宮クン。奥さんから話は聞いている。もう一度言う。対局は延期にしよう」
心配そうな表情の橋本に、天宮も譲らない。
「橋本先生。名人戦の歴史に、病気で対局延期なんて前例はない」
「前例がないなら作ればいい。キミの体のほうが心配だ」
「クドい! そんなことが許されてたまるか! 名人戦の歴史に泥を塗る気か!」
声を荒らげて橋本を振り切ると、天宮は楓子を押しのけるようにして室内に入った。楓子も棋士の戦場である対局室に足を踏み入れるようなマネはしなかった。
よろける足で盤の前にたどり着くと、天宮はドサリと大きな音を立てて腰を落とした。顔に血の気がなく、いつにもまして頬がこけている。トレードマークのヒゲが憔悴の色をいっそう濃くしていた。深夜に及ぶ対局を終えた直後でも、こんなに疲弊しきった姿を見せたことはなかった。
天宮の様子が伝わると、控室が騒然となる。局面の検討のために用意された控室には、10人を超える若手棋士がいた。若手といっても、いずれ劣らぬ実力者揃い。名人戦の検討ともなると、並みの棋士が入り込む余地はなかった。
「ゆうべ、血を吐いたらしい」
「隣室に、医者と看護師が待機してるって」
「そんなに悪いのか?」
誰もが天宮の身を案じる控え室に入ってきたのは、天宮の愛弟子の桂木亮介九段だった。一晩中天宮に付き添っていた桂木も疲労のため顔色が悪い。桂木と親しい仙崎道彦七段が一同を代表するかのように声をかける。
「本当のところ、忠行(チュウコウ)先生の容態はどうなんだ」
「医者は、対局なんて、絶対に無理だと……」
桂木が言うと、何人かがため息をもらした。
「こうなったら、誰も止められないよな」
仙崎が呟くように言う。
昨晩遅くに吐血し、天宮は病院に運ばれていた。本人の意志が固いために対局は認められたが、万が一に備えて医師と看護師が対局室の隣室に待機していた。延期を提案した立会人の橋本九段を一喝した、という話に一同がため息をもらす。「誰も止められない」という諦めの気持ちと、「さすが忠行(チュウコウ)先生」という畏敬の念がないまぜになった複雑なため息だった。「最後の無頼派」と呼ばれる天宮にふさわしい、気骨あふれる啖呵だった。
天宮の体は、すでに過酷な対局に耐えられるような状態ではなかった。生来はむしろ頑健だったが、それがむしろ災いした。体力にまかせて若い頃から浴びるほど飲んだ酒が、手の施しようのないほどに内臓を蝕んでいた。
酒にまつわる天宮の逸話は枚挙にいとまがない。二日酔いで対局をするのは毎度のこと。三十代前半までは、徹夜で飲み明かして対局に臨むことも珍しくなかった。「酒が残っているほうが手が見える」と豪語する天宮がしばしば終盤で初心者並みのポカ(見落とし)を犯すのは、「酒が切れるから」とまことしやかに語られていた。「酒さえ飲まなければ不世出の大名人」と言う者もいたが、本人は「酒を飲まなきゃただのヘボ」とうそぶいて意に介さない。
体調を決定的に損ねたのは、長男が生まれてすぐに妻に先立たれてからだった。極度の不振に陥った天宮は、保持していた3つのタイトルをすべて失う。1年近くにわたってまさに酒浸りの日々を送り、引退説さえ流れた。
そんな天宮が立ち直ったのは、現在の妻の楓子と付き合い始めてからである。医者でありながら世界的に知られる数学者でもある楓子と、当時廃人に近かったとさえいわれる天宮の取り合わせは「美女と野人」と評され、なぜ2人が結び付いたのかは囲碁界の七不思議のひとつに数えられている。
大酒飲みのうえに、天宮には世間の常識を逸したところがあった。
初めて挑戦したタイトルを圧倒的な強さで奪取した際の宴席で、
「いまなら名人が相手でも負ける気がしない」
と言い放ち、大きな波紋を投げかけた。
名人位初挑戦の際には剃髪して臨み、関係者を驚かせる。並々ならぬ決意の現われと考えられたが、
「勝ったらまた口をすべらせそうだから、あらかじめ頭を丸めておいた」
と語ったという噂もあった。
名人戦3連覇を果たした頃から天宮は先輩棋士に対しても敬語を使うのをやめ、第一人者として囲碁界に君臨した。
傲慢な暴君、話題作りのためのリップサービス、繊細な神経ゆえの韜晦……さまざまなとらえ方はあるにせよ、常識人が多くなった囲碁界の中で昔ながらの棋士気質を感じさせる豪快無比の生き方は、いつしか「最後の無頼派」と呼ばれるようになる。そこがまたファンを魅了した。
非常識な言動を快く思わない先輩棋士が多い一方、天宮を慕う若手棋士は多い。昔から親分肌で後輩の面倒見のよさには定評があった天宮は、若手を対象に研究会を開き、近年は内弟子をとって後進の育成に力を注ぐ一面もあった。内弟子のなかからは、有望な若手棋士が何人も育っている。
「忠行(チュウコウ)先生」という敬称が、内弟子の間だけではなく広く浸透していることも、天宮の人望の厚さを物語っている。とくに独特の序盤感覚には信奉者が多く、一部の棋士の間では絶対視されていた。天宮が検討に積極的に参加すると、検討というより独演会に近くなることも珍しくはなかった。
若手の台頭が著しい囲碁界で、天宮の年齢でトップクラスの地位を保っている棋士は数えるほどになった。さしもの天宮も、体調の不良もあって衰えは隠せず、成績は年々悪くなっていった。
だが、名人戦だけは例外だった。ほかの棋戦では並みの成績でも、名人戦の天宮はまったくの別人だった。40歳で名人位に返り咲くと、挑戦してくる若手を裂帛の気合いで退け続け、4連覇を果たす。「手合い違い」「十年早い」と、対戦相手を挑発する天宮の言葉も、こと名人戦に限っては説得力があった。
昨年、林明水九段が挑戦したときも、天宮の敗北を予想する者はほとんどいなかった。
挑戦者になった林明水九段は、不思議な棋士だった。台湾から来日した十代の頃から豊かな才能を認められていたが、不思議とタイトルに縁がない。常に最善の一手を求める傾向が、大一番では裏目に出ると指摘する声もあった。それが2年前から急に勝ちはじめ、タイトル奪取も時間の問題、と見られるようになった。
「30歳全盛説」さえある現代の囲碁界にあって、30歳を過ぎてから急速に強くなった棋士はほかに例がない。そうはいっても天宮が相手の名人戦となると話が違ってくる。「名人戦の天宮」にどこまで迫れるか……という見方が大勢を占めた。
結果はあっけないものだった。
天宮は4連敗を喫し、あれほど執着した名人の座を譲り渡す。ただの4連敗ではなく、内容がヒドかった。得意なはずの序盤で形勢を損ない、4局ともいいところなく土俵を割った。
例年以上に体調が悪かったことを加味しても、あまりに一方的な内容で、天宮の口癖である「手合い違い」を思わせる惨敗だった。天宮嫌いで知られる囲碁好きの作家が観戦記で「朽ちた老木が倒れるかのように」と表現したことが大きな反響を呼んだ。それは、「あの書き方はあんまりだ」と批判的な気持ちになりながら、誰も否定できないところがあったからだった。
天宮の名人失冠は、囲碁界のビッグニュースになった。数あるタイトルのなかでも名人位は別格だった。さらに、「名人戦の天宮」の強さも別格と思われていたからである。
「タイトルは奪うより守るほうがむずかしい」とはよく聞かれることだ。もちろん、誰が挑戦してきても寄せ付けない風格を漂わせるタイトル保持者もいる。名人戦を連覇中の天宮も、それに近い存在だった。だがそれは、ごく限られた者が、ごく限られた時期に見せる一瞬のきらめきのようなもので、そうあることではない。
トップクラスの棋士の実力に大きな違いはなく、紙一重のギリギリのところで鎬を削っている。挑戦する者は、トーナメント戦やリーグ戦の過酷な競り合いを勝ち上がり、絶好調の状態で挑戦手合に臨む。申し分のない実力と時の勢いを味方にした、いわばそのときの最強者である。そう考えると「守るほうがむずかしい」という説は理論的には正しく、毎年のようにタイトルが移動するほうが自然だ。
だが実際には、タイトル戦で交代劇が起きることはそう頻繁にはない。とくに、名人戦に限れば交代劇は極端に少ない。名人になる棋士は実力や勢いだけではない何か別のものをもっている、と考えられるのはそのためである。
名人にまで上り詰める棋士は、低段の頃からその雰囲気を身につけていて、周囲もそれを認めている。ただし、若い頃から名人候補と目されながら、「候補」で終わった棋士も多い。限られた名人候補のなかでも、不可思議な力をまとった者だけが名人の座を手にするのである。それを、「神に選ばれし者」という言い方をすることもあった。
もうひとつ、「名人戦に番狂わせなし」ということもよく聞かれる。名人になる棋士は、なるべくしてなる。どんなに力があっても、ただ強いだけで「名人の器ではない」と思われる挑戦者は、決して名人になることはない。逆に、さまざまな要因が重なって「なって当然」という雰囲気が大勢を占めたときには、あっけなく新名人が誕生する。
まれに、番狂わせと思われる結果になることも、ないわけではない。しかし名人戦の歴史をひもとくと、どんなに意外と思われる結果に終わった場合も、あとから振り返れば必然の結果であったことがわかる。1年前の交代劇も、まさにその例に漏れなかった。当時は意外に思われたが、いまとなっては必然のものに感じられた。
勝者と敗者の明暗は、残酷なほど鮮明だった。新たに頂点に立った林名人がすばらしい内容で次々とタイトルを手中にする一方で、天宮は巻き返しに闘志を燃やす次期名人戦リーグでも連敗を喫した。ほかの棋戦でも無様な戦いを続け、「天宮限界説」は公然のものになった。
ところが、天宮は甦った。不死鳥のような鮮やかな復活劇にはほど遠い内容ではあったが。
名人戦リーグの3局目で幸運な勝ちを拾うと、天宮は苦戦の連続ではあったが白星を重ねた。ほかの棋戦では相変わらずの体たらくだったが、それは名人戦リーグのために体力・気力を温存している感があった。リーグ戦が終わってみると、2敗を守った天宮はプレーオフに進出し、弟子の桂木亮介九段との師弟対決を制して挑戦者に名乗りをあげたのである。
華麗さなど微塵も感じられない、泥臭い戦いぶりだった。満身創痍の武将が、わけのわからない混戦に持ち込んだあげくに最後の一刃でかろうじて相手を打ち倒す……そんな連想をしてしまうような戦いの連続だった。なりふり構わぬ必死さが伝わり、見る者の胸を熱くせずにはおかなかった。
くだんの作家は、今度は「あたかも燃え尽きる蝋燭の最後の輝きのよう」と表現し、大顰蹙を買った。同じようなことを思う者は多かったが、それだけは決して口にしてはいけないと感じていたからだった。
しきたりどおりに先後が決められて天宮が先番を握ると、それだけで対局場には緊迫した空気が張りつめた。この一番の先後の重要性は図りしれなかった。
碁笥に手を突っ込んだ姿勢で、天宮が呼吸を整える。背筋をピンと伸ばし、先ほどまで息も絶え絶えだったとは思えない凛とした態度で、石音高く打ち下ろした。
誰もが期待した天元への一着。
取材陣がたくカメラのフラッシュが、天宮の蒼白の顔色をいっそう青白く見せる。しかし、眼光は異様なまでの迫力をみなぎらせていた。盤面の中央に置かれた黒石が、フラッシュを受けて輝く。
取材陣が退席し、対局室は静寂を取り戻した。天元の黒石は、天宮の魂を宿して輝きを放ち続けているかのようだった。その黒石を眺めながら思索にふける林名人。対応を考えているというより、気持ちの高ぶりが静まるのを待っているように見えた。予想どおりの着手だっただけに、すでに応手は考えているはずだった。
白石を手にした林名人は、天宮とは対照的に気負いの感じられない静かな所作で、天元の石の右横にツケた。これは誰も予想しない一着だった。
天宮の先番が決まっただけで対局前とは思えない盛り上がりを見せた控室では、林名人の意外な着手に一段と大きな歓声が起きた。
「なんだよ、これは!」
ひと際大きな声をあげたのは、仙崎道彦七段だった。「いくらなんでもムチャクチャだよ。フツーに考えりゃ悪手だよなー」
「そんなことを言ったらしかられるよ。名人が打てば、悪手も妙手なり、なんだから」
応じたのは丹野通八段。
「初手の天元は、一度は試してみたいと思う」
仙崎が言う。「でも、このツケにはおみそれしました。一生かかってもボクには打てません」
芸達者が多い棋士のなかでも、打てば響くようなテンポの早いやり取りでは、この2人の右に出る者はいない。普段から親交の深い2人はテレビの囲碁番組の解説をコンビで務め、掛け合い漫才めいた息の合った応酬で、お茶の間の囲碁ファンの間でも人気者になった。時にまわりを驚かせるような大胆な発言をしてもとがめられることがないのは、2人の人柄もさることながら、秀でた才能が知れわたっているからだった。
とくに「口八丁手八丁」を絵に描いたような仙崎のセンスのよさは、棋士の間でも認められていた。文才にも恵まれて著作も多く、何をやっても器用にこなす多芸さを危ぶむ声さえあった。
「仙ちゃんがこんな手を打ったらいかんよ。五目並べか! って破門される」
丹野の冗談に笑いが起き、緊迫した雰囲気が緩む。
「やはり、両先生は我々とは別の世界にいる」
呟くように言ったのは桂木九段だった。つい先日のプレーオフで天宮と対戦した20歳の九段は、次期名人の呼び声も高い実力者である。
「ただ、このツケは林名人らしくないのでは……」
「降参です。仙ちゃん、通訳お願い」
丹野がおどけた口調で仙崎に助けを求める。
「勝ち負けにこだわる我々下賤の者とは違い、両先生はそれ以上の高みを目指してるってことですね。不利を承知で初手の天元を打ち続けるのは、忠行(チュウコウ)先生の美学。悪手の可能性が高いと知りながらツケで応じるのは、林名人の気合いと言ってよいでしょう。単純に目先の勝ち負けだけを考えたら、こんな手は絶対に打てません。ただし、気合いの一手なんてのは、いつなんどきでも本筋・最善手を追究する林名人らしくない、と考えることもできます」
芝居がかった口調で解説した仙崎が桂木に同意を求める。「こんなところでよろしいでしょうか、桂木先生」
「ありがとうございます」
桂木は苦笑して頭をかいた。
5歳年下でも段位が上の桂木を、必要以上に立てる仙崎。まったく嫌みに感じられないのは、仙崎の人徳だった。ひとたび盤に向かって相対すれば、年功も序列も関係なくなるのが棋士の世界だが、盤を離れると上下関係は微妙になる。段位と昇段時期、院生になった時期、年齢などがからみ、ひと筋縄には行かない。
仙崎と丹野の言葉で場は和んだが、いくばくかの異和感は拭えない。異和感のもとは盤の中央に置かれた白黒一対の石だった。どう見ても異形のこの二子が、大勝負の趨勢を握っていることは間違いなかった。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
会場の最前列で見守るユキと楓子。楓子を間に挟む形で、桂沢も並んで座っていた。
前日の準決勝の結果が報道され、那智と明日香の対決を見ようとする関係者とファンで、会場は前例のない混み方になっていた。
ステージの上には、対局室の様子を伝える大型モニターと解説用の大盤が設けられていた。解説を担当するのは、話術の巧みさには定評のある仙崎道彦九段と丹野通九段。マイクを握った仙崎があいさつをし、2人のゲストの紹介を始める。
1人目は現役最年長の橋本善太郎九段。2人目は新鋭の前田佑太七段。高校3年生の前田は、早碁のトーナメント戦で優勝し、つい先日「飛び級」で七段に昇段したばかりだった。
「前田七段は、惜しくも準決勝で敗れた対馬クンとは小学生の頃からのライバルだったと聞いています。昨日の対局の棋譜はご覧になりましたか?」
「昨日のうちに見ました」
前田が緊張した表情で言う。「正直言って、対馬クンが中学生に負けたのが信じられなかったんです。ミスでもしたのかと思って見たんですが、まったく違いました。大熱戦で、レベルの高い対局でした。あれで中学生なんて……ビックリしました」
月刊『囲碁』の須藤と会田は、前方に用意された招待席の片隅に陣取っていた。
「高校生の大会とは思えないですね」
賑わう会場を見渡して会田が感心する。
「対局するのは、なぜか中学生だけどな」
須藤が言う。
「高校生だろうが中学生だろうが、あんなに絵になる2人が対局するなら、ボク的には大OKですよ」
「会田、その言葉遣いはなんとかならないのかよ」
須藤が苦々しい顔で言う。「さっきも桂木天元を怒らせたばっかりだろ」
「あれはビックリしました。桂木天元はあんなキャラじゃないでしょ。好感度ナンバーワンの貴公子なんだから」
「それだけオマエが礼を欠いたってことだよ。地雷を踏んだ、と言ったほうがわかりやすいか?」
4年前、父である天宮忠行の死を目の当たりにしたユキは、ショックで囲碁に関する記憶を失っていた。父や知り合いの棋士のことは覚えていたが、囲碁のルールをいっさい忘れ、一時は囲碁に関するものを見るだけで情緒不安定になることもあったという。桂木が天宮家への連絡を控えていたのも、ユキの身を案じたからだった。
「桂木天元にとっちゃ、ユキちゃんは可愛い教え子だったからな」
「忠行(チュウコウ)先生は、ユキちゃんには教えなかったんですか?」
「兄の那智クンには、プロ棋士にするために相当厳しく教えたらしいが、ユキちゃんにはあまり熱心じゃなかったらしい」
「それって、やっぱり女の子だからですか」
「かもしれないな」
「じゃあ、明日香ちゃんを育てた林名人は鬼ってことですかね」
「男の子がいれば話は違っていたかもしれない。あのとんでもない世界で、化け物みたいな男たちと対等にやり合うなんて、オレが親だったら絶対にすすめないよ」
と言って須藤は禁煙パイプをくわえた。「男女平等って考え方をするなら、こんなに平等な世界もないんだけどな。もっとも、ウチのバカ娘じゃ、逆立ちしたってモノになりっこないけど」
「プロ棋士って化け物ですかね、やっぱり」
会田が首を傾げる。
「間違いなく化け物だよ。この場合の化け物ってのは、最上級の褒め言葉だけどな」
須藤が言う。「オマエもK大の囲碁部で主将まで務めたんだから、わかるだろ」
「レベルが違いすぎて、ピンと来ませんよ。ボクの代は歴代最弱でしたし。これでも小学校までは神童って呼ばれてたんですけどね」
「あのな。プロ棋士になる人間は、みーんな神童クラスなんだよ。だが、才能だけでどうにかなるもんじゃない。かといって、努力だけじゃどんなに頑張ったって限界がある……そんな世界だよ」
と言って須藤はステージに向き直った。「始まったぞ」
モニターの中では、対局が始まっていた。
しかし、先番に決まった那智は、目を閉じたままなかなか初手を打ち下ろそうとしない。父子2代にわたる因縁の対決を前にして、那智は厳しかった父の姿を思い出していた。
●7年前。天宮と那智の稽古風景。那智8歳。ユキ6歳
盤を挟んで対峙する天宮と那智。盤側にチョコンと座り、じっと見ているユキ。
「なんだこの手は!」
筋の悪い手を打った那智を、天宮が厳しく叱りつける。「誰がこんな卑しい手を教えた!」
まだ8歳の那智に対して、天宮は容赦なく罵声を浴びせる。
「自分が打ったのがどんな手なのかわかってるのか! たとえ負けても、こんな手だけは絶対に打ってはいかん! わかったか!」
那智は唇をかんでうなずく。ユキはおびえた表情ながら、決して目を逸らさずに父を見つめていた。普段は優しい父が、なぜこんなにも大声で怒鳴っているのかはわからなかったが。
那智が無言で石を打ち直す。
「そうだ。打てるじゃないか。ちゃんと考えれば、那智は誰よりもいい手が打てる」
打って変わって上機嫌になった天宮が那智の頭をなでる。「いい手を打つことだけを考えればいい。勝ち負けよりも、もっと大切なことがあるんだ。わかるか?」
しゃくり上げながらうなずく那智の頭を、天宮はいつまでもなで続けた。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
那智が初手を天元に打つ。
かつて父の忠行が好んで用いた手でもあった。珍しい着手に会場が湧く。しばらく考えた明日香が、天元の石の右横にツケる。やはり少考して右上の星を占めた那智が、明日香の顔をうかがう。左上の三々に石を置く明日香は、かすかに笑ったように見えた。
那智と明日香は、子供の頃から何度か対局したことがあった。元々の棋力は明日香のほうが数段上だった。しかし、はじめは大差だった実力が、明らかに接近していた。
那智の成長ぶりを誰より感じているのは明日香だった。同年代では敵なしの明日香にとって、那智は得がたい好敵手だった。
〈でも、ワタシだって成長している〉
最後に打ったのは1年ほど前だった。そのときよりずっと大人びて見える那智との対局は、なんだか怖い部分もあったが、それ以上に胸が躍るようなことだった。
いま、2人は着手を通して無言の会話をしていた。
〈今日は、ぜひこの布石で打ちたい〉
天元に打った一着は、父の棋風を継ごうとする那智の決意表明だった。
〈だったら、いっそこうしない? ちゃんと覚えてるかしら〉
先に仕掛けたのは明日香なのだろう。
〈わかった。そういうことなら受けて立つよ〉と那智。
〈じゃあ遠慮なく〉と明日香。
1手打つごとに、2人は相手の気持ちを確認していた。そして、戦う2人の気持ちが重なった。
淡々と打ち進める両者の着手は異常に早い。
〈こ、これは……〉
いち早く気づいた仙崎はアシスタントを呼び、過去の棋譜をもってくるように指示を出した。見覚えのある進行に、会場にざわめきが広がる。
棋譜が取り寄せられたときには、局面は50手以上進んでいた。5年前の名人戦最終局と同じ序盤戦が繰り広げられていた。
「お気づきの方も多いようですが、ここまでの局面は、5年前の名人戦最終局とまったく同じ手順になっています。対局中の2人のお父上が打った、伝説の一局と言われる名局です」
仙崎がやっと口を開いた。会場が静まり返る。「一般のかたも大勢いらっしゃるようなので、そんなことが可能なのか、丹野九段の意見を聞いてみたいと思います。えーっと、5年も前の対局を、正確に再現することができるのでしょうか」
「自分で最近打ったものなら大丈夫かもしれませんが、5年前のものとなると……」
丹野は少し考える。「一手の違いもなく、ってのはよほど強く印象に残った対局でないと無理ですね」
「ボクもそう思います。つまり、対局中の2人にとって、それだけ印象的な対局だったということです。可能性は、もうひとつあります」
仙崎はそう言って間を置いた。「対局中の2人のほうが、ボクたちヘボなプロより実力がずっと上なのかもしれません」
会場が爆笑に包まれる。
「仙ちゃん、それはないでしょ」
という丹野のボヤきに、再び笑いが起きた。
「ご存じの方も多いようですが、少し解説しましょう」
真面目な顔つきに戻った仙崎が言う。「初手の天元は、対局中の天宮那智クンのお父上である天宮忠行名人が得意にしていた布石です。丹野九段、初手の天元を打ったことはありますか?」
「ボクのようなヘボにはとても打ち切れません」
「初手の天元は、模様を張るのには悪くない手だと思いますが、打ちこなすのはむずかしい。なんと言えばいいのかわかりませんが……やや甘い。忠行(チュウコウ)先生も若い頃は好んで打ってましたが、しだいに打たなくなりました」
「それが、5年前の名人戦に突如復活した……」
「いまや伝説になってしまったあの名人戦当時、林名人の強さはハンパではありませんでした。と言うより、その前年に忠行(チュウコウ)先生を破って名人になってからいままでずーっと、ハンパではありません。まわりの迷惑も考えてほしいと思います」
「仙ちゃん、それを言うなら名人戦での忠行(チュウコウ)先生も鬼神のようでした。その鬼神のような忠行(チュウコウ)先生を相手に、絶好調の名人が圧倒的な内容で3連勝したから、終戦ムードが漂ったんですね」
「こんなことを言うとしかられるかもしれませんが、第4局の忠行(チュウコウ)先生の初手を見たときには、苦し紛れじゃないかと思った人もたくさんいました。いないとは言わせません。それがこの天元の一着です」
仙崎は天元の黒石を指先でたたいた。「しかし天空流の威力は健在だった。第4局から第6局まで、すばらしい内容で忠行(チュウコウ)先生が3連勝し、この第7局を迎えたんですねぇ」
「対する林名人の第7局の応手がすごかった。誰も考えなかったこのツケです」
丹野が天元の横の白石を指先で激しくたたく。
「こんな手は、林名人以外誰も打てません。どう考えてもいい手ではありませんから……」
仙崎が苦笑しながら言う。「ちなみに、あのときボクがこの手を打ったら、五目並べか! って破門される、とヒドいことを言ったのは、ほかでもなくこの丹野九段です」
5年前の名人戦で3連敗を喫して追い込まれた天宮忠行は、第4局で初手の天元を復活させ、逆に3連勝を果たす。とくに先番を握った第4局と第6局の打ち回しは、神懸かりめいた見事さだった。苦し紛れとさえ思われた「初手の天元」が、無敵の布石に変貌した印象さえあった。
天宮名人が復位するのか。林名人が返り討ちにするのか。
最終局にもつれ込み、囲碁界の注目を集めた激闘は、予想外の結末を迎える。
●5年前。囲碁名人戦最終局。2日目
対局場はいつにも増して重い空気に覆われていた。
両者が石を打つ音と、ときどき天宮が咳き込む音だけが、妙に響く。林名人と天宮の年齢差は10歳しかなかったが、見た目には大きな違いがあった。35歳の林名人は、二十代にも見えるほど若々しい。一方の天宮は、白髪のほうが多い髪のせいか、年齢よりもずっと老けて見えた。
昨日来、点滴をする以外には食事を受け付けなくなった天宮は、ゲッソリとこけた顔の中で両眼だけがランランと輝いていた。立会人の橋本九段や付き添いの医師が対局の延期を提案しても、天宮は頑として受け入れなかった。
「そんなみっともないことをするぐらいなら、オレは投げる。オレの負けにしてくれ!」
本当にそうしかねない天宮の迫力に、橋本九段も引き下がるしかなかった。
控室の雰囲気も重苦しかった。天宮の体調を気づかってのこともあるが、それ以上に、局面の異様さが一同の口を重くしていた。局面は、中央の二子を放置したまま進んでいた。
「これさえなきゃ、フツーなんだけどなー」
盤面を睥睨するかのような存在感を発揮している中央の二子を指して、仙崎が嘆くように言う。「この二子があるから、何がなんだかわからない。お互いに爆弾抱えて、起爆スイッチに手をかけながら殴り合ってるみたいなもんだよ。予測不能です。お手上げのグリコマーク」
「仙ちゃん、それ古すぎ」
丹野がすかさずツッコミを入れる。
対局者は、互いに中央で動き出すタイミングをうかがいながら手を進めている。小さな折衝も常に中央との兼ね合いを考えながらなので、神経を使う必要があった。
仙崎の言葉どおり、中央の二子を取り除けば、平凡な配石にも見えた。どこまでも厚く構える天宮に、足早に実利を稼ぐ林名人。形勢は、中央の黒模様のまとまりしだい、としかいえない難解な戦いだった。
先に中央に手を付けたのは天宮だった。左辺の活きが不確かな白石と、下辺から中央へ伸びる白の弱石をにらみながら、中央にハネを打つ。117手目の決断だった。
待ち構えていたかのように、林名人が切り違える。控室が急に賑やかになった。いったん戦いが始まってしまえば、微妙な駆け引きが続くより、むしろ変化が読みやすい。
「イチバン激しい順を選びましたね」
接近戦が得意な仙崎の表情が生き生きしてくる。
「仙ちゃんは、ホントに切った張ったがお好きだから」
そう言いながら、丹野も気合いを入れ直した。
さまざまな変化図が作られては崩される。戦いは下辺から左辺へと広がり、難解を極めた。
局面が進むにつれ、左辺の白石が危ないことが明らかになる。体力的には限界を超えているはずの天宮だったが、着手に乱れは見られない。着実に林名人を追いつめていく。
左辺の白石に活きがないことがハッキリすると、天宮を慕う棋士から歓声があがる。名人戦史上に残る熱戦も、ついに終わりを迎えたと思われた。
「マダ、ワカリマセン」
ただひとり異を唱えたのは、王馬英七段だった。林名人の弟子の発言は師匠びいきの判断にもとれた。
「そうは言っても、さすがに……」
仙崎が返答に窮する。
「キレバ、セメドリニナル。マダ、ワカラナイ」
王は譲らない。
「そうか。たしかに、そうなるとけっこう細かい。ほんの少し、黒が厚いとは思いますが……」
桂木が言うと、一同はもう一度盤面に注目する。
盤上は、王の指摘どおりに進む。攻め取りになれば、単純に取られるのとは違って被害は最小限になる。そうなると、中央の模様を荒らされた黒の損も大きかった。やや黒が優勢のまま、中央での難解な折衝が続く。
「ここから第2ラウンドかよー」
仙崎が大げさにため息をつく。
「そう言いながら、仙ちゃん、うれしそうじゃない」
丹野が言う。
「そりゃ、こんな対局を見せられちゃさ」
ギリギリの戦いが続くのは見ているだけで寿命が縮む思いだったが、これほどの対局を間近で体感できるのは、めったにない貴重な経験だった。
息の詰まるような戦いの結末は、あまりにもあっけなかった。
ヨセに入って間もなく、天宮が致命的なミスを犯す。左辺の一線にハネた白に対し、秒読みに追われて無造作にオサエを打った。オサエた石をキられると、掌中に収めたはずの白石が息を吹き返してしまう。初心者でもわかる簡単なポカだった。
控室では大きなどよめきが起きた。
「やっちまったー!」
仙崎の声は悲鳴に近かった。「忠行(チュウコウ)先生、そりゃないよー!」
打った直後に、天宮も自分のポカに気づいた。うなだれた天宮の顔がみるみる朱に染まる。
「くっ……、ばっ……」
歯をくいしばった口元から、言葉にならない呻きが漏れる。己の愚かさ、不甲斐なさを呪うかのような、痛切な呻きだった。固く握られた拳が、膝の上で小刻みに震える。瞼は固く閉ざされ、天宮は盤面を見ていなかった。オサエた黒石の上を林名人がキる石音を聞いた瞬間、天宮は投了の意思表示をした。
「忠行(チュウコウ)先生、目を閉じたままだったな」
呟くように言って、丹野がため息をつく。
「林名人だって、こんな勝ち方、うれしくないだろうよ」
仙崎が放心したような表情で言う。
取材陣が招き入れられる。カメラのフラッシュがたかれると、天宮が血走った眼で睨みつけた。幽鬼のような形相に思わず後ずさったカメラマンが尻餅をつく。
突然、天宮が激しく噎せる。口元を覆った右手の指の間から血があふれた。倒れかけた天宮を、素早く身を寄せた林名人が支える。別室の医師を呼ぶ橋本の怒声が響きわたった。
のちに「吐血の一局」と語り継がれることになるこの一戦を最後に、天宮忠行は事実上引退する。対局はおろか公の場にいっさい姿を見せることなく、1年後に逝去した。
享年46歳。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
中盤を迎えて両者とも時折少考をまじえるようになったが、5年前の対局と同一の着手が続く。2人とも意地になっているかのように、手を変えない。異様な空気の中、局面は因縁の一戦の棋譜をたどっていく。
〈これ、見たことがある〉
大盤の進行を見ながらユキは思った。わけもなく不安な気持ちが込み上げてくる。囲碁のルールはすっかり忘れてしまっていたが、いま目の前にある局面は間違いなく見覚えがあった。
〈どこで見たんだろう?〉
もどかしさを感じながら懸命に思い出そうとしているうちに、昔の風景が次々と浮かんできた。
父と幼い那智が碁を打っている。いま一緒にいる桂沢の若き日の姿もあった。
……そして、父の最期の姿が浮かんできた。
●4年前。天宮忠行の最期。ユキ9歳
病床でいつもの棋譜の変化を検討する天宮。布団の横に置かれた盤に胡座で向かう天宮は、パジャマの上にカーディガンを羽織っていた。盤の向かい側に正座しているユキは、小柄なせいか実際の年齢よりもずっと幼く見える。
中央に二子が取り残された異様な局面。1年前に打たれた「吐血の一局」だった。最初は見ているだけだったユキは、何度も繰り返し眺めるうちに手順をすっかり覚えてしまった。いつしか、ユキが白をもって因縁の一局のなぞるようになっていた。
黒石を打ちながら天宮が問いかける。
「ユキは碁が好きか?」
「面白いよ」
楽しそうに白石を置きながらユキが答える。
2人は会話を交わしながら、交互に石を置いていく。
「お父ちゃんのことは好きか?」
唐突な言葉にユキは小さく微笑んだ。
「大好き」
「那智兄ちゃんとどっちが好きだ?」
むずかしい質問にユキの手がしばし止まる。
「同じだけ好き」
と言って白石を置いたユキが、はにかんだような笑顔を見せる。
「そうか、そうか」
まさに骨と皮だけに痩せ衰え、50歳前にもかかわらず老け込んで見える天宮が、穏やかな笑顔を見せてうなずく。孫と会話をしながら碁を楽しんでいる老人のように見えた。
時折、天宮が手を変える。
「こう打つとどうなるんだ?」
ユキが首を傾げながら無言で石を置く。
「そうか。そんな手もあるのか。それじゃあダメだな」
感心しながら天宮が局面を戻す。ユキは屈託のない笑顔で天宮の仕草を見ていた。
〈いつの間にこんなに強くなったんだ〉
天宮は半ば呆れ気味に思った。元々“光るもの”をもっているとは思っていたが、この年でここまで強い子は見たことがなかった。幼い頃から厳しく教えた那智でも、ここまで強くはない。とくに石が競り合ったときに見せるセンスには、本気で驚かされることがあった。
「ユキはいいよな、才能があって。もしかすると、もう那智より強いかもしれないしな」
〈それだけ、オレがダメになったってことなんだろうな〉
天宮はさっきまで読んでいた囲碁の専門紙に目を移す。盤側に置かれた新聞のトップ記事には、大きな文字が躍っていた。「林名人、堂々の3連覇」。1年前の名人戦で天宮を退けて以来、無類の強さを発揮する林名人が圧勝で名人位を防衛したことを伝えていた。さまざまな出来事が甦ってきて、天宮の胸に無念の思いが込み上げる。
〈いったい、オレは何をやっていたんだ……〉
「オレは、ダメだ」
自嘲的な口調で、天宮が呟く。
「お父ちゃん、どうしたの?」
肩を落とした父にユキが言う。
「いい気になってただけで、才能なんか、ありゃしない」
天宮の右手から畳の上に黒石が落ちる。「こんなみっともない、こんな……ヘボな碁を打っちまって」
絞り出すような声で言って、肩を震わせる天宮。盤上に一滴、二滴と涙が落ちる。
「お父ちゃん、どこか痛いの?」
盤を離れたユキが、心配そうに父のパジャマの袖を握って顔を覗き込もうとする。
「名人戦の、名人戦の歴史に、泥を塗ったのは……」
と言って天宮は咳き込んだ。「……オレだ」
激しく咳き込み、盤上に突っ伏す天宮。大きな音を立てて石が飛び散る。姿勢を崩した天宮の左手は、専門紙の林名人の写真をわしづかみにする形になった。
「お父ちゃん! お父ちゃん!」
ユキが泣きながらすがりつく。
天宮は最後の力を振り絞るかのように体を起こした。右手と口元は血まみれだった。
乱暴に盤上の石をすべて払い落とすと、天宮は白石を1個拾い上げた。正座になって大きく深呼吸をし、背筋を伸ばす。父の尋常ではない気迫を感じたユキは言葉を失い、身じろぎもしない。
ほんの一瞬、対局に臨むときの真剣な表情に戻ると、天宮は盤上に激しく石を打ち付けた。
次の瞬間、無言のまま天宮の首がガクリと深く折れ、うなだれたような姿勢になる。投了する仕草にも似た動きだった。昭和から平成にかけ、通算8期名人を務めた名棋士・天宮忠行の最期だった。
家族が天宮の異変に気づいたとき、正座の姿勢のままで絶命した父のかたわらで、ユキはただ呆然と盤面を見つめていたという。血痕の残る盤の中央にはただひとつ、天宮の赤い指紋がクッキリとついた白石が置かれていた。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
「今日の仙崎九段は、いつもと違って口数が少ないようですね」
丹野が言う。「お気持ちはお察しいたします。実は、仙崎九段と私は、この局面には暗い記憶がありまして。5年前の対局のとき、控室で検討していたのですが、とにかくむずかしい。わからないことが多すぎます」
「中央でお見合いをしているこの二子がいけないんです」
仙崎がため息をつく。「こんなにはた迷惑なツーショットはありません」
「非常に口数の少ない、いてもいなくても関係ないような情けない解説で申し訳ない。ただ私たちの立場もわかっていただきたいんです」
丹野が済まなそうに言う。「名人戦史上に残る名局に、いちいちコメントできるほどの度胸も力量もありません。変化はいろいろ考えられるんですよ。たとえば、いま一間に飛んだところでこちらにツケる手も考えられます」
「すると、すかさずハネ返され、そんなのはヘボだとしかられます」
仙崎がツッコミを入れる。
笑いに包まれた会場の中で、ユキはしだいに息苦しさを感じていた。少し前から、脳裏に無数の変化図が浮かんでいた。同じようでいて微妙に違う盤面が次々と浮かんできて、わけがわからなくなっていた。
先に中央に手をつけたのは那智だった。黒模様の中で激しいネジり合いが始まる。お互いの着手は、相変わらず因縁の一局をなぞっている。異様な雰囲気に包まれた大盤解説会場の関心は、「いつ、どちらが手を変えるか」の一点になりつつある。
かつての名勝負をなぞっていることが解説者の口を重くしていたが、対局者の立場はもっと深刻だった。
「丹野九段、なんかこの緊張感に押し潰されそうなんですけど」
仙崎がネクタイをゆるめながら言う。
「同感です。でも、対局者が感じているプレッシャーはそれ以上でしょうね。これだけの観客の前で、あの名局を並べて、しかもどこかで変化しなければならない」
「それって、ある意味、名人の着手にダメ出しすることになるんですよね」
「そう考えると、ものすごく恐ろしいことです。ボクには絶対にできない。ただ、どこかで必ず変化してくるはずです」
手を変えることは、お互いの父が築いた名局を否定することにもなりかねない。超えがたい存在を凌駕するだけの自信と覚悟がなければ、うかつに手を変えることはできないはずだった。
混戦の最中、157手目で那智が手を変える。
黒石を置くときの那智の顔は活き活きとしていた。無言のままでも、着手が雄弁に語っていた。
〈父さんの残した棋譜はスゴい。でも、ボクはこちらのほうがもっといい手だと思う。ここまでは父さんたちの棋譜だった。でもここからはボクたちの棋譜だ。明日香さん、どうする?〉
「ここで変えてきましたかー」
丹野が言う。
「なるほどー。これはいい手かもしれません」
仙崎が感心する。「那智クンは、これを狙っていたんですかね」
重苦しい雰囲気から解放され、2人は変化を検討し始める。那智の狙い澄ました一着に、明日香が長考に沈む。
〈いい手だわ。那智クンはやっぱり強い。でも負けない。ここからが本番よ。きっとうまい返し方がある……〉
ユキの脳裏の碁盤が、いっそう激しく動き始める。大盤の解説に呼応するかのようにすさまじい勢いで変化図が浮かぶ。顔面蒼白のユキの状態が、明らかに異様なものになる。脳裏に浮かぶ変化図とは微妙に違う変化図が目の前の大盤で作られることが、ユキの混乱に拍車をかけた。
「どうしたの? ユキ! 大丈夫?」
楓子が話しかけるが、ユキは一種のトランス状態に入っていて返事をしない。大きく見開かれた瞳の焦点が定まっていなかった。
「ユキちゃん、どうした?」
自分の席を離れた桂木がユキの前にひざまずき、ユキの手をとる。最前列の騒ぎに注意を奪われかけた仙崎と丹野に、解説を続けるように合図を送る。
「キる、ノビる……」
独り言を呟きながら、苦悶の表情を浮かべるユキ。
盤面は一直線の進行になる。難解ながら、黒の有利な戦いになっていた。
若干不利なことを意識しながら、明日香は勝負を楽しんでいた。いつもは大人が相手だった。昨日の対戦相手も高校生だったし、最後のひとり以外は大したことがなかった。
〈でも那智クンは違う。昔からスゴいとは思っていたけど、こんなに強くなっているとは……。でも絶対に負けない〉
いま目の前に那智は、同じ中学生なのに本当に強かった。そんな相手と全力で戦えることがうれしくてたまらなかった。
当然の一手と思われる那智の着手がモニターに映し出されると、ユキが悲鳴をあげる。
「ダメーッ!」
そう叫んでユキは気を失った。「……グズまれる」
〈……グズまれる〉
うわ言のようにユキが呟いた言葉が何を意味するのか、楓子にはわからなかった。瞬時にユキの言葉を理解した桂木が、大盤を振り返る。
〈そうか……たしかに〉
グズミのあとの変化をヨんで、桂木は驚愕の表情を浮かべる。
少考した明日香が放った一着は、いかにも筋の悪そうなグズミだった。
「これはどうなんでしょうね」
丹野が首を傾げる。
「よくわからない手ですね」
仙崎も怪訝な顔をする。「ひと目筋の悪い手だけど、ちょっと待てよ……」
変化図を作りながら、仙崎の顔色が変わる。
局面が進むにつれて、明日香の放ったグズミが起死回生の一着だったことが判明する。危なく見えた白石が安泰になり、むしろ黒が被告の立場になった。
懸命の粘りを見せた那智も挽回のすべを失い、間もなく投了した。
●エンディング。決勝戦会場の医務室
医務室のベッドで目覚めるユキ。
「気がついた?」
傍らのいすに座っていた楓子が心配そうに声をかける。楓子の横には、長身の桂木が立っていた。
「対局は? お兄ちゃんはどうなったの?」
「頑張ったんだけどね」
楓子が残念そうに首を振る。「負けちゃった」
ユキは無言で顔を伏せた。
「ユキはどうしちゃったのか、話せる?」
「盤面の進行に見覚えがあって、どこで見たのか思い出そうとしたの」
観戦中に陥った不思議な感覚を思い出しながら、ユキが話し始めた。「一生懸命思い出そうとしたら、昔のいろんなことが頭の中に浮かんできた……」
兄に稽古を付ける厳しい父の姿があった。優しく教えてくれる桂木の姿も思い出した。囲碁が上達するのが何より楽しかったこと。自分をほめてくれるうれしそうな父の笑顔。父が繰り返し並べていた局面……。
「ユキ、大丈夫?」
楓子が心配そうに声をかける。
「大丈夫、なんともない」
差し出されたハンカチを見て、ユキは母を見上げた。知らず知らずのうちに自分が涙を流していたことに初めて気づく。
「なんでだろう。なんともないはずなのに、涙が止まらない。いろんなことをしているお父さんが出てきて、なんだかすっごく懐かしくて……」
「ユキ……」
話を聞きながら、楓子も涙ぐんでいた。桂木がそっとハンカチを手渡す。
「お父さんが、何度も並べていた棋譜があったの。それが、お父さんの最後の対局だったことが、さっき、初めてわかった」
途切れがちにユキが言う。「それと同じ局面が続いて……見ているうちに、似てるけど少しずつ違う局面が、次から次へと浮かんできた。たしか、お父さんが並べていたものだと思う。それが、ものすごい速さでいっぺんに浮かんでくるから、気持ちが悪くなっちゃった」
ユキの脳裏に甦ってきたのは天宮が検討していた変化図だったことは、桂木にも想像がついた。だが、5年も前の変化図を、すべて覚えているとはとても信じられなかった
「お嬢さん」
やや強張った声で桂木が言う。
「お嬢さんって呼び方はやめてって言ったでしょ」
と言ってユキが桂木を睨んだ。「もう忘れたの?」
「ごめん、ごめん。うっかりした」
ユキが嫌がる昔の呼び方を口にしてしまったことを、桂木は謝った。
〈いったい何をうろたえているんだ〉
自問した桂木は、自分がヒドく動揺していることを自覚した。
「で、ユキちゃん、ひとつ訊いてもいいかな」
「何?」
ユキが怪訝そうな顔をする。
「気を失う前に、グズまれる、って言ったのは覚えてるかな」
と桂木が訊くと、ユキは首を傾げた。
「そんなこと言った? それは覚えてない。でも、あそこで白にグズまれると、黒が勝てなくなるのはわかった」
「それも局面が浮かんできたのかな」
「浮かんではきたんだけど、さっきまでのとは、ちょっと違うの。途中で、お父さんたちの対局と手順が違ってきたんでしょ? あのあたりから、それまでとは全然違う感じで局面が浮かぶようになったの。なんて言うのかなぁ……大盤で解説される局面の次の手がわかるようになった。その手を打つと次にどうなるか、ってのが考えなくても自然に浮かんでくるというか……」
〈まさか……〉
ユキの話を聞いているうちに、桂木は手のひらが汗ばんでくるのを感じた。
「ところで、ユキちゃん。グズミってなんのことかわかってる?」
「あーっ。桂木さん、いまワタシのことバカにしたでしょ。それくらいわかりますよー。グズミはグズミでしょ。口ではうまく説明できないけど、形はよーくわかってます」
桂木と楓子が顔を見合わせる。
「記憶が戻ったのかしら」
楓子が小声で言う。
「おそらく……」
桂木も小声で言う。
〈それだけじゃないのかもしれない〉
桂木は思った。
「黒があの2手前に打ったキリがよくなかったんだよ」
ユキが独り言のように言う。「キらずに、単にノビてれば、お兄ちゃんの勝ちだったのに……」
ユキの言葉を聞いて、桂木は青ざめる。
〈間違いない〉
ユキが指摘した手の後の変化をいろいろ思い浮かべる。たしかにどう打っても白が苦しそうだった。
ユキの症状について、桂木は脳の専門家に相談したことがあった。精神的に大きなダメージを負ったために、ユキはそれを忘れようとして、記憶の一部を封印している。
何かをきっかけに、その封印が解ける可能性は十分にある。そのときに、どんなことが起こるのかは予測できない。普通に思い出すだけかもしれないし、段階的に記憶が戻るのかもしれない。とんでもない事態が起こる可能性も否定はできない……。
専門家にもわからない微妙な問題のようだった。
●3年前。沢木知彦の研究室
おびただしい資料があふれる研究室の片隅に設けられた応接スペース。桂木と沢木知彦が、向かい合って座っている。
「ものすごい倍率で圧縮をかけていたデータを、一挙に解凍すると考えるとわかりやすいかもしれません」
沢木は、脳をコンピュータにたとえて話した。インテリと呼ぶにふさわしい知的な風貌の沢木の口調は、どこか冷たい印象があった。
沢木は、桂木が「囲碁の未来」をテーマにしたテレビ番組にゲスト出演したときに知り合った研究者だった。国立大学の大学院で大脳生理学を研究している沢木は、囲碁の対戦型ソフトの開発にも携わっていた。
「データの量が処理速度を超えてしまうと、コンピュータは機能しなくなります。フリーズするか、暴走するか……データの量にもよりますが、なんらかのトラブルが発生することが予想されます」
桂木の反応を確認しながら、沢木はゆっくりと説明する。「ただし、脳の仕組みはもっと複雑なので、トラブルを回避するために安全装置が動作するはずです」
「その安全装置というのは、たとえばどういうことなんですか」
「これは、半分くらいは私の個人的な考えですが……」
と沢木は前置きした。「コンピュータと脳が大きく違う点はふたつあると思います。ひとつは、脳には忘れるという特性があることです。すべてのデータを記憶していたのでは、収拾がつかなくなる。そこで、脳は重要度の低いデータはどんどん忘れてしまうんです。ときには、自分の都合の悪いデータ、いわゆるイヤな記憶を無意識のうちに忘れるという荒業も使います。ユキさんのケースも、精神的なショックに起因する記憶喪失ですから、この荒業の一種と考えていいでしょう。ただ、あくまで忘れただけで、消去されてはいません。脳の中には、すべてのデータが消去されることなく残っているので、なんらかのキーワードが与えられると、復元することができます。ハードディスクの容量はどんなに大きくなってもしょせん有限ですが、脳の記憶容量は、理論上は無限です。その膨大なデータが一挙に復元されることは考えにくいでしょう」
「つまり、すべてをいっぺんに思い出すことはないと」
「仮に桂木先生が同じ状態になったとして、囲碁に関する知識がいっぺんに復元したら、パニックになると思いませんか?」
と言って沢木は眼鏡に手をやった。「もちろん、桂木先生とユキさんとではデータ量に大きな違いがあるでしょうが」
ちょっと想像できなかったが、恐ろしい事態になりそうなことは桂木にも予想できた。
「脳とコンピュータのもうひとつの大きな違いは、判断力です。取捨選択の力と言いかえることもできます。これは前にお話ししましたよね」
囲碁で次の一手を考えるとき、可能性だけを考えるなら空いている場所はすべて着手できる。序盤なら300以上の選択肢があり、すべてを考えるのはものすごいロスにつながる。ところが、人間が次の一手を考えるときには、選択肢はぐっと限られる。上級者になればなるほど選択肢が限られ、それだけロスが少なくなる。それぞれの手について、相手の着手、それに対する自分の着手……と考えることを想定すると、コンピュータのロスは膨大になり、とても人間の思考のレベルにはたどり着けない。テレビ番組の収録の際に、沢木はそんなふうに語った。
「2つの違いと言いましたが、突き詰めれば、どちらも情報の重要度の判定ということになります。大きなトラブルになりそうなときには、脳は重要度の低い情報をバッサリと切り捨てます。脳の働きの中では、これはごく当たり前の安全装置なんです。詳しいメカニズムはわかっていませんが」
と言って沢木は微笑んだ。「話を聞いた限りでは、それほど深刻に考えることはないと思います。ただ、日常生活の記憶をなくすのと違い、ユキさんの場合は囲碁の知識という特殊なものをなくしていますから、記憶が戻ったときにどんなことになるのか予想がつかないところがあります。いずれにしても症状に変化が出たときには、ご連絡いただけませんか。何かアドバイスができるかもしれません」
●現在。決勝戦会場の医務室
「何ふたりで内緒話してるのよ」
ユキが言う。「桂木さん、ボンヤリしてどこか遠ーい世界に行っちゃってるじゃない。ダメだよ、お母さん。前途有望な若者をクドいたりしちゃ」
「どこでそんな言葉を覚えたのよ」
と言って苦笑した楓子は、真顔で桂木を見た。「私は碁のことはわかりませんが、当たり前のことなんですか? 頭の中に碁盤が浮かぶというのは」
「個人差はありますが……」
桂木はちょっと考えた。「プロ棋士なら、当たり前だと思います。同時に何面も浮かべることができる人もいます。アマでも、有段者クラスならそうむずかしいことではないでしょう」
「へえー」
楓子が感心する。「さっき、那智と相手のお嬢さんが5年も前の対局を正確に覚えていたのにも驚いたけど、いったいプロ棋士の頭の中っていったいどうなってるのかしら。一度開けて中を調べてみたい」
「楓子先生にだけは言われたくないな。脳の研究者が一番開けて調べてみたいのは、たぶん楓子先生の頭の中ですよ」
そう言いながら、桂木は別のことを考えていた。頭の中に局面を思い浮かべるくらいは、プロ棋士でなくてもできる。頭の中の盤面で変化を検討するのも当たり前のことだ。だが、ユキが言うように無意識のうちに次の一手が浮かぶとしたら、それはまったく別次元の話になる。
〈沢木さんならなんて言うだろう〉
クールな印象の横顔を思い浮かべながら桂木は考えた。記憶を取り戻したことによる一時的なものなのだろうか。もし一時的なものでないのなら、とんでもない話だった。
〈このコは、とてつもない才能を身につけたのかもしれない〉
これも沢木の言っていた「安全装置」の働きなのか、桂木にはまったくわからなかった。
「お母さん」
ユキが改まった口調で言う。「ワタシ、また碁を始めてもいいですか?」
「それは、プロを目指したいって意味?」
「そんな先のことはわからない。でも、さっきいろいろ思い出したときに、碁を打つのがすごく楽しかったってことだけはわかったの。だから……」
「ユキの好きなようにしなさい。ただ、ひとつだけ約束してほしいの」
楓子は静かな口調で言った。「これから先、ユキがどんなふうに碁と付き合っていくのかはわからない。もしプロを目指すなら、楽しいことだけではなく、苦しいこともたくさんあると思う。でも、どんなことがあっても、碁を嫌いにだけはならないで。それだけは約束して。お母さんの言いたいことわかる?」
「バッカじゃないの。お母さんは、何もわかってない」
と言ってユキはうつむいた。「さっき、よーくわかったの。ワタシにとって、碁はお父さんの思い出そのものなの。いろんな思い出が詰まった大切なものなの。嫌いになんて、なるわけないじゃない……」
涙声になったユキは言葉に詰まった。
「これね、いつかユキに渡せる日が来るかなと思って、ずっともっていたの」
楓子がバッグからお守り袋を取り出した。「開けてごらんなさい」
ユキが、袋の口を広げて逆さまにする。手のひらに落ちたのは白い碁石だった。うっすらと赤い縞模様がついていた。それがなんなのか、ユキにはすぐ見当がついた。
「わかる?」
楓子の言葉に、ユキは無言でうなずいた。ついさっき思い出した風景の中で、異様なまでの輝きを放っていた白石に間違いなかった。
「お父さんが最期に打った石よ」
楓子が言う。「おじいちゃんやおばあちゃんは気持ちが悪いっていうけど、その石は、お父さんがユキに遺したメッセージだと思うの」
「どうして?」
「話したことなかったかな。お父さんにとって、黒石は那智のことなの。那智って、黒石の材料になる石の有名な産地なんだって。それで、白石はユキのことなのよ。本当は漢字の雪、スノーの雪にしたかったんだけど、それじゃ古くさいから、カタカナにしたの。最期にわざわざ白石を打ったってことは、お父さんも、ユキに碁を打ち続けてほしいと思ってるんじゃないかな」
「お父さん……」
と呟くユキ。大粒の涙が、手のひらの白石の上に落ちた。
〈そういうことだったのか〉
と桂木は思った。忠行(チュウコウ)先生が最期に天元に打つのなら、黒石がふさわしい。なぜ、あえて白石を選んだのか疑問だった。最期を看取ったユキへの想いを込めて、白石を選んだのだ。
「桂木先生、ユキの力に、なってもらえないかしら」
「私にできることなら、なんでもします」
遠慮がちな楓子の言葉に、桂木は即答した。
「そうだよ」
と言ってユキが顔をあげた。「ワタシに碁を教えてくれたのは、桂木さんなんだよ。全部思い出したんだから。あの頃の桂木さんは、いまよりずっと若くて、ずっとイケメンで、すっごく優しく教えてくれた」
「それは、いまはもうオジサン入ってるってことかな?」
「ノーコメントです」
ユキが顔をしかめる。「ワタシは一番弟子なんだから、ちゃんと面倒を見てくれなくっちゃ」
「楓子先生、師匠に対してこういう生意気な口をきく弟子は、いかがなものなんでしょうか」
桂木が苦笑しながら楓子を見る。
「いつでも破門にしてください」
と言って楓子が笑う。
「ヒドいよー、ふたりとも」
ユキが泣き笑いを浮かべた。
桂木亮介、25歳。天宮ユキ、13歳。
この若い師弟は、のちに自分たちが名人位をめぐって壮絶な戦いを繰り広げることになる運命など、知るよしもなかった。
いろいろ考え方はあるのでしょうが、わかりやすさを重視して「名人」にしています。
ユキの天(そら)
●5年前。囲碁名人戦最終局前夜。
例年以上に囲碁界の注目を集めた名人戦は、下馬評をくつがえして最終局にもつれ込んでいた。
初防衛を目指すのは林明水名人。1年前に名人位を奪取して以来快進撃を続け、現在四冠を堅持する最強の棋士である。対するは天宮忠行名誉王座。昨年名人位を奪われた天宮にとっては、リターンマッチになる戦いだった。
戦前には、林名人を推す声が圧倒的に優勢だった。心情的には天宮を応援したい棋士も多かったが、林名人の最近の充実ぶりは目覚ましい。ほとんどのタイトル争いにからみ、囲碁界では例のない全タイトル制覇にもっとも近い棋士といわれていた。一方の天宮は、名人位を奪われて以来、体調がすぐれないこともあっていまひとつ精彩を欠く。しかも厚みを重視する棋風の天宮は、地にカラく弱石のシノギに絶対的な自信をもつ林名人と相性が悪く、対戦成績でも大きく水をあけられていた。
接戦になった第1局は、終盤に天宮の手痛い失着が出て林名人が制した。第2局、第3局と危なげのない内容で名人が連勝すると、「このまま第4局で終わり」という雰囲気が生まれたのも無理のないことだった。
カド番に追い込まれた天宮は、先番になった第4局で思い切った策に出る。何年も打っていなかった「初手の天元」を復活させたのだ。
大模様を張る天宮の独特の碁風は「天宮流」「天空流」などと呼ばれる。その象徴ともいえるのが「初手の天元」だった。雄大な構想で盤上に絵画を描くような碁風はロマンを感じさせ、プロ・アマを問わず人気が高くてマネをするファンも多い。だが、「初手の天元」だけは理論的に「やや損な手」とされ、追随する者はほとんどいなかった。対策が研究されて勝率が下がってからは、天宮自身もほとんど打つことがなかった。それをこの大切な対局で用いたのだから、対戦相手の林名人はもちろんのこと、対局を見守った関係者一同が意表をつかれた。
天宮の奇策は功を奏した。
完璧な打ち回しで林名人を圧倒した第4局は、天宮の名局と評判を呼んだ。続く第5局でも天宮は白番にもかかわらず「初手の天元」を連採し、周囲を驚かせる。白番での「初手の天元」はあとの運びがことのほかむずかしく、天宮でさえほとんど用いていなかったからだ。名人の緩手を巧みにとがめた天宮が第5局を快勝すると、七番勝負の流れが明らかに変わった。苦し紛れとさえ思われた「初手の天元」が、無敵の布石に変貌した印象さえあった。再び黒番になった第6局でも天宮は当然のように「初手の天元」を採用して勝利をつかみ、五分の星に持ち直した。
持ち時間の長い2日制のタイトル戦は、対局者の心身に大きな負担をかける。対局を重ねるごとに天宮の体調が悪くなっているのは、傍目にも明らかだった。天宮の3連勝は思わしくない体調を補ってあまりある執念が生んだ快挙であり、第4局以降の棋譜だけを見ると、全盛期の力強さが戻ってきたかのようだった。
こうなると、棋士たちの予想もまっぷたつに分かれる。3連敗の後の4連勝は、七番勝負の長い歴史のなかでもめったにあることではない。最後は林名人が勝負強さを発揮する、と考える棋士も多かった。その一方で、改めて先後を決め直す第7局で天宮が先番を握ればむしろ有利、と主張する棋士も譲らない。どんな戦いになるか予断を許さない状況で迎えた最終局ではあったが、誰もがこれまで以上の熱戦になることを期待した。
対局当日の天宮の異変を知るまでは……。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
「ご無沙汰しております」
会場を訪れた天宮楓子・ユキの親娘を見つけた桂木亮介天元が声をかけた。
「こちらこそ、いつもいつもご無沙汰ばかりで、本当に申し訳ございません」
楓子が深々と頭を下げる。
「頭を上げてください。困ります」
桂木が恐縮する。「ボクはいまでも天宮先生の不肖の弟子なんですから」
楓子がいたずらっぽい上目づかいで桂木を見る。
「やっぱりちょっと困った?」
「楓子先生、勘弁してくださいよ」
桂木が苦笑する。
「桂木先生があんまり他人行儀なんで、ちょっとからかってみたくなっただけ」
楓子が茶目っ気タップリに笑う。
3年間、天宮忠行の内弟子として天宮家で過ごしたことのある桂木は、今年25歳になる。「若手四天王」の一角を占める実力者だった。
「那智クンは緊張していませんでしたか?」
「おかげさまでいつもどおりでしたよ。決勝まで来ることができただけで上出来ですから。今日のお相手は林名人のお嬢さんなんですよね。恥をかかなければいいのですが」
「そんなことはありません。那智クンの力はボクが保証します。今日もいい勝負になると思いますよ」
と言って桂木はユキを見た。「ユキちゃんも大きくなったな。たしか今年中学に入ったんだよな」
「入学祝いがまだだよ、桂木センセ。桂木センセも偉くなったな。たしか天元になったんだよな、お祝いは贈ってないけど」
と言ったユキは、楓子にたしなめられて舌を出す。
「こんな会場に来て、大丈夫なんですか?」
桂木が楓子に訊く。
「大丈夫だよ。もうなんともないんだから」
ユキが明るく笑う。
「だったらよいのですが……」
と桂木が言う。「お2人とも招待席ですよね。お邪魔でなければ隣の席を取っておいてください。あとでうかがいます」
「席はお取りしておきます。よろしくお願いします」
楓子が頭を下げる。
「じゃあね。待ってるから」
手を振るユキを、桂木は温かい視線で見つめる。桂木にとって、ユキは年の離れた妹のような存在だった。ユキも、実兄の那智を慕うように彼を慕っていた。ユキの様子を心配しながら、連絡を取りにくい事情があったことを、桂木は心苦しく思っていた。
「大盛況だね」
声をかけたのは月刊『囲碁』の須藤編集長である。新人編集者の会田と2人連れだった。「いまのは、天宮夫人だよね」
「はい。楓子先生です。すっかりご無沙汰していたのですが、おかわりがないようで安心しました」
桂木が答えると、会田が口を挟んだ。
「実物を見るのは初めてですけど……痛っ」
会田の頭を引っぱたいた須藤が怒鳴る。
「口のきき方に気をつけろ!」
「なんかマズいこと言いましたぁ?」
頭を押さえながら会田が言う。
「実物を見るのは初めて、って見せ物じゃねえんだよ!」
「そうですかぁ?」
会田は不満そうだった。「お目にかかるのは初めてですけど、本当に美人ですね。女医さんなんですよね?」
「それだけじゃないよ。アーベル賞を受賞している天才数学者でもあるんだから。会田なんかとは頭のデキが違うんだよ」
「なんですか、アーベル賞って」
「自分で調べな」
須藤に突き放されて、顔をしかめた会田は桂木を見た。
「じゃあ、一緒にいた超可愛い子が那智クンの妹さん? 那智クン以上の才能があったって噂の」
「お嬢さんの才能を過去形にしないでください」
静かではあったが強い口調で桂木が言う。
「そう言ったって……」
と言いかけて会田は、桂木の鋭い眼光にあって言葉に詰まる。
「よくこんなに集まったもんだ」
須藤があわて気味に話を逸らした。「たしかにネットなんかでは大騒ぎになってるらしいけど」
「今回は特別ですから」
今回の高校名人戦には特別枠で2人の中学生が参加していた。
──ひとりは、伝説の大名人の息子、天宮那智。
──もうひとりは、現在の最強名人の娘、林明日香。
プロの名棋士を親にもつ2人の実力は、小学生の頃から「別格」扱いされていた。「なぜすぐにでも院生になってプロを目指さないのか」と訝しがる声もあったが、2人とも中学卒業まではその意思はなく、公式の大会にもほとんど参加していない。
この2人とともに注目を集めていたのが、高校名人戦3連覇に挑む対馬勇作だった。中学生まで院生だった対馬はプロデビュー目前まで行ったが、開業医の親の跡を継いで医者になる道を選んでいた。
3人とも、十代のアマチュアながら実力はプロ級といわれている。来春の卒業後には院生になってプロを目指す2人の特別な中学生を、院生経験のある高校名人と対決させてみたい、という思惑から特別枠が設けられたとの噂もあった。
前評判どおり、3人は順調にトーナメントを勝ち進んだ。
直接対決が実現したのは、対馬勇作と林明日香が対局した準決勝戦だった。大熱戦の末に明日香が勝ち上がる。もう一方のブロックからは、天宮那智が決勝に進んだ。力の差を見せつけるような、安定した勝ちっぷりだった。
可能性としては十分に考えられたが、実際に特別枠の中学生2人が決勝を争うことになると、関係者一同が驚きを隠せなかった。高校生を相手にどこまで通用するのか半信半疑の者も多かったからである。プロ棋士はもちろん、アマチュアの囲碁ファンの間でも、2人の対決は大きな注目を集めた。
誰もが、2人の父親が戦った5年前の名人戦……そして最終局の「吐血の一局」を思い出さずにはいられなかった。
●5年前。囲碁名人戦最終局当日。
先に対局室に入った林名人が上座に座っている。若い頃から囲碁界の三美男に数えられる端正な顔立ちで、タイトル戦恒例の和服の着こなしには一分のスキもない。
定刻ギリギリにあわただしく到着した天宮の様子は尋常ではなかった。対局室まで妻の楓子の肩を借りてきた天宮は、立会人の橋本善太郎九段と激しい口調で押し問答をした。
「天宮クン。奥さんから話は聞いている。もう一度言う。対局は延期にしよう」
心配そうな表情の橋本に、天宮も譲らない。
「橋本先生。名人戦の歴史に、病気で対局延期なんて前例はない」
「前例がないなら作ればいい。キミの体のほうが心配だ」
「クドい! そんなことが許されてたまるか! 名人戦の歴史に泥を塗る気か!」
声を荒らげて橋本を振り切ると、天宮は楓子を押しのけるようにして室内に入った。楓子も棋士の戦場である対局室に足を踏み入れるようなマネはしなかった。
よろける足で盤の前にたどり着くと、天宮はドサリと大きな音を立てて腰を落とした。顔に血の気がなく、いつにもまして頬がこけている。トレードマークのヒゲが憔悴の色をいっそう濃くしていた。深夜に及ぶ対局を終えた直後でも、こんなに疲弊しきった姿を見せたことはなかった。
天宮の様子が伝わると、控室が騒然となる。局面の検討のために用意された控室には、10人を超える若手棋士がいた。若手といっても、いずれ劣らぬ実力者揃い。名人戦の検討ともなると、並みの棋士が入り込む余地はなかった。
「ゆうべ、血を吐いたらしい」
「隣室に、医者と看護師が待機してるって」
「そんなに悪いのか?」
誰もが天宮の身を案じる控え室に入ってきたのは、天宮の愛弟子の桂木亮介九段だった。一晩中天宮に付き添っていた桂木も疲労のため顔色が悪い。桂木と親しい仙崎道彦七段が一同を代表するかのように声をかける。
「本当のところ、忠行(チュウコウ)先生の容態はどうなんだ」
「医者は、対局なんて、絶対に無理だと……」
桂木が言うと、何人かがため息をもらした。
「こうなったら、誰も止められないよな」
仙崎が呟くように言う。
昨晩遅くに吐血し、天宮は病院に運ばれていた。本人の意志が固いために対局は認められたが、万が一に備えて医師と看護師が対局室の隣室に待機していた。延期を提案した立会人の橋本九段を一喝した、という話に一同がため息をもらす。「誰も止められない」という諦めの気持ちと、「さすが忠行(チュウコウ)先生」という畏敬の念がないまぜになった複雑なため息だった。「最後の無頼派」と呼ばれる天宮にふさわしい、気骨あふれる啖呵だった。
天宮の体は、すでに過酷な対局に耐えられるような状態ではなかった。生来はむしろ頑健だったが、それがむしろ災いした。体力にまかせて若い頃から浴びるほど飲んだ酒が、手の施しようのないほどに内臓を蝕んでいた。
酒にまつわる天宮の逸話は枚挙にいとまがない。二日酔いで対局をするのは毎度のこと。三十代前半までは、徹夜で飲み明かして対局に臨むことも珍しくなかった。「酒が残っているほうが手が見える」と豪語する天宮がしばしば終盤で初心者並みのポカ(見落とし)を犯すのは、「酒が切れるから」とまことしやかに語られていた。「酒さえ飲まなければ不世出の大名人」と言う者もいたが、本人は「酒を飲まなきゃただのヘボ」とうそぶいて意に介さない。
体調を決定的に損ねたのは、長男が生まれてすぐに妻に先立たれてからだった。極度の不振に陥った天宮は、保持していた3つのタイトルをすべて失う。1年近くにわたってまさに酒浸りの日々を送り、引退説さえ流れた。
そんな天宮が立ち直ったのは、現在の妻の楓子と付き合い始めてからである。医者でありながら世界的に知られる数学者でもある楓子と、当時廃人に近かったとさえいわれる天宮の取り合わせは「美女と野人」と評され、なぜ2人が結び付いたのかは囲碁界の七不思議のひとつに数えられている。
大酒飲みのうえに、天宮には世間の常識を逸したところがあった。
初めて挑戦したタイトルを圧倒的な強さで奪取した際の宴席で、
「いまなら名人が相手でも負ける気がしない」
と言い放ち、大きな波紋を投げかけた。
名人位初挑戦の際には剃髪して臨み、関係者を驚かせる。並々ならぬ決意の現われと考えられたが、
「勝ったらまた口をすべらせそうだから、あらかじめ頭を丸めておいた」
と語ったという噂もあった。
名人戦3連覇を果たした頃から天宮は先輩棋士に対しても敬語を使うのをやめ、第一人者として囲碁界に君臨した。
傲慢な暴君、話題作りのためのリップサービス、繊細な神経ゆえの韜晦……さまざまなとらえ方はあるにせよ、常識人が多くなった囲碁界の中で昔ながらの棋士気質を感じさせる豪快無比の生き方は、いつしか「最後の無頼派」と呼ばれるようになる。そこがまたファンを魅了した。
非常識な言動を快く思わない先輩棋士が多い一方、天宮を慕う若手棋士は多い。昔から親分肌で後輩の面倒見のよさには定評があった天宮は、若手を対象に研究会を開き、近年は内弟子をとって後進の育成に力を注ぐ一面もあった。内弟子のなかからは、有望な若手棋士が何人も育っている。
「忠行(チュウコウ)先生」という敬称が、内弟子の間だけではなく広く浸透していることも、天宮の人望の厚さを物語っている。とくに独特の序盤感覚には信奉者が多く、一部の棋士の間では絶対視されていた。天宮が検討に積極的に参加すると、検討というより独演会に近くなることも珍しくはなかった。
若手の台頭が著しい囲碁界で、天宮の年齢でトップクラスの地位を保っている棋士は数えるほどになった。さしもの天宮も、体調の不良もあって衰えは隠せず、成績は年々悪くなっていった。
だが、名人戦だけは例外だった。ほかの棋戦では並みの成績でも、名人戦の天宮はまったくの別人だった。40歳で名人位に返り咲くと、挑戦してくる若手を裂帛の気合いで退け続け、4連覇を果たす。「手合い違い」「十年早い」と、対戦相手を挑発する天宮の言葉も、こと名人戦に限っては説得力があった。
昨年、林明水九段が挑戦したときも、天宮の敗北を予想する者はほとんどいなかった。
挑戦者になった林明水九段は、不思議な棋士だった。台湾から来日した十代の頃から豊かな才能を認められていたが、不思議とタイトルに縁がない。常に最善の一手を求める傾向が、大一番では裏目に出ると指摘する声もあった。それが2年前から急に勝ちはじめ、タイトル奪取も時間の問題、と見られるようになった。
「30歳全盛説」さえある現代の囲碁界にあって、30歳を過ぎてから急速に強くなった棋士はほかに例がない。そうはいっても天宮が相手の名人戦となると話が違ってくる。「名人戦の天宮」にどこまで迫れるか……という見方が大勢を占めた。
結果はあっけないものだった。
天宮は4連敗を喫し、あれほど執着した名人の座を譲り渡す。ただの4連敗ではなく、内容がヒドかった。得意なはずの序盤で形勢を損ない、4局ともいいところなく土俵を割った。
例年以上に体調が悪かったことを加味しても、あまりに一方的な内容で、天宮の口癖である「手合い違い」を思わせる惨敗だった。天宮嫌いで知られる囲碁好きの作家が観戦記で「朽ちた老木が倒れるかのように」と表現したことが大きな反響を呼んだ。それは、「あの書き方はあんまりだ」と批判的な気持ちになりながら、誰も否定できないところがあったからだった。
天宮の名人失冠は、囲碁界のビッグニュースになった。数あるタイトルのなかでも名人位は別格だった。さらに、「名人戦の天宮」の強さも別格と思われていたからである。
「タイトルは奪うより守るほうがむずかしい」とはよく聞かれることだ。もちろん、誰が挑戦してきても寄せ付けない風格を漂わせるタイトル保持者もいる。名人戦を連覇中の天宮も、それに近い存在だった。だがそれは、ごく限られた者が、ごく限られた時期に見せる一瞬のきらめきのようなもので、そうあることではない。
トップクラスの棋士の実力に大きな違いはなく、紙一重のギリギリのところで鎬を削っている。挑戦する者は、トーナメント戦やリーグ戦の過酷な競り合いを勝ち上がり、絶好調の状態で挑戦手合に臨む。申し分のない実力と時の勢いを味方にした、いわばそのときの最強者である。そう考えると「守るほうがむずかしい」という説は理論的には正しく、毎年のようにタイトルが移動するほうが自然だ。
だが実際には、タイトル戦で交代劇が起きることはそう頻繁にはない。とくに、名人戦に限れば交代劇は極端に少ない。名人になる棋士は実力や勢いだけではない何か別のものをもっている、と考えられるのはそのためである。
名人にまで上り詰める棋士は、低段の頃からその雰囲気を身につけていて、周囲もそれを認めている。ただし、若い頃から名人候補と目されながら、「候補」で終わった棋士も多い。限られた名人候補のなかでも、不可思議な力をまとった者だけが名人の座を手にするのである。それを、「神に選ばれし者」という言い方をすることもあった。
もうひとつ、「名人戦に番狂わせなし」ということもよく聞かれる。名人になる棋士は、なるべくしてなる。どんなに力があっても、ただ強いだけで「名人の器ではない」と思われる挑戦者は、決して名人になることはない。逆に、さまざまな要因が重なって「なって当然」という雰囲気が大勢を占めたときには、あっけなく新名人が誕生する。
まれに、番狂わせと思われる結果になることも、ないわけではない。しかし名人戦の歴史をひもとくと、どんなに意外と思われる結果に終わった場合も、あとから振り返れば必然の結果であったことがわかる。1年前の交代劇も、まさにその例に漏れなかった。当時は意外に思われたが、いまとなっては必然のものに感じられた。
勝者と敗者の明暗は、残酷なほど鮮明だった。新たに頂点に立った林名人がすばらしい内容で次々とタイトルを手中にする一方で、天宮は巻き返しに闘志を燃やす次期名人戦リーグでも連敗を喫した。ほかの棋戦でも無様な戦いを続け、「天宮限界説」は公然のものになった。
ところが、天宮は甦った。不死鳥のような鮮やかな復活劇にはほど遠い内容ではあったが。
名人戦リーグの3局目で幸運な勝ちを拾うと、天宮は苦戦の連続ではあったが白星を重ねた。ほかの棋戦では相変わらずの体たらくだったが、それは名人戦リーグのために体力・気力を温存している感があった。リーグ戦が終わってみると、2敗を守った天宮はプレーオフに進出し、弟子の桂木亮介九段との師弟対決を制して挑戦者に名乗りをあげたのである。
華麗さなど微塵も感じられない、泥臭い戦いぶりだった。満身創痍の武将が、わけのわからない混戦に持ち込んだあげくに最後の一刃でかろうじて相手を打ち倒す……そんな連想をしてしまうような戦いの連続だった。なりふり構わぬ必死さが伝わり、見る者の胸を熱くせずにはおかなかった。
くだんの作家は、今度は「あたかも燃え尽きる蝋燭の最後の輝きのよう」と表現し、大顰蹙を買った。同じようなことを思う者は多かったが、それだけは決して口にしてはいけないと感じていたからだった。
しきたりどおりに先後が決められて天宮が先番を握ると、それだけで対局場には緊迫した空気が張りつめた。この一番の先後の重要性は図りしれなかった。
碁笥に手を突っ込んだ姿勢で、天宮が呼吸を整える。背筋をピンと伸ばし、先ほどまで息も絶え絶えだったとは思えない凛とした態度で、石音高く打ち下ろした。
誰もが期待した天元への一着。
取材陣がたくカメラのフラッシュが、天宮の蒼白の顔色をいっそう青白く見せる。しかし、眼光は異様なまでの迫力をみなぎらせていた。盤面の中央に置かれた黒石が、フラッシュを受けて輝く。
取材陣が退席し、対局室は静寂を取り戻した。天元の黒石は、天宮の魂を宿して輝きを放ち続けているかのようだった。その黒石を眺めながら思索にふける林名人。対応を考えているというより、気持ちの高ぶりが静まるのを待っているように見えた。予想どおりの着手だっただけに、すでに応手は考えているはずだった。
白石を手にした林名人は、天宮とは対照的に気負いの感じられない静かな所作で、天元の石の右横にツケた。これは誰も予想しない一着だった。
天宮の先番が決まっただけで対局前とは思えない盛り上がりを見せた控室では、林名人の意外な着手に一段と大きな歓声が起きた。
「なんだよ、これは!」
ひと際大きな声をあげたのは、仙崎道彦七段だった。「いくらなんでもムチャクチャだよ。フツーに考えりゃ悪手だよなー」
「そんなことを言ったらしかられるよ。名人が打てば、悪手も妙手なり、なんだから」
応じたのは丹野通八段。
「初手の天元は、一度は試してみたいと思う」
仙崎が言う。「でも、このツケにはおみそれしました。一生かかってもボクには打てません」
芸達者が多い棋士のなかでも、打てば響くようなテンポの早いやり取りでは、この2人の右に出る者はいない。普段から親交の深い2人はテレビの囲碁番組の解説をコンビで務め、掛け合い漫才めいた息の合った応酬で、お茶の間の囲碁ファンの間でも人気者になった。時にまわりを驚かせるような大胆な発言をしてもとがめられることがないのは、2人の人柄もさることながら、秀でた才能が知れわたっているからだった。
とくに「口八丁手八丁」を絵に描いたような仙崎のセンスのよさは、棋士の間でも認められていた。文才にも恵まれて著作も多く、何をやっても器用にこなす多芸さを危ぶむ声さえあった。
「仙ちゃんがこんな手を打ったらいかんよ。五目並べか! って破門される」
丹野の冗談に笑いが起き、緊迫した雰囲気が緩む。
「やはり、両先生は我々とは別の世界にいる」
呟くように言ったのは桂木九段だった。つい先日のプレーオフで天宮と対戦した20歳の九段は、次期名人の呼び声も高い実力者である。
「ただ、このツケは林名人らしくないのでは……」
「降参です。仙ちゃん、通訳お願い」
丹野がおどけた口調で仙崎に助けを求める。
「勝ち負けにこだわる我々下賤の者とは違い、両先生はそれ以上の高みを目指してるってことですね。不利を承知で初手の天元を打ち続けるのは、忠行(チュウコウ)先生の美学。悪手の可能性が高いと知りながらツケで応じるのは、林名人の気合いと言ってよいでしょう。単純に目先の勝ち負けだけを考えたら、こんな手は絶対に打てません。ただし、気合いの一手なんてのは、いつなんどきでも本筋・最善手を追究する林名人らしくない、と考えることもできます」
芝居がかった口調で解説した仙崎が桂木に同意を求める。「こんなところでよろしいでしょうか、桂木先生」
「ありがとうございます」
桂木は苦笑して頭をかいた。
5歳年下でも段位が上の桂木を、必要以上に立てる仙崎。まったく嫌みに感じられないのは、仙崎の人徳だった。ひとたび盤に向かって相対すれば、年功も序列も関係なくなるのが棋士の世界だが、盤を離れると上下関係は微妙になる。段位と昇段時期、院生になった時期、年齢などがからみ、ひと筋縄には行かない。
仙崎と丹野の言葉で場は和んだが、いくばくかの異和感は拭えない。異和感のもとは盤の中央に置かれた白黒一対の石だった。どう見ても異形のこの二子が、大勝負の趨勢を握っていることは間違いなかった。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
会場の最前列で見守るユキと楓子。楓子を間に挟む形で、桂沢も並んで座っていた。
前日の準決勝の結果が報道され、那智と明日香の対決を見ようとする関係者とファンで、会場は前例のない混み方になっていた。
ステージの上には、対局室の様子を伝える大型モニターと解説用の大盤が設けられていた。解説を担当するのは、話術の巧みさには定評のある仙崎道彦九段と丹野通九段。マイクを握った仙崎があいさつをし、2人のゲストの紹介を始める。
1人目は現役最年長の橋本善太郎九段。2人目は新鋭の前田佑太七段。高校3年生の前田は、早碁のトーナメント戦で優勝し、つい先日「飛び級」で七段に昇段したばかりだった。
「前田七段は、惜しくも準決勝で敗れた対馬クンとは小学生の頃からのライバルだったと聞いています。昨日の対局の棋譜はご覧になりましたか?」
「昨日のうちに見ました」
前田が緊張した表情で言う。「正直言って、対馬クンが中学生に負けたのが信じられなかったんです。ミスでもしたのかと思って見たんですが、まったく違いました。大熱戦で、レベルの高い対局でした。あれで中学生なんて……ビックリしました」
月刊『囲碁』の須藤と会田は、前方に用意された招待席の片隅に陣取っていた。
「高校生の大会とは思えないですね」
賑わう会場を見渡して会田が感心する。
「対局するのは、なぜか中学生だけどな」
須藤が言う。
「高校生だろうが中学生だろうが、あんなに絵になる2人が対局するなら、ボク的には大OKですよ」
「会田、その言葉遣いはなんとかならないのかよ」
須藤が苦々しい顔で言う。「さっきも桂木天元を怒らせたばっかりだろ」
「あれはビックリしました。桂木天元はあんなキャラじゃないでしょ。好感度ナンバーワンの貴公子なんだから」
「それだけオマエが礼を欠いたってことだよ。地雷を踏んだ、と言ったほうがわかりやすいか?」
4年前、父である天宮忠行の死を目の当たりにしたユキは、ショックで囲碁に関する記憶を失っていた。父や知り合いの棋士のことは覚えていたが、囲碁のルールをいっさい忘れ、一時は囲碁に関するものを見るだけで情緒不安定になることもあったという。桂木が天宮家への連絡を控えていたのも、ユキの身を案じたからだった。
「桂木天元にとっちゃ、ユキちゃんは可愛い教え子だったからな」
「忠行(チュウコウ)先生は、ユキちゃんには教えなかったんですか?」
「兄の那智クンには、プロ棋士にするために相当厳しく教えたらしいが、ユキちゃんにはあまり熱心じゃなかったらしい」
「それって、やっぱり女の子だからですか」
「かもしれないな」
「じゃあ、明日香ちゃんを育てた林名人は鬼ってことですかね」
「男の子がいれば話は違っていたかもしれない。あのとんでもない世界で、化け物みたいな男たちと対等にやり合うなんて、オレが親だったら絶対にすすめないよ」
と言って須藤は禁煙パイプをくわえた。「男女平等って考え方をするなら、こんなに平等な世界もないんだけどな。もっとも、ウチのバカ娘じゃ、逆立ちしたってモノになりっこないけど」
「プロ棋士って化け物ですかね、やっぱり」
会田が首を傾げる。
「間違いなく化け物だよ。この場合の化け物ってのは、最上級の褒め言葉だけどな」
須藤が言う。「オマエもK大の囲碁部で主将まで務めたんだから、わかるだろ」
「レベルが違いすぎて、ピンと来ませんよ。ボクの代は歴代最弱でしたし。これでも小学校までは神童って呼ばれてたんですけどね」
「あのな。プロ棋士になる人間は、みーんな神童クラスなんだよ。だが、才能だけでどうにかなるもんじゃない。かといって、努力だけじゃどんなに頑張ったって限界がある……そんな世界だよ」
と言って須藤はステージに向き直った。「始まったぞ」
モニターの中では、対局が始まっていた。
しかし、先番に決まった那智は、目を閉じたままなかなか初手を打ち下ろそうとしない。父子2代にわたる因縁の対決を前にして、那智は厳しかった父の姿を思い出していた。
●7年前。天宮と那智の稽古風景。那智8歳。ユキ6歳
盤を挟んで対峙する天宮と那智。盤側にチョコンと座り、じっと見ているユキ。
「なんだこの手は!」
筋の悪い手を打った那智を、天宮が厳しく叱りつける。「誰がこんな卑しい手を教えた!」
まだ8歳の那智に対して、天宮は容赦なく罵声を浴びせる。
「自分が打ったのがどんな手なのかわかってるのか! たとえ負けても、こんな手だけは絶対に打ってはいかん! わかったか!」
那智は唇をかんでうなずく。ユキはおびえた表情ながら、決して目を逸らさずに父を見つめていた。普段は優しい父が、なぜこんなにも大声で怒鳴っているのかはわからなかったが。
那智が無言で石を打ち直す。
「そうだ。打てるじゃないか。ちゃんと考えれば、那智は誰よりもいい手が打てる」
打って変わって上機嫌になった天宮が那智の頭をなでる。「いい手を打つことだけを考えればいい。勝ち負けよりも、もっと大切なことがあるんだ。わかるか?」
しゃくり上げながらうなずく那智の頭を、天宮はいつまでもなで続けた。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
那智が初手を天元に打つ。
かつて父の忠行が好んで用いた手でもあった。珍しい着手に会場が湧く。しばらく考えた明日香が、天元の石の右横にツケる。やはり少考して右上の星を占めた那智が、明日香の顔をうかがう。左上の三々に石を置く明日香は、かすかに笑ったように見えた。
那智と明日香は、子供の頃から何度か対局したことがあった。元々の棋力は明日香のほうが数段上だった。しかし、はじめは大差だった実力が、明らかに接近していた。
那智の成長ぶりを誰より感じているのは明日香だった。同年代では敵なしの明日香にとって、那智は得がたい好敵手だった。
〈でも、ワタシだって成長している〉
最後に打ったのは1年ほど前だった。そのときよりずっと大人びて見える那智との対局は、なんだか怖い部分もあったが、それ以上に胸が躍るようなことだった。
いま、2人は着手を通して無言の会話をしていた。
〈今日は、ぜひこの布石で打ちたい〉
天元に打った一着は、父の棋風を継ごうとする那智の決意表明だった。
〈だったら、いっそこうしない? ちゃんと覚えてるかしら〉
先に仕掛けたのは明日香なのだろう。
〈わかった。そういうことなら受けて立つよ〉と那智。
〈じゃあ遠慮なく〉と明日香。
1手打つごとに、2人は相手の気持ちを確認していた。そして、戦う2人の気持ちが重なった。
淡々と打ち進める両者の着手は異常に早い。
〈こ、これは……〉
いち早く気づいた仙崎はアシスタントを呼び、過去の棋譜をもってくるように指示を出した。見覚えのある進行に、会場にざわめきが広がる。
棋譜が取り寄せられたときには、局面は50手以上進んでいた。5年前の名人戦最終局と同じ序盤戦が繰り広げられていた。
「お気づきの方も多いようですが、ここまでの局面は、5年前の名人戦最終局とまったく同じ手順になっています。対局中の2人のお父上が打った、伝説の一局と言われる名局です」
仙崎がやっと口を開いた。会場が静まり返る。「一般のかたも大勢いらっしゃるようなので、そんなことが可能なのか、丹野九段の意見を聞いてみたいと思います。えーっと、5年も前の対局を、正確に再現することができるのでしょうか」
「自分で最近打ったものなら大丈夫かもしれませんが、5年前のものとなると……」
丹野は少し考える。「一手の違いもなく、ってのはよほど強く印象に残った対局でないと無理ですね」
「ボクもそう思います。つまり、対局中の2人にとって、それだけ印象的な対局だったということです。可能性は、もうひとつあります」
仙崎はそう言って間を置いた。「対局中の2人のほうが、ボクたちヘボなプロより実力がずっと上なのかもしれません」
会場が爆笑に包まれる。
「仙ちゃん、それはないでしょ」
という丹野のボヤきに、再び笑いが起きた。
「ご存じの方も多いようですが、少し解説しましょう」
真面目な顔つきに戻った仙崎が言う。「初手の天元は、対局中の天宮那智クンのお父上である天宮忠行名人が得意にしていた布石です。丹野九段、初手の天元を打ったことはありますか?」
「ボクのようなヘボにはとても打ち切れません」
「初手の天元は、模様を張るのには悪くない手だと思いますが、打ちこなすのはむずかしい。なんと言えばいいのかわかりませんが……やや甘い。忠行(チュウコウ)先生も若い頃は好んで打ってましたが、しだいに打たなくなりました」
「それが、5年前の名人戦に突如復活した……」
「いまや伝説になってしまったあの名人戦当時、林名人の強さはハンパではありませんでした。と言うより、その前年に忠行(チュウコウ)先生を破って名人になってからいままでずーっと、ハンパではありません。まわりの迷惑も考えてほしいと思います」
「仙ちゃん、それを言うなら名人戦での忠行(チュウコウ)先生も鬼神のようでした。その鬼神のような忠行(チュウコウ)先生を相手に、絶好調の名人が圧倒的な内容で3連勝したから、終戦ムードが漂ったんですね」
「こんなことを言うとしかられるかもしれませんが、第4局の忠行(チュウコウ)先生の初手を見たときには、苦し紛れじゃないかと思った人もたくさんいました。いないとは言わせません。それがこの天元の一着です」
仙崎は天元の黒石を指先でたたいた。「しかし天空流の威力は健在だった。第4局から第6局まで、すばらしい内容で忠行(チュウコウ)先生が3連勝し、この第7局を迎えたんですねぇ」
「対する林名人の第7局の応手がすごかった。誰も考えなかったこのツケです」
丹野が天元の横の白石を指先で激しくたたく。
「こんな手は、林名人以外誰も打てません。どう考えてもいい手ではありませんから……」
仙崎が苦笑しながら言う。「ちなみに、あのときボクがこの手を打ったら、五目並べか! って破門される、とヒドいことを言ったのは、ほかでもなくこの丹野九段です」
5年前の名人戦で3連敗を喫して追い込まれた天宮忠行は、第4局で初手の天元を復活させ、逆に3連勝を果たす。とくに先番を握った第4局と第6局の打ち回しは、神懸かりめいた見事さだった。苦し紛れとさえ思われた「初手の天元」が、無敵の布石に変貌した印象さえあった。
天宮名人が復位するのか。林名人が返り討ちにするのか。
最終局にもつれ込み、囲碁界の注目を集めた激闘は、予想外の結末を迎える。
●5年前。囲碁名人戦最終局。2日目
対局場はいつにも増して重い空気に覆われていた。
両者が石を打つ音と、ときどき天宮が咳き込む音だけが、妙に響く。林名人と天宮の年齢差は10歳しかなかったが、見た目には大きな違いがあった。35歳の林名人は、二十代にも見えるほど若々しい。一方の天宮は、白髪のほうが多い髪のせいか、年齢よりもずっと老けて見えた。
昨日来、点滴をする以外には食事を受け付けなくなった天宮は、ゲッソリとこけた顔の中で両眼だけがランランと輝いていた。立会人の橋本九段や付き添いの医師が対局の延期を提案しても、天宮は頑として受け入れなかった。
「そんなみっともないことをするぐらいなら、オレは投げる。オレの負けにしてくれ!」
本当にそうしかねない天宮の迫力に、橋本九段も引き下がるしかなかった。
控室の雰囲気も重苦しかった。天宮の体調を気づかってのこともあるが、それ以上に、局面の異様さが一同の口を重くしていた。局面は、中央の二子を放置したまま進んでいた。
「これさえなきゃ、フツーなんだけどなー」
盤面を睥睨するかのような存在感を発揮している中央の二子を指して、仙崎が嘆くように言う。「この二子があるから、何がなんだかわからない。お互いに爆弾抱えて、起爆スイッチに手をかけながら殴り合ってるみたいなもんだよ。予測不能です。お手上げのグリコマーク」
「仙ちゃん、それ古すぎ」
丹野がすかさずツッコミを入れる。
対局者は、互いに中央で動き出すタイミングをうかがいながら手を進めている。小さな折衝も常に中央との兼ね合いを考えながらなので、神経を使う必要があった。
仙崎の言葉どおり、中央の二子を取り除けば、平凡な配石にも見えた。どこまでも厚く構える天宮に、足早に実利を稼ぐ林名人。形勢は、中央の黒模様のまとまりしだい、としかいえない難解な戦いだった。
先に中央に手を付けたのは天宮だった。左辺の活きが不確かな白石と、下辺から中央へ伸びる白の弱石をにらみながら、中央にハネを打つ。117手目の決断だった。
待ち構えていたかのように、林名人が切り違える。控室が急に賑やかになった。いったん戦いが始まってしまえば、微妙な駆け引きが続くより、むしろ変化が読みやすい。
「イチバン激しい順を選びましたね」
接近戦が得意な仙崎の表情が生き生きしてくる。
「仙ちゃんは、ホントに切った張ったがお好きだから」
そう言いながら、丹野も気合いを入れ直した。
さまざまな変化図が作られては崩される。戦いは下辺から左辺へと広がり、難解を極めた。
局面が進むにつれ、左辺の白石が危ないことが明らかになる。体力的には限界を超えているはずの天宮だったが、着手に乱れは見られない。着実に林名人を追いつめていく。
左辺の白石に活きがないことがハッキリすると、天宮を慕う棋士から歓声があがる。名人戦史上に残る熱戦も、ついに終わりを迎えたと思われた。
「マダ、ワカリマセン」
ただひとり異を唱えたのは、王馬英七段だった。林名人の弟子の発言は師匠びいきの判断にもとれた。
「そうは言っても、さすがに……」
仙崎が返答に窮する。
「キレバ、セメドリニナル。マダ、ワカラナイ」
王は譲らない。
「そうか。たしかに、そうなるとけっこう細かい。ほんの少し、黒が厚いとは思いますが……」
桂木が言うと、一同はもう一度盤面に注目する。
盤上は、王の指摘どおりに進む。攻め取りになれば、単純に取られるのとは違って被害は最小限になる。そうなると、中央の模様を荒らされた黒の損も大きかった。やや黒が優勢のまま、中央での難解な折衝が続く。
「ここから第2ラウンドかよー」
仙崎が大げさにため息をつく。
「そう言いながら、仙ちゃん、うれしそうじゃない」
丹野が言う。
「そりゃ、こんな対局を見せられちゃさ」
ギリギリの戦いが続くのは見ているだけで寿命が縮む思いだったが、これほどの対局を間近で体感できるのは、めったにない貴重な経験だった。
息の詰まるような戦いの結末は、あまりにもあっけなかった。
ヨセに入って間もなく、天宮が致命的なミスを犯す。左辺の一線にハネた白に対し、秒読みに追われて無造作にオサエを打った。オサエた石をキられると、掌中に収めたはずの白石が息を吹き返してしまう。初心者でもわかる簡単なポカだった。
控室では大きなどよめきが起きた。
「やっちまったー!」
仙崎の声は悲鳴に近かった。「忠行(チュウコウ)先生、そりゃないよー!」
打った直後に、天宮も自分のポカに気づいた。うなだれた天宮の顔がみるみる朱に染まる。
「くっ……、ばっ……」
歯をくいしばった口元から、言葉にならない呻きが漏れる。己の愚かさ、不甲斐なさを呪うかのような、痛切な呻きだった。固く握られた拳が、膝の上で小刻みに震える。瞼は固く閉ざされ、天宮は盤面を見ていなかった。オサエた黒石の上を林名人がキる石音を聞いた瞬間、天宮は投了の意思表示をした。
「忠行(チュウコウ)先生、目を閉じたままだったな」
呟くように言って、丹野がため息をつく。
「林名人だって、こんな勝ち方、うれしくないだろうよ」
仙崎が放心したような表情で言う。
取材陣が招き入れられる。カメラのフラッシュがたかれると、天宮が血走った眼で睨みつけた。幽鬼のような形相に思わず後ずさったカメラマンが尻餅をつく。
突然、天宮が激しく噎せる。口元を覆った右手の指の間から血があふれた。倒れかけた天宮を、素早く身を寄せた林名人が支える。別室の医師を呼ぶ橋本の怒声が響きわたった。
のちに「吐血の一局」と語り継がれることになるこの一戦を最後に、天宮忠行は事実上引退する。対局はおろか公の場にいっさい姿を見せることなく、1年後に逝去した。
享年46歳。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
中盤を迎えて両者とも時折少考をまじえるようになったが、5年前の対局と同一の着手が続く。2人とも意地になっているかのように、手を変えない。異様な空気の中、局面は因縁の一戦の棋譜をたどっていく。
〈これ、見たことがある〉
大盤の進行を見ながらユキは思った。わけもなく不安な気持ちが込み上げてくる。囲碁のルールはすっかり忘れてしまっていたが、いま目の前にある局面は間違いなく見覚えがあった。
〈どこで見たんだろう?〉
もどかしさを感じながら懸命に思い出そうとしているうちに、昔の風景が次々と浮かんできた。
父と幼い那智が碁を打っている。いま一緒にいる桂沢の若き日の姿もあった。
……そして、父の最期の姿が浮かんできた。
●4年前。天宮忠行の最期。ユキ9歳
病床でいつもの棋譜の変化を検討する天宮。布団の横に置かれた盤に胡座で向かう天宮は、パジャマの上にカーディガンを羽織っていた。盤の向かい側に正座しているユキは、小柄なせいか実際の年齢よりもずっと幼く見える。
中央に二子が取り残された異様な局面。1年前に打たれた「吐血の一局」だった。最初は見ているだけだったユキは、何度も繰り返し眺めるうちに手順をすっかり覚えてしまった。いつしか、ユキが白をもって因縁の一局のなぞるようになっていた。
黒石を打ちながら天宮が問いかける。
「ユキは碁が好きか?」
「面白いよ」
楽しそうに白石を置きながらユキが答える。
2人は会話を交わしながら、交互に石を置いていく。
「お父ちゃんのことは好きか?」
唐突な言葉にユキは小さく微笑んだ。
「大好き」
「那智兄ちゃんとどっちが好きだ?」
むずかしい質問にユキの手がしばし止まる。
「同じだけ好き」
と言って白石を置いたユキが、はにかんだような笑顔を見せる。
「そうか、そうか」
まさに骨と皮だけに痩せ衰え、50歳前にもかかわらず老け込んで見える天宮が、穏やかな笑顔を見せてうなずく。孫と会話をしながら碁を楽しんでいる老人のように見えた。
時折、天宮が手を変える。
「こう打つとどうなるんだ?」
ユキが首を傾げながら無言で石を置く。
「そうか。そんな手もあるのか。それじゃあダメだな」
感心しながら天宮が局面を戻す。ユキは屈託のない笑顔で天宮の仕草を見ていた。
〈いつの間にこんなに強くなったんだ〉
天宮は半ば呆れ気味に思った。元々“光るもの”をもっているとは思っていたが、この年でここまで強い子は見たことがなかった。幼い頃から厳しく教えた那智でも、ここまで強くはない。とくに石が競り合ったときに見せるセンスには、本気で驚かされることがあった。
「ユキはいいよな、才能があって。もしかすると、もう那智より強いかもしれないしな」
〈それだけ、オレがダメになったってことなんだろうな〉
天宮はさっきまで読んでいた囲碁の専門紙に目を移す。盤側に置かれた新聞のトップ記事には、大きな文字が躍っていた。「林名人、堂々の3連覇」。1年前の名人戦で天宮を退けて以来、無類の強さを発揮する林名人が圧勝で名人位を防衛したことを伝えていた。さまざまな出来事が甦ってきて、天宮の胸に無念の思いが込み上げる。
〈いったい、オレは何をやっていたんだ……〉
「オレは、ダメだ」
自嘲的な口調で、天宮が呟く。
「お父ちゃん、どうしたの?」
肩を落とした父にユキが言う。
「いい気になってただけで、才能なんか、ありゃしない」
天宮の右手から畳の上に黒石が落ちる。「こんなみっともない、こんな……ヘボな碁を打っちまって」
絞り出すような声で言って、肩を震わせる天宮。盤上に一滴、二滴と涙が落ちる。
「お父ちゃん、どこか痛いの?」
盤を離れたユキが、心配そうに父のパジャマの袖を握って顔を覗き込もうとする。
「名人戦の、名人戦の歴史に、泥を塗ったのは……」
と言って天宮は咳き込んだ。「……オレだ」
激しく咳き込み、盤上に突っ伏す天宮。大きな音を立てて石が飛び散る。姿勢を崩した天宮の左手は、専門紙の林名人の写真をわしづかみにする形になった。
「お父ちゃん! お父ちゃん!」
ユキが泣きながらすがりつく。
天宮は最後の力を振り絞るかのように体を起こした。右手と口元は血まみれだった。
乱暴に盤上の石をすべて払い落とすと、天宮は白石を1個拾い上げた。正座になって大きく深呼吸をし、背筋を伸ばす。父の尋常ではない気迫を感じたユキは言葉を失い、身じろぎもしない。
ほんの一瞬、対局に臨むときの真剣な表情に戻ると、天宮は盤上に激しく石を打ち付けた。
次の瞬間、無言のまま天宮の首がガクリと深く折れ、うなだれたような姿勢になる。投了する仕草にも似た動きだった。昭和から平成にかけ、通算8期名人を務めた名棋士・天宮忠行の最期だった。
家族が天宮の異変に気づいたとき、正座の姿勢のままで絶命した父のかたわらで、ユキはただ呆然と盤面を見つめていたという。血痕の残る盤の中央にはただひとつ、天宮の赤い指紋がクッキリとついた白石が置かれていた。
●現在。囲碁高校名人戦の決勝戦大盤解説会場
「今日の仙崎九段は、いつもと違って口数が少ないようですね」
丹野が言う。「お気持ちはお察しいたします。実は、仙崎九段と私は、この局面には暗い記憶がありまして。5年前の対局のとき、控室で検討していたのですが、とにかくむずかしい。わからないことが多すぎます」
「中央でお見合いをしているこの二子がいけないんです」
仙崎がため息をつく。「こんなにはた迷惑なツーショットはありません」
「非常に口数の少ない、いてもいなくても関係ないような情けない解説で申し訳ない。ただ私たちの立場もわかっていただきたいんです」
丹野が済まなそうに言う。「名人戦史上に残る名局に、いちいちコメントできるほどの度胸も力量もありません。変化はいろいろ考えられるんですよ。たとえば、いま一間に飛んだところでこちらにツケる手も考えられます」
「すると、すかさずハネ返され、そんなのはヘボだとしかられます」
仙崎がツッコミを入れる。
笑いに包まれた会場の中で、ユキはしだいに息苦しさを感じていた。少し前から、脳裏に無数の変化図が浮かんでいた。同じようでいて微妙に違う盤面が次々と浮かんできて、わけがわからなくなっていた。
先に中央に手をつけたのは那智だった。黒模様の中で激しいネジり合いが始まる。お互いの着手は、相変わらず因縁の一局をなぞっている。異様な雰囲気に包まれた大盤解説会場の関心は、「いつ、どちらが手を変えるか」の一点になりつつある。
かつての名勝負をなぞっていることが解説者の口を重くしていたが、対局者の立場はもっと深刻だった。
「丹野九段、なんかこの緊張感に押し潰されそうなんですけど」
仙崎がネクタイをゆるめながら言う。
「同感です。でも、対局者が感じているプレッシャーはそれ以上でしょうね。これだけの観客の前で、あの名局を並べて、しかもどこかで変化しなければならない」
「それって、ある意味、名人の着手にダメ出しすることになるんですよね」
「そう考えると、ものすごく恐ろしいことです。ボクには絶対にできない。ただ、どこかで必ず変化してくるはずです」
手を変えることは、お互いの父が築いた名局を否定することにもなりかねない。超えがたい存在を凌駕するだけの自信と覚悟がなければ、うかつに手を変えることはできないはずだった。
混戦の最中、157手目で那智が手を変える。
黒石を置くときの那智の顔は活き活きとしていた。無言のままでも、着手が雄弁に語っていた。
〈父さんの残した棋譜はスゴい。でも、ボクはこちらのほうがもっといい手だと思う。ここまでは父さんたちの棋譜だった。でもここからはボクたちの棋譜だ。明日香さん、どうする?〉
「ここで変えてきましたかー」
丹野が言う。
「なるほどー。これはいい手かもしれません」
仙崎が感心する。「那智クンは、これを狙っていたんですかね」
重苦しい雰囲気から解放され、2人は変化を検討し始める。那智の狙い澄ました一着に、明日香が長考に沈む。
〈いい手だわ。那智クンはやっぱり強い。でも負けない。ここからが本番よ。きっとうまい返し方がある……〉
ユキの脳裏の碁盤が、いっそう激しく動き始める。大盤の解説に呼応するかのようにすさまじい勢いで変化図が浮かぶ。顔面蒼白のユキの状態が、明らかに異様なものになる。脳裏に浮かぶ変化図とは微妙に違う変化図が目の前の大盤で作られることが、ユキの混乱に拍車をかけた。
「どうしたの? ユキ! 大丈夫?」
楓子が話しかけるが、ユキは一種のトランス状態に入っていて返事をしない。大きく見開かれた瞳の焦点が定まっていなかった。
「ユキちゃん、どうした?」
自分の席を離れた桂木がユキの前にひざまずき、ユキの手をとる。最前列の騒ぎに注意を奪われかけた仙崎と丹野に、解説を続けるように合図を送る。
「キる、ノビる……」
独り言を呟きながら、苦悶の表情を浮かべるユキ。
盤面は一直線の進行になる。難解ながら、黒の有利な戦いになっていた。
若干不利なことを意識しながら、明日香は勝負を楽しんでいた。いつもは大人が相手だった。昨日の対戦相手も高校生だったし、最後のひとり以外は大したことがなかった。
〈でも那智クンは違う。昔からスゴいとは思っていたけど、こんなに強くなっているとは……。でも絶対に負けない〉
いま目の前に那智は、同じ中学生なのに本当に強かった。そんな相手と全力で戦えることがうれしくてたまらなかった。
当然の一手と思われる那智の着手がモニターに映し出されると、ユキが悲鳴をあげる。
「ダメーッ!」
そう叫んでユキは気を失った。「……グズまれる」
〈……グズまれる〉
うわ言のようにユキが呟いた言葉が何を意味するのか、楓子にはわからなかった。瞬時にユキの言葉を理解した桂木が、大盤を振り返る。
〈そうか……たしかに〉
グズミのあとの変化をヨんで、桂木は驚愕の表情を浮かべる。
少考した明日香が放った一着は、いかにも筋の悪そうなグズミだった。
「これはどうなんでしょうね」
丹野が首を傾げる。
「よくわからない手ですね」
仙崎も怪訝な顔をする。「ひと目筋の悪い手だけど、ちょっと待てよ……」
変化図を作りながら、仙崎の顔色が変わる。
局面が進むにつれて、明日香の放ったグズミが起死回生の一着だったことが判明する。危なく見えた白石が安泰になり、むしろ黒が被告の立場になった。
懸命の粘りを見せた那智も挽回のすべを失い、間もなく投了した。
●エンディング。決勝戦会場の医務室
医務室のベッドで目覚めるユキ。
「気がついた?」
傍らのいすに座っていた楓子が心配そうに声をかける。楓子の横には、長身の桂木が立っていた。
「対局は? お兄ちゃんはどうなったの?」
「頑張ったんだけどね」
楓子が残念そうに首を振る。「負けちゃった」
ユキは無言で顔を伏せた。
「ユキはどうしちゃったのか、話せる?」
「盤面の進行に見覚えがあって、どこで見たのか思い出そうとしたの」
観戦中に陥った不思議な感覚を思い出しながら、ユキが話し始めた。「一生懸命思い出そうとしたら、昔のいろんなことが頭の中に浮かんできた……」
兄に稽古を付ける厳しい父の姿があった。優しく教えてくれる桂木の姿も思い出した。囲碁が上達するのが何より楽しかったこと。自分をほめてくれるうれしそうな父の笑顔。父が繰り返し並べていた局面……。
「ユキ、大丈夫?」
楓子が心配そうに声をかける。
「大丈夫、なんともない」
差し出されたハンカチを見て、ユキは母を見上げた。知らず知らずのうちに自分が涙を流していたことに初めて気づく。
「なんでだろう。なんともないはずなのに、涙が止まらない。いろんなことをしているお父さんが出てきて、なんだかすっごく懐かしくて……」
「ユキ……」
話を聞きながら、楓子も涙ぐんでいた。桂木がそっとハンカチを手渡す。
「お父さんが、何度も並べていた棋譜があったの。それが、お父さんの最後の対局だったことが、さっき、初めてわかった」
途切れがちにユキが言う。「それと同じ局面が続いて……見ているうちに、似てるけど少しずつ違う局面が、次から次へと浮かんできた。たしか、お父さんが並べていたものだと思う。それが、ものすごい速さでいっぺんに浮かんでくるから、気持ちが悪くなっちゃった」
ユキの脳裏に甦ってきたのは天宮が検討していた変化図だったことは、桂木にも想像がついた。だが、5年も前の変化図を、すべて覚えているとはとても信じられなかった
「お嬢さん」
やや強張った声で桂木が言う。
「お嬢さんって呼び方はやめてって言ったでしょ」
と言ってユキが桂木を睨んだ。「もう忘れたの?」
「ごめん、ごめん。うっかりした」
ユキが嫌がる昔の呼び方を口にしてしまったことを、桂木は謝った。
〈いったい何をうろたえているんだ〉
自問した桂木は、自分がヒドく動揺していることを自覚した。
「で、ユキちゃん、ひとつ訊いてもいいかな」
「何?」
ユキが怪訝そうな顔をする。
「気を失う前に、グズまれる、って言ったのは覚えてるかな」
と桂木が訊くと、ユキは首を傾げた。
「そんなこと言った? それは覚えてない。でも、あそこで白にグズまれると、黒が勝てなくなるのはわかった」
「それも局面が浮かんできたのかな」
「浮かんではきたんだけど、さっきまでのとは、ちょっと違うの。途中で、お父さんたちの対局と手順が違ってきたんでしょ? あのあたりから、それまでとは全然違う感じで局面が浮かぶようになったの。なんて言うのかなぁ……大盤で解説される局面の次の手がわかるようになった。その手を打つと次にどうなるか、ってのが考えなくても自然に浮かんでくるというか……」
〈まさか……〉
ユキの話を聞いているうちに、桂木は手のひらが汗ばんでくるのを感じた。
「ところで、ユキちゃん。グズミってなんのことかわかってる?」
「あーっ。桂木さん、いまワタシのことバカにしたでしょ。それくらいわかりますよー。グズミはグズミでしょ。口ではうまく説明できないけど、形はよーくわかってます」
桂木と楓子が顔を見合わせる。
「記憶が戻ったのかしら」
楓子が小声で言う。
「おそらく……」
桂木も小声で言う。
〈それだけじゃないのかもしれない〉
桂木は思った。
「黒があの2手前に打ったキリがよくなかったんだよ」
ユキが独り言のように言う。「キらずに、単にノビてれば、お兄ちゃんの勝ちだったのに……」
ユキの言葉を聞いて、桂木は青ざめる。
〈間違いない〉
ユキが指摘した手の後の変化をいろいろ思い浮かべる。たしかにどう打っても白が苦しそうだった。
ユキの症状について、桂木は脳の専門家に相談したことがあった。精神的に大きなダメージを負ったために、ユキはそれを忘れようとして、記憶の一部を封印している。
何かをきっかけに、その封印が解ける可能性は十分にある。そのときに、どんなことが起こるのかは予測できない。普通に思い出すだけかもしれないし、段階的に記憶が戻るのかもしれない。とんでもない事態が起こる可能性も否定はできない……。
専門家にもわからない微妙な問題のようだった。
●3年前。沢木知彦の研究室
おびただしい資料があふれる研究室の片隅に設けられた応接スペース。桂木と沢木知彦が、向かい合って座っている。
「ものすごい倍率で圧縮をかけていたデータを、一挙に解凍すると考えるとわかりやすいかもしれません」
沢木は、脳をコンピュータにたとえて話した。インテリと呼ぶにふさわしい知的な風貌の沢木の口調は、どこか冷たい印象があった。
沢木は、桂木が「囲碁の未来」をテーマにしたテレビ番組にゲスト出演したときに知り合った研究者だった。国立大学の大学院で大脳生理学を研究している沢木は、囲碁の対戦型ソフトの開発にも携わっていた。
「データの量が処理速度を超えてしまうと、コンピュータは機能しなくなります。フリーズするか、暴走するか……データの量にもよりますが、なんらかのトラブルが発生することが予想されます」
桂木の反応を確認しながら、沢木はゆっくりと説明する。「ただし、脳の仕組みはもっと複雑なので、トラブルを回避するために安全装置が動作するはずです」
「その安全装置というのは、たとえばどういうことなんですか」
「これは、半分くらいは私の個人的な考えですが……」
と沢木は前置きした。「コンピュータと脳が大きく違う点はふたつあると思います。ひとつは、脳には忘れるという特性があることです。すべてのデータを記憶していたのでは、収拾がつかなくなる。そこで、脳は重要度の低いデータはどんどん忘れてしまうんです。ときには、自分の都合の悪いデータ、いわゆるイヤな記憶を無意識のうちに忘れるという荒業も使います。ユキさんのケースも、精神的なショックに起因する記憶喪失ですから、この荒業の一種と考えていいでしょう。ただ、あくまで忘れただけで、消去されてはいません。脳の中には、すべてのデータが消去されることなく残っているので、なんらかのキーワードが与えられると、復元することができます。ハードディスクの容量はどんなに大きくなってもしょせん有限ですが、脳の記憶容量は、理論上は無限です。その膨大なデータが一挙に復元されることは考えにくいでしょう」
「つまり、すべてをいっぺんに思い出すことはないと」
「仮に桂木先生が同じ状態になったとして、囲碁に関する知識がいっぺんに復元したら、パニックになると思いませんか?」
と言って沢木は眼鏡に手をやった。「もちろん、桂木先生とユキさんとではデータ量に大きな違いがあるでしょうが」
ちょっと想像できなかったが、恐ろしい事態になりそうなことは桂木にも予想できた。
「脳とコンピュータのもうひとつの大きな違いは、判断力です。取捨選択の力と言いかえることもできます。これは前にお話ししましたよね」
囲碁で次の一手を考えるとき、可能性だけを考えるなら空いている場所はすべて着手できる。序盤なら300以上の選択肢があり、すべてを考えるのはものすごいロスにつながる。ところが、人間が次の一手を考えるときには、選択肢はぐっと限られる。上級者になればなるほど選択肢が限られ、それだけロスが少なくなる。それぞれの手について、相手の着手、それに対する自分の着手……と考えることを想定すると、コンピュータのロスは膨大になり、とても人間の思考のレベルにはたどり着けない。テレビ番組の収録の際に、沢木はそんなふうに語った。
「2つの違いと言いましたが、突き詰めれば、どちらも情報の重要度の判定ということになります。大きなトラブルになりそうなときには、脳は重要度の低い情報をバッサリと切り捨てます。脳の働きの中では、これはごく当たり前の安全装置なんです。詳しいメカニズムはわかっていませんが」
と言って沢木は微笑んだ。「話を聞いた限りでは、それほど深刻に考えることはないと思います。ただ、日常生活の記憶をなくすのと違い、ユキさんの場合は囲碁の知識という特殊なものをなくしていますから、記憶が戻ったときにどんなことになるのか予想がつかないところがあります。いずれにしても症状に変化が出たときには、ご連絡いただけませんか。何かアドバイスができるかもしれません」
●現在。決勝戦会場の医務室
「何ふたりで内緒話してるのよ」
ユキが言う。「桂木さん、ボンヤリしてどこか遠ーい世界に行っちゃってるじゃない。ダメだよ、お母さん。前途有望な若者をクドいたりしちゃ」
「どこでそんな言葉を覚えたのよ」
と言って苦笑した楓子は、真顔で桂木を見た。「私は碁のことはわかりませんが、当たり前のことなんですか? 頭の中に碁盤が浮かぶというのは」
「個人差はありますが……」
桂木はちょっと考えた。「プロ棋士なら、当たり前だと思います。同時に何面も浮かべることができる人もいます。アマでも、有段者クラスならそうむずかしいことではないでしょう」
「へえー」
楓子が感心する。「さっき、那智と相手のお嬢さんが5年も前の対局を正確に覚えていたのにも驚いたけど、いったいプロ棋士の頭の中っていったいどうなってるのかしら。一度開けて中を調べてみたい」
「楓子先生にだけは言われたくないな。脳の研究者が一番開けて調べてみたいのは、たぶん楓子先生の頭の中ですよ」
そう言いながら、桂木は別のことを考えていた。頭の中に局面を思い浮かべるくらいは、プロ棋士でなくてもできる。頭の中の盤面で変化を検討するのも当たり前のことだ。だが、ユキが言うように無意識のうちに次の一手が浮かぶとしたら、それはまったく別次元の話になる。
〈沢木さんならなんて言うだろう〉
クールな印象の横顔を思い浮かべながら桂木は考えた。記憶を取り戻したことによる一時的なものなのだろうか。もし一時的なものでないのなら、とんでもない話だった。
〈このコは、とてつもない才能を身につけたのかもしれない〉
これも沢木の言っていた「安全装置」の働きなのか、桂木にはまったくわからなかった。
「お母さん」
ユキが改まった口調で言う。「ワタシ、また碁を始めてもいいですか?」
「それは、プロを目指したいって意味?」
「そんな先のことはわからない。でも、さっきいろいろ思い出したときに、碁を打つのがすごく楽しかったってことだけはわかったの。だから……」
「ユキの好きなようにしなさい。ただ、ひとつだけ約束してほしいの」
楓子は静かな口調で言った。「これから先、ユキがどんなふうに碁と付き合っていくのかはわからない。もしプロを目指すなら、楽しいことだけではなく、苦しいこともたくさんあると思う。でも、どんなことがあっても、碁を嫌いにだけはならないで。それだけは約束して。お母さんの言いたいことわかる?」
「バッカじゃないの。お母さんは、何もわかってない」
と言ってユキはうつむいた。「さっき、よーくわかったの。ワタシにとって、碁はお父さんの思い出そのものなの。いろんな思い出が詰まった大切なものなの。嫌いになんて、なるわけないじゃない……」
涙声になったユキは言葉に詰まった。
「これね、いつかユキに渡せる日が来るかなと思って、ずっともっていたの」
楓子がバッグからお守り袋を取り出した。「開けてごらんなさい」
ユキが、袋の口を広げて逆さまにする。手のひらに落ちたのは白い碁石だった。うっすらと赤い縞模様がついていた。それがなんなのか、ユキにはすぐ見当がついた。
「わかる?」
楓子の言葉に、ユキは無言でうなずいた。ついさっき思い出した風景の中で、異様なまでの輝きを放っていた白石に間違いなかった。
「お父さんが最期に打った石よ」
楓子が言う。「おじいちゃんやおばあちゃんは気持ちが悪いっていうけど、その石は、お父さんがユキに遺したメッセージだと思うの」
「どうして?」
「話したことなかったかな。お父さんにとって、黒石は那智のことなの。那智って、黒石の材料になる石の有名な産地なんだって。それで、白石はユキのことなのよ。本当は漢字の雪、スノーの雪にしたかったんだけど、それじゃ古くさいから、カタカナにしたの。最期にわざわざ白石を打ったってことは、お父さんも、ユキに碁を打ち続けてほしいと思ってるんじゃないかな」
「お父さん……」
と呟くユキ。大粒の涙が、手のひらの白石の上に落ちた。
〈そういうことだったのか〉
と桂木は思った。忠行(チュウコウ)先生が最期に天元に打つのなら、黒石がふさわしい。なぜ、あえて白石を選んだのか疑問だった。最期を看取ったユキへの想いを込めて、白石を選んだのだ。
「桂木先生、ユキの力に、なってもらえないかしら」
「私にできることなら、なんでもします」
遠慮がちな楓子の言葉に、桂木は即答した。
「そうだよ」
と言ってユキが顔をあげた。「ワタシに碁を教えてくれたのは、桂木さんなんだよ。全部思い出したんだから。あの頃の桂木さんは、いまよりずっと若くて、ずっとイケメンで、すっごく優しく教えてくれた」
「それは、いまはもうオジサン入ってるってことかな?」
「ノーコメントです」
ユキが顔をしかめる。「ワタシは一番弟子なんだから、ちゃんと面倒を見てくれなくっちゃ」
「楓子先生、師匠に対してこういう生意気な口をきく弟子は、いかがなものなんでしょうか」
桂木が苦笑しながら楓子を見る。
「いつでも破門にしてください」
と言って楓子が笑う。
「ヒドいよー、ふたりとも」
ユキが泣き笑いを浮かべた。
桂木亮介、25歳。天宮ユキ、13歳。
この若い師弟は、のちに自分たちが名人位をめぐって壮絶な戦いを繰り広げることになる運命など、知るよしもなかった。
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