読書感想文/『読ませる技術』(山口文憲/ちくま文庫/2004年3月10日第1刷発行)

 とっくにアップしたと思っていた(泣)。
 たぶん2004年くらいに書いたもの。

 サブタイトルは「書きたいことを書く前に」。2001年3月にマガジンハウスから単行本として出版されたときのサブタイトルは「コラム・エッセイの王道」だった。
 先入観があって軽視していたが、これはかなり強力。「コラム・エッセイ」部門では最強じゃないだろうか。続編の原稿書きに苦戦中の身としては、いろいろ考えさせられた。
【引用部】
 うまい文章を書く秘訣というのはありません。あれば私がとっくにやってますし、絶対人に教えたりなんかしないでしょう。
 でも、まずい文章を書かないコツはあります。(山口文憲『読ませる技術』p.13)
 冒頭からこれだも。偉そうじゃないし、力みがないからスルスル読めてしまう。
 やっぱりこの方法が正しいんだろうな。「悪い例」を反面教師にするほうが話が早い。うまい文章のパターンの解析が可能ならいいんだけど、事実上不可能なんだから、反面教師方式しかない。
 うまい文章にはパターンがないが、まずい文章には一定のパターンがあるそうな。したがって、対策を立てることができる。 
【引用部】
 車の運転のことを考えてみてください。車の運転は習えば誰でもできますが、F1レーサーには誰でもなれるわけではない。そもそも「F1レーサーになってやろう」なんて破天荒な考えで自動車教習所に通う人はいないでしょう(いたら困ります)。自動車の運転を習うときは、まず止め方、曲がり方から覚えます。つまり、とりあえずまずい運転をしないコツを身につける。ぶつからない方法を学ぶ。だから誰にでもできるんです。文章だって同じことです。まあ、文章の場合は、まずい運転をしたって、自分が死ぬわけでも人を殺すわけでもないから、いいようなものですが……。(山口文憲『読ませる技術』p.14)
 以前から考えていた「技術」と「才能」を説明する「例え」。この運転の話も考えた。よかった、書かなくて。ほかには、スポーツ、描画……とかいろいろ考えられる。文章を書くことに関して基本的技術を軽視しがちなのは、なまじ日本語に慣れ親しんでいるからだろう。そりゃ日常的にフツーに使ってるんだから、文章だって書けると思うよな。
 そう考えると、「外国語と考えろ」という清水幾太郎の極論に近づいていく。たとえば、英語に相当堪能な日本人がいたとする。その人が書いた英語の文章は、意味は通じるだろう。しかし、それが自然な文章かというと別問題。ましてうまい文章だなんて可能性はきわめて低い。これと同様で、日本語をフツーに扱える人が日本語の文章を書く場合も、自然な文章やうまい文章を書くのは簡単なことではない。
 本書の話に戻ろう。続いて具体的なポイントが紹介される。
  (ポイント1)すでに誰かが書いていることは、書いてはいけません。
  (ポイント2)世間の常識をなぞってはいけません。
  (ポイント3)身近なことを書けばいいんです。
  (ポイント4)オリジナルな切り口で勝負する。
 それぞれの説明が適確なうえにおもしろいからたまりません。
【引用部】
 ではそこをクリアするにはどうしたらいいか。新聞や雑誌に載っている投書というのは、だいたい半分が「たんなる正論」、あとの半分が「たんなる俗論」なので、とてもいい教材になります。(山口文憲『読ませる技術』p.19) 
「大半が正論」なら誰でも書けるけど、この「正論」と「俗論」の話はおみごと。全文引用したいぐらい。それはさておき、「半分が……、あとの半分が〜」という表現はよく見るけど、問題視している記述はあまり見ない。「あとの半分」だと「全体の1/4」に見える、ってのはヘリクツかね。かと言って、「半分が……、残りが〜」はちょっとヘン。「半分が……、残り半分が〜」ならマシかな。もっとシンプルに「半分が……、半分が〜」でいいのかな。前にチェックした例を調べてしまった。『仕事文の書き方』のp.48で、こちらは「一部が……、残りの一部が〜」だった。こうなると「残りの大半」がどこかに行ってしまう。
【引用部】
 たとえば四ブロックでできている文章を書いたとします。これが、規定枚数二枚のところ、全部で四枚になってしまった。どうしよう。だったら四ブロックそれぞれを半分に切ろうか。そうすれば全体の構成はそのままで二枚に収まる。たいがい、こう考えます。でも、これは絶対にやってはいけません。均等削り、チョイ削りはダメなんです。黙って一、三をとるか、二、四をブロックごと削るしかない。
 その場合、正解はまず「一を削れ」であると申し上げて大過ないと思います。(山口文憲『読ませる技術』p.57)
 このあとに紹介されているエピソードが傑作。編集者時代の村松友【視】が作家から40〜50枚の原稿を渡されると、頭から10枚ぐらいをロクに読まずに捨ててしまう。すると、原稿は必ずよくなった。この話に感動した嵐山光三郎がマネをしたら作家に殴られた……オチまでみごと。
 素朴な疑問が湧く。「書き出しに気を配れ」って心得はどこに行ってしまうんでしょ。話が逆で、ヘンに書き出しに凝るからこういうことになるんだろうな。
【引用部】
 だいたい頭は余計なことを書くんです。だから削ったほうがいい。
 たしかに、頭が書けると九割書けたような気がするというのも、一方の真実としてはあります。けれども私の経験からいうと、頭に凝るときというのは、中身があまりよくできていないときです。
 それを避けるには、いきなり核心の部分から書き始めるのがいいかもしれません。いまはワープロも普及していますから、それでもまったく不便はない。(山口文憲『読ませる技術』p.58)
 一応「私の経験からいうと」「かもしれません」と断言はしていないが、確信している気配がある。
【引用部】
 よく文章には形があるといわれています。昔からいわれていて、誰でも知っているのが「起承転結」です。「起」で始まり、承で受けて、転じて結ぶ。ほかに「序破急」というのもありますね。これは能からきているんでしょうか。序(導入)で始め、破(展開)で趣向を変え、それから急(終結)で収める。いろいろありますが、あまり気にしなくていいんじゃないかと思います。(山口文憲『読ませる技術』p.93〜94)
 ほかの部分を加味すると、コラム・エッセイに限れば、ヘンに組み立てに凝ろうとするよりも「核心から」が正解だろう。
 p.94〜の「入口」の話のなかにも、〈いきなり入ったほうがいい〉〈助走、前戯——なんでもいいんですが——なるべく短く。そして大胆に〉〈文章も、そうやってポーンと出たほうがいいんです〉と繰り返している。ただし、〈いくら出足がよくても、思わせぶりな書き出しはやはりバツでしょう〉とのこと。
【引用部】
(例文)
 一瞬白い閃光を見た。同時に身体がふわっと宙に浮く感覚があった。グシャリと何かがつぶれる音を耳の奥で聞きながら、ああこれで死ぬんだなと思った。記憶はそこで途切れている。意識が戻ったのは自動車事故から十日目。集中治療室のベッドで、被害者は、自身の命と引きかえに、同乗していた妻と右足を失ったことを知らされる。原田進、四十三歳、埼玉県西部でクリーニング業を営む……(山口文憲『読ませる技術』p.95)
 新聞の企画もので「人間どきゅめんと」みたいなタイトルにありがちな書き出しとして紹介されている。これはクサい文章の見本にできそうだな。解説がなかなか厳しい。
【引用部】
 なんでフツーに書けないのか、といいたくなります。本人は気のきいた書き出しのつもりなんでしょうが、こういうのはいただけません。悪しき文学趣味というか、ただ思わせぶりなだけ。昔、加藤茶がやってた「ちょっとだけよ」のほうが、よっぽどセンスがいい。こういうのを真似してはいけません。
 ついでにいえば、これ系の文章が、わざと人称をはぶいて、書き手が勝手にひとの思いや体験に入り込む手法も大バツでしょう。「一瞬白い閃光を見た」って誰が? 「ああこれで死ぬんだなと思った」って、誰が思ったの?(山口文憲『読ませる技術』p.96)
 たしかにクサい文章だけど、ここまで言わなくてもいいのに。「悪しき文学趣味」だし、「ただ思わせぶりなだけ」なのは認めざるをえないけど。「ちょっとだけよ」以下ってのはアンマリ。
 p.99〜のテーマは〈ロジックをはっきりさせるためのブリッジ〉。ずいぶんさらりと書いてあるけど、内容はすごく「深い」気がする。
【引用部】
 ロジックがしっかりしていれば、文章のブロック同士は、「けれども」とか「しかるに」とか、「なお」とか「また」といったことばでつなげることができるはずです。ですからまず、自分が書いた文にそういうものが入りうるかどうかをチェックしてください。それがうまく入らないようなら、ロジックがまちがっているんです。(山口文憲『読ませる技術』p.100)
 この論法は初めて見た。
 このあと、ブロック同士をつなぐ「ブリッジ」に「しかし」を使っていけないと書いてある。「しかし」はBUTとは〈かならずしも同じじゃない〉らしい。
【引用部】
 たとえば、「また」とか「いっぽう」、つまり並列の場合も「しかし」でOKですし、前の命題を保留したり、条件をつけたりするときにも「しかし」が使える。「AはBである。しかしCでもある」「AはBである。しかしCではない」という具合ですね。「しかし」は一種の間投詞と考えてください。「しかし暑いねえ」なんていうでしょう。でも、なにが「しかし」なんだかわからない。「それにつけても」という意味しかない。「それにつけても金の欲しさよ」という万能の下の句と同じで、どんな上の句にもつながってしまう。(山口文憲『読ませる技術』p.100〜101)
 こうなってくると、なにがなんだか判らない。「しかし」を使わず先の【引用部】にあるように「けれども」を使えってこと? なんだか巧妙に論点をズラしている気がする。虚をつかれたのは「しかし暑いねえ」の用法。たしかにこういう使い方はする。「けれども」とか「でも」にはこんな用法はないから、かなり特殊。会話だと、反論でもないのに「でも……」とか「逆に言えば……」といった言い回しをする人は多い(他人事じゃねえ)。単なる口癖なんだろうな。けれども、「しかし」を「一種の間投詞」と解釈するのは無理だろう。
「AはBである。しかしCでもある」「AはBである。しかしCではない」は両方ともアリ。それは「しかし」が曖昧なのではなく、文脈による。なんだかこのあたりは清水幾太郎の「ガ、」の話を想起させる。
 感心したのは、チェック後の話。
【引用部】
 さて、チェックがすんだら、いまの話はすっぱり忘れてください。
 理科系の論文のようなものをご覧になるとよくわかりますが、この手の文章は「あるいは〜また〜したがって〜」の大連続です。「ここに一個のリンゴと一個のリンゴが存在する。両者の和は、従って二個になる」みたいな書き方をするんですね。もちろんある種の文章は、どこにもちがう解釈の余地を残さないためにそう書く必要があります。法律の文章などでは、接続詞のひとつひとつを厳密に定義して使います。でも、普通はしません。接続詞を入れずぎるとうるさくなりますから。
 ですから、チェックのときは接続詞を入れてみなければいけない。しかし、本番ではできるだけ外していく。これが基本だと思いますね。つぎの例を見てください。(山口文憲『読ませる技術』p.101)
 こういう書き方ができるのは、コラム・エッセイに対象を絞っているからだろうな。実用文全般に話を広げると、こうはいかない。それにしても手口は巧妙。通常は論文だってここまで極端な書き方はしない。しかし、こういうふうに書かれると「そう、そう」と思ってしまう。「チェックのときは接続詞を入れ、本番ではできるだけ外す」は、コラム・エッセイに限れば極意になる。論文の場合とのサジ加減がむずかしいんだが。
 このあとの例文は、さらに巧妙。
【引用部】
(例文)
 二十代の頃の私は、ずっと東京へ出たいと思っていた。だが、そんな私の思いを知りながら、父は首をたてに振ることがなかった。そこであるとき、私は伯父に父の説得を頼んだ。また伯母にも口添えをしてくれるようにいった。つまり、私の味方を二人こしらえたわけだが、にもかかわらず、父の態度には少しも軟化の気配がなかった……(山口文憲『読ませる技術』p.102)
〈傍線のことばはなくても通じる。というか、ないほうがすっきりします〉と書いてあるが、当たり前だ。「ないほうがすっきりする」例文を作っているのだから。しかも、趣味の問題では片づけることができないように計算し尽くしている。もし計算づくでなくこの例文を作ったとしたら、天才。どこが巧妙なのか、細かく見てみよう。まず、接続詞を抜き出して一般的な役割を書き添える。
1)だが(逆接)
2)そこで(順接)
3)また(並列・追加)
4)つまり(説明・補足)
5)にもかかわらず(逆接)
 一般論として、いちばん削除しやすいのは「順接」の2)。この場合は「話題の転換」の接続詞に近い働きをする「あるとき」を併用しているから、ますます不要度が高くなっている。「あるとき」を削除してみるとよく判る。それなら「そこで」はあってもいい感じになる。
 3)の「また」。一般論として、ほぼ外せる。後ろの格助詞を「も」にすれば、外せる可能性は高くなる。この場合は、すでに「も」に準じる「にも」を使っている。文脈も明らかな「並列」だから、不要度が高い。
 4)の「つまり」。これももともと不要度が高い上に、強い因果関係を示す「わけだ」を併用してダメを押している。
 1)と5)は「逆接」だから原則的には削除できない。ところがこの場合は、「逆接」の働きがある接続助詞(「ながら、」と「が、」)を併用しているから、1)と5)はもともと不要なのだ。文の結合によって接続詞を削除している形であることは、少し書きかえれば判る。
  【原文1)】(接続詞アリ)
   父はそんな私の思いを知っていた。しかし、首をたてに振ることがなかった。
【書きかえ文1)】(接続詞ナシ)
 そんな私の思いを知っていたが、父は首をたてに振ることがなかった。
【原文5)】(接続詞アリ)
 つまり、私の味方を二人こしらえたわけだ。しかし、父の態度には少しも軟化の気配がなかった。
【書きかえ文5)】(接続詞ナシ)
 私の味方を二人こしらえたわけだが、父の態度には少しも軟化の気配がなかった。
【原文5)】の「つまり、」を残したくなるのは、一文が短くてリズムが悪く感じるからだろう。リズムを無視するなら、削除しても支障はない。こんな巧妙な手口で接続詞をおとしめるのは反則だよー。まあ「技あり」ってことにしておきましょうか。
 p.102〜のテーマは〈ロジックをごまかすためのブリッジ〉。真っ先にあげられるのが「〇〇といえば」。
【引用部】
 この「〇〇といえば」は、ふたつの近親性のあるイメージをつなぐときに使うのが基本です。だから「夏といえば朝顔」はアリですが「冬といえば朝顔」はない。用例をさかのぼれば、いきつくところは、たぶん「春はあけぼの」でしょう。「春は」の「は」が「といえば」になっている。清少納言の時代から、もう千年ぐらいの歴史のある用法なんですね。(山口文憲『読ませる技術』p.103〜104)
 この着眼点は、みごとすぎる。
 このほかにもブリッジの例をあげている。
・閑話休題(本来はつながらない文章をつなげるとき)
・それはともかく/ともあれ(その話題から出ていくとき)
 p.141〜の〈気をつけることアラカルト〉。解説の壇ふみは〈この項だけでもいままで読んできた「文章読本」をひっくるめたくらいの価値がある〉とたたえている。たしかに価値は高い。
【引用部】
〔比喩〕
 比喩は文章の味と香りを決める大事な調味料ですが、あまりに手垢のついたアホらしい紋切り型はよしましょう。「りんごのようなほっぺ」「白魚のような手」「水を打ったような静けさ」などなど。(山口文憲『読ませる技術』p.143)
 比喩が怖いのは、「アホらしい紋切り型」や「悪しき文学趣味」と非常に仲良しだからだろうな。だから安易に使ってはいけない。



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