『漢字と日本人』(高島俊男/文春新書/2001年10月20日第1刷発行/2001年12月1日第4刷発行)

【読書感想文 お品書き 】
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 さっきアップした読書感想文と同じ月に下記があったので、メモがわりに。

 イヤだな。高島さんの本を読むと、無知を思い知らされて気持ちが暗くなる。根本的な教養が違いすぎるんだからしょうがないんだけどさ。

「和語に漢字をあてるおろかさ」(p.86~)
 著者に、表記に関する質問の手紙が来ることがあるらしい。たとえば、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などはどう使い分けるべきなのか。あるいは、「計る」「図る」「量る」「測る」などの場合は……。
 わたしはこういう手紙を受けとるたびに、強い不快感をおぼえる。こういう手紙をよこす人に嫌悪を感じる。こういう手紙をよこす人は、かならずおろかな人である。おそらく世のなかには、おなじ「とる」でも漢字によって意味がちがうのだから正しくつかいわけねばならない、などと言って、こういう無知な、おろかな人たちをおどかす人間がいるのだろう。そういう連中こそ、憎むべき、有害な人間である。こういう連中は、たとえばわたしのような知識のある者に対しては、そういうことを言わない。「滋養分をとる」はダメ、「摂る」と書きなさい、などとアホなことを言ってくるやつはいない。ほんとに自分の言っていることに自信があるのなら知識のある者に対してでも言えばよさそうなものだが、言わない、もっぱら自分より知識のない、智慧のあさい者をつかまえておどす。
「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかきわけるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」もおなじ。その他の語ももちろんおなじ。(p.87)
 正論なんだろうな。こういう指摘を目にすると、漢字の使い分けに悩むのはバカって気になる。ただね……おそるおそるインネンをつけはじめる。
 たしかに、表記なんて最終的には書き手の好みの問題になることが多い。著述家の表記に対して文句をつけるのはバカ(不統一が目立つとインネンをつけたくなるけど)。ただ、指導的立場の人は、愚かとわかっていても、こういう使い分けを前提にするしかない。
 著者は「和語はかな書き」を原則にしているようで、ここに引いた文章にもその傾向がうかがえる。しかし、これを素人がマネするのは相当むずかしい。引用文中の表記で見てみよう。
「強い」「おろかな」「ちがう」「あさい」……と形容詞&形容動詞を並べると「強い」だけが漢字になっている。 副詞の「かならず」をかな書きするのも珍しい。「憎む」は漢字で、「憎い」ならどうなるのだろう。
 などと考えていくと、収拾がつかなくなる。著者は当然なんらかの法則性に従って書いているから混乱などしないのだろうが……。

 明治以後の英語神聖化、英語崇拝、それとおなじことが、あるいはもっと極端な形で、漢字神聖化、漢字ばかりでできている書物やそういう書物をよむ人間に対する尊敬、崇拝としてあったわけだ。
 ことばの素性という観念があれば、字音語と和漢混淆語は漢字で書かねばならぬが、和語は何も漢字で書く必要はない、かなで書いたほうがよい、という判断もできるのだが、それがわからないから、なんでも漢字で書くのが正式だと思ってしまうのである。「宿場」や「本陣」は漢字で書くべき語だが、「はたご」は和語なのだからかなでよい、かなのほうがよい、と言っても、どこがちがうのかわからないわけだ。(p.112~113)
 この前段には「日本語も英語も言語として同格である、日本人が英語がわからなくてもすこしも恥ではない、とはっきり言うのは、英語のできる人、すくなくとも教育のある人である。」という一文がある。この一文がそのままインネンに使えそう。一般の人あるいは十分な教養のない人は、漢字を否定できない。個人的には? 副詞を別にすれば、漢字で書けるものできるだけ漢字で書きたい、という思いが捨てきれない。

それもそのはずで、日本語だけの文章というのは平安女流文学ぐらいしかないからその方法でゆくほかないわけだが、あれは女が情緒を牛のよだれのごとくメリもハリもなくだらだらと書きつらねたものだから、あの方式でガッチリした論理的な文章を書くのは無理なのである。つまりは、千年にわたって一度も日本語の文章を構築しようとしなかった日本の男たちの罪なのである。(p.118)
 怖いこと書くね。婦人団体(?)あたりからクレームが来ないのかね。もっとも、いちばん罪が重いのは「男たち」って書いてあるんだから、男尊女卑思想ってことじゃないけど。

 なおついでに、わたしが江戸時代随一の文章家--いやそれ以前をつうじても第一の学者、文章家と信じる新井白石の文章を御紹介しておきましょう(「学者、文章家」と言ったが、この両者は別のことではない。学問がなくてよい文章の書けるはずはないし、それに、文章にとって何よりだいじなのは気品、格調だが、それは学問のうらづけなしにそなわるものではない)。(p.119)
 これは一面の真理かもしれない。しかし、これを肯定してしまうと、「学のない人間にはよい文章は書けないし、気品や格調のある文章は書けない」ってことになってしまう。そうなのかね。蛇足ながら、これが真理だとしても、逆は真ではない。学さえあればよい文章を書けるわけではないし、学問の裏づけがありさえすれば気品や格調のある文章が書けるわけでもない。

 政府国語機関は、明治三十五年に発足してから昭和二十年敗戦まで四十数年間に、いくたびも内閣に対して国語改革案を建議した。ただしその建議が、政令となって実施にうつされたことは一度もない。案が公表されるたびにはげしい反対論がおこったからである。具体的にどういう人のどういう反論があったかについては、●田恆存『國語問題論爭史』(昭和三十七年新潮社)を見るとよい。現在全文をかんたんに見られるのは、森鴎外の「假名遣意見」(明治四十一年)、芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」(大正十四年)など。いずれも全集にはいっている。言語学者、国語学者では、山田孝雄、橋本進吉、新村出などがしばしば反対論をのべた。それらの論はそれぞれの著作集におさめられている。(p.191)
 このあたりに関しては、知らないわけではないが、くわしい知識がない。最近復刻されたこの問題に関連する●田恆存の本は買ったけど、あれを読みきれるのだろうか。芥川龍之介の全集を確認したところ、たしかにそういう名の小論があった。関連書簡もあるらしい。ただねえ。旧かな遣い&旧漢字の文章を素養のない者が読むのはいささかしんどい。

「当用漢字」(p.197~)
 当用漢字の制定にあたっての裏話などがいろいろ紹介されていて、すこぶるおもしろい。そりゃ問題が多いのは判る。古い世代が旧かな遣いの論理性などについて書いている文章を目にすると、「そうなんだろうな」とは思う。しかし、物心ついた頃から新かな遣いで読み書きしてきた白痴世代としては、選択の余地がなかったんだよね。許しておくれよ。
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