読書感想文/『日本語作文術』(野内良三/中央公論新社社/2010/05/25第1刷発行) 第1稿
文章読本の類いを読むのは久しぶり。途中までは、多少引っかかりがあるとは言え、(これは「挿入句」の読点。本多読本式に考えるなら〈逆順〉)好意的に読んだ。でもなぁ。
結論だけ書くと、まだ本多読本を読んだことがない人は、こちらを読んだほうがいいかもしれない。巻末に「日本語語彙道場」があるぶん、こちらのほうがお得感(スーパーの特売品じゃあるまいし)があるかも。ただなぁ。
数多の文章読本のなかでも、かなり上位にランクされる内容であることは間違いない。論理性も高いし、文章もまとも(足首の高さ程度と思われるこのハードルをクリアできていない文章読本はおそろしく多い)。構成に流れが感じられる点も貴重かも(脈絡もなく心得を羅列している文章読本も多い)。でも……。
ネットを検索して下記を見つけた。善良なかたは、下記を信頼すればよいだろう。
【[書評]日本語作文術 (中公新書:野内良三)】
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/09/post-d41f.html
===========引用開始
それでも信奉書に近いものはあって、平凡だが二冊。「日本語の作文技術 (朝日文庫:本多勝一)」(参照)と「理科系の作文技術 (中公新書:木下是雄)」(参照)である。この二冊はすでに、実用的な文章を書く技術の解説書としてはすでに古典の部類だろう。
で、本書、「日本語作文術」なのだが、この二冊のエッセンスを含んでいます。なのでこっちのほうが簡便。しかも、読みやすい文章の構造について、この二冊をより合理的に実用的に考察している。私も各所でへえと思った。
「日本語の作文技術」だと、ある原理(特に句読点の規則)に到達するまでの思索過程がちとうるさいし、その過程を合理化するためにちょっと無理な議論もある。「理科系の作文技術」はそれ自体独自の味わいがありすぎて冗長と言えばみたいな感もある。対する本書だが、陳腐だけど普通にわかりやすい文章を書く技術に徹している分だけ利点がある。
じゃあ類書をまとめたものなのか? そうではない。やや意外な創見から発している。日本語の文章を外国語のように学ぶという視点である。著者は仏文学者で、また大衆的な小説の翻訳に苦慮した経験から、日本語の達文を学ぶには外国語のように学べばよいとした。なるほど。
===========引用終了
「日本語の文章を外国語のように学ぶ」というのは清水読本が書いていたはず。
まあ、1冊で過去の名著のエッセンスが味わえるのだから、やはりお買い得かも。
ただ、悪く言えば「本多読本の二番煎じ」ということになる。
別に二番煎じだから読む価値がない、などという気はない。だが、もう少し上乗せがないと、すでに本多読本を読んでいる人にはおおすすめしにくい。とくに重要性が高そうな「語順」と「句読点」に関しては、既視感があまりにも強い。
しかも、ほかにも類似点が多い。
●例文が「文学的」すぎる
●中途半端な文法の話が、作文となんの関係があるのだろう
●なんでこんなに偉そうなの
●そもそもこの書名は……
本多読本へのあてこすりとしてやっているなら笑えるんだけど。
段落の話は、木下読本と何が違うのか不明。『文章読本さん江』に毒されているのは……しかたがないか。
いったん気になりはじめるといろいろ目について、〝何様目線〟の悪態になってしまい、こんなことを書いていると人間性を疑われかねない。「途中まで好意的」だと、反動でそういう傾向がいっそう強くなる(泣)。
あまり意味のない弁解はこれくらいにして、例によって細かい部分を見ていこうか。
【引用部】
あまりにも「文学的」すぎる。「国語」教育はもっと技術的、実用的であるべきではないか。
(P.ii)
現状の国語教育に対する不満を書いている。そのとおりだと思う。この記述に先立って、本書の冒頭では対象が「実用文」であることを明言している。それでいて、例文として芸術文をあげているのはなんでなんだろう。このあたりは斎藤美奈子に揶揄された本多読本と同じ間違いをおかしている。
【引用部】
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という余りにも有名な書き出しをものした川端康成は『山の音』という別の名作を残しているが、その書き出しは「尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口を開けて、なにか考えている風だった」である。
(P.13)
たぶん、これが初めての引用文。「実用文」限定の本でこういう例文を出して、いったい何をしたいのだろう。しかも、よりによって……。ちなみに「国境」にはわざわざ「くにざかい」とルビが振ってある。これを「くにざかい」と読むか「こっきょう」と読むかは意見が分かれているはず。どっちかと言うと「くにざかい」だとは思うけど、原本にないルビを勝手に打つのはやめましょうよ。さらに言うと、そこで終わったんじゃ、効果半減じゃないかな。スゴいのはそのあとの描写なのでは。
【引用部】
職業柄、私は学生のレポートによく付き合わされるが、どういうわけか、とにかく文が長い。長いというよりか、だらだらとして締まりがない。「短い文を書くように」と口を酸っぱくして言うのだが、かわりばえのしない長い文を書いてくる。私は簡単に考えていたのだが、学生たちの相も変わらぬ対応を前にしてあるときハッと思い当たった。「短く書くこと」は単に文を切るだけの問題ではない、どうやら「思考の流れ」と深く関係しているらしいということに。
(P.23)
こんな当たり前のことに「ハッと思い当たった」って……。おそらく、口を酸っぱくして言うだけで、具体的な解決法を示してないのでしょうね。すんごくたいへんなんだけど、そこをなんとかするのが、指導・教育じゃないのかね。ちなみに、こういう場合は「ハタと思い当たった」では。
【引用部】
どうしたら長文を撃退できるか。その方法をお見せしよう。ただし、(今後もそうであるが)文章指南書がよくやる素人の作例は絶対に使わない。あれはやっている本人はご満悦かもしれないが、一種の弱いものいじめだ(合意が成り立っている、学校やカルチャーセンターのような教育現場では話は別だが)。大物に登場願おう(P.25)
この著者は〝絶対〟という言葉が好きなのだろうか。必要性を感じない〝絶対〟の例はあとにも出てくる。こういう強い言葉は、極力使うべきではないのでは。好みの問題かもしれないけど。
「合意が成り立っている、」の読点はOKなのかな。本多読本の〈長い修飾語〉の読点かもしれないが、個人的には極力使わないことにしている。理由は……「美しくない」ってことにしておく。「学校やカルチャーセンターのように(、)合意が成り立っている教育現場では話は別だが」くらいだろうか。
趣旨はよくわかるけど、ケースバイケースだと思う。単に素人の悪文をボロクソに書くのは「弱い者いじめ」かもしれない。そんなことをしても、建設的とは言えない。本多読本にヒドい例があった(もしかすると、本書の著者は本多勝一が嫌いなのかもしれない)。でも、「ここをこうするだけで見違えるほど……」ということなら、話は別になる。あるいは、偉いセンセーでもこんなヒドい……という「強い者イジリ」なら大好物です。(←オイ!)
問題はそこではない。このあとに、一文が長い例として谷崎読本が長々とひかれている。ただ、「文章の骨組みがしっかりしているから」すらすら頭に入ってくる、としている。だったらそれでいいと思うが、よせばいいのに短文にする。しかもデアリマス体をフツーのデアル体に書きかえている。
なんでこんなことするのかね。長くなるので理由は省略するが、デアル体に比べてデスマス体のほうが一文が長くなる傾向がある。デアリマス体だとその傾向がもっと顕著になり、無理矢理短文にすると非常に妙な文章になる。だから、デアリマス体で書かれた谷崎読本は、必然的に一文が長い。それにインネンをつけて書きかえるのは、「強い者イジリ」でもなくて単なる暴挙だろう。
もしそういうことをやりたいなら、デアリマス体で短文にしてほしい。悲惨なことになるに決まっている。
【引用部】
作家だからといっていつもすばらしい文章を書いているわけではない。私は例文は悪文だと判定する。学生がこのような文章を書いてきたら間違いなく朱を入れる。この文には悪文の主役が勢揃いしている。
[1] 無用な「が」
[2] 中止方の連続
[3] 安易な接続語(接続助詞・接続詞)
(P.27〜28)
この直前にあげられているのは、横溝正史の『本陣殺人事件』。また微妙な例を(泣)。
主役が勢揃いって、戦隊ヒーローものか? もっと主役が増えたら、昨今の学芸会か?
指摘はほぼ適確だと思う。でも、長い一文をズタズタに切るのはどうかと思う。だって、あえてそういう文体を使った可能性があるんだから。「怪奇譚っぽい雰囲気をつくりたかった」とでも言われたら誰にも否定できないよ。だから芸術文を扱っちゃダメなの。
あんまりなので名は伏せるが、昔読んだ文章読本が恐ろしいことをやっていた。以下はその感想文から。だから芸術文を扱っちゃダメなんだって。
【引用部】
そういう問題は後述するとして、この著者は許されがたい致命的な誤りを犯している。P.110に「ある小説に目を通していたら次のような一文にぶつかった」と書いて、文庫本で8行の引用をし、そのあとでこう書いている。
三百二、三十字で一つのセンテンスが構成されているので、読みづらいことおびただしい。副詞や形容詞がふんだんに出ているし、修飾句が修飾句を修飾している箇所が幾つもあるので、二度や三度くらい読んだだけでは意味がよくつかめない。
読み進んでいくと、最後になって主語の記録係がやっと出てくる。悪文の見本としかいいようがない。擬態語の多出、「はらはらどきどきわくわくの」や「いらいらくよくよ」も読みにくさの因になっている。
引用文を読んだ限りでは、正しい指摘のようにも見える。しかし、引用されているのが、井上ひさしの『吉里吉里人』の冒頭となると話は違ってくる(ちなみに、この本は引用文の原典がいっさい書かれていない。著作権は問題にならないのだろうか。なんでこんなことが許されるのだろう。しかも、手元の文庫本と付け合わせると、気づいただけでも2カ所の引用間違いがある。ちょっとひどすぎませんか)。別に、井上さんが書いた文だから貶してはいけない、なんて主張する気はない。どんな名文家が書いた文章であっても、不備があるなら指摘しても構わない。しかし、この場合は事情が違いすぎる。意識的に「修飾句が修飾句を修飾している箇所」を作り、狙いを持って「擬態語の多出」を心がけている文章に対してこの指摘をするのは、的外れというよりは狂気の沙汰に近く、失礼無礼の恥晒し、はっきり言ってバカである。あえて特異な文体で書いた小説を相手に、こういうインネンをつけてはいけません。こんなやり方もありなら、野坂昭如なんてどうなるんじゃ。
で、本題に戻る。
引用されている『本陣殺人事件』の記述には〈[1] 無用な「が」〉は見当たらない。接続助詞の「が」が2つあるが、これはどちらも「逆接のガ、」に見える。つまり〈[3] 安易な接続語(接続助詞・接続詞)〉でしかない。〈無用な「が」〉がどういうものなのか、わかっていないなんてことはないよな。〈無用な「が」〉については、最後に回す。
【引用部】
翻訳調あるいは最近の作文指導の影響だろうか、最近の日本語は主語を前に出す傾向が見られる。そのため、「主語の後出し」は若い世代にとっては抵抗感があるらしい。 (P.37)
「主語の前出し」?は翻訳調なんだろうか。
で、翻訳調ってダメなの? 「〜が見られる」あたりはよく批判されるけど。ケースバイケースだと思うが、当方にはよくわからない(ってことにしておく)。
「最近の作文指導」では「主語の前出し」をすすめているのか。知らなかった。昔からそうだと思うけど。たとえば本多読本のP.88でには〈これはもうそこら一面にドカドカ見られる型の文章である。とくに短い題目語「○○ハ」を冒頭におく文章は軒なみこれだと思ってよい〉とある。そのとおりだと思う。良書のほうの『悪文』にも、そういう記述があったはず。
【引用部】
たとえ文豪の手になるとはいえ、実用文という観点からは次のような文は絶対に書くべきではない。(P.48)
で、そのあとに出てくるのは『伊豆踊子』の一節。よせばいいのに語順をいれかえた修正案まで書いている。当方もこれに近いことをすることがあるけど、「絶対」なんて書き方はやめませんか。「芸術文」の話なんだからさぁ。
【引用部】
私の知る限り、この問題に真正面から【最初に】 取り組んだのは本多勝一である。彼は『日本語の作文技術』(朝日文庫、一九八二年)と『実践・日本語の作文技術』(朝日文庫、一九九四年)のかでこの問題を熱っぽく取り上げた。もっと柔軟に対応したらいいのにという条件はつくけれども、その意見はおおむね支持できる。以下、本多の説明に寄りかかりながら、読点の問題を見ていくことにする。
(P.52)
文中の【最初に】のカッコは引用者がつけた。原文はカッコがなく傍点がついている。
読点の話の冒頭近くにある文章。いろいろ考えるべきことがある。
「真正面から最初に」取り組み、信頼できる記述をしたのは本多読本だろう。問題は「次に」がいるか否か。当方が知る限り、そんなものは見当たらない。ネットで論文も見つけたが、これがお話にならない。ネットには、ほかにももんのすごい数の記述があふれている。大半が論外か本多読本のパクリ or 二番煎じ。本書は……。
「おおむね支持できる」ということは、支持できない点もあるのだろうが、はっきりとは書かれていない。「もっと柔軟に対応したらいい」が具体的にどういうことかも書かれていない。単に当方の偏見か読解力不足だろうか。そうでないなら、単なるインネンだよ。
「もっと柔軟に対応したらいい」が、「ムヤミに断定しないでもう少しゆるやかに考えてよいのでは」という意味なら同感。ただ、その適確な指摘だか的外れの批判だか単なるインネンだかは、本書にもそのままあてはまるのでは。
「以下、本多の説明に寄りかかりながら」……ここが一番引っかかった。この前の「語順」に関する記述は、寄りかかっていないのだろうか。当方には同工異曲にしか見えない。本多読本と重複する部分を除いたら、何か残るのだろうか。自立は無理だろうな。それは「寄りかかる」なんてものではではなく、オンb……ぐゎ、何をするんだ。
好意的に見るなら、あまりにもクドくて冗長な本多読本の要旨を、多少簡潔にまとめている。意地悪く見るなら……。
【引用部】
そうすると、読点の打ち方は次の三つの原則にまとめられる。
[1] 逆順の場合に打つ(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)
[2] ほぼ同じ長さの大きな文の単位(語群)が連続するとき、その切れ目に打つ(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)
[3] 「は」はそれ自体で遠くへかかっていく力をもっているので、本来は後に読点を打つ必要はない。ただし、強調のため、あるいは読みやすさを考えて打ってもよい
(P.53)
[1][2]は、本多読本の2大原則とほぼ同様だろう。(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)って、わざわざ繰り返して書く必要があるのだろうか。これは「原則」以前の「大前提」だろう。入れるなら全部に入れることになる。
問題は本多読本の2大原則以外の読点。本多読本は、すべて「思想のテン」にしていて「それはいくらなんでも」と思う。このあたりはすでに何度も書いているので省略する。
[3]は、言いたいことはわかるけど、同意はできない。本多読本式に「〈逆順〉なら打つ」のほうがわかりやすいのでは。もちろん(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)んだけど。
このあと、「正順で書けば読点は不要」という勇ましい小見出しがあるが、内容は煮え切らない。
【引用部】
読者の中には選択の余地を残す私の説明にまどろこしさや不満を感じた方もいるだろう。しかし、これはやむをえない事態なのだ。先ほど挙げた原則にいずれも「ただし書き」がついているのにはそれなりの意味がある。つまり「抵抗なく読める場合」の判断は書き手の自由裁量にゆだねられているということだ。ただ、多めか、少なめか、いったん採用した方針は途中で勝手に変更しないほうがいい。
自由裁量といえば、読点には「強調」のために打つ場合がある。「強調の読点」である。先ほど「なくてもいい」と説明した(2)の「左手の先が、」の読点は「強調の読点」という可能性がある。(P.55)
書いている内容は、ほぼそのとおりだと思う。本多読本のようにバッサリ書けるほうが異常だよ。だったら「正順で書けば読点は不要」なんて小見出しはマズいのでは。せいぜい「正順で書けば、読点は減らせる」くらいだろう。
そうしないと、2大原則に従って書かれた本多読本と同じことになる。あそこまで読点が少ないと、相当読みにくい。
だから、2大原則を踏まえた上で「思想のテン」をどう打つかが重要になる。後出の心得はここをちゃんと押さえているのに、「正順で書けば読点は不要」なんて書いたら台なしになる。
「強調の読点」という書き方もよくわからない。「強調」ではないこともあるはずだ。それなら「思想のテン」でよいのでは。当方は「読みやすさのために打つ読点」だと考えている。このあと、本書は、「読点は読者へのサービス」という小見出しに続く。どうやら「強調の読点」も、「読者へのサービス」として打つ読点の一種らしい。そりゃそうでしょうね。で、「強調の読点」って何?
実は本書では、これ以前に「強調の読点」らしきものが登場している。
【引用部】
もちろん、これで間違いというわけではない。普通には原則[2]に従って次のように書き直したほうがすっきりする(強調ということであれば「じっと」の後に読点が必要)。(P.50)
この必要になる読点は、本多読本の〈逆順〉のテン。そもそも逆順のテンは、強調などの目的があって語順を逆にするときに使うものだから、当然だろう。本書の〈逆順〉はいったいなんのことなのだろう。
↑にひいたP.53にも〈強調のため〉とある。これも〈逆順〉ほうが素直だろうな。本書の〈逆順〉は……以下略。
こういう独自の用語は、初出で解説するものなんじゃないのかね。
【引用部】
ただ、ここで老婆心ながら注意をうながしておけば、普段は読点の打ち方なぞいちいち意識する必要はない。文を書いていて、あるいは読み返してみて「おや、ちょっと引っかかるな」、「あれ、ちょっと変だな」と感じたときに、読点の打ち方を考えればいいのである。
最後に、三原則や曖昧さを避けるため以外でも、読点を打つことが多い場合を箇条書きで示しておく。読点を打つ目安にしてほしい。
[1] 長い語群の後で──正順なので打つ必要はないのだが、打てば読みやすくはなる。たとえば長い主語だとか、「〜ので」、「〜したとき」、「〜して」などの後で
[2] 並列関係に置かれた名詞、動詞、形容詞の切れ目に──「喜び、悲しみ、怒り」、「巨大都市、東京」、「美しい、静かな湖」、「飲み、食い、騒ぐ」
[3] 倒置法が使われた時──「ついにやって来た、運命の日が。」
[4] 漢字あるいは平仮名ばかりが続いて読みづらいとき──「それは、いったい、なぜなのか分からない」、「それは一体、何故なのか分からない」(ちなみに、漢字と仮名をまぜる手もある。「それはいったい何故なのか」、「それは一体なぜなのか」
[5] 助詞が省略されたり、感動・応答・呼びかけなどの言葉が使われたりしたとき──「」あたし、嫌よ」、「まあ、そんなとこさ」、「ああ、おどろいた」
[6] 文全体にかかる副詞の後──たとえば「多分」、「恐らく」、「事実」、「無論」、「実際」、「ただ」など
[7] 「…、と言う/驚く」や「……、というような」といった引用や説明を表す「と」の前で(後に打つ場合もある)
[8] 「しかし」、「そして」、「ただし」など接続詞の後で
(P.59〜60)
本多読本を別にすれば、いままで目にした読点の打ち方のなかで一番まとまっている気がする。だからこそ「正順で書けば読点は不要」って主張が余計に感じる。「正順で書けば、読点は減らせる」けど、それじゃあ読みにくい。読みやすさを考えるなら、下記の要領で「サービスの読点」を打てばいい、ってことなら大賛成だ。
基本的にこれでいいと思う。少しだけ補足する。
[1] 長い語群の後で
いささか乱暴では。「長い主語」も条件説も複文も、この曖昧な定義ですべてカバーする気なのだろうか。
[2] 並列関係に置かれた名詞、動詞、形容詞の切れ目に
フツーに列記の読点ではダメですか。「巨大都市、東京」は列記ではなく同格だろう。「美しい、静かな湖」はなくてもいいかな。あるいは中止法と考えることもできる。「美しくて静かな湖」なら、読点はないほうがいい。「飲み、食い、騒ぐ」は重文の話だろう。
[3] 倒置法が使われた時
本多読本に言わせると、「逆順の典型」。それでいいと思う。とくに目安にする意味がわからない。
[5] 助詞が省略されたり、感動・応答・呼びかけなどの言葉が使われたりしたとき
前半は同感。後半は、例の文部省の化石以来の伝統的な用法。これって単に字面の問題では。だとすると[4]に含まれる。「ああ驚いた」「嗚呼おどろいた」なら読点は不要になる。「ああ無情」に読点を打つか否かは趣味の問題だろう。むしろないほうが多い気がする。
[6] 文全体にかかる副詞の後
本多読本式なら、逆順だろう。当方は本書を支持する。逆順とは思えないことも多いから。できれば「時を表す言葉」この仲間に入れてほしい。とっても重要だと思う。
【引用部】
ハは文を飛び越す (P.74)
この小見出し以下の記述が、P.53の〈[3] 「は」はそれ自体で遠くへかかっていく力をもっているので、本来は後に読点を打つ必要はない。〉の解説らしい。
似たような話はどこかで読んだ。要旨はわからなくはないが、この解説では何がなんだか。どうやら、「ハ」が1回出てきたら、次の「ハ」が出てくるまでは効力が続くらしい。そういうこともある、ってこと。だからなんなの、とまでは書かない。
例であげられているのは『吾輩は猫である』の冒頭部。「吾輩は猫である。名前はまだない」……「名前ハ」が出てきたから、以降の主語は「名前」なのね。そんなわけあるかーい。
ここらへんで真面目に読む気が失せた。
元々、「語順」と「句読点」の話しか期待してなかったけどさ。
あとは本当にメモ。
「彼は音楽を好きだ/嫌いだ」は「本来なら誤用」(P.70) らしい。そこまで言えるのかなぁ。
「文章のひな形はラブレター」(P.102) 。報道文はどうなる。試験問題はどうなる。憲法はどうなるんだ。
「まず四季を四つの段落に配当する構成(対称)が見事である。」(P.116) 微妙な気もするが、「対照」だろう。
P.137末のギャグ……こういうまじめくさった文体でやられても。
で、最後に〈無用な「が」〉の話を書いておく。〈無用の「が」〉では、って話は微妙すぎるんでパスする。
「逆接のガ、」は、文章をダラダラとしたものにするので、避けたほうがいい。しかし、実際にはもっと罪深い「ガ、」がいる。
↑のP.23からの引用を再掲する。
【引用部】
職業柄、私は学生のレポートによく付き合わされるが、どういうわけか、とにかく文が長い。長いというよりか、だらだらとして締まりがない。「短い文を書くように」と口を酸っぱくして言うのだが、かわりばえのしない長い文を書いてくる。私は簡単に考えていたのだが、学生たちの相も変わらぬ対応を前にしてあるときハッと思い当たった。「短く書くこと」は単に文を切るだけの問題ではない、どうやら「思考の流れ」と深く関係しているらしいということに。(P.23)
ちょっと注意して読めばわかる。第1文、第3文、第4文に「ガ、」が出てくる。
第1文の「ガ、」は「曖昧のガ、」「前置きのガ、」などと呼ばれるもので、極力避けるべき。一般に「。しかし、」に書きかえられない「ガ、」は、だいたいこれだ。
第3文、第4文の「ガ、」は「逆接のガ、」。当方も油断するとすぐにこういうことになるが、連発していると無神経な文章と批判される。
【引用部】
辛口すぎるこの人のエッセーは読者を選ぶようだが、私は大ファンである。言葉づかいがちょっぴり古風であるが──たとえば火事を付け火、証券会社を株屋、入場料を木戸銭──、ずばりと核心を突くその直言には溜飲が下がる。(P.138)
こちらも「逆接のガ、」の連発。じっくり探すと同様の例がほかにも見つかるかもしれない。そういう粗探しの趣味はないので、やめておくけど。
まあ、「短く書け」と力説しながら、自分ではズルズルした文を書くセンセーに比べればずっとマシだけどさ。
結論だけ書くと、まだ本多読本を読んだことがない人は、こちらを読んだほうがいいかもしれない。巻末に「日本語語彙道場」があるぶん、こちらのほうがお得感(スーパーの特売品じゃあるまいし)があるかも。ただなぁ。
数多の文章読本のなかでも、かなり上位にランクされる内容であることは間違いない。論理性も高いし、文章もまとも(足首の高さ程度と思われるこのハードルをクリアできていない文章読本はおそろしく多い)。構成に流れが感じられる点も貴重かも(脈絡もなく心得を羅列している文章読本も多い)。でも……。
ネットを検索して下記を見つけた。善良なかたは、下記を信頼すればよいだろう。
【[書評]日本語作文術 (中公新書:野内良三)】
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/09/post-d41f.html
===========引用開始
それでも信奉書に近いものはあって、平凡だが二冊。「日本語の作文技術 (朝日文庫:本多勝一)」(参照)と「理科系の作文技術 (中公新書:木下是雄)」(参照)である。この二冊はすでに、実用的な文章を書く技術の解説書としてはすでに古典の部類だろう。
で、本書、「日本語作文術」なのだが、この二冊のエッセンスを含んでいます。なのでこっちのほうが簡便。しかも、読みやすい文章の構造について、この二冊をより合理的に実用的に考察している。私も各所でへえと思った。
「日本語の作文技術」だと、ある原理(特に句読点の規則)に到達するまでの思索過程がちとうるさいし、その過程を合理化するためにちょっと無理な議論もある。「理科系の作文技術」はそれ自体独自の味わいがありすぎて冗長と言えばみたいな感もある。対する本書だが、陳腐だけど普通にわかりやすい文章を書く技術に徹している分だけ利点がある。
じゃあ類書をまとめたものなのか? そうではない。やや意外な創見から発している。日本語の文章を外国語のように学ぶという視点である。著者は仏文学者で、また大衆的な小説の翻訳に苦慮した経験から、日本語の達文を学ぶには外国語のように学べばよいとした。なるほど。
===========引用終了
「日本語の文章を外国語のように学ぶ」というのは清水読本が書いていたはず。
まあ、1冊で過去の名著のエッセンスが味わえるのだから、やはりお買い得かも。
ただ、悪く言えば「本多読本の二番煎じ」ということになる。
別に二番煎じだから読む価値がない、などという気はない。だが、もう少し上乗せがないと、すでに本多読本を読んでいる人にはおおすすめしにくい。とくに重要性が高そうな「語順」と「句読点」に関しては、既視感があまりにも強い。
しかも、ほかにも類似点が多い。
●例文が「文学的」すぎる
●中途半端な文法の話が、作文となんの関係があるのだろう
●なんでこんなに偉そうなの
●そもそもこの書名は……
本多読本へのあてこすりとしてやっているなら笑えるんだけど。
段落の話は、木下読本と何が違うのか不明。『文章読本さん江』に毒されているのは……しかたがないか。
いったん気になりはじめるといろいろ目について、〝何様目線〟の悪態になってしまい、こんなことを書いていると人間性を疑われかねない。「途中まで好意的」だと、反動でそういう傾向がいっそう強くなる(泣)。
あまり意味のない弁解はこれくらいにして、例によって細かい部分を見ていこうか。
【引用部】
あまりにも「文学的」すぎる。「国語」教育はもっと技術的、実用的であるべきではないか。
(P.ii)
現状の国語教育に対する不満を書いている。そのとおりだと思う。この記述に先立って、本書の冒頭では対象が「実用文」であることを明言している。それでいて、例文として芸術文をあげているのはなんでなんだろう。このあたりは斎藤美奈子に揶揄された本多読本と同じ間違いをおかしている。
【引用部】
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という余りにも有名な書き出しをものした川端康成は『山の音』という別の名作を残しているが、その書き出しは「尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口を開けて、なにか考えている風だった」である。
(P.13)
たぶん、これが初めての引用文。「実用文」限定の本でこういう例文を出して、いったい何をしたいのだろう。しかも、よりによって……。ちなみに「国境」にはわざわざ「くにざかい」とルビが振ってある。これを「くにざかい」と読むか「こっきょう」と読むかは意見が分かれているはず。どっちかと言うと「くにざかい」だとは思うけど、原本にないルビを勝手に打つのはやめましょうよ。さらに言うと、そこで終わったんじゃ、効果半減じゃないかな。スゴいのはそのあとの描写なのでは。
【引用部】
職業柄、私は学生のレポートによく付き合わされるが、どういうわけか、とにかく文が長い。長いというよりか、だらだらとして締まりがない。「短い文を書くように」と口を酸っぱくして言うのだが、かわりばえのしない長い文を書いてくる。私は簡単に考えていたのだが、学生たちの相も変わらぬ対応を前にしてあるときハッと思い当たった。「短く書くこと」は単に文を切るだけの問題ではない、どうやら「思考の流れ」と深く関係しているらしいということに。
(P.23)
こんな当たり前のことに「ハッと思い当たった」って……。おそらく、口を酸っぱくして言うだけで、具体的な解決法を示してないのでしょうね。すんごくたいへんなんだけど、そこをなんとかするのが、指導・教育じゃないのかね。ちなみに、こういう場合は「ハタと思い当たった」では。
【引用部】
どうしたら長文を撃退できるか。その方法をお見せしよう。ただし、(今後もそうであるが)文章指南書がよくやる素人の作例は絶対に使わない。あれはやっている本人はご満悦かもしれないが、一種の弱いものいじめだ(合意が成り立っている、学校やカルチャーセンターのような教育現場では話は別だが)。大物に登場願おう(P.25)
この著者は〝絶対〟という言葉が好きなのだろうか。必要性を感じない〝絶対〟の例はあとにも出てくる。こういう強い言葉は、極力使うべきではないのでは。好みの問題かもしれないけど。
「合意が成り立っている、」の読点はOKなのかな。本多読本の〈長い修飾語〉の読点かもしれないが、個人的には極力使わないことにしている。理由は……「美しくない」ってことにしておく。「学校やカルチャーセンターのように(、)合意が成り立っている教育現場では話は別だが」くらいだろうか。
趣旨はよくわかるけど、ケースバイケースだと思う。単に素人の悪文をボロクソに書くのは「弱い者いじめ」かもしれない。そんなことをしても、建設的とは言えない。本多読本にヒドい例があった(もしかすると、本書の著者は本多勝一が嫌いなのかもしれない)。でも、「ここをこうするだけで見違えるほど……」ということなら、話は別になる。あるいは、偉いセンセーでもこんなヒドい……という「強い者イジリ」なら大好物です。(←オイ!)
問題はそこではない。このあとに、一文が長い例として谷崎読本が長々とひかれている。ただ、「文章の骨組みがしっかりしているから」すらすら頭に入ってくる、としている。だったらそれでいいと思うが、よせばいいのに短文にする。しかもデアリマス体をフツーのデアル体に書きかえている。
なんでこんなことするのかね。長くなるので理由は省略するが、デアル体に比べてデスマス体のほうが一文が長くなる傾向がある。デアリマス体だとその傾向がもっと顕著になり、無理矢理短文にすると非常に妙な文章になる。だから、デアリマス体で書かれた谷崎読本は、必然的に一文が長い。それにインネンをつけて書きかえるのは、「強い者イジリ」でもなくて単なる暴挙だろう。
もしそういうことをやりたいなら、デアリマス体で短文にしてほしい。悲惨なことになるに決まっている。
【引用部】
作家だからといっていつもすばらしい文章を書いているわけではない。私は例文は悪文だと判定する。学生がこのような文章を書いてきたら間違いなく朱を入れる。この文には悪文の主役が勢揃いしている。
[1] 無用な「が」
[2] 中止方の連続
[3] 安易な接続語(接続助詞・接続詞)
(P.27〜28)
この直前にあげられているのは、横溝正史の『本陣殺人事件』。また微妙な例を(泣)。
主役が勢揃いって、戦隊ヒーローものか? もっと主役が増えたら、昨今の学芸会か?
指摘はほぼ適確だと思う。でも、長い一文をズタズタに切るのはどうかと思う。だって、あえてそういう文体を使った可能性があるんだから。「怪奇譚っぽい雰囲気をつくりたかった」とでも言われたら誰にも否定できないよ。だから芸術文を扱っちゃダメなの。
あんまりなので名は伏せるが、昔読んだ文章読本が恐ろしいことをやっていた。以下はその感想文から。だから芸術文を扱っちゃダメなんだって。
【引用部】
そういう問題は後述するとして、この著者は許されがたい致命的な誤りを犯している。P.110に「ある小説に目を通していたら次のような一文にぶつかった」と書いて、文庫本で8行の引用をし、そのあとでこう書いている。
三百二、三十字で一つのセンテンスが構成されているので、読みづらいことおびただしい。副詞や形容詞がふんだんに出ているし、修飾句が修飾句を修飾している箇所が幾つもあるので、二度や三度くらい読んだだけでは意味がよくつかめない。
読み進んでいくと、最後になって主語の記録係がやっと出てくる。悪文の見本としかいいようがない。擬態語の多出、「はらはらどきどきわくわくの」や「いらいらくよくよ」も読みにくさの因になっている。
引用文を読んだ限りでは、正しい指摘のようにも見える。しかし、引用されているのが、井上ひさしの『吉里吉里人』の冒頭となると話は違ってくる(ちなみに、この本は引用文の原典がいっさい書かれていない。著作権は問題にならないのだろうか。なんでこんなことが許されるのだろう。しかも、手元の文庫本と付け合わせると、気づいただけでも2カ所の引用間違いがある。ちょっとひどすぎませんか)。別に、井上さんが書いた文だから貶してはいけない、なんて主張する気はない。どんな名文家が書いた文章であっても、不備があるなら指摘しても構わない。しかし、この場合は事情が違いすぎる。意識的に「修飾句が修飾句を修飾している箇所」を作り、狙いを持って「擬態語の多出」を心がけている文章に対してこの指摘をするのは、的外れというよりは狂気の沙汰に近く、失礼無礼の恥晒し、はっきり言ってバカである。あえて特異な文体で書いた小説を相手に、こういうインネンをつけてはいけません。こんなやり方もありなら、野坂昭如なんてどうなるんじゃ。
で、本題に戻る。
引用されている『本陣殺人事件』の記述には〈[1] 無用な「が」〉は見当たらない。接続助詞の「が」が2つあるが、これはどちらも「逆接のガ、」に見える。つまり〈[3] 安易な接続語(接続助詞・接続詞)〉でしかない。〈無用な「が」〉がどういうものなのか、わかっていないなんてことはないよな。〈無用な「が」〉については、最後に回す。
【引用部】
翻訳調あるいは最近の作文指導の影響だろうか、最近の日本語は主語を前に出す傾向が見られる。そのため、「主語の後出し」は若い世代にとっては抵抗感があるらしい。 (P.37)
「主語の前出し」?は翻訳調なんだろうか。
で、翻訳調ってダメなの? 「〜が見られる」あたりはよく批判されるけど。ケースバイケースだと思うが、当方にはよくわからない(ってことにしておく)。
「最近の作文指導」では「主語の前出し」をすすめているのか。知らなかった。昔からそうだと思うけど。たとえば本多読本のP.88でには〈これはもうそこら一面にドカドカ見られる型の文章である。とくに短い題目語「○○ハ」を冒頭におく文章は軒なみこれだと思ってよい〉とある。そのとおりだと思う。良書のほうの『悪文』にも、そういう記述があったはず。
【引用部】
たとえ文豪の手になるとはいえ、実用文という観点からは次のような文は絶対に書くべきではない。(P.48)
で、そのあとに出てくるのは『伊豆踊子』の一節。よせばいいのに語順をいれかえた修正案まで書いている。当方もこれに近いことをすることがあるけど、「絶対」なんて書き方はやめませんか。「芸術文」の話なんだからさぁ。
【引用部】
私の知る限り、この問題に真正面から【最初に】 取り組んだのは本多勝一である。彼は『日本語の作文技術』(朝日文庫、一九八二年)と『実践・日本語の作文技術』(朝日文庫、一九九四年)のかでこの問題を熱っぽく取り上げた。もっと柔軟に対応したらいいのにという条件はつくけれども、その意見はおおむね支持できる。以下、本多の説明に寄りかかりながら、読点の問題を見ていくことにする。
(P.52)
文中の【最初に】のカッコは引用者がつけた。原文はカッコがなく傍点がついている。
読点の話の冒頭近くにある文章。いろいろ考えるべきことがある。
「真正面から最初に」取り組み、信頼できる記述をしたのは本多読本だろう。問題は「次に」がいるか否か。当方が知る限り、そんなものは見当たらない。ネットで論文も見つけたが、これがお話にならない。ネットには、ほかにももんのすごい数の記述があふれている。大半が論外か本多読本のパクリ or 二番煎じ。本書は……。
「おおむね支持できる」ということは、支持できない点もあるのだろうが、はっきりとは書かれていない。「もっと柔軟に対応したらいい」が具体的にどういうことかも書かれていない。単に当方の偏見か読解力不足だろうか。そうでないなら、単なるインネンだよ。
「もっと柔軟に対応したらいい」が、「ムヤミに断定しないでもう少しゆるやかに考えてよいのでは」という意味なら同感。ただ、その適確な指摘だか的外れの批判だか単なるインネンだかは、本書にもそのままあてはまるのでは。
「以下、本多の説明に寄りかかりながら」……ここが一番引っかかった。この前の「語順」に関する記述は、寄りかかっていないのだろうか。当方には同工異曲にしか見えない。本多読本と重複する部分を除いたら、何か残るのだろうか。自立は無理だろうな。それは「寄りかかる」なんてものではではなく、オンb……ぐゎ、何をするんだ。
好意的に見るなら、あまりにもクドくて冗長な本多読本の要旨を、多少簡潔にまとめている。意地悪く見るなら……。
【引用部】
そうすると、読点の打ち方は次の三つの原則にまとめられる。
[1] 逆順の場合に打つ(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)
[2] ほぼ同じ長さの大きな文の単位(語群)が連続するとき、その切れ目に打つ(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)
[3] 「は」はそれ自体で遠くへかかっていく力をもっているので、本来は後に読点を打つ必要はない。ただし、強調のため、あるいは読みやすさを考えて打ってもよい
(P.53)
[1][2]は、本多読本の2大原則とほぼ同様だろう。(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)って、わざわざ繰り返して書く必要があるのだろうか。これは「原則」以前の「大前提」だろう。入れるなら全部に入れることになる。
問題は本多読本の2大原則以外の読点。本多読本は、すべて「思想のテン」にしていて「それはいくらなんでも」と思う。このあたりはすでに何度も書いているので省略する。
[3]は、言いたいことはわかるけど、同意はできない。本多読本式に「〈逆順〉なら打つ」のほうがわかりやすいのでは。もちろん(ただし抵抗なく読める場合は打たなくてもよい)んだけど。
このあと、「正順で書けば読点は不要」という勇ましい小見出しがあるが、内容は煮え切らない。
【引用部】
読者の中には選択の余地を残す私の説明にまどろこしさや不満を感じた方もいるだろう。しかし、これはやむをえない事態なのだ。先ほど挙げた原則にいずれも「ただし書き」がついているのにはそれなりの意味がある。つまり「抵抗なく読める場合」の判断は書き手の自由裁量にゆだねられているということだ。ただ、多めか、少なめか、いったん採用した方針は途中で勝手に変更しないほうがいい。
自由裁量といえば、読点には「強調」のために打つ場合がある。「強調の読点」である。先ほど「なくてもいい」と説明した(2)の「左手の先が、」の読点は「強調の読点」という可能性がある。(P.55)
書いている内容は、ほぼそのとおりだと思う。本多読本のようにバッサリ書けるほうが異常だよ。だったら「正順で書けば読点は不要」なんて小見出しはマズいのでは。せいぜい「正順で書けば、読点は減らせる」くらいだろう。
そうしないと、2大原則に従って書かれた本多読本と同じことになる。あそこまで読点が少ないと、相当読みにくい。
だから、2大原則を踏まえた上で「思想のテン」をどう打つかが重要になる。後出の心得はここをちゃんと押さえているのに、「正順で書けば読点は不要」なんて書いたら台なしになる。
「強調の読点」という書き方もよくわからない。「強調」ではないこともあるはずだ。それなら「思想のテン」でよいのでは。当方は「読みやすさのために打つ読点」だと考えている。このあと、本書は、「読点は読者へのサービス」という小見出しに続く。どうやら「強調の読点」も、「読者へのサービス」として打つ読点の一種らしい。そりゃそうでしょうね。で、「強調の読点」って何?
実は本書では、これ以前に「強調の読点」らしきものが登場している。
【引用部】
もちろん、これで間違いというわけではない。普通には原則[2]に従って次のように書き直したほうがすっきりする(強調ということであれば「じっと」の後に読点が必要)。(P.50)
この必要になる読点は、本多読本の〈逆順〉のテン。そもそも逆順のテンは、強調などの目的があって語順を逆にするときに使うものだから、当然だろう。本書の〈逆順〉はいったいなんのことなのだろう。
↑にひいたP.53にも〈強調のため〉とある。これも〈逆順〉ほうが素直だろうな。本書の〈逆順〉は……以下略。
こういう独自の用語は、初出で解説するものなんじゃないのかね。
【引用部】
ただ、ここで老婆心ながら注意をうながしておけば、普段は読点の打ち方なぞいちいち意識する必要はない。文を書いていて、あるいは読み返してみて「おや、ちょっと引っかかるな」、「あれ、ちょっと変だな」と感じたときに、読点の打ち方を考えればいいのである。
最後に、三原則や曖昧さを避けるため以外でも、読点を打つことが多い場合を箇条書きで示しておく。読点を打つ目安にしてほしい。
[1] 長い語群の後で──正順なので打つ必要はないのだが、打てば読みやすくはなる。たとえば長い主語だとか、「〜ので」、「〜したとき」、「〜して」などの後で
[2] 並列関係に置かれた名詞、動詞、形容詞の切れ目に──「喜び、悲しみ、怒り」、「巨大都市、東京」、「美しい、静かな湖」、「飲み、食い、騒ぐ」
[3] 倒置法が使われた時──「ついにやって来た、運命の日が。」
[4] 漢字あるいは平仮名ばかりが続いて読みづらいとき──「それは、いったい、なぜなのか分からない」、「それは一体、何故なのか分からない」(ちなみに、漢字と仮名をまぜる手もある。「それはいったい何故なのか」、「それは一体なぜなのか」
[5] 助詞が省略されたり、感動・応答・呼びかけなどの言葉が使われたりしたとき──「」あたし、嫌よ」、「まあ、そんなとこさ」、「ああ、おどろいた」
[6] 文全体にかかる副詞の後──たとえば「多分」、「恐らく」、「事実」、「無論」、「実際」、「ただ」など
[7] 「…、と言う/驚く」や「……、というような」といった引用や説明を表す「と」の前で(後に打つ場合もある)
[8] 「しかし」、「そして」、「ただし」など接続詞の後で
(P.59〜60)
本多読本を別にすれば、いままで目にした読点の打ち方のなかで一番まとまっている気がする。だからこそ「正順で書けば読点は不要」って主張が余計に感じる。「正順で書けば、読点は減らせる」けど、それじゃあ読みにくい。読みやすさを考えるなら、下記の要領で「サービスの読点」を打てばいい、ってことなら大賛成だ。
基本的にこれでいいと思う。少しだけ補足する。
[1] 長い語群の後で
いささか乱暴では。「長い主語」も条件説も複文も、この曖昧な定義ですべてカバーする気なのだろうか。
[2] 並列関係に置かれた名詞、動詞、形容詞の切れ目に
フツーに列記の読点ではダメですか。「巨大都市、東京」は列記ではなく同格だろう。「美しい、静かな湖」はなくてもいいかな。あるいは中止法と考えることもできる。「美しくて静かな湖」なら、読点はないほうがいい。「飲み、食い、騒ぐ」は重文の話だろう。
[3] 倒置法が使われた時
本多読本に言わせると、「逆順の典型」。それでいいと思う。とくに目安にする意味がわからない。
[5] 助詞が省略されたり、感動・応答・呼びかけなどの言葉が使われたりしたとき
前半は同感。後半は、例の文部省の化石以来の伝統的な用法。これって単に字面の問題では。だとすると[4]に含まれる。「ああ驚いた」「嗚呼おどろいた」なら読点は不要になる。「ああ無情」に読点を打つか否かは趣味の問題だろう。むしろないほうが多い気がする。
[6] 文全体にかかる副詞の後
本多読本式なら、逆順だろう。当方は本書を支持する。逆順とは思えないことも多いから。できれば「時を表す言葉」この仲間に入れてほしい。とっても重要だと思う。
【引用部】
ハは文を飛び越す (P.74)
この小見出し以下の記述が、P.53の〈[3] 「は」はそれ自体で遠くへかかっていく力をもっているので、本来は後に読点を打つ必要はない。〉の解説らしい。
似たような話はどこかで読んだ。要旨はわからなくはないが、この解説では何がなんだか。どうやら、「ハ」が1回出てきたら、次の「ハ」が出てくるまでは効力が続くらしい。そういうこともある、ってこと。だからなんなの、とまでは書かない。
例であげられているのは『吾輩は猫である』の冒頭部。「吾輩は猫である。名前はまだない」……「名前ハ」が出てきたから、以降の主語は「名前」なのね。そんなわけあるかーい。
ここらへんで真面目に読む気が失せた。
元々、「語順」と「句読点」の話しか期待してなかったけどさ。
あとは本当にメモ。
「彼は音楽を好きだ/嫌いだ」は「本来なら誤用」(P.70) らしい。そこまで言えるのかなぁ。
「文章のひな形はラブレター」(P.102) 。報道文はどうなる。試験問題はどうなる。憲法はどうなるんだ。
「まず四季を四つの段落に配当する構成(対称)が見事である。」(P.116) 微妙な気もするが、「対照」だろう。
P.137末のギャグ……こういうまじめくさった文体でやられても。
で、最後に〈無用な「が」〉の話を書いておく。〈無用の「が」〉では、って話は微妙すぎるんでパスする。
「逆接のガ、」は、文章をダラダラとしたものにするので、避けたほうがいい。しかし、実際にはもっと罪深い「ガ、」がいる。
↑のP.23からの引用を再掲する。
【引用部】
職業柄、私は学生のレポートによく付き合わされるが、どういうわけか、とにかく文が長い。長いというよりか、だらだらとして締まりがない。「短い文を書くように」と口を酸っぱくして言うのだが、かわりばえのしない長い文を書いてくる。私は簡単に考えていたのだが、学生たちの相も変わらぬ対応を前にしてあるときハッと思い当たった。「短く書くこと」は単に文を切るだけの問題ではない、どうやら「思考の流れ」と深く関係しているらしいということに。(P.23)
ちょっと注意して読めばわかる。第1文、第3文、第4文に「ガ、」が出てくる。
第1文の「ガ、」は「曖昧のガ、」「前置きのガ、」などと呼ばれるもので、極力避けるべき。一般に「。しかし、」に書きかえられない「ガ、」は、だいたいこれだ。
第3文、第4文の「ガ、」は「逆接のガ、」。当方も油断するとすぐにこういうことになるが、連発していると無神経な文章と批判される。
【引用部】
辛口すぎるこの人のエッセーは読者を選ぶようだが、私は大ファンである。言葉づかいがちょっぴり古風であるが──たとえば火事を付け火、証券会社を株屋、入場料を木戸銭──、ずばりと核心を突くその直言には溜飲が下がる。(P.138)
こちらも「逆接のガ、」の連発。じっくり探すと同様の例がほかにも見つかるかもしれない。そういう粗探しの趣味はないので、やめておくけど。
まあ、「短く書け」と力説しながら、自分ではズルズルした文を書くセンセーに比べればずっとマシだけどさ。
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