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読書感想文 『手取り足取り わかりやすくて印象に残る短文の書き方』(遠藤昭/明日香出版社/2000年12月31日初版発行)

 ちょっと事情があって古い読書感想文をアップする。
 書き方に問題を感じるけど、もういいや。

 ご近所の明日香出版社の新聞広告で見つけ、書店で手にとってけっこう迷った末に購入した。筆者は相当に実践的な文章の書き手。新聞や広告などで見つけたわかりにくい文章を例にあげ、直し方を具体的に示す。好感が持てるのは、“先生”の論調になっていない点。プロフィールを見ると、1945年生まれのライターらしい。明日香出版社というのは風変わりなライターを抱えている印象があったが、この人の名前も聞いたことがない。プロフィールの最後に「(全34冊目−自7冊目)」とあり、どういう意味か悩んでしまった。「はじめに」を読むと、執筆した34冊目の単行本であり、そのうち27冊がゴースト本で、7冊が自著本ということらしい。
 スカスカの組みになっていることや、冗漫な記述が目立つことは、読みやすさを重視したためと考えておく。それにしてもこの組みの176ページで1300円は高いよな。
 第1章が文章を書くときの心構えのようなもの。「過剰な形容詞はやめよう」「中途半端な形容詞・形容句・形容節はとり払おう」「接続詞は少なくしよう」など、おなじみのテーマが並ぶ。実例の数も少なく、目新しさはあまりない。
 第2章と第3章は、判りにくい文章の実例をあげ、修正案を提示する。ひとつの方法ではあると思うが、他者の文章を俎上に乗せて難癖をつけるからには、例文を厳選し、解説には細心の注意を払う必要がある。その意味では、どうにも“甘い”記述も多い。
 こういう記述を見て感じるのは、「具体例をあげた解説の限界」。例をあげないよりはあげたほうがいいが、例はあくまで例でしかない。都合のいい例を持ってくれば、どんな暴論でも一応の説得力を持たせることができる嫌いがある。特殊な例を持ち出して、強引な断定を正当化されたのではたまらない。この本の場合は強引な断定はほとんどないが、類書にはひどいものも多い。さらに言えば、いくら例をあげても、法則性なりパターンなりをしっかりと示さないと、応用がきかない。これが難問。
 順を追って見ていく。
 P.70の解説。原文の「学習する」を「学習」に修正している箇所がある。その理由は「キレ良く体言止めにしました」になっている。体言止めを使うとキレのよい文章になるか品のない文章になるかは意見が分かれるところ。ここまでは筆者の考え方の問題だから、なんともいえない。ただし、ここで例としてあげられているのは、「熟語動詞+スル」を体言止めにする形で、とりわけ評判が悪いもの(個人的には、よほどのことがない限り体言止めにするべきではないと思う)。お手本としてあげるなら、「名詞+ダ・デアル(もしくはデス)」の形に限るべきだろう。そもそも、体言止めについてふれるなら、2種類に大別できることぐらいは示す必要がある。それをハッキリとさせずに体言止めのことを語ってほしくない。
 P.88〜の「主語と述語は、できるだけくっつけよう」の中にある例文('97年9月5日付『朝日新聞』)と修正案。
 【原文】
〈江総書記らに、指導者間で異論のない「@氏理論の堅持」により、体制の団結と安定を保つという狙いがあるのは間違いない〉
【修正案】
〈指導者間で異論のない「@氏理論の堅持」により、体制の団結と安定を保つという狙いが、江総書記らにあるのは間違いない〉
「主述」を近づけたほうがいいことが多いのは確か。しかし、この修正案は改善されたか否かは微妙。日本語は、主語が出てくるのが遅れれば遅れるほど不安定な感じになる。この場合、原文の「指導者間で異論のない〜」は前後に読点がついて挿入句扱いになっているのだから、異和感はない。どちらをヨシとするかは趣味の問題になる気がする。何より問題なのは、「主述」を近づけることを徹底するのはそれほど簡単ではないということ。そのことを説明するための例ならいくらでもあげられる。
 たとえば、P.94〜の「形容する言葉は、形容される言葉の、できるだけ近くに置こう」の中にある例文(吉村昭『町の講演会』の一節)と2つの修正案。
 【原文】
〈当日、背広を着た私は、何気なく電機メーカーに勤務する長男に、町のセンターで講演をすることを口にすると、……〉
【修正案】1)
〈当日、背広を着た私は、電機メーカーに勤務する長男に、町のセンターで講演をすることを何気なく口にすると、……〉
【修正案】2)
〈当日、背広を着た私は、電機メーカーに勤務する長男に何気なく、町のセンターで講演をすることを口にすると、……〉
「主述」を近づけることを徹底するのなら、ここも「私は」を後ろに移動しなければならないはず。しかし、この場合は「私は」に「背広を着た」がついているためか、述語には近づけにくい。「この例文は別なことを説明するためのものだから……」と弁解することは可能だろうが。
 前後の文がないのでなんとも言えないが、「背広を着た」はどういうニュアンスで使われているのだろう。唐突な感じがして不自然。
 それはさておき、2つの修正案について次のように解説されている。
 1)は、「何気なく」を、それがかかる「口にする」の直近に置いたもの。
 2)は、直近ではないけれど、実例文よりはもう少し近くに置き、かつ「何気なく、」と「何気なく」の次に「、」を打つことで、「何気なく」が「講演する」を飛び越して「口にする」にかかっていくことを示唆したもの。
 テンとハサミは使いよう。「、」は重宝なものなので、上手に使うことです。
 問題は修正案2)に関する記述。ここで語られている読点の効用は正しくはあっても、やや特殊なもの。ちゃんと説明しないと読者が理解できない。あっさり“流す”ぐらいなら、文としても不自然な修正案2)は出さないほうがいい。
「修飾語(形容する言葉)」は「被修飾語(形容される言葉)」の近くに置く、というのも基本的な原則のひとつではある。問題は例外をどう処理するか。
 たとえばタイトルの「形容する言葉は、形容される言葉の、できるだけ近くに置こう」の2つ目の読点の位置はいかにも不自然。そのまま削除してしまうべきだが、打ちたくなる気持ちも判る。原因は「できるだけ」を「近くに」の近くに置こうとしたため。次のように移動してみる。
 形容する言葉は、できるだけ形容される言葉の近くに置こう
 こちらのほうが自然。「できるだけ形容される」に見えてしまうというなら、「できるだけ」の直後に読点を打てばいい(その場合は1つ目の読点を削除するべきだろうか)。
 おそらく、どこに読点を打っても異和感が残るはもとの文がヘンだから。
 素直に書きかえたほうがよほどスッキリする。
 形容する言葉は、形容される言葉にできるだけ近づけよう
 形容する言葉と形容される言葉は、できるだけ近くに置こう

 P.96〜の「それをしたのは誰か? それぞれの行為の主体者を明確に書こう」の中にある例文('98年1月6日付『朝日新聞』)と修正案。
 【原文】
〈潤氏が可愛がっていた社員を配転させても、潤氏は異議を唱えなかったという〉
【修正案】
〈潤氏の可愛がっていた社員を、功氏が配転させても、潤氏は異議を唱えなかったという〉
 この修正案は間違いではないが、かなり美しくない。一文の中に「潤氏」が2回出てくるからだろう。2つの「潤氏」の間に「功氏」まで出てくるから、煩雑きわまりない。こんな修正案では説得力に欠ける。1つ目の読点も不要。根本的に書きかえて二文にするべきだが、一文のままでなんとかする方法もありそう。
 可愛がっていた社員が功氏に配転させられても、潤氏は異議を唱えなかったという。
 前後の文章によるが、これで十分だろう。判りにくいと感じるのなら、文頭に「自分の」をつければいい。
 修正案の解説では以下のように書かれている。
 「配転させ」た主体者として「功氏」を書き入れました。のみならず、「功氏が」と「が」という助詞を持ってきたので、「潤氏が可愛がっていた」の「潤氏が」を「潤氏の」と直しました。
「潤氏が可愛がっていた社員を、功氏が配転させても」と、「潤氏が」「功氏が」と「が」を二度使うよりも、「潤氏の可愛がっていた社員を、功氏が配転させても」とするほうが、よりわかりやすいと思います。
 この「が」と「の」の指摘はよく見る。そのとおりだと思う。
 この問題に関して、判らないことが2つある。ひとつは、文法的にはどうなのか、ということ。もうひとつは、なぜ「が」を使うべきではないのか、という疑問に対する正確な答え。類書では「読みにくい」「内容がわかりにくい」という理由があげられていたりする。多少読みにくい気はする。しかし、判りにくくはないだろう(「が、」と読点がつくのなら話は別)。「語感が悪くなる」という多分に感覚的な理由しか思いつかない。語感が悪くなるのは、たぶん「が」が濁音のなかでもとくに強い響きを持っているから。
 蛇足ながら、最近の新聞は「功」ではなく「@」と書いているはず。

 P.126〜の「同じ『音』の語尾の繰り返しは、避けよう」では例外として佐々木信綱の短歌が出てくる。
 一般の文において、一つの文の中の文節の語尾を同音で重ねていくのは、短歌などの場合と違って、インパクトを弱めます。いかにも安易で、工夫が足りないという感じも与えます。
 趣旨は判るが、この解説文はなんなのだろう。「インパクトを弱めます」は、例文の短歌が同じ「オ」音を重ねることで「印象を強めています」という解説に対応するのだろうが、「インパクト」や「印象」を弱めたり強めたりする効果はないはず。「いかにも安易で、工夫が足りないという感じも与えます」はそのとおりだと思う。ただ、「一つの文の中の文節の語尾」というノの4連発のあとでは説得力皆無。仮にギャグでやっているのだとしたら、説明が必要。「同じ文中の文節の語尾」としてもよいし、単に「文節の語尾」にしたほうがスッキリする気がする。ちなみに短歌の作者は佐佐木信綱のはず。
 このあとに出てくる例文(原典不明)と修正案。
 【原文】
〈今後もこのような社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえるような企画を考案中です〉
【修正案】
〈今後もこのように社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえるような企画を考案中です〉
「このような」を「このように」に変えた理由は、次のように説明されている(下線部は、原文では傍点)。
 前の文例では、各文節の語尾が同音の繰り返しになっていたのに対し、この文例では、「このような」「もらえるような」と、形容する言葉の語尾が「ア」という同音の繰り返しになっています。
「語尾」という言い方には異和感があるが、厳密な話をすると煩雑になりそうなので、「語尾」としておく。
 趣旨には大賛成だが、この場合は例文が不適切だろう。この例文には問題点が2点ある。1つ目は、そう長くない一文に「ような」が2回も出てくること。【修正案】のように一方を「ように」すれば多少マシになるが、「よう」が2回出てくる点は変わらない。いっそ後ろの「ように」を削除してしまうほうがスッキリする。
 【修正案2】
 今後もこのような社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえる企画を考案中です
【修正案2】は、1つ目の問題が解消されている(当然「ア」の繰り返しにもなっていない)。それでもまだヘンな感じがするのは、2つ目の問題点が解消されていないから。
「このような」は「企画」を修飾する言葉なので、このままでは修飾語と被修飾語が離れすぎている印象がある。これを「このように」にすると、「社員全員で楽しめて、慣れ親しんでもらえる」を修飾するので不自然ではなくなる。
 もとに戻って、例文に比べて【修正案】がマシなのは、この2つ目の問題点が解決されているから。「ア」の同音の繰り返しが解消されたのは大した問題ではない。

 P.132〜の「どちらにも解されるようには、書かないようにしよう」の中にある例文(佐高信『鵜の目 鷹の目 佐高の目』所収の引用文)と修正案。
 【原文】
 〈……この観点で見ますと、オウムだけが邪教集団ではありません〉
 【修正案】
 〈……この観点で見ますと、邪教集団は、オウムだけではありません〉
 これは新鮮だった。「だけ+否定形」も両方の意味になりうることがある。ただし修正はむずかしくない。修正案の逆の意味なら、「邪教集団でないのはオウムだけです」にすればいいし、「だけ+否定形」を残して「オウムだけは邪教集団ではありません」としてもいい。
 P.105〜には「『〇〇のような』『〇〇のように』という言葉は、その使い方に注意しよう」という項目もある。修正案は「Aと違い、……」か「A同様、……」を使うことになっている。ただし、この2つが判りにくくなるのは否定形と併用されたときだけ、という重要なポイントが抜けている。

 P.143〜の読点やカギカッコの使い方を説明する例文(『サライ』'98年第15号)と修正案。
 【原文】
 〈「道の駅」は一般道にある高速道路のサービスエリアのようなもの〉
 【修正案】1)
 〈「道の駅」は一般道にある、高速道路のサービスエリアのようなもの〉
 【修正案】2)
 〈「道の駅」は、一般道にある「高速道路のサービスエリア」のようなもの〉
 例文が判りにくい原因の解説には次の記述がある。
 一読して「?!」と思うのは、一つには「一般道にある高速道路」と、つい読んでしまうことにあります。したがって、二つには「一般道にある」が、どこへかかっていくのかがつかみにくいことにあります。
 これは悪文だろう。冒頭の「思うのは」を「思う原因は」にすれば多少マシになる気もするが、それでもしっくり来ない。一般に「一つには」「二つには」という表現は「係り結ばず」になりやすい。このテの本であえて使うのなら、配慮するべき。「したがって、」も不要、と言うよりないほうがマシ。あまりやりたくないが、あえて最低限の修正案を作っておく。
 一読して「?!」と思うのは、つい「一般道にある高速道路」と読んでしまうためです。さらに、「一般道にある」がどこにかかっていくのかも、つかみにくくなっています。
 言葉の修飾・被修飾の関係に言及すると、どうしても話がややこしくなる。それでもやるなら徹底的にやるしかなく、こんなふうに中途半端にやるべきではない。
 修正案の解説の記述は次のとおり。
 1)は、「一般道にある」のあとに「、」を打つことで、「一般道にある」が「サービスエリア」へかかることを示したもの。
 2)は、〈「道の駅」は〉のあとに、「、」を打つことで、まず主語をハッキリさせ、かつ、「高速道路のサービスエリア」を「」ないしは@@で一くくりにすることで、「高速道路のサービスエリア」を一つの言葉のように見せ、「一般道にある」が「高速道路のサービスエリア」にかかることを明確にしたものです。
 1)より2)のほうが、わかりやすいかもしれませんね。
 これでも意味は通るかもしれないが、厳密に見ていくと相当問題が多い。
 まず第1文。ここで扱われている問題はP.94の解説にも通じる。読点を打てば、「一般道にある」が「高速道路」にはかからない感じにはなる。しかし、「サービスエリア」にかかることを示しはしない。この読点の働きについて同じような解説をしている「文章読本」を見たことがあるが、そちらはもう少しシンプルな例文で判りやすかった。細かいことを言うと、動詞が「かかる」の場合、助詞は「に」にするべきだろう。先の解説文のように「かかっていく」の場合は「へ」でもいい気がするが、やはり「に」のほうが自然だろう。
 第2文。長すぎ(長すぎると必ず判りにくいというわけではないが、この場合は長すぎることが判りにくさの原因のひとつになっている)。判りやすさを重視して読点を多めに打っている文は、一文が長くなるとどうしてもブツ切れの印象になる。ここで取りあげられている読点は打つほうがいいとは思うが、その理由は「主語をハッキリさせ」るためではない。1)は主語のあとに読点がないから主語がハッキリしないかと言うとそんなことはない。
 第3文。この場合は2)のほうが判りやすい理由をハッキリさせるべきでは。とは言っても、説明するとかなりむずかしくなりそうだな……1)のような使い方の読点(連体修飾の修飾語と被修飾語の間に打つ読点とでもいうべきか)を駆逐するのは容易ではない。そもそも、この例文自体が応急処置では対応できない気がする。
 一般道にある「道の駅」は、高速道路の「サービスエリア」のようなもの
 とでもするしかないが、これでもまだ不自然さが残る。「もの」を「機能をもつ」とでもすれば意味はハッキリする。さらに「のようなもの」を「に相当する機能をもつ」にすればもっと明確になる気はするが、堅い感じになってしまう。いっそのこと「一般道にある」を削除するか、前後の文を含めて大手術を施すしかなさそう。

 P.148〜の「『、』を打つか、語尾をちょっとかえるかしてみよう」の中にある例文('98年6月20日付『朝日新聞』夕刊)と修正案。
 【原文】
 〈少しそそっかしくて困った人がいると、放っておけない〉
 【修正案】1)
 〈少しそそっかしくて、困った人がいると、放っておけない〉
 【修正案】2)
 〈少しそそっかしいので困った人がいると、放っておけない〉
 【修正案】㈫
 〈少しそそっかしいので、困った人がいると、放っておけない〉
 これは例文が不適切なので解説が空回りしている感がある。原文が日本語になっていないから、多少修正してもマトモな文章にはならない。
 解説では「少しそそっかしくて困った人」なのか「少しそそっかしくて……放っておけない」なのか判らない、としている。しかし、どちらの意味にしても言葉の使い方に疑問が残る。
 前者なら「少しそそっかしくて困る人」とでもしなければヘン(「困る人」にしても口語的な感じで、正しい日本語か否かは不明)。「少しそそっかしくて困ってしまう人」のほうがマシかな。
 後者なら、「困っている人」とでもしなければヘン。さらに、「少しそそっかしくて……放っておけない」は意味が通じているようで通じていない。「人情家で……放っておけない」なら判るが。
 修正案1)のように読点を打てば一応解決はするが、言葉の使い方の問題が解決していないので日本語としては相変わらずヘン。ついでに言えば、このように読点を加えた場合は、2つ目の読点は削除するべき(修正案㈫も同様)。
 修正案2)を出した理由は、次のように解説されている。
 2)「そそっかしくて」の「〇〇しくて」という表現は、そのあとにくる言葉を、さらに追加する働きをします。この場合だと、「そそっかしいうえに困った人」ということになる。
 なんで最後がいきなりデアル体になったのかは知らない。それはさておき、この理由から語尾を2)のように直し、さらに㈫のように読点を加えればもっといいとしている(ここでも「語尾」という言い方には異和感がある)。
 これは勘違いだろう。「しくて」を「しいので」に変えたから「そそっかしい」と「困った」が結びつかなくなったわけではない。日本語としてもともとヘンな結びつきが、言葉を変えたために、たまたま異和感が強くなっただけ。「少しそそっかしいので困ってしまう人」なら、さほど異和感はない。まだ少しヘンなのは、もともとの例文がヘンなためだろう。
 このことは、次のような文で考えて同じような修正をするとはっきりする(この文を考えるのにエラく苦労した。シク活用の形容詞で適当なものが見つからないうえに、あげられている例と同じような係り方をさせるのが意外にむずかしかった。さんざん悩んで、結局非常にシンプルな形にたどり着いてしまった)。
 【原文】
 貧しくて飢えている人に、援助できない。
 【修正案】1)
 貧しくて、飢えている人に、援助できない。
 【修正案】2)
 貧しいので飢えている人に、援助できない。
 【修正案】㈫
 貧しいので、飢えている人に、援助できない。
 この例で「貧しくて飢えている人」(A)の意味になるか、「貧しくて……援助できない」(B)の意味になるかを考えてみる。
 原文の意味はAとしかとれない。修正案2)は日本語としてはやや不自然だが、「……ので」を使っていても意味としてはAで、Bとはとれないはず。一方、修正案1)㈫は、Bととるのが自然だろう(どちらも2つ目の読点はないほうがいいはず)。
 いずれにしてもまぎらわしい文なので、根本的に書きかえるべき。読点を打ったり、語尾をちょっとかえたりしてもまともな日本語にはなりにくい。結論としては、例文が不適。読点の有無によって文意が変わる例ならほかにいくらでもある。

 P.153〜の「ちょっと順序を入れかえてみよう」の中にある例文(太田蘭三『殺意の北八ヶ岳』より)と修正案。
 【原文】
〈釣部(渓三郎)は、あおむけになったまま、ぐったりとし、四肢を投げ出した亜夕子の脇の下に手を差し入れると、溶岩の斜面に引きずりあげた〉
【修正案】
〈あおむけになったまま、ぐったりとし、四肢を投げ出した亜夕子の脇の下に、釣部は、手を差し入れると、溶岩の斜面に引きずりあげた〉
 冒頭の(渓三郎)がどういう意味を持っているのか不明。単に「釣部」だと人名に見えないことを配慮したと考えておく。
 小説を例文にしたため、著者はかなり遠慮がちになっている。解説には「このようにわかりやすくしたとしても、文学的な味や良し悪しは、かわらないと思うのですが……」とある。
 小説の中で、このテの悪文を探しはじめるとキリがない。なんらかの効果を狙ったものもあるが、大半は単なる悪文。手に負えない代物も多く、相手にしないに限る。この場合の修正案も決して美しくない(もう少し読点を減らせばマシにはなるが)。

 P.164〜のテーマは「使用する文字・語・用法を統一しよう」。これは表記の統一の必要性と、使い分ける意義について考えるのに参考になった。
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