読書感想文『論文の書き方』

mixi日記2008年12月20日から

2001年8月

『論文の書き方』(清水幾太郎/岩波新書/1959年3月17日第1刷発行/1999年6月21日第77刷発行)
 これも禁断の書かな。すごい本だよ。コチトラよりほんの少し年長なのにいまだに現役なんだから、呆れるしかない。こういうのをロングセラーって言うんだろうな。
 これは実用書タイプではなく、教養書タイプの「文章読本」。それでいて、役に立つ記述もけっこうある。何よりも、格調の高さに圧倒される。この格調の高さはどこから来ているのかと言うと、「著者の人格の賜物」としか言いようがない。こういう精神論はあんまり認めたくないが、ほかに言いようがないんだからしかたがない。あえてもうひとつあげるなら、古臭い印象がある文体(当然のことながら、常用漢字表なんぞほとんど無視した表記の問題も含む)もひと役買っている。
 はっきり言うと、この本は相当とっつきにくい。とっつきにくさの大きな原因は、「文体の古臭さ」と「改行の少なさ」。正直に書くと、ずいぶん前に読みはじめて、50ページぐらいで挫折した。ところが、かなり期間をあけてはじめから読み返したところ、さほど抵抗がなかった。原因は不明。

【引用部】
 私の気持では、何百枚という長い文章は一つの機械のようなもので、沢山の短文は、相寄って機械を組み立てている部分品のようなものである。前に触れた方法で短文即ち部分品を作っておいて、それを組み立てることによって、長い文章即ち一つの機械を作り上げるということになる。私にとって、短い文章は長い文章の絶対の前提である。そういう事情なので、改行というような簡単なことも、私には軽い気持では出来ない。(P.17)
 趣旨は理解できない。短い文章の積み重ねによって長い文章ができあがる、というのはそのとおりだと思う(これに関しては、異論がある人もいるだろう)。しかし、そのことと改行の多寡は別問題ではないか。著者自身が認めているだけあって、本書は改行が異常に少ない。ひどいときには、新書判で見開きが改行なしで続いたりする(たとえば32~33ページ)。もっとひどい箇所もあるかもしれない。こうなると、読むほうはかなりつらい。これは引用しようとして気がついたことだが、本書の文体は文章がカッチリ切れる部分も少ない。指示語をはじめ、直前の文を引きずっているフレーズが頻出する。これでは改行が少なくなるのもしかたがない気がする。

【引用部】
 文章の修業が問題になるたびに、最近でも美文ということが話題になる。即ち、或る時代までは、美しい立派な文章というものの模範があって、文章を書くものは、この模範に従って書かねばならなかった。そういう時代はいつ終ったのか、正確なことは判らないが、私が少年の頃はもう美文時代は終っていたと思う。多くの先生は、「思った通りに書け」、「見た通りに書け」と教えていてくれたのであるから、美文時代は過ぎていたと考えてよかろう。しかし、思った通りに書く、見た通りに書くと言っても、それは簡単に出来ることではない。(P.25)
専門家の研究に従うと、いわゆる言文一致の運動は、幕末から明治初年にかけて、少数の先覚者によって開始されて以来、幾つかの段階を踏み越えて今日に至っているもので、この過程を通じて、「……なり」という文語体は亡び、「……である」という口語体が勝利を占めて来た。第二次世界大戦後、「日本国憲法」が口語体で書かれたことは、文語体の絶対的敗北の、口語体の絶対的勝利の証拠であると見てよい。(P.26)
第一次世界大戦後の民主主義の中で「社説」という正式の文章が口語体になり、第二次世界大戦後の民主主義の中で「日本国憲法」という最高の正式の文章が口語体になったのである。(P.29)
 これは時代背景を考えると、ちょっと注意が必要だろうな。当時の「思った通りに書け」「見た通りに書け」という心得は、いわゆる美文調に対するアンチテーゼとして生まれたはず。文語体に対するアンチテーゼと言ってもいい。口語体と文語体を区別することはない、ということだろう。決して「思ったまま」「見たまま」書けという意味ではない。それをどう誤解したのか、この心得が誤解されたまま伝承されていて、「思ったまま」「見たまま」書くの正しいと主張するヤカラがいる。そんなことできるわけない。あえて弁護するなら「ヘンに気取らずに書け」と意味なんだろうな。
 ただし、ここで言う文語体と口語体は、現代で言う書き言葉と話し言葉とはかなり違う気がする。当時の口語体は、現在の書き言葉よりもまだ堅苦しい。「日本国憲法」が口語体だなんて、とうてい思えない(まあ、それ以前に「日本語とは思えない」と言うべきかもしれない)。

【引用部】
 そもそも、文体だけを真似することができるものでしょうか。(中略)スティーヴンソンのことは判らないが、一般に文体だけを真似するというのは不可能のように思われる。(P.35)
 これは人によって見解が分かれるところだろう。「精神」や「本質」を別にすれば、文体“だけを”マネることは可能と考えることもできる。文体は「精神」や「本質」を抜きにしては成立しないと考えるなら、不可能になる。個人的には、前者の立場を取るしかない。

【引用部】
 しかし、それにも拘らず、彼の思想は強く私の心を捕えていた。彼の文体は受け容れられなかったが、彼の思想には飛びついた。こう考えると、文体には思想が浸み込んでいる、と前に書いたものの、文体と思想とは単純に一つのものとは言い切れなくなる。(P.38)
 この「彼」とは三木清のこと。著者は、かつて三木清の思想は肯定しながら、文体は嫌っていた。「今日」読み直すとそうは感じないと書きながら、相当こき下ろしている。当然そういうことはある。逆に、思想的には受け入れることができない人間が書いていても、文章自体の説得力は認めざるをえないということもある。つまり、「文は人ならず」としか言いようがない。

【引用部】
 ドイツ語のmanやフランス語のonのつもりで「ひとは……」と書くのは誇張である。man sagt……やon dit……は、「……と言われている。」とか、「……という話である。」とか訳せばよいので、「ひとは……と言う」とまで訳すのは訳語過剰である。(P.40)
 これはなんとも言えない。たしかに「……と言われている」の類いのほうが自然ではある。しかし、これが「……と思われる」などのいわゆる「直訳体の受動態」に繋がっているのだろう。

【引用部】
 私の少年時代に、美文の型から抜け出るのが文章の勉強の第一歩のあったように、現在は、新聞のスタイルから抜け出ることが勉強の第一歩だとも言える。新聞の文章は現代の美文である。少し前に、私はこう書いた。「文章を書く時は、多少の差し触りを覚悟してかかる必要があるであろう。」主語がハッキリし、肯定か否定かがハッキリすれば、とかく、差し触りが生じ易い。ところが、一般に新聞の文章は差し触りを避けた文章なのである。新聞の文章といっても、日本の普通の大新聞の文章のことであるが、これは、或る特殊な事情の上に成り立っている文章なのである。簡単に真似してよいものとは言えない。(P.44)
 このあとの記述によると、「日本の新聞の原型が出来上がったのは、今から七十年ばかり前」のことらしい、現代から逆算すると、約110年前になる。その原型の特徴は、大ざっぱ言うと「ニュース本位」と「商業主義」の2つに集約されるらしい。「ニュース本位」であるから、中立が原則になる。「商業主義」をとるからには、大多数の意見におもねる必要がある。その結果、必然的に新聞の文章は差し障りのないものにならざるをえない。そのとおりでしょうね。近年の新聞が「現代の美文」か否かというと、ちょっと時代的なズレがありそうだが、ここに要約されている2つの特徴は継承されている。たしかに新聞の文章をお手本にするのはよくない。問題は、じゃあほかに何をお手本にすればよいのか、ということ。

【引用部】
 では、「が」が一般にどういう意味で用いられているか。用途の全体を網羅することは思いも寄らないが、若干の重要な用途を挙げてみると、第一に、「しかし」、「けれども」の意味がある。前の句と多少とも反対の句が後に続く場合である。反対の関係が非常に強い時は、「にも拘らず」の意味に使われる。第二に、前に句から導き出されるような句が後に続く場合に、「それゆえ」や「それから」の意味で用いられる。第三に、反対でもなく、因果関係でもなく、「そして」という程度の、ただ二つの句を繋ぐだけの、無色透明の使い方がある。このほかにも多くの用法があるけれども、差当って、この三者だけを見ても、「が」用途が甚だ広いこと、従って、これが甚だ便利な言葉であることは判る。(P.53)
 この記述が広く知られているらしい。便利さゆえに「が」は警戒しなければならない。それは正論。しかし、そのあとに出てくる例はどんなものだろう。次の両方が成り立つとしている。
 1)彼は大いに勉強したが、落第した。
 2)彼は大いに勉強したが、合格した。
 この例文の話はほかの本で見て、そのときにも異和感があった。「が」が順接にも逆接にも使えるのはたしかだが、2)のような使い方はヘンなんじゃないだろうか。この例と同じように、まったく同じ文脈で使って、「順接」にも「逆接」にもとれる「が」ってあるだろうか。課題にしておく。

【引用部】
 文章を書くというには、日本語を外国語として取扱わなければいけない。(P.81)
 なんかヘンな日本語やな。たぶん、「というには」のせいだろう。「外国語として」は少しオーバーかもしれないが、心構えとしてはこのぐらいでちょうどいいのかもしれない。なまじ慣れ親しんでいる日本語だから、「文章なんてだれでも書ける」と思うのが間違いのもと。

【引用部】
 詩人とは、言葉を使う人間ではなくて、言葉に仕える人間だ、とサルトルは言っている。詩人にとっては、言葉それ自らが実物なのである。(P.89)
 この論理を援用すれば、文芸作品を文章の問題であげつらってはいけないことを正当化できる。詩人が「言葉に仕える人間」なら、作家も「言葉に仕える人間」と規定して問題はないだろう。そういう人たちの文章にインネンをつけてはいけない。うーむ、なんと美しい擁護だろう。コピーライターなんかも、「言葉に仕える人間」の代表なんだろうな。「文法的にヘン」とか、インネンをつけてはいけません。

【引用部】
 いや、芸術家を引き合いに出すのは適切でない。私は、もっと小さな話をするつもりなのだ。前に挙げたブローダー・クリスティアンセンの『散文入門』の本文は、ゲーテの言葉で始まっている。「すべての芸術に先立って手仕事がなければならない。」この言葉は文章の修業にも当て嵌まる、とブローダー・クリスティアンセンは考える。芸術は他人に教えることが出来ないであろう。しかし、手仕事のルールは、他人に教えることが出来るし、誰でも学ぶことが出来る。(P.91)
 もう少し一般的な言葉に直すと、本多勝一の主張に近くなる。つまり「技術」のレベルまでなら、教えることも学ぶことも可能ということ。

【引用部】
 文法は、文章を論理的に構成するための基礎的ルールを、従って、論理的思惟の基礎的ルールを教えるものではなかったし、作文は、先生と生徒とが或る種の文学趣味のうちで甘え合う時間であった。結びつけば双方が有意味になる筈のものが互いに背を向けていたのである。(P.92)
 1つ目の文がヘンだけど、おいておく。これは、学校教育における(このテの用法の「おける」は原則的には「での」にするべきだろうが、この場合は「おける」だよな)「文法」や「作文」の扱い方を批判する記述に出てくる。いやはや強烈です。たしかに日本語教育の中の「文法」というのは、害こそあれ利はない。先の記述との矛盾を恐れずに書けば、母国語に関する文法的の基礎的な知識はだれもがもっているからだろう。あんまりゴチャゴチャやられると、本能的に判っていたはずのことまでが判らなくなってくる。それにしても、「或る種の文学趣味のうちで甘え合う時間」ってのは相当厳しい。笑うしかない。

 P.104~の〈文章は「つくりもの」でよい〉の項目にはちょっと驚いた。クドいようだが、この本は当方より年長。こんなに早くから、こういう正論を書いている人がいたんですね。

【引用部】
 「あるがまま……」とか「正直に……」とかいう合言葉は、「つくりもの」という観念と正面から衝突する。もちろん、私が勧めているのは、嘘を書くことではない。そんなことではなくて、「あるがままに……」や「正直に……」だけでは文章は書けるものではないし、それに、このスローガンが、日本特有の自然尊重の態度によって受取られているという点を私は心配しているのである。
「自然尊重」と言うか、「巧言令色否定主義」と言うか、とにかく「朴訥」をよしとする風潮がある。これに「謙遜の美徳」なんてのも絡んでくるから、とにかく技巧的なものは嫌われやすい。

【引用部】
 私が一生懸命に説いているのは、「無駄な穴填めの言葉」を大いに使おうという話なのである。実際、谷崎潤一郎氏の言う通り、こういう接続詞や接続助詞をやたらに使うと、文章は次第に読みにくくなる。もちろん、読みにくくしようというのが私の本旨ではない。自分の安定したスタイルが出来れば、「無駄な穴填めの言葉」をあまり使わないでシッカリした構造の文章が書けるようになることも事実である。しかし、それは入門の段階の問題ではない。それに、接続のための言葉が必要か否かも一概に決めるわけには行かないのである。(P.111)
 このあとの例示がみごと。要約してみる。
1)ひとつの句が多くの言葉を含み、ひとつの文が多くの句を含む文体(谷崎潤一郎の文体はある種の典型)なら、「無駄な穴填めの言葉」は減る。接続詞・接続助詞が句や文に内蔵されるから。ただし、この文体は論文には向かない。
2)第1文と第2文が相当の範囲で重なり、さらに第3文も第2文と重なる部分があり……という文体なら「無駄な穴填めの言葉」は減る。ただし、テンポが落ちてクドくなる。
3)読み手の経験が叙述を補うことができる場合は「無駄な穴填めの言葉」は少なくてすむ。ただし、論文の場合はそういうケースはほとんどない。
 まったくおっしゃるとおりです、とか言いようがない。3)の典型は、小説やエッセイだろう。これを誤解して、「名文家の文章には接続詞が少ない」と主張するバカが多い。それはそういうことが可能な内容だから、としか言いようがない。

【引用部】
 「私は、……」で始めて、いろいろと書いた末に、「……と信ずる。」と結ぶよりは、「私の信じるところでは、……」と初めに書いてしまった方がよいであろう。そのほかにも、語順については多くの工夫が可能であろうが、根本的なルールとしては、句点の多い文章を書いた方がよいと思う。即ち、短い文を積み上げた方がよいと思う。一つの短い文で一つのシーンを明確に示し、文と文との間は、接着力の強い接続詞でキチンと繋ぐことである。(P.187)

 P.196には、「短い文で一つのシーンをピシッと描き、必要があれば、文と文とを強い接続詞で繋いで行けば、決して淡泊にもならず、繊弱にもならないであろう。」という文もある。「私の信じるところでは、……」のスタイルは、「少しマシ」って程度だろうな。やはり、一文を短くするほうがいいことは間違いない。問題は弊害をどう処理するかってこと。

【引用部】
 本書で「論文」というのは、差当り、「知的散文」というほどの広い意味である。内容及び形式が知的であるような文章のことである。一方、それは、詩と関係がないのは自明のこととして、同じ散文でも、芸術的効果を狙ったもの、即ち、小説や随筆とは区別される。この区別は明瞭でなければいけないと思う。「芸術写真」という言葉が教えているように、曖昧なもの、思わせぶりのもの、深そうなもの……つまり、「知的散文」が正に避けねばならぬものが芸術の名で居直ってしまう例が多いからである。(P.211)
 そうだよな。当然だよな。「芸術的文章と一般の文章を区別する必要がない」なんてバカな話を信じてはいけない。

【引用部】
 初め、私は、良い文章の例や悪い文章の例を豊富に挙げることが出来ると思っていた。それが読者への親切であると信じていた。ところが、随分努力したが、結局、これは殆んど実行出来なかった。それは、文章が思想と融け合っているためで、取扱っている問題の内部へ深入りしないで、ただ良い文章とか悪い文章とか言うことは出来ないからである。(P.213)
 こういう謙虚な姿勢(「文章と向き合う真摯な態度」かな)が、本書の格調の高さに繋がっている。わが身を顧みるに、よほど偽善的にならない限り、こんな文章は書けないだろうな。
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