読書感想文『「超」文章法』

mixi日記2008年10月06日から

 読書感想文です。
 この本が出た少しあとの2003年1月に書いたものです。
 こういう読書感想文が何十本か集まり、伝言板にモトになりました。
 いま読み返してみると、単なる読書メモって気もします。相当わかりにくい(泣)。

『「超」文章法』(野口悠紀雄/中公新書/2002年10月25日発行)

 まず、12月15日付の「朝日新聞」(朝刊読書面)に掲載されていたコラムに対する感想を転記しておこう。

「ベストセラー快読」というコラムで『「超」文章法』が取り上げられている。筆者はライターの岡●武志(●は右上が「立」のほうの「崎」)。書店で見かけて目次を見て興味を失ったけど、けっこう実用的記述があるみたい。インターネットで「超」と「野口悠紀雄」をキーワードに検索すると、6420件が引っ掛かったそうな。イヤハヤ。中公新書から出た本書も、2刷で13万部になっているとか。
 末尾近くに、「この原稿、わざと本書が禁じている表現を何カ所か使った」とある。「現物を読んでチェックしてみてください」ということらしい。意図不明。通常こういうことをするのは、記述内容に不満がある場合じゃなかろうか(「使ってもヘンじゃないでしょ」とほのめかす)。褒め称えるような書き方をして、こんなことするかね。いずれ読むことになる前に、「禁じている表現」を予想してみる。

1)デアル体とデス・マス体の混用
2)「片たり」表現
3)体言止めの多用
4)一人称(私)の多用
5)受け身表現の多用
6)浅学非才
 まさかこういう謙遜表現までは禁じ手にしないか。
7)接続詞の多用
 目立つほどではない。
8)残念ながら紙幅が尽きた
 このテの言い訳は禁じ手にされている可能性がある。

 コラムが掲載された時点で2刷で13万部のはずだが、年が明けてから購入したのは初版と思われるもの。こういうこともあるだろう。それにしても2刷で13万部か。ネームバリューってヤツかね。
「禁じている事項」の予想結果から。どうやら、6)(p.217~で、「不遜で傲慢」と断じている)と8)みたい。3)の体言止めに関しては微妙。嫌っているようだが、サラリとふれているだけ。4)の一人称と7)の接続詞に関しては、むしろ奨励している。ほかのことに関しては、ふれていない。こういう瑣末なことにはこだわらない方針みたい。

 全体の印象としては、近年の「文章読本」のなかでは間違いなくトップクラスに入る(こういうのも「結論先行」だろうか。とりあえず立場を明らかにしておいたほうがいい気がする。旗幟鮮明ってヤツですか?)。最大の理由は、論理性が高いこと。著者の専門は経済学らしいが、もともとは東京大学工学部卒でコテコテの理系。本書の「参考書案内」で『理科系の作文技術』(木下是雄)を必読としているのも至極当然の気がする。
 本書の論理性の高さは、文章読本のなかでは『日本語の作文技術』(本多勝一)に匹敵するかもしれない。ついでに書くと、文章の「偉そう度」の高さでも本多読本と双璧だ(こういうときに「双璧」なんて言葉を使うと誤用としかられる)。ほとんどの文章読本が偉そうに書いているなかで、この2冊の「偉そう度」がずば抜けて高く感じられるってことは、論理性の高さと「偉そう度」の高さは関係があるのかもしれない。もちろん、論理性が高ければ必ず偉そうになるわけじゃない。『理科系の作文技術』あたりは論理性が高くても少しも偉そうじゃないし、文章読本に限らなければ、そういう書き方をしている本はいくらでもある。
 どんなに偉そうに書いてあっても、論理性が低いとオバカに見える。ところが、偉そうで論理性が高いとタチが悪い。
 理由もなく「こういうのはダメ」と書いてあるだけなら、「何を根拠にそんなこと書いてんだ」と鼻で笑えばいい。しかし、「こういう逆の考え方もあるが、こういう理由でダメ」とか書かれると説得力があり、従わなきゃなんない気がしてくる。さらに、「ちょっと違うこういう考え方もあるが、これもこういう理由でやっぱりダメ」「あるいはこういう考え方もあるが……」と片っ端から論破されると、なんか違うと思っても反論の余地がない。あげくの果てに「どう考えても私が正しい」みたいに胸を張られると、ストレスがたまりっぱなしになる。「何を偉そうに」とムカツキはしても、スキがないので噛み付くこともできず、「ガルルルル」とうなるしかない。
 ……ちと誇張して書きました。この2冊の論理性の高さは認めるけど、論理展開が完璧だなんて思わない。インネンをつけるべきとこにはつける。ただ、正面から戦おうとすると話が長くなるので、「ハイハイわかりました」的な態度に出ているとこはある。
 本書がオススメできるもうひとつの理由は、過去の文章読本を踏まえていることがよくわかる点だ。そりゃ、どんな文章読本だって過去の文章読本を踏まえてはいる(はずだよね)。ところが、実際には「ちゃんと踏まえていたらこんなことは書けるわけがない」って記述がボロボロ出てくる。自分に都合の悪いことは無視してるのかな。もしくは、都合のいいようにネジ曲げて解釈している。そういうのは「踏まえる」ではなく、「踏みにじる」というべき。

 例によって細かいところを見ていこう。

【引用部】
 本書は、文章を書く際にすぐに使えるマニュアルになることを目ざしている。
「文章執筆にマニュアルなどありえない」と言う人がいるだろう。文章執筆は崇高な作業であり、全人格の発露だという主張である。文学作品については、そうかもしれない。しかし、本章が対象としているのは、そうしたジャンルの文章ではない(ただし、文学作品を引用はしている)。対象は、大雑把に「論述文」と括ることができる文章だ。具体的には、論文、課題論文、解説文、報告文、企画書、評論、批評、エッセイ、紀行文などである。(p.5)

 巻頭の「プロローグ」の書き出し。個人的には、文章執筆が「崇高な作業」とも「全人格の発露」とも思わないけど、「マニュアルなどありえない」と思う。せいぜい、基本的な原則を示すのが限界だろう。それはさておき、エッセイや紀行文を「論述文」に含めるのは疑問が残る。論理性の面で考えると、エッセイや紀行文は文学作品に近くなる。具体的な例で判りやすいのは「接続詞の使い方」。接続詞を多めにしたほうが論理性が高まるので、論述文では遠慮せずに使うべきだが、エッセイや紀行文で多用すると目障りになる。文学作品は対象としないのに、文学作品の引用があまりにも多いこともやや疑問。著者の該博ぶりは脱帽モノだが、除外したものを援用するのは筋が違うだろう。
 この「プロローグ」では、本書の概略も紹介している。
 第1~3章のテーマはメッセージ&骨組み。第4章のテーマは筋肉増強(比喩、具体例の引用など)。第5~6章のテーマは化粧。第7章のテーマはパソコンによる執筆。従来の「文章読本」が対象にしていたのは主として第5~6章の部分で、第1~3章で扱うテーマに比べると瑣末な問題だとする。「それはそのとおり」としか言いようがない。テーマの発見や構成をテーマにしている「文章読本」もけっこうあるけど、ほとんど役に立たないから、存在しないのといっしょ。この部分に関して有意義な「文章読本」があるなら、ぜひ読んでみたい。なんかうまい扱い方がないか、ボチボチ考えはじめている。

【引用部】
 メッセージ発見について言いうるのは、以上である。「ずいぶん簡単だな」と不満をもたれた読者が多いだろう。もしメッセージが八割の重要性をもつのなら、なぜ「メッセージの発見法」に本書の八割をさかないのか?
 これに対しては、「マニュアル的ノウハウがないから」と答えるしかない。ノウハウがないことを知るのが、ノウハウなのである。(p.38)

 ここまで正々堂々と開き直られると、反論もしにくい。苦肉の策だろうが、一歩間違えると狗肉の策になりかねない……などとツッコミを入れるのは簡単だが、この点をハッキリ認めてしまっているだけマシと考えるべきだろう。そんなものはあるわけがないのに、認めようとせずにウダウダ書いてある「文章読本」が実に多い。

 第2章1節「冒険物語の秘密」はかなりの力業。冒険物語の共通点をあげ、「論述文」への応用を解く。やや強引な気もするけど、恐ろしく説得力がある。長い「論述文」を書くときには応用できそう。

 p.106~のテーマは〈アリバイ文──最初に言い訳をしない〉。次のような言い訳から始まる文章を「アリバイ文」としている。

【引用部】
  私はこの問題の専門家ではないのだが
  一度はお断りしたのだが、編集部からのたっての依頼なので、書くことにした
  と言われて久しい
  変わり映えのしない話で恐縮だが
  以下に述べることがすべての場合にあてはまるわけではないが

 ウーム、厳しい。はじめの2つはよくないが、あとの3つぐらいは許してもらえないかねえ。このテの表現は口語だと頻度が一段と高くなるとし、次のものをあげている。

【引用部】
  あくまで印象にすぎないのですが/もしかすると違うかもしれませんが
  人から聞いただけですが/よくご存知でしょうが

 最後のヤツは「ご存じのとおり」といった形なら文章中でもよく見かける。
 さらに、最後にする言い訳もよくないと断じ、悪い例もあげている。

【引用部】
  残念ながら紙幅がつきた/こう考える今日この頃である
  こうした危惧をもつのは、私だけであろうか?

 1つ目は実際によく目にする表現で、論外。「文章執筆者の資格を最初から欠いている」はちと手厳しいとは思うが、そう言われてもしかたがない。
 2つ目と3つ目は「言い訳」とは少し性質が違う。無神経とでも言うべきだろうか。むしろこちらのほうが罪が重く、「じつに陳腐で、じつに月並みだ」なんて表現では物足りないほど。実態のない慣用句で、「今後も目が離せない」「躍進を続けていくことは間違いない」なんてのもこの類い。どうにも書くことがなくて、逃げ口上として使ったことがないとは言わないけど……。

 第4章のテーマは「筋肉増強」。レトリックのことを、こう呼んでいる。「名前をつけよう」をひとつの項にしている(p.121)だけあって、本書にはこのテのネーミングがよく出てくる。基本的には賛成だけど、目立つと鬱陶しくなるのも事実。
 真っ先にあげられているのは比喩。この問題も「文章読本」にはしばしば登場し、大半はギャグにしかなっていない。しょうもない例をあげて比喩の効果を語っても、説得力なんて生まれるわけがない。本書の解説はひと味違って、素直に読めた。本書に書かれているような「人体」「自動車の部品や装置」程度ならたしかに安全度が高い。こういうヒントが具体的に書けるのは、筆者自身が比喩の使い方に長けているからだろう。ただ、安易に比喩を使うのは危険なだけに、全面的に賛成する気にはなれない。p.213~では「避けたい表現」のなかに「陳腐な形容詞や副詞、そして比喩」というのが出てくる。陳腐な否かの境界線を明確にすることは、事実上不可能。

【引用部】
 しかし、学術的な論文はもとより、論述文一般について、情景を描写するための比喩は、あまり過剰でないほうがよい。葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じになってしまうからである。(p.124)

 そもそも「論述文」で情景描写の必要になることは少ない。紀行文やエッセイも論述文に含めると、微妙になる。仮に情景描写が必要だとしても、比喩まで必要なことなんてあるのだろうか。あえて使うのは勝手だが、「必要」はないだろう。別に情景描写でなくても比喩が出てくる場合はある。たとえばここに登場する「葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じ」。筆者は明らかに確信犯的(誤用と言うなら言え)に使っている。「うまい」と思ったが、「唐突」と感じる人もいるだろう。だから比喩を迂闊に使ってはいけない。
 もうひとつ考えなければならないのは、「比喩」と「類似提示」の違い。本書に出てくる「高速道路は動脈だが、毛細血管にあたる市長村道も重要だ」の例で考えてみる。比喩の分類で考えると、これは隠喩だろうか。まあ、そもそも直喩と隠喩の一般的な定義に曖昧さを感じているから、正確なところは判らない。だって「高速道路は動脈」が隠喩で、「高速道路はまるで動脈のようなものだ」なら直喩、なんて定義はヘンでしょ。
 それはさておき、「高速道路≒動脈」ってのは、「比喩」ではなく「類似提示」とでも呼ぶべきだろう。「類似提示」なんて妙な言い方だがうまい言葉が思いつかない。「例え」あたりが素直だけど、「比喩」との区別がつきにくい。「高速道路は動脈にあたる」という形に書きかえることができるのが「類似提示」と考えてもいいだろう。先の【引用部】と比べるなら、「葬儀の席でセクシーな香水が漂うことにあたる」とするのはヘンだから、これは「比喩」。
 考えはじめるとキリがないので課題にするしかなさそうだが、要は「類似提示」のレベルなら安全度が高く、「比喩」は危険度が高いということになりそう。

【引用部】
 これを別の観点からいえば、数字で示しているのは、書き手が真剣に取り組んでいる証拠である(ついでにいえば、索引も、書き手が真剣である証拠だ)。(p.131)

 p.130~のテーマは「数字で示す」。これも「文章読本」でよく語られるテーマ。適切な資料をもってくると説得力を増すのは事実。ただ、これに関しては個人的に腹立たしい経験があるので素直にうなずくことはできない。いわゆる業界人の方々の原稿を相手にしたときに、資料としてさまざまな表やグラフが出てきた。これが間違いだらけ。検算するとたいていヘンなところが出てきて、問題がないもののほうが少なかった。p.131にも「ただし、数字で示すには、調査が必要だ。また、間違えると致命的である」とあるように、数字のミスは言い訳ができないので怖い。ここでも、p.132に出ている表がどうもあやしい。一部を抜粋する。

【引用部】
  地球と太陽の距離(1天文単位=1億5000万km) 1m
  地球の直径(約1万2400km) 0.00008mm
  地球と月の距離(約38万km) 0.00256mm

 左の数字ではイメージが湧きにくいから右のように置き換えるとよい、とのこと。「256」が微妙に違うのは、1天文単位=1億4950万kmを概数にしたためだろう(それなら約1億5000万kmとするべき)。単純に計算すると、万kmを無視して38/15000=0.00253になる。こういう場合、置き換えた数値は勝手に概数でやってるんだから、「0.00253」にして表内で完結させるべき。どうしても気になるなら「概数による計算のため、実際の割合とは多少異なる」とでも断わるべき。なによりも致命的なのは、右の数字の単位は「m」じゃないと、計算が合わないこと。数字が小さくなりすぎるのが気になるので、「0.08mm」「2.56mm」にしようとして間違ったのだろうか。これじゃギャグ。

【引用部】
 斜に構えた辞典は、そのまま引用に使える。有名なのはビアースの『悪魔の辞典』だが、かなり棘(とげ)があるので、一般向きではないかもしれない。(p.149)

 この「斜に構える」は、さすがに誤用だろう。本来の意味である「身構えた」「気取った」の意味に取れなくはないが、相手が『悪魔の辞典』じゃ誤用の意味の「ひねくれた」「冷笑的な」ぐらいの意味にとられる可能性が高い。

 p.154~の第5章第1節のテーマは「個別文のレベル──複文問題など」。考えさせられることがいろいろ出てきた。まず、判りにくい例として、次の文が提示される。

【引用部】
  (I)私の友人が昨年大変苦労して書いた本は、パソコンが普及し始めた頃には、
  異なるアプリケーションソフトが共通のOSで動くようになっていなかったため、
  データを交換することができず、非常に不便だったと述べている。

 この文が判りにくい最大の原因は複文になっていることであり、「最も直接的な方法は、複数の単文、または構造がより単純な複文に分解することだ」として、次のように書きかえる(余計な記述も削除している)。以下に示される書きかえ案と解説がいろいろとおもしろい問題を含むので、長くなるのを覚悟でひとつずつ見ていく。

【引用部】
 (II)パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間で
  データを交換できなかった。このため、非常に不便だった。私の友人は、著書の
  中でそう強調している。
(I)よりはずっと読みやすい。読みやすさのためには、単文にまで分解するのがよい。すなわち、一つの文章内での主語を一個に限定する。ただし、単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう。そこで、もう少し工夫する必要がある。

「余計な記述を削除すること」と、「表現をかえること」は別。(I)(II)になる過程で、「普及し始めた頃」が「誕生して間もない頃」になっている理由が判らない。「述べている」が「強調している」になっているのは、おそらく「本は述べている」が本書でいう「主述ねじれシンドローム」になるから。それなら、そのことも解説しないと不親切。しかし、(II)や後出の(V)なら「述べている」でも構わない、という問題が出てくるし、「述べている」と「強調している」ではニュアンスがかわる(「主張している」ならマシかな)。結論を言うと、最初の(I)を「強調している」にするのが手っ取り早い。
「単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう」という指摘は貴重。当たり前のことなのに、このことを認める「文章読本」は少ない。もっとも簡単な解決策は、2つの単文を結合すること。この例なら、次のようにする。

 1)パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換できなかったため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中でそう強調している。
 
【引用部】
  つぎのように「 」で括るのが、一つの方法だろう。私はこの方法を多用するが、一般にはあまり好まれない。
 (III)私の友人が書いた本が強調するのは、「パソコンが誕生して間もない頃に
  は、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換することができす、非常
  に不便だったこと」である。

「まさにそのとおりなんですよー」と言いたい。個人的には便利な方法だと思うが、なぜか一般には嫌われることが多い。

【引用部】
 英語ではthatを用いてこの問題を処理できる。それを真似て、つぎのように書くこともできる。
 (IV)私の友人が書いた本は、つぎの点を強調する。すなわち、パソコンが誕生し
  て間もない頃には、異なるアプリケーションソフト間でデータを交換することが
  できす、非常に不便であった。
 ただし、若干ぎごちない(「すなわち」という言葉が大げさだからだ)。それに、thatの内容が長い場合には、どこまでが「すなわち」に含まれるのかが、曖昧になる。

 出たな「結論先行」。この書き方がぎごちないのは、「すなわち」が大げさだからではない。「すなわち、」を削除してみれば判る。大げさではなくなるが、相変わらずぎごちない。この書き方は「日本語らしくない」としか言いようがない。ちなみに、(II)から(III)になる過程で、「アプリケーションソフトの間」の「の」が消えている。

【引用部】
 つぎのような表現法も可能である。
 (V)パソコンが誕生して間もない頃には異なるアプリケーションソフト間でデー
  タを交換することができす、非常に不便であったと、私の友人は著書の中で強調
  している。
 この方法では、「強調している」内容を、前に出している。ただし、この例の場合には、内容紹介がかなり長くなってしまうので、読みにくい(一体であることを示すために、読点で区切れないからである)。しかし、もっと短い場合には、この方法が有効なことが多い。

〈「強調している」内容を、前に出している〉のは(V)だけではなく、(II)も同様である。ちょっと錯綜気味。
 最大の問題は、最善案がないこと。いろいろな書きかえ案を出しているが、いずれも欠点があることを指摘している。これでは結局どうしたらいいか判らないので読者が戸惑うはず。
 最善とは言わないが、(II)をさらに書きかえた1)あたりなら、問題はないだろう。(V)の解説の中にあるように、「内容紹介がかなり長く」なるときには主語がなかなか出てこないので不安定な感じになるが、この場合は問題がない。内容紹介が長いときには、別な方法を使ったほうがいい。あえて、長いままの原文を書きかえてみる。
 2)私の友人が昨年大変苦労して書いた本は、普及し始めた頃のパソコンが非常に不便だったと述べている。(最大の原因は)異なるアプリケーションソフトが共通のOSで動くようになっていなかったため、データを交換することができなかったことである。
 これなら「結論先行」でも不自然ではない。おそらく、単なる「結論先行」ではなく、「概略先行」だから。言葉づかいのモタツキなどを修正するのは、次の段階の話になる。

【引用部】
  (VI)私の友人の著書の強調点は、パソコンの普及の初期段階で、異なるアプリケ
  ーションソフト間のデータの交換可能性がなかったことだ。(p.162)

 前出の例文を「漢語を用いて簡潔表現に」した書きかえ案。ちょっと不自然な気がするのは、「強調点」の使われ方がひっかかるからかな。漢語を使うか否かは趣味の問題(詳細後述)。「データの交換可能性」は、「データの互換性」のほうが自然だろう。p.168の書きかえ案(VII)の中に「データ互換が難しかった」という表現も出てくる。こちらは「データの互換性が低かった」がふつうだろう。細かいことを言うと、「データの交換可能性がなかった」と「データ互換が難しかった」とでは意味が違う。
 解説中に、「の」の連続について、「二個までは許容されるが、三個以上は避けるべきだろう」とある。論理的な根拠はないが、同感。

【引用部】
 谷崎潤一郎は、『文章読本』の中で、こうした接続詞の使用は控えるべきだとしている。同様の主張をする人は、他にも多い。文学では、たしかにそうだろう。しかし、論述文ではむしろ多用するほうがよいというのが、私の考えだ。
 書き手自身が文と文との論理関係を明確に意識していない場合には、右に述べた接続詞で文をつなごうとすることによって、初めて論理関係を意識することもあるだろう。
 なお、パラグラフの中で論理を反転する接続詞が現れるのは、望ましくない。これらの接続詞は、パラグラフの先頭に来るのがよい。(p.171)

 2つ目のパラグラフまでは、まったく同感(この場合の「まったく+肯定形」は異和感がない)。谷崎潤一郎が「重厚味が減殺される」と書くのは納得できる。「同様の主張をする人」の例として「注」であげられている三島由紀夫が「説話的な親しみを増しますが、文章の格調を失わせます」と書くのも納得できる。しかし、その尻馬にのって、「論述文でも接続詞を減らせ」と書くヤカラの気がしれない。しかも、「一文を短くしろ」と書きながらそう主張するのがどんなにバカなことなのか、なんで判らない。この話は書き出すと長くなるのでパス。
 それはさておき、3つ目のパラグラフの主張が理解できない。「右に述べた接続詞」のうち、「論理を反転する接続詞」としてあげられているのは、「しかし/それにもかからず/だが/ところが/ただし/けれども/他方で」。別にパラグラフの途中で使っても問題はないだろう。この引用文の冒頭から4つ目の文もそうなっているし、本書中でほかにも散見する(p.201~202では2パラグラフ連続)。


【引用部】
 英語の句読点はかなり豊富だ。:(コロン、「すなわち」などの意味で使う)と;(セミコロン、通常のコンマより大きな区切りに用いる)は、日本語にはない句読点だ。(,)(;)(:)(.)の順で区切る力が強い。日本語でも、これらを活用してもよいのではないだろうか。
 ただし、こうした記号も嫌う人もいる。( )、〈 〉、「 」、!、?などの記号もそうだ。あまり多いとたしかにうるさいが、ここぞという箇所にはよいのではないだろうか。(p.202)

 まず、小さなインネンから。「A、B、C、Dの順に強い」という表現があったら、いちばん強いのはどれでしょう。通常はAだろう。そのつもりで引用部を読んで、ちょっと戸惑った。Dととれなくもないかな。落ち着いて読み直せば、(,)より(.)のほうが区切る力が強いのは明らかで、誤読する人はいないから問題はない? 根本的な問題として、この書き方ではどうしても判りにくくなる。「もっとも強いのはAで、あとはB、C、Dの順になる」とか「A、B、C、Dは後ろにいくほど弱くなる」とでもしないとまぎらわしい。
 記号に関しては好みの問題だろうな。カッコの使い分けに関しては、書き手がしっかりルールを作っていて、そのルールが読み手に判るようにすれば問題ないだろう(ルールを明文化するべきか否かは一概に言えない)。
 この引用部は〈読点は適切か?〉の項にあったもの。この項の大きな問題は、実質的なことがほとんど書かれていないこと。常識的なことをサラリと流しているだけだと、実際に文章を書くときには役に立たない。「そんなことはどうでもいい」という考えなら、ふれなければいいだけのことだろう。このあたりから、実質を伴わない記述や趣味の問題に属する記述が目立ちはじめる。

【引用部】
 ダラダラした表現は、漢字を用いてひきしめる。漢字は、速読を可能にする手段にもなる。例えば、「メッセージをはっきり決めることは、文章を書くのに先立って必要なことである」より、「メッセージの確定は、文章執筆前に行なうべきである」のほうがよい。(p.203)

 これは趣味の問題。ちなみに、この場合も「漢字」ではなく「漢語」だろう。「漢字を用いる」ってのは、「こと」を「事」と書いたりすることのはず。個人的にはそのとおりだと思うし、この例文の場合は漢語を使うほうがいい。だが、漢語が目立つと堅苦しい印象になるし、できるだけ和語を用いるべきという考え方もある。この場合は、書きかえ文に堅苦しい印象の「行なう」が出てくるのも気になる。

【引用部】
 「曖昧接続の『……が』を使うな」という忠告がある。「曖昧の〈が〉」とは、つぎの文中の「が」のようなものである。
 「彼は頭はよいが、走るのも速い」というような表現がよく使われるが、この〈が〉は明確な意味を持たない。頭のよい人は必ず遅いというなら、この〈が〉は〈しかし〉の意味になるが、そうとも限らない。
 「曖昧の〈が〉」を使うと、論理関係がはっきりしなくとも文を続けられる。そこで、非常に頻繁に使われる。
「作文の際の留意事項だが、最も重要なのは、曖昧表現しないことだ」
というように。
「曖昧の〈が〉を排除せよ」という注意は、正しい。ただし、これは正論である。正論の常として、息がつまる。一度、「曖昧の〈が〉」をまったく使わずに本を一冊書いたことがあるが、息がつまった。「死ぬまでに一度たっぷりつゆをつけてそばを食いてえ」という気持ちがよくわかった。ただし、一つのパラグラフに三度以上は現れないようにしたい。
 私が初めて「曖昧の〈が〉を使うな」という注意に接したのは、清水幾太郎の『論文の書き方』である。しかし、いまこの本を読み直してみると、「曖昧の〈が〉」が何度も出て来る。「私が言うとおりにせよ」と注意するのは簡単だが、「私がするとおりにせよ」と示すのは至難のわざだ。(p.210~211)

 最後の一文は、すべての「文章読本」の書き手が肝に銘ずるべき至言。
 それはさておき、「曖昧のガ、」の話。個人的な書き癖で、ちょっと油断すると「曖昧のガ、」のオンパレードになるから、この問題は要チェック。
 引用部の最後から2行目の「簡単だが、」の「が、」に傍点がついているのは、「このように」ぐらいの意味だろう。しかし、これは「曖昧のガ、」ではなく、「逆説のガ、」。最後から6~7行目の「書いたことがあるが、」の「が、」が「曖昧のガ、」だろう(「書いたことがあるが、」は「書いたところ、」と書きかえることができるから、「順接のガ、」の可能性もある)。
 ちょっと整理しておこう。
 考えがまとまりきっていないが、「ガ、」には3種類あるようだ。
 この「いないガ、」みたいなのが「曖昧のガ、」。あとの2つが「順接のガ、」と「逆接のガ、」。「順接のガ、」は簡単に順接の文に書きかえられる(書きかえ方はいくつかのパターンに分かれる)。
「逆接のガ、」は書きかえても逆接の形になる。もっとも簡単なのは、「。しかし、」の形(「。だが、」などでも可)。
「曖昧のガ、」は、意味的には限りなく「逆接のガ、」に近い。だが、「。しかし、」に書きかえるとヘンな感じになる。たとえば、先にあげた「曖昧のガ、」を「。しかし、」に書きかえてみる。

 1)一度、「曖昧の〈が〉」をまったく使わずに本を一冊書いたことがある。しかし、
  息がつまった。
 2)考えがまとまりきっていない。しかし、「ガ、」には3種類あるようだ。

 どちらもシックリ来ない。とりあえずこの判別法で考えていく。
 引用部の例文には、「ガ、」が3回出てくる。
  彼は頭はよいが、→「順接のガ、」(「彼は頭がよく、」ぐらいで問題がない)
  よく使われるが、→「逆接のガ、」
  意味になるが、 →「曖昧のガ、」(書きかえるなら「意味になるかと言うと、」
           ぐらいかな)
 ただし、「彼は頭はよいが、」は例文にあるとおり、「逆接のガ、」の可能性もなくはない。
 ちなみに、「作文の際の留意事項だが、」の「ガ、」は「順接のガ、」。「作文の際の留意事項のなかで」(もしくは「作文の際の留意事項として」)ぐらいに書きかえることができる。
 ウーム。この問題を考えはじめるとキリがない。

【引用部】
 「にもかかわらず」、「なのに」、「なので」と省略する人が多いが、「そんなに節約して、節約した結果を何に使いたいのか」と言いたくなる。(p.215)

 この一文が理解できない。最初に読んだときには、〈「にもかかわらず」を「なのに」と省略する〉だと思った。こう考えてしまうと、「なので」が浮いてしまう。
 何を省略しているのだろう。「いつも注意していた。にもかからず、彼は同じ失敗をした」のように文頭に使う用例のことだろうか。個人的にはまず使わないだろうが、そんなに問題があるとは考えにくい。ただし、「なのに」「なので」は、文頭で使うとかなりヘン。「それにもかかわらず」「それなのに」と書くのが正しいのだろうか。「なので」はどう書き加えるのかが不明。

【引用部】
 雑誌などのインタビューは、ライターという人たちによって文章化される。彼らには、「これこそがインタビューの文章体」という思いこみがあるようだ。「……なんです」と体言止め、そして常套句のオンパレードだ。(p.219)

 p.219~の第6章第3節のテーマは〈直したり直されたり〉。筆者が嫌う表現がいろいろ並んでいる。引用部は、その冒頭。
 体言止めは、会話体の中では原則的に使うべきではない。このことを指摘する「文章読本」も多いせいか、最近の新聞記事では使用例が減った。雑誌ではけっこう残っているということだろう。論外。常套句の連発も論外。ただ、「……なんです」に関しては、同情の余地がある。会話体のデス・マス体で書くと、「……なのです」ではかたい感じになる。形容詞終止形の問題も、これに近い。もっとも安直な「多いのです」などの形をかたいと感じると、「多いんです」などにするしかない。

 p.220~の〈追放できなかった「さらなる」〉の項は新鮮だった。自分で「さらなる」を使ったことはないと思うが、チェックリストには入れていなかった。『広辞苑』の最新版でも許容されたらしい。『広辞林』も許容している。この問題も根が深い。
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