読書感想文『第三版 悪文』

mixi日記2009年10月31日から

『第三版 悪文』(岩渕悦太郎編著/日本評論社/1979年11月10日第3版第1刷発行/1995年7月10日第3版第13刷発行)
 第1版が発刊されたのは1960年らしい。61年に第2版が出て、約20年後に第3版が出たことになる。どうでもいいけど、表紙や組版をもう少しなんとかできないもんかね。いくらなんでも古臭い。
 文章読本の世界では名著として知られ、書名は学生時代から知っていた。たしか買ったような気がするけど、この表紙が記憶にないってことは、勘違いかね。

 p.22に「ような+否定形」の話が出てくる。こんなに昔から言われているのに、なぜ使う人が多いのだろう。

 【引用部】
いかに、「たしかに……しかし」とひっくり返すための強調法だと言っても、度がすぎる。(p.66)
 べつにどうってことない記述だけど、「たしかに……しかし」って、強調法として古くから知られていたのね。当然か。

 【引用部】
つれづれ草に、「あまるに興あらんとすることは、必ずあひなきものなり。」(あまりにもおもしろくしようとすると、かえって、つまらない結果になってしまうものだ)と書いてある。完全な準備をして「興あらんとする」のなら、いいのだろうが、なまはんかに引っかけようとすると、たしかにまずいことになる。(p.66)
 なんかすごく不安なんだが、「つれづれ草」って何? 『徒然草』のほかに、こういう書があるんだろうか。書名なのにカッコ類がついていないのも不思議。内容としては、けっこう重要。

 【引用部】
 文の長さは、一般にどの程度のものがよいのか。このことについては次章で述べられるから触れないが、およそのめやすでは、新聞雑誌などの論説的な部分でも平均一七文節か一八文節前後であり、小説の地の文でも、平均一四文節前後であると言われる。もちろん、わかりやすさの問題は、単に、文の長い短いということだけではきめられない。ほかに、単語の問題や文の構造の問題もある。しかし、いずれにしてもこの原文は長すぎて、四五文節にもおよぶ。訂補した文章では、これを五文に切り、平均八文節あまりにしてある。また、接続詞は原文に一つだけであるが、訂補した文では三つ使ってある。接続詞の使用は、かなり慎重にしないといけないが、簡単なことを、明晰に綴るためには、あまり遠慮することはないであろうと思うからである。(p.74~75)
 ここに出てくる「次章」の記述が見つからない。なんででしょ。
 それはさておき、「文節」と来ましたか。このほうが正確な気もするが、いちいち数えるのは大変。やはり「文字数」のほうが話が早い。
 ここでポイントになるのは2点。
 1点目は、「もちろん、わかりやすさの問題は、単に、文の長い短いということだけではきめられない。ほかに、単語の問題や文の構造の問題もある。」ということ。これを論理的に説明するのはきわめてむずかしい。
 2点目は、「接続詞の使用は、かなり慎重にしないといけないが、簡単なことを、明晰に綴るためには、あまり遠慮することはないであろうと思うからである。」ということ。

 【引用部】
 文には主語と述語があると言われる。主語や述語の定義はむずかしいが、ここでは非常に広く解釈して、そこで問題になっている事柄や物が主語で、その動作や作用、または性質・関係などを示す部分が述語ということにする。文法で言う主語・述語のほかに、主題やそれに対する結びも広い意味で含める。なお、主語・述語と言っても、語だけでなく、もっと長いものも含む。(p.116)
 主語と述語に関して正確を期そうとすると、こんな感じになっちまう。だから文法は嫌い。

 p.111~のテーマは〈接続助詞の「が」〉。「現代語の助詞・助動詞」(国立国語研究所報告3)によると、「が」には4つの用法がある。
1)2つの事例をあげる際の、つなぎの役目をする。共存または時間的推移。
2)題目・場面などを持ち出し、その題目についての、またその場面における事柄の叙述に接続する。そのほか、種々の前おきを表現するに用いる。
3)補充的説明の添加
4)内容の衝突する事柄を対比的に結びつけ、前件に拘束されずに後件が存在することを表わす。(既定の逆説条件)
 判りましぇーん。

 【引用部】
   毎年膨大な財政の赤字を出すことが示す地方自治制度の欠陥に対して、根本的
  な対策をきめるのが、こんどの国会の大きな使命の一つだと説明されていた。
  (新聞)
 これは、主語がないわけではなく、ちゃんとある。しかし、その主語がなかなか出てこないのが、この文が悪文になる原因となっている。主語はなるべく早く出した方がいい。しかも、主語と述語との距離は短い方がいい。そこで、両方の要望を満足させるのは、なかなかむずかしいが、たった一つ道がある。それは、短い文を書くということ。これは、あらゆる場合の鉄則と言っていい。(p.125)
 ちょっと厳しい。ここであげられた例文程度で「悪文」扱いされたんじゃたまらない。たしかに2つに分けたほうがよさそうだが、この程度は大目に見てやってよ。それはさておき、この論理は明解で反論の余地がない。

 【引用部】
 主述の照応とあまり関係ないかもしれないが、もう一つバタ臭い文章を例としてあげておく。これもまた一種の悪文と思うからである。
   イギリスの製造業者たちは、日本が戦前のダンピングと意匠盗用をくり返す意
  図を持たないと彼らが納得するまでには数年の時日を要するだろうと言っている。
  (雑誌)
 発想法そのものが日本語的でない。
  最大の危機は中国の飛行機と潜水艦からもたらされるだろう。(新聞)
「最大の危機」というようなものを主語とする発想法が問題である。このようなものを主語とするので、どうしても述語が受身形となる。ここでは「もたらされる」がそれである。(p.126~127)
 小さなインネン1。「バタ臭い」ですか。久しぶりに目にした。用法としては正しいんだろうが、死語だよな。そう思いながら、書きかえ案が浮かばない。「翻訳調」ぐらいかね。
 小さなインネン2。この本は、引用部を2字下げにしている。行頭に字下げがあると当然3字下げになる。字下げのあるものとないものが並ぶと、当然先のようにみっともないことになる。しょうがないんだろうな。
 小さなインネン3。2つ目の引用文の解説はヘン。前半はそのままでも「飛行機と潜水艦が」にすれば、「もたらすだろう」になる。そのあたりをはっきさせるためにちょっと書きかえてみる。
  1)中国の飛行機と潜水艦から最大の危機がもたらされるだろう。
  2)中国の飛行機と潜水艦が最大の危機をもたらすだろう。
 1)がおかしいのは「から」がヘンだからだろう。「によって」ぐらいにすれば、マシになる。
 先の引用部に続き、次の記述がある。
 【引用部】
 受身形が翻訳文に多いという事実は、これが日本語的でないことを示すものであろう。普通の日本語では主語となりえないものを主語として、それによって、これを客観視する文が出来ると考える人たちがいる。この人たちに言わせると、こういう文こそ、真に客観的・科学的な文だ、と言う。しかし、現実には、こういう文はとっつきが悪く、日本人にはなれていない発想法なので、理解しにくいことは否定出来ないと思う。つまり、今のところは、こういうものは悪文と言える。悪文にしろ良文にしろ、その規準は永久に変わらないものではないけれども、今のところは、再び言うが、悪文である。(p.127)
 すべての受身形がよくない、とするのは暴論。ただ、論証するだけの知識がない。

 【引用部】
「机と紙と」の「と」のように、これも並列的に列挙するときに使う助詞も、昔は、「机と紙と」のように第二の「と」もつけるのが基準であったようである。ところが、今は「机と紙」のように、初めの方のあとにつけるだけでいいことになった。「たり」もそのような傾向がないとは言えないのかもしれないが、現在のところ、まだ「たり」は両方につけるのが原則で、そう使う人の方がはるかに多い。(p.132)
 そうなんだよな。「AとBと」の後ろの「と」がとれ、「AとかBとか」の後ろの「とか」がとれたことを考えると、「片たり」が許容される日が近い気がしてくる。

 【引用部】
 日本語では、肯定、否定、推量など、話し手、書き手の態度を表わす言葉は、文末におかれる。このため、終わりまで読んではじめて「……ではない」「……かもしれない」といった表現にぶつかり、どんでん返しをくったという感じを受けることがある。これを防ぐためには「予告の副詞」を活用すべきだ、と松坂忠則さんはいう。「予告の副詞」というのは、「おそらく」「きっと」「決して」などで、これらを使えば、初めから推量や否定がくることが予告される。「決して」とあれば、最後には否定の表現がなければいけない。ところが、このような呼応は、文脈の乱れによって破られる。(p.147~148)
「予告の副詞」の効用に関して、同様の記述を見た記憶がある。おそらく、書かれたのはこっちのほうが先。ちょっと補足すると、推量の場合は、「おそらく」「きっと」だけでも推量になる。文末が断定の形であっても、推量になる。数行前に書いた「おそらく、こっちのほうが先」もアリだろう。「きっと君は来ない」なんてフレーズが入った名曲もあった。
 接続詞にも似たような効用がある。この【引用部】の最後の文の冒頭にある「ところが、」もなくてもいい(その場合は文末に「ことがある」ぐらいをつけたくなる)。このあたりをどう説明するかが問題だよな。

 p.152のテーマは〈離れすぎた修飾語〉。これは本多読本の原型とも言える。

 p.181のテーマは〈あまりにも感覚的〉。誤用集的で、内容はけっこうユニーク。

 【引用部】
(注)形容詞に直接「です」をつけた「高いです」「大きいです」という使い方は、少し前までは、標準的な言い方として一般に認めらていなかった。しかし、『これからの敬語』では、平明・簡素な言い方として認めている。「高い」「大きい」と「高うございます」「大きゅうございます」との中間に位置づけたわけである。(p.198)
 ここでふれている『これからの敬語』は、昭和27年に国語審議会が議決したものらしい。ウーム、根が深い。

 p.211で「失礼きわまる書き方」という表現を目にする。これって「失礼きわまりない書き方」とほぼ同義だよな。ちょっとした発見だった。
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