読書感想文『文章の書き方』(辰濃和男)
ちと事情があって、古いデータを引っ張りだします。
『文章の書き方』(辰濃和男/岩波書店/1994年3月22日第1刷発行/2002年4月15日第29刷発行)
著者は「天声人語」の書き手として知られる。よく書名を目にするので古典の類いかと思ったら、意外に新しい。
珍しくデス・マス体を使っている。ただし、センセーのデス・マス体の常套手段であるデアル体混用が目立つ。
【引用部】
おこがましいと知りながら、なぜ文章のことを書くのか。
それは「文は心である」ということを、少し考えてみたいと思ったからです。文書についての技術論は大切です。それを軽視しようとは思いません。たとえば文の長さは長すぎないほうがいいとか、漢字は多すぎないほうがいいとか、そういう技術論についても、この本では書くつもりです。(まえがきi)
なんかここを読むだけで、パスしたい気になる。こんなことを書いている人がまだいたのね。ただ、この著者の書き方はかなり説得力がある。「文は心である」というメインテーマ(「お題目」ともいう)でもわかるように、本書は実用書タイプの文章読本ではない。内容は小説家が書く文章読本に近く、引用文もほとんどが芸術文。元新聞記者がこのタイプを書くのは異色かもしれない。
【引用部】
新聞社の私見を受けたいという若い人に会うと、私はこういいます。「日記をつけなさい。踊りの修業をする人は、稽古を一日怠るだけで後戻りをするといいます。書く訓練も同じです。なんでもいいからその日のことを書く、という訓練を己に課しなさい。たのしんで書けるようになればしめたものです」(p.4)
「とにかく書け」系の心得を示す文章読本は多い。一理あるが、「基礎的な技術を身につけたうえで」という大前提が抜けている。踊りの修業にしても、最初からまったくの我流ではヘンなクセがつくだけ。なんだってそうでしょうが。「基本的なフォーム」を身につけたうえでなきゃいくら訓練してもムダ。
【引用部】
書きたいことを書くといっても、胸にたまっていたものをそのまま吐き出せばいいというものではありません。胸にたまっている混沌としたものが、しだいにある形を整えてくる。書こうとすることによって、より明確な形をおびてくる。あるいは書いているうちに、より明確な形をとる。それを待たねばなりません。思いが整い、言葉が整ってくる、という過程が大事です。(p.48)
かなりムチャなことを書いている。
1)書く前に考えよ
2)とにかく書くことが大事
どっちも一理あるんだけど、この書き方のように両方を混同してはいけない。全体の流れとしては1)。ここに2)の流派で論拠である「あるいは書いているうちに、より明確な形をとる」を入れるからわかが判らなくなる。
【引用部】
作家の中野重治も、自伝の文章を引用しながら、感嘆して書いています。「されこれを読んで、わからぬものが一人でもあるだろうか。……とにかくこういう文章は千人に一人、万人に一人がかろうじて書けるものだろうと思う」(p.88~89)
福沢諭吉の『福翁自伝』を絶賛する文中に出てくる言葉。そういうこってす。「名文」なんてもんはそう簡単に書けるもんではない。「お手本にしよう」なんて大それたことを考えてはいけない。
【引用部】
芸もないのに適当な悪口をいう。そうすると、文章を書いたみたいな気になれますからね。……今の人に悪口は書けても、いいラブレターは書けない。いいラブレターを書くには、自分を見さだめるのと、対象を見さだめるのと、自分と対象との間に関係があって、その関係がどういう意味をもつかということを把握して、しかもそれに希望的観測をつけ加えるっていうことをしなくちゃいけない。書けないでしょうね」(「朝日」一九九二年四月二日付夕刊)(p.98)
朝日新聞編集委員の川村二郎が聞き書きした橋本治の言葉。
p.101で「相手の立場に立つ」という表現を見てひっかかる。
【引用部】
つまりこの文章は「相手の側に立つ」という根本のところをおろそかにしている。スイスのタクシーの運転手さんは「あなたは」という主語で話をしてくれました。ところが、この説明書には「あなたは」という主語がない。「自分たちはこれこれのことをした」と書いてあるが、「あなたがこれを使うとこれこれの利点がありますよ」という書き方をしていない。(p.105)
「相手の側に立つ」ことが重要なのはおっしゃるとおる。ただ、この例はどうだろう。比較されているのは、「スイスの親切なタクシーの運転手」と「ニホンゴの天体望遠鏡のパンフレット」。「主語」が出てくるか否かは、単に言語の違いでは。比較言語論やってるわけじゃないんだから。論より証拠で、この前に出ている運転手の言葉を和訳したものの中には「あなた」なんて出てこない。これは日本語の特性だろう。
ちなみにここでは「側に立つ」を使っている。p.107~109には「側に立って」が4カ所も出てくる。最初はすべて「立場に立って」にしていたが重言と感じて直し、p.101だけ直しもらしたのでは……ってのは深読みかな。p.166には「立場にたつ営みが必要であることは前に書きました」とあるしな。おっと、ここはひらがなでやんの。要はこういう瑣末なことは何も考えてないのね。
【引用部】
異質のものを結びつける遊びに、比喩があります。
「絹雲」を表現するのに少し気取って「透明感のある衣」と書いてみる。小鳥の飛ぶさまを「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」と表現する。いろいろと苦労をするあの比喩のことです。比喩には、直喩、引喩、換喩、提喩などがありますが、ここでは深入りしません。
比喩がいかに人びとの理解を助けるか、作家、丸谷才一の次の文章を味わってください。『文章読本』のなかの一節です。(p.141)
このあとに引用される丸谷読本の文章はみごとで、比喩の使い方に見本にしたくなる。しかし、こんなものマネできるわけがない。
【引用部】
文章の品格というものは、技術を超えたところにあります。文章技術はむろん大切です。が、それだけでは「品格」という巨大なものを方にかつぐわけにはいかない。人間全体の力が充実しないと、方にかつぐことはできないもののようです。(p.175~176)
正論だが、これを言っちゃおしまい。文章読本なんて無用の長物になってしまうことに気づいてないのだろうか。
【引用部】
書き出しから句点(。)までがあまりにも長い文は、読みにくいものです。文の長さはどのくらいが適当なのか。これは一概には決められませんし、決めるべきものではないでしょう。多少長めでも読みやすい文があるし、短くても難解な文があります。
たとえば野坂昭如『火垂れの墓』の冒頭の文は三百字ほど続きますが、一度も句点がない。相当に長い文ですが、決して読みにくくはない。まぎれもなくそれは、野坂独自の文体です。これだけ長い文を書いてしかも読者をあきさせないのは、いわば名人芸です。
文の長さは個人差があります。自分の呼吸にあった長さに工夫するのがいちばんですが、平明な文章を志す場合は、より長い文よりも、より短い文を心がけたほうがいい。
私は、新聞の短評を書いていたころ、文の長さの目安を平均で三十字から三十五字というところに置いていました。この本のようにデスマス調では、少し長めになるでしょう。平均というのはあくまでも平均です。五十字の文の次は十五字の文にする。むしろでこぼこがあったほうがいい。長い文のあとに短い文を入れる。ある場面では短い文を重ねる。そういう呼吸は、好きな文章を選んで書き写すことで身についてゆくものでしょう。(p.178~179)
ポイントがいくつもあって、長々と引用してしまった。
1)野坂昭如の文体は独自のもの
そのとおり。吉田健一もそうだが、長くても判りやすい文体もある。しかし、それは普遍性を持たない。例外中の例外。タリメエだよ。
2)平明な文章を目指すなら、短い文を心がける
一概にはいえないが、結論としてはこうなる。これもそのとおり。
3)30字から35字は、あくまで個人的な目安
本書の「30~35字」はほかの文章読本で何回か目にした。あたかも、辰濃氏が「30~35字で書きなさい」と書いているようなニュアンスのものさえああった。全然違うじゃん。単に「自分はそうしていた」ってだけの話。しかも、「平均」というのがミソ。短い一文が続くより、長短とりまぜるほうがリズムよくなると書いてある。ただ、これはリズムの話にかかわってくるから、あんまり強くは書けない。
【引用部】
歯切れのいい文章にしたい、という理由もあるのでしょう。体言止めを使うといかにも新聞記事らしくなるから、という人もいるでしょう。たしかに、体言止めを上手に使うことで、独特の味をだした新聞記事があることは認めます。ですから体言止め、助詞止めをいっさい使うなというつもりはありません。乱用はいかがなものかといっているのです。(p.183)
この前には、体言止めを使ってもあまり字数は節約できないことが書いてある。まあ趣味問題でせうな。
【引用部】
新聞にも紋切型の歴史があり、それはいまも続いています。
昔は山の遭難があるとなぜか「尊い山の犠牲」という言葉が使われました。海水検査の結果を報じるときの「大腸菌うようよ」は、これを例示すること自体がもう手垢のついた発想になっています。
捕まった容疑者はたいてい「不敵な面魂で」警察署の中に消え、取調室では「ふてぶてしさを装いながらも」「動揺を隠しきれない」が、なぜか差し入れのカツ丼は「ぺろりと平らげる」のです。
新しい汚職事件が発生すると「衝撃が日本列島を走り抜け」、人びとはその「大胆な手口」に「怒りをあらわ」にし、「癒着の構造」に「捜査のメス」が入って「政界浄化」が実ることを期待します。政府与党の幹部は「複雑な表情を見せ」「対応に苦慮」、、国会内は「一時は騒然となって」「真相の徹底究明」が叫ばれ、「成り行きが注目」されます。しかし「突っこんだ議論」はなく、「すったもんだの末」に「永田町の論理」が支配してうやむやになり、関係者は「ほっと、胸をなでおろし」、「改めて政治の姿勢が問われる」ことになるのです。(p.204~205)
例示はまだまだ続く。ここまでいくとすごい芸。ただ、何もかも否定するのはメチャクチャむずかしい。いまだに葬儀は「しめやかに」行なわれるのが一般的だし、伝統行事は「古式ゆかしく」開催されると相場が決まっている。
比喩・紋切型の話はきわめて重要で、この感想文が下記の原型になっている。
【第2章5】伝言板7-1 比喩の使い方
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-133.html
『文章の書き方』(辰濃和男/岩波書店/1994年3月22日第1刷発行/2002年4月15日第29刷発行)
著者は「天声人語」の書き手として知られる。よく書名を目にするので古典の類いかと思ったら、意外に新しい。
珍しくデス・マス体を使っている。ただし、センセーのデス・マス体の常套手段であるデアル体混用が目立つ。
【引用部】
おこがましいと知りながら、なぜ文章のことを書くのか。
それは「文は心である」ということを、少し考えてみたいと思ったからです。文書についての技術論は大切です。それを軽視しようとは思いません。たとえば文の長さは長すぎないほうがいいとか、漢字は多すぎないほうがいいとか、そういう技術論についても、この本では書くつもりです。(まえがきi)
なんかここを読むだけで、パスしたい気になる。こんなことを書いている人がまだいたのね。ただ、この著者の書き方はかなり説得力がある。「文は心である」というメインテーマ(「お題目」ともいう)でもわかるように、本書は実用書タイプの文章読本ではない。内容は小説家が書く文章読本に近く、引用文もほとんどが芸術文。元新聞記者がこのタイプを書くのは異色かもしれない。
【引用部】
新聞社の私見を受けたいという若い人に会うと、私はこういいます。「日記をつけなさい。踊りの修業をする人は、稽古を一日怠るだけで後戻りをするといいます。書く訓練も同じです。なんでもいいからその日のことを書く、という訓練を己に課しなさい。たのしんで書けるようになればしめたものです」(p.4)
「とにかく書け」系の心得を示す文章読本は多い。一理あるが、「基礎的な技術を身につけたうえで」という大前提が抜けている。踊りの修業にしても、最初からまったくの我流ではヘンなクセがつくだけ。なんだってそうでしょうが。「基本的なフォーム」を身につけたうえでなきゃいくら訓練してもムダ。
【引用部】
書きたいことを書くといっても、胸にたまっていたものをそのまま吐き出せばいいというものではありません。胸にたまっている混沌としたものが、しだいにある形を整えてくる。書こうとすることによって、より明確な形をおびてくる。あるいは書いているうちに、より明確な形をとる。それを待たねばなりません。思いが整い、言葉が整ってくる、という過程が大事です。(p.48)
かなりムチャなことを書いている。
1)書く前に考えよ
2)とにかく書くことが大事
どっちも一理あるんだけど、この書き方のように両方を混同してはいけない。全体の流れとしては1)。ここに2)の流派で論拠である「あるいは書いているうちに、より明確な形をとる」を入れるからわかが判らなくなる。
【引用部】
作家の中野重治も、自伝の文章を引用しながら、感嘆して書いています。「されこれを読んで、わからぬものが一人でもあるだろうか。……とにかくこういう文章は千人に一人、万人に一人がかろうじて書けるものだろうと思う」(p.88~89)
福沢諭吉の『福翁自伝』を絶賛する文中に出てくる言葉。そういうこってす。「名文」なんてもんはそう簡単に書けるもんではない。「お手本にしよう」なんて大それたことを考えてはいけない。
【引用部】
芸もないのに適当な悪口をいう。そうすると、文章を書いたみたいな気になれますからね。……今の人に悪口は書けても、いいラブレターは書けない。いいラブレターを書くには、自分を見さだめるのと、対象を見さだめるのと、自分と対象との間に関係があって、その関係がどういう意味をもつかということを把握して、しかもそれに希望的観測をつけ加えるっていうことをしなくちゃいけない。書けないでしょうね」(「朝日」一九九二年四月二日付夕刊)(p.98)
朝日新聞編集委員の川村二郎が聞き書きした橋本治の言葉。
p.101で「相手の立場に立つ」という表現を見てひっかかる。
【引用部】
つまりこの文章は「相手の側に立つ」という根本のところをおろそかにしている。スイスのタクシーの運転手さんは「あなたは」という主語で話をしてくれました。ところが、この説明書には「あなたは」という主語がない。「自分たちはこれこれのことをした」と書いてあるが、「あなたがこれを使うとこれこれの利点がありますよ」という書き方をしていない。(p.105)
「相手の側に立つ」ことが重要なのはおっしゃるとおる。ただ、この例はどうだろう。比較されているのは、「スイスの親切なタクシーの運転手」と「ニホンゴの天体望遠鏡のパンフレット」。「主語」が出てくるか否かは、単に言語の違いでは。比較言語論やってるわけじゃないんだから。論より証拠で、この前に出ている運転手の言葉を和訳したものの中には「あなた」なんて出てこない。これは日本語の特性だろう。
ちなみにここでは「側に立つ」を使っている。p.107~109には「側に立って」が4カ所も出てくる。最初はすべて「立場に立って」にしていたが重言と感じて直し、p.101だけ直しもらしたのでは……ってのは深読みかな。p.166には「立場にたつ営みが必要であることは前に書きました」とあるしな。おっと、ここはひらがなでやんの。要はこういう瑣末なことは何も考えてないのね。
【引用部】
異質のものを結びつける遊びに、比喩があります。
「絹雲」を表現するのに少し気取って「透明感のある衣」と書いてみる。小鳥の飛ぶさまを「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」と表現する。いろいろと苦労をするあの比喩のことです。比喩には、直喩、引喩、換喩、提喩などがありますが、ここでは深入りしません。
比喩がいかに人びとの理解を助けるか、作家、丸谷才一の次の文章を味わってください。『文章読本』のなかの一節です。(p.141)
このあとに引用される丸谷読本の文章はみごとで、比喩の使い方に見本にしたくなる。しかし、こんなものマネできるわけがない。
【引用部】
文章の品格というものは、技術を超えたところにあります。文章技術はむろん大切です。が、それだけでは「品格」という巨大なものを方にかつぐわけにはいかない。人間全体の力が充実しないと、方にかつぐことはできないもののようです。(p.175~176)
正論だが、これを言っちゃおしまい。文章読本なんて無用の長物になってしまうことに気づいてないのだろうか。
【引用部】
書き出しから句点(。)までがあまりにも長い文は、読みにくいものです。文の長さはどのくらいが適当なのか。これは一概には決められませんし、決めるべきものではないでしょう。多少長めでも読みやすい文があるし、短くても難解な文があります。
たとえば野坂昭如『火垂れの墓』の冒頭の文は三百字ほど続きますが、一度も句点がない。相当に長い文ですが、決して読みにくくはない。まぎれもなくそれは、野坂独自の文体です。これだけ長い文を書いてしかも読者をあきさせないのは、いわば名人芸です。
文の長さは個人差があります。自分の呼吸にあった長さに工夫するのがいちばんですが、平明な文章を志す場合は、より長い文よりも、より短い文を心がけたほうがいい。
私は、新聞の短評を書いていたころ、文の長さの目安を平均で三十字から三十五字というところに置いていました。この本のようにデスマス調では、少し長めになるでしょう。平均というのはあくまでも平均です。五十字の文の次は十五字の文にする。むしろでこぼこがあったほうがいい。長い文のあとに短い文を入れる。ある場面では短い文を重ねる。そういう呼吸は、好きな文章を選んで書き写すことで身についてゆくものでしょう。(p.178~179)
ポイントがいくつもあって、長々と引用してしまった。
1)野坂昭如の文体は独自のもの
そのとおり。吉田健一もそうだが、長くても判りやすい文体もある。しかし、それは普遍性を持たない。例外中の例外。タリメエだよ。
2)平明な文章を目指すなら、短い文を心がける
一概にはいえないが、結論としてはこうなる。これもそのとおり。
3)30字から35字は、あくまで個人的な目安
本書の「30~35字」はほかの文章読本で何回か目にした。あたかも、辰濃氏が「30~35字で書きなさい」と書いているようなニュアンスのものさえああった。全然違うじゃん。単に「自分はそうしていた」ってだけの話。しかも、「平均」というのがミソ。短い一文が続くより、長短とりまぜるほうがリズムよくなると書いてある。ただ、これはリズムの話にかかわってくるから、あんまり強くは書けない。
【引用部】
歯切れのいい文章にしたい、という理由もあるのでしょう。体言止めを使うといかにも新聞記事らしくなるから、という人もいるでしょう。たしかに、体言止めを上手に使うことで、独特の味をだした新聞記事があることは認めます。ですから体言止め、助詞止めをいっさい使うなというつもりはありません。乱用はいかがなものかといっているのです。(p.183)
この前には、体言止めを使ってもあまり字数は節約できないことが書いてある。まあ趣味問題でせうな。
【引用部】
新聞にも紋切型の歴史があり、それはいまも続いています。
昔は山の遭難があるとなぜか「尊い山の犠牲」という言葉が使われました。海水検査の結果を報じるときの「大腸菌うようよ」は、これを例示すること自体がもう手垢のついた発想になっています。
捕まった容疑者はたいてい「不敵な面魂で」警察署の中に消え、取調室では「ふてぶてしさを装いながらも」「動揺を隠しきれない」が、なぜか差し入れのカツ丼は「ぺろりと平らげる」のです。
新しい汚職事件が発生すると「衝撃が日本列島を走り抜け」、人びとはその「大胆な手口」に「怒りをあらわ」にし、「癒着の構造」に「捜査のメス」が入って「政界浄化」が実ることを期待します。政府与党の幹部は「複雑な表情を見せ」「対応に苦慮」、、国会内は「一時は騒然となって」「真相の徹底究明」が叫ばれ、「成り行きが注目」されます。しかし「突っこんだ議論」はなく、「すったもんだの末」に「永田町の論理」が支配してうやむやになり、関係者は「ほっと、胸をなでおろし」、「改めて政治の姿勢が問われる」ことになるのです。(p.204~205)
例示はまだまだ続く。ここまでいくとすごい芸。ただ、何もかも否定するのはメチャクチャむずかしい。いまだに葬儀は「しめやかに」行なわれるのが一般的だし、伝統行事は「古式ゆかしく」開催されると相場が決まっている。
比喩・紋切型の話はきわめて重要で、この感想文が下記の原型になっている。
【第2章5】伝言板7-1 比喩の使い方
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