伝言板【板外編4】【「ラ抜き言葉」を防ぐ方法】
お品書き。
【赤い本(ここがヘンだよ『日本語練習帳』)からの抜粋一覧】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2336.html
このタイトルはどうなんだろう。正確には【「ラ抜き言葉」になるのを防ぐ方法】なんだろうな。でも回りくどいな……。
mixi日記2008年12月23日から
ちょっと思うところがあって、「ラ抜き言葉」(正確には「ar抜き言葉」だと思う)について書いてみる。
※「ar抜き言葉」に関しては下記参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C
「思うところがあって」と言うより、「リハビリがてら」ってのが正しい気も……。
「ラ抜き言葉」ってことがいつ頃から言われるようになったのかは知らない。誤用か否かと言われたら、「誤用」と断言できる自信はない。なんせ、国語学者の間では結論は出ていないらしい。そうは言っても、日常的な日本語として正しいものとは考えにくいし、自分では使わない。人が使うのはどうでもよく思えてきたけど、仕事ではNG。
マトモな物書きが「ラ抜き言葉」を使っているのはあまり見たことがない(小説の中の会話文や方言は別)。〈「ラ抜き言葉」は誤用ではない〉と主張している例もほとんど見たことがない。「マトモな物書き」というのは語弊があるので、「実践的な物書き」としておこう。
印象に残っているのは本多勝一の『実戦・日本語の作文技術』(1994年)。この本の前半は、前著にあたる『日本語の作文技術』と同じことを繰り返している。後半は、日本語に関する寄稿文などをまとめている。
〈何をもって「国語の乱れ」とするのか〉(p.226~)は1992年10月18日・25日・11月1日各号の「サンデー毎日」に寄せたものらしい。9月27日に発表された日本語に関する世論調査(総理府)のことをボロクソに書いている。
その一環で、「ラ抜き言葉」を「日本語の乱れ」としたことに怒りをぶつけている。本多の主張の根拠は主として2点ある。
1)本多の故郷である伊奈弁(信州)では「ラ抜き言葉」が正しい言葉である
2)「ラ抜き言葉」は受身と可能を区別するための論理的な言葉遣いである
例によってもんのすごく高飛車な書き方をしているけど、さすがに無理でしょう。
「美しいです」「うれしいです」といった「形容詞+デス」の形をあれほど非難する人と同一人物とは思えない。12月19日の日記を参照。
【読書感想文『日本語の作文技術』】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1027377833&owner_id=5019671
1)のような主張がムチャなことは誰にでもわかる。慣れ親しんだ郷土の言葉を弁護したい気持ちはわからなくはない。じゃあ当方も北海道弁が正しい言葉だって主張してもいいですか? そんな恥ずかしいことはできない。ちなみに北海道でも「ラ抜き言葉」がフツーらしい。この点に関してはどうも実感がないけど。
2)の論調もよく聞くけど、あんまり相手をしたくない。この問題を話し合うのは国語学者の仕事だと思う。「ラ抜き言葉」が正しいと考えて、信念に基づいて使うんならご自由に、としか言えない。
ただ、「ラ抜き言葉」か否かもわからずに使うのは勘弁してほしい。「通じりゃいいじゃん」と「無知の開き直り」をするのもやめてほしい。一般には誤用とされていることも理解しておいてほしい。それを承知で使う人にまでとやかく言う気はない。
ちょっと気になるのは、本多勝一が「ラ抜き言葉」を使っていたか否か。使っていれば気づくはずだから、たぶん使っていない。そりゃ使わないって。
そのかわり、「ラ抜き言葉」じゃない形も使っていないだろうな。「~ことができる」の形にすればいいんだから、避けるのは簡単だしね(詳細は後述)。あれだけムキになって書いていて、「ラ抜き言葉」じゃない形を平然と使っていたらおかしいけど(やりかねない、と思えるとこが怖い)。
「ラ抜き言葉」を誤用と言う人は多い。当方も数年前まではそうだった。いまは、「変化の過程かも」と考えている。ただ、たとえそうであっても、現状では「乱れ」と考えるしかない。以前、コミュで次のように書いた。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33584281&comm_id=56314&page=all
↑の[4]。正確には、「受動、尊敬、可能」のほかに「自発」がある(泣)。
================================
かつて五段活用の動詞が、受動、尊敬、可能がすべて「書かれる(kak-ar-er-u)」だったのに、しだいに可能だけがarが抜けて「書ける(kak-er-u)」になったのと同じことだと思います。
ただし、少し考え方をかえてもいいかもしれません。もう何十年も「ら抜き」は乱れだ、乱れではないと論争が続き、こういうのはだいたい「進化」していくはずなにのに、いまだに「乱れ」だといわれる。それだけ、「ら抜き言葉」には拒絶反応を呼ぶ何かがあるような気がします。
そう考えると、まだ当分の間は「乱れ」という主張が主流を占めるのでは。
個人的には、「ら抜き言葉」は使えません。他者が言っているのは「もうしかたがない」とあきらめますが(ただし、年配者には使ってほしくない)、書いているのにはかなり抵抗があります。
================================
あと何十年かしたら、「ラ抜き言葉」がフツーの言葉になっている気がする。それでも、個人的には使わないとは思うけど(生きてるのか?)。いまでも、「書ける」の意味で「書かれる」って形を使う人がいるらしい。さすがに古めかしい印象はあるけど。
そういう頑固ジジイに、ワタシはなりた……くはないけどなってしまうのだろう(泣)。
もう少し、現実的な話をする。
「ラ抜き言葉」を判別するにはどうすればいいか。ウッカリ使わないようにするのはどうすればいいか。以前、「赤い本」に書いた原稿を引用する。ほぼ間違ってはいない。その後、ある筋から下記のサイトを教えてもらった。
【「ら抜き」チェック法】
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k981112.htm
このサイトに書かれている判別法は、
「よう」がつくなら「られる」も付く
当方の判別法を同様に言い換えるなら、
「ない」がつくなら「られる」が付く
まあ、ほぼ同じ主張になる。
「赤い本」からの引用======================
※この文章の前項では、「~ことができる」は避けたほうが無難、と書いた。
書くことができます →書けます
簡単に持ち運ぶことができます →簡単に持ち運べます
説明することができます →説明できます
それぞれ、右のように書いたほうが文章がスッキリする、ということ。微妙な差なので、そんなにこだわることはないけど。そうは言いながら、例外的に「~ことができる」を使ったほうがいい場合もある、ということで話はどんどん横道に逸れていく(笑)。
【「ラ抜き言葉」を防ぐ方法】
【練習問題40】
次のA群とB群の表現がどう違うのか考えてください。
A群 B群
着レル 切レル
変えレル 帰レル
【追加】
寝レル 練レル
やむをえずに「~ことができる」を使う例外は、ほかにもあります。それは、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞で可能を示す表現(これを「可能表現」と呼ぶことにします)をするときです。
念のため、「ラ抜き言葉」と呼ばれるのはどのような表現なのか確認しておきます。たとえば「来る」の可能表現は「来ラレル」です。しかし、近年の話し言葉では、これを「来レル」とする例が多くなっています。このように、可能表現を「ラレル」とするべきところを「レル」にするのが「ラ抜き言葉」です。
「ラ抜き言葉」の是非については、諸説あります。「文豪の作品にもラ抜き言葉が使われている」「ラが入らない方言もある」といった理由で、「ラ抜き言葉」は誤りではない、とする人もいるようです。その一方で、「明らかに誤用」と主張する人もいます。「どちらでも構わないから、早く意見を統一してくれないと文章が書きにくい」といいたいところです。「どちらでも構わない」とは思いながら、誤用といわれるのがシャクなので、自分では原則的に「ラ抜き言葉」を使わないことにしています。
【練習問題40】としてあげた表現は、A群が「ラ抜き言葉」で、B群は「ラ抜き言葉」ではありません。
可能表現にするときに、レルをつけるべきかラレルをつけるべきかを判断するには、動詞の活用の違いを考える必要があります。正確な説明を試みるとむずかしくなりそうなので、自信がない人は、次のことだけを覚えてください。
可能表現のレル、ラレルのかわりに、否定形の「ない」をつけてみます。
1)直接「ない」がつく言葉 →可能表現はラレル
2)直接「ない」がつかず、「ラない」になる言葉→可能表現はレル
この判定法で、間違いがないはずです。先にあげた例でいうと、「着ない」「変えない」は1)のパターンなので、可能表現は「着ラレル」「変えラレル」になります。「切ラない」「帰ラない」は2)のパターンなので、可能表現は「切レル」「帰レル」です。
「〇〇レル」では「ラ抜き言葉」になる動詞をいくつかあげてみます。すべて、ラレルのかわりに直接「ない」をつけることができるはずです。
〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉
来ラレル/出ラレル/寝ラレル/見ラレル
【追加】居れる
〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉
開けラレル/上げラレル/生きラレル/起きラレル/降りラレル/避けラレル/
立てラレル/食べラレル/つけラレル/詰めラレル/分けラレル
【追加】浴びラレル/借りラレル/跳ねラレル/やめラレル
〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉
預けラレル/省みラレル/数えラレル/考えラレル/試みラレル/信じラレル/任せラレル
【追加】整えラレル/調えラレル
この判定法で、「ラ抜き言葉」になるのを防ぐことはできます。
しかし、問題はそれほど単純ではありません。この件に関しては、いろいろな例を考えれば考えるほど自分の語感が信じられなくなってきて、「どうしたらいいのかわからない」というのが正直なところです。
悩みのタネが2つあります。1つ目は、正しいといわれる用法に従ってラレルにすると、語感がヘンになるものがあることです。どの程度ヘンと感じるのかは個人差もあるのでしょうが、〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉のほとんどは、ラレルよりもレルのほうがマシな気がします。
〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉のなかでは、「食べラレル」「つけラレル」あたりが微妙なところです。
〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉の場合は、ラレルにしても大丈夫な気がします(厳密にいうと「省みラレル」「試みラレル」は少しヘンに感じますが、この2つはレルでもヘンな感じが残るので、別の理由がありそうです)。
2つ目の悩みのタネは、可能表現がレルにしかならない動詞が、「ラ抜き言葉」のような印象になることです。これも個人差があるのでしょうが、「掘レル」「しゃべレル」あたりは、「ラ抜き言葉」ではないか、と一瞬迷ってしまいます。「掘る」「しゃべる」はどちらも否定形が「ラない」ですから、可能表現は「掘ラレル」「しゃべラレル」ではありません。語感に自信のあるかたは、「そんなのは当たり前」と思われるかもしれませんが……。
語感のよさを考えると、「ラ抜き言葉」はますます一般的になっていきそうです。そうなると、レルとラレルの使い分けがいっそうむずかしくなっていくでしょう。
そのため、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞の可能表現は、少しでもヘンと感じたらほかの言葉に書きかえるようにしています。適切な書きかえができないときに使うのが、「~ことができる」です。
この表現を使えば、どちらのタイプの動詞でも「着ることができる」「切ることができる」と同じ形になるので、レルにするべきかラレルにするべきかを迷うこともありません。安直な方法ではありますが、ほかによい方法が見当たらないので、やむをえず使っています。
【研究課題11】
「守る」と「攻める」という2つの動詞について、次のことを考えてください。
1)2つの動詞の「ラ抜き言葉」ではない可能表現はどのような形になるでしょうか。
2)2つの可能表現を並べたとき、どのような印象になるでしょうか。
【赤い本(ここがヘンだよ『日本語練習帳』)からの抜粋一覧】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2336.html
このタイトルはどうなんだろう。正確には【「ラ抜き言葉」になるのを防ぐ方法】なんだろうな。でも回りくどいな……。
mixi日記2008年12月23日から
ちょっと思うところがあって、「ラ抜き言葉」(正確には「ar抜き言葉」だと思う)について書いてみる。
※「ar抜き言葉」に関しては下記参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C
「思うところがあって」と言うより、「リハビリがてら」ってのが正しい気も……。
「ラ抜き言葉」ってことがいつ頃から言われるようになったのかは知らない。誤用か否かと言われたら、「誤用」と断言できる自信はない。なんせ、国語学者の間では結論は出ていないらしい。そうは言っても、日常的な日本語として正しいものとは考えにくいし、自分では使わない。人が使うのはどうでもよく思えてきたけど、仕事ではNG。
マトモな物書きが「ラ抜き言葉」を使っているのはあまり見たことがない(小説の中の会話文や方言は別)。〈「ラ抜き言葉」は誤用ではない〉と主張している例もほとんど見たことがない。「マトモな物書き」というのは語弊があるので、「実践的な物書き」としておこう。
印象に残っているのは本多勝一の『実戦・日本語の作文技術』(1994年)。この本の前半は、前著にあたる『日本語の作文技術』と同じことを繰り返している。後半は、日本語に関する寄稿文などをまとめている。
〈何をもって「国語の乱れ」とするのか〉(p.226~)は1992年10月18日・25日・11月1日各号の「サンデー毎日」に寄せたものらしい。9月27日に発表された日本語に関する世論調査(総理府)のことをボロクソに書いている。
その一環で、「ラ抜き言葉」を「日本語の乱れ」としたことに怒りをぶつけている。本多の主張の根拠は主として2点ある。
1)本多の故郷である伊奈弁(信州)では「ラ抜き言葉」が正しい言葉である
2)「ラ抜き言葉」は受身と可能を区別するための論理的な言葉遣いである
例によってもんのすごく高飛車な書き方をしているけど、さすがに無理でしょう。
「美しいです」「うれしいです」といった「形容詞+デス」の形をあれほど非難する人と同一人物とは思えない。12月19日の日記を参照。
【読書感想文『日本語の作文技術』】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1027377833&owner_id=5019671
1)のような主張がムチャなことは誰にでもわかる。慣れ親しんだ郷土の言葉を弁護したい気持ちはわからなくはない。じゃあ当方も北海道弁が正しい言葉だって主張してもいいですか? そんな恥ずかしいことはできない。ちなみに北海道でも「ラ抜き言葉」がフツーらしい。この点に関してはどうも実感がないけど。
2)の論調もよく聞くけど、あんまり相手をしたくない。この問題を話し合うのは国語学者の仕事だと思う。「ラ抜き言葉」が正しいと考えて、信念に基づいて使うんならご自由に、としか言えない。
ただ、「ラ抜き言葉」か否かもわからずに使うのは勘弁してほしい。「通じりゃいいじゃん」と「無知の開き直り」をするのもやめてほしい。一般には誤用とされていることも理解しておいてほしい。それを承知で使う人にまでとやかく言う気はない。
ちょっと気になるのは、本多勝一が「ラ抜き言葉」を使っていたか否か。使っていれば気づくはずだから、たぶん使っていない。そりゃ使わないって。
そのかわり、「ラ抜き言葉」じゃない形も使っていないだろうな。「~ことができる」の形にすればいいんだから、避けるのは簡単だしね(詳細は後述)。あれだけムキになって書いていて、「ラ抜き言葉」じゃない形を平然と使っていたらおかしいけど(やりかねない、と思えるとこが怖い)。
「ラ抜き言葉」を誤用と言う人は多い。当方も数年前まではそうだった。いまは、「変化の過程かも」と考えている。ただ、たとえそうであっても、現状では「乱れ」と考えるしかない。以前、コミュで次のように書いた。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33584281&comm_id=56314&page=all
↑の[4]。正確には、「受動、尊敬、可能」のほかに「自発」がある(泣)。
================================
かつて五段活用の動詞が、受動、尊敬、可能がすべて「書かれる(kak-ar-er-u)」だったのに、しだいに可能だけがarが抜けて「書ける(kak-er-u)」になったのと同じことだと思います。
ただし、少し考え方をかえてもいいかもしれません。もう何十年も「ら抜き」は乱れだ、乱れではないと論争が続き、こういうのはだいたい「進化」していくはずなにのに、いまだに「乱れ」だといわれる。それだけ、「ら抜き言葉」には拒絶反応を呼ぶ何かがあるような気がします。
そう考えると、まだ当分の間は「乱れ」という主張が主流を占めるのでは。
個人的には、「ら抜き言葉」は使えません。他者が言っているのは「もうしかたがない」とあきらめますが(ただし、年配者には使ってほしくない)、書いているのにはかなり抵抗があります。
================================
あと何十年かしたら、「ラ抜き言葉」がフツーの言葉になっている気がする。それでも、個人的には使わないとは思うけど(生きてるのか?)。いまでも、「書ける」の意味で「書かれる」って形を使う人がいるらしい。さすがに古めかしい印象はあるけど。
そういう頑固ジジイに、ワタシはなりた……くはないけどなってしまうのだろう(泣)。
もう少し、現実的な話をする。
「ラ抜き言葉」を判別するにはどうすればいいか。ウッカリ使わないようにするのはどうすればいいか。以前、「赤い本」に書いた原稿を引用する。ほぼ間違ってはいない。その後、ある筋から下記のサイトを教えてもらった。
【「ら抜き」チェック法】
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k981112.htm
このサイトに書かれている判別法は、
「よう」がつくなら「られる」も付く
当方の判別法を同様に言い換えるなら、
「ない」がつくなら「られる」が付く
まあ、ほぼ同じ主張になる。
「赤い本」からの引用======================
※この文章の前項では、「~ことができる」は避けたほうが無難、と書いた。
書くことができます →書けます
簡単に持ち運ぶことができます →簡単に持ち運べます
説明することができます →説明できます
それぞれ、右のように書いたほうが文章がスッキリする、ということ。微妙な差なので、そんなにこだわることはないけど。そうは言いながら、例外的に「~ことができる」を使ったほうがいい場合もある、ということで話はどんどん横道に逸れていく(笑)。
【「ラ抜き言葉」を防ぐ方法】
【練習問題40】
次のA群とB群の表現がどう違うのか考えてください。
A群 B群
着レル 切レル
変えレル 帰レル
【追加】
寝レル 練レル
やむをえずに「~ことができる」を使う例外は、ほかにもあります。それは、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞で可能を示す表現(これを「可能表現」と呼ぶことにします)をするときです。
念のため、「ラ抜き言葉」と呼ばれるのはどのような表現なのか確認しておきます。たとえば「来る」の可能表現は「来ラレル」です。しかし、近年の話し言葉では、これを「来レル」とする例が多くなっています。このように、可能表現を「ラレル」とするべきところを「レル」にするのが「ラ抜き言葉」です。
「ラ抜き言葉」の是非については、諸説あります。「文豪の作品にもラ抜き言葉が使われている」「ラが入らない方言もある」といった理由で、「ラ抜き言葉」は誤りではない、とする人もいるようです。その一方で、「明らかに誤用」と主張する人もいます。「どちらでも構わないから、早く意見を統一してくれないと文章が書きにくい」といいたいところです。「どちらでも構わない」とは思いながら、誤用といわれるのがシャクなので、自分では原則的に「ラ抜き言葉」を使わないことにしています。
【練習問題40】としてあげた表現は、A群が「ラ抜き言葉」で、B群は「ラ抜き言葉」ではありません。
可能表現にするときに、レルをつけるべきかラレルをつけるべきかを判断するには、動詞の活用の違いを考える必要があります。正確な説明を試みるとむずかしくなりそうなので、自信がない人は、次のことだけを覚えてください。
可能表現のレル、ラレルのかわりに、否定形の「ない」をつけてみます。
1)直接「ない」がつく言葉 →可能表現はラレル
2)直接「ない」がつかず、「ラない」になる言葉→可能表現はレル
この判定法で、間違いがないはずです。先にあげた例でいうと、「着ない」「変えない」は1)のパターンなので、可能表現は「着ラレル」「変えラレル」になります。「切ラない」「帰ラない」は2)のパターンなので、可能表現は「切レル」「帰レル」です。
「〇〇レル」では「ラ抜き言葉」になる動詞をいくつかあげてみます。すべて、ラレルのかわりに直接「ない」をつけることができるはずです。
〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉
来ラレル/出ラレル/寝ラレル/見ラレル
【追加】居れる
〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉
開けラレル/上げラレル/生きラレル/起きラレル/降りラレル/避けラレル/
立てラレル/食べラレル/つけラレル/詰めラレル/分けラレル
【追加】浴びラレル/借りラレル/跳ねラレル/やめラレル
〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉
預けラレル/省みラレル/数えラレル/考えラレル/試みラレル/信じラレル/任せラレル
【追加】整えラレル/調えラレル
この判定法で、「ラ抜き言葉」になるのを防ぐことはできます。
しかし、問題はそれほど単純ではありません。この件に関しては、いろいろな例を考えれば考えるほど自分の語感が信じられなくなってきて、「どうしたらいいのかわからない」というのが正直なところです。
悩みのタネが2つあります。1つ目は、正しいといわれる用法に従ってラレルにすると、語感がヘンになるものがあることです。どの程度ヘンと感じるのかは個人差もあるのでしょうが、〈レル・ラレルの前が1音の動詞〉のほとんどは、ラレルよりもレルのほうがマシな気がします。
〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉のなかでは、「食べラレル」「つけラレル」あたりが微妙なところです。
〈レル・ラレルの前が3音以上の動詞〉の場合は、ラレルにしても大丈夫な気がします(厳密にいうと「省みラレル」「試みラレル」は少しヘンに感じますが、この2つはレルでもヘンな感じが残るので、別の理由がありそうです)。
2つ目の悩みのタネは、可能表現がレルにしかならない動詞が、「ラ抜き言葉」のような印象になることです。これも個人差があるのでしょうが、「掘レル」「しゃべレル」あたりは、「ラ抜き言葉」ではないか、と一瞬迷ってしまいます。「掘る」「しゃべる」はどちらも否定形が「ラない」ですから、可能表現は「掘ラレル」「しゃべラレル」ではありません。語感に自信のあるかたは、「そんなのは当たり前」と思われるかもしれませんが……。
語感のよさを考えると、「ラ抜き言葉」はますます一般的になっていきそうです。そうなると、レルとラレルの使い分けがいっそうむずかしくなっていくでしょう。
そのため、「ラ抜き言葉」にかかわる動詞の可能表現は、少しでもヘンと感じたらほかの言葉に書きかえるようにしています。適切な書きかえができないときに使うのが、「~ことができる」です。
この表現を使えば、どちらのタイプの動詞でも「着ることができる」「切ることができる」と同じ形になるので、レルにするべきかラレルにするべきかを迷うこともありません。安直な方法ではありますが、ほかによい方法が見当たらないので、やむをえず使っています。
【研究課題11】
「守る」と「攻める」という2つの動詞について、次のことを考えてください。
1)2つの動詞の「ラ抜き言葉」ではない可能表現はどのような形になるでしょうか。
2)2つの可能表現を並べたとき、どのような印象になるでしょうか。
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